明石健志, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=372733 / CC BY SA 3.0

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明石 健志(あかし けんじ、1986年1月9日 – )は、北海道旭川市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。
右投左打。
福岡ソフトバンクホークス所属。
先に野球を始めていた実兄を、実父がコーチとして教えていた影響で、旭川市立忠和小学校の2年時から野球をスタート。
高学年での守備位置は三塁手と遊撃手だった。
旭川市立忠和中学校への進学後は、旭川大雪ウィナーズでプレー。
1年時から「3番・遊撃手」に定着すると、その年の夏に出場した全国大会で、チームを準決勝進出に導いた。
2年時に出場した全国大会では、チームの優勝に貢献するとともにMVPを獲得。
3年時には主将も務めた。
中学校からの卒業を機に、地元の北海道を離れて山梨学院大学附属高等学校に進学。
入学時の監督・鈴木英夫が「野球での守備の中心は二塁手にある」という考えの持ち主だったことから、2年秋から本格的に二塁手へ転向した。
転向直後に臨んだ第55回関東地区高等学校野球大会山梨県予選では、2回戦にサヨナラスクイズを成功させると、3回戦では猛打賞を記録。
チーム8年ぶりの関東大会出場と、同大会での準々決勝進出に貢献した。
3年夏の選手権山梨大会では、北杜高校との初戦(2回戦)に1番打者として出場すると、自身の先頭打者三塁打からチームを5回コールド勝利に導いている。
当時の同級生には、内村賢介がいた。
高校時代には春夏とも甲子園球場の全国大会と無縁であったが、身体能力の高さを見込まれて、2003年のNPBドラフト会議で福岡ダイエーホークスから4位で指名。
契約金5,000万円、年俸700万円(金額は推定)という条件で入団した。
背番号は36。
2004年には5月2日の対大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)8回表に本間満の代打として一軍公式戦にデビュー。
1点ビハインドの一死無走者という局面で初打席を迎えたにもかかわらず、一軍初安打を川尻哲郎からの右中間三塁打、次打者・川﨑宗則の犠牲フライで初得点も記録した。
5月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)ではチームの1点ビハインドで迎えた9回裏に先頭打者として安打で出塁したペドロ・バルデスの代走に起用。
一軍公式戦では初めての代走ながら後続打者の進塁打で三塁まで進むと、二死満塁で巡ってきた本間の打席中に山口和男の暴投で本塁に生還。
その直後に本間が安打を打ったことでチームはサヨナラ勝利を収めた。
王貞治監督の構想を背景に外野の守備練習を本格的に始めたばかりの5月12日の対西武ライオンズ戦(宮崎県営野球場)で9回表にプロ入り後初めて中堅手に起用。
二死二・三塁の場面で佐藤友亮が打った安打を捕球すると、二塁走者・後藤武敏の本塁生還を好返球で阻止したが、翌13日からは二軍で実戦経験を積むことに専念した。
ウエスタン・リーグ公式戦では、81試合に出場。
打率.304(リーグ6位)、三塁打12本(リーグ1位)、19盗塁(リーグ4位)という好成績で、リーグの優秀選手賞を受賞した。
その一方でシーズン終了後の秋季キャンプでは王の方針で内野手としての練習を優先した。
この年に正遊撃手へ定着したばかりの川崎が右肩痛で参加を見送ったことや当時の正二塁手だった井口資仁がポスティングシステムでMLBに挑戦する意向を示していたことによる。
2005年には井口が上記の事情でシカゴ・ホワイトソックスへ移籍したことを背景にウエスタン・リーグ公式戦で開幕から主に二塁手として起用。
6月中旬までは43試合の出場で打率.281を記録していたが、同月23日の対サーパス神戸戦(北神戸田園スポーツ公園野球場)で本塁へ突入した際に右足首を捻挫したため、3か月近い戦線離脱を余儀なくされた。
9月中旬に戦線復帰を果たしたが、打率.270でシーズンを終えるほど振るわず、一軍への昇格も見送られた。
2006年にはシーズン中に右肩を痛めたため、8月10日に右肩上方関節唇縫合手術を受けた。
その影響で前年に続いて一軍公式戦に出場できなかった。
2007年は6月30日の対千葉ロッテマリーンズ戦(ヤフードーム)に代走ながら3年ぶりに一軍公式戦へ出場。
7月8日の対西武戦(グッドウィルドーム)では9回表無死満塁で山崎勝己の代打に起用されると、一軍公式戦での初打点を岩﨑哲也からの適時打を記録した。
7月13日の対ロッ…

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