宮台康平, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3694922 / CC BY SA 3.0

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#東京大学野球部の選手
#北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手
#東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手
#日米大学野球選手権大会日本代表選手
#神奈川県立湘南高等学校出身の人物
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宮台 康平(みやだい こうへい、1995年7月1日 – )は、神奈川県横浜市戸塚区出身 のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
東京ヤクルトスワローズ所属。
横浜市立戸塚小学校3年次で父親の勧めもあり地元の少年軟式野球チーム「戸塚ACF Hawks」へ入団し野球を始める。
横浜市立戸塚中学校では軟式野球部に入ってプレーした。
中学卒業を経て神奈川県立湘南高等学校に進学。
中学校から高校2年までは投手と外野手の2つのポジションをやっていたが、高校2年の時に当時の主戦投手が故障で離脱したことがきっかけとなって投手に専念することとなる。
2年秋には神奈川県選抜に選ばれ、スリランカへ遠征。
3年春には県大会でベスト8まで進出する。
2014年に東京大学文科一類に現役で合格(その後法学部に進学)、東京大学硬式野球部に入部。
大学1年次では東京六大学野球秋季リーグ戦からリリーフ投手として登板する。
2016年、大学3年次の東京六大学野球春季リーグ開幕戦の早大戦にて毎回の13奪三振をマークし、1946年秋に山崎諭が樹立した1試合最多12奪三振の東大記録を70年ぶりに塗り替えた。
その年の日米大学野球選手権大会に東京大学から大越健介(現 日本放送協会記者)以来2人目、33年ぶりに大学日本代表メンバーに選出された。
2017年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、2002年秋の立大戦以来15年ぶり(30シーズンぶり)の勝ち点に貢献。
連勝での勝ち点は、1997年春の立大戦以来20年ぶりとなった。
六大学野球通算38試合に登板、6勝13敗、防御率4.26、123奪三振。
東大野球部の1年先輩に喜入友浩(学生当時は捕手。現:TBSアナウンサー)がおりバッテリーを組んでいた。
2017年プロ野球ドラフト会議にて北海道日本ハムファイターズから7巡目で指名を受ける。
東京大学出身の選手がドラフト会議で指名されたのは、2004年の松家卓弘(当時横浜)以来13年ぶりである。
背番号は52。
2018年、8月23日に一軍に昇格し、福岡ソフトバンクホークス戦でプロ初登板初先発した。
東京大学出身者の先発は1967年の井手峻(中日)以来、51年ぶりとなった。
結果は5回途中4安打6四死球2失点で勝ち負けは付かなかった。
この試合で右股関節を痛め、翌8月24日に登録抹消 され、シーズンとしてもこの1試合の登板にとどまった。
二軍成績は12試合の登板で3勝1敗、防御率4.97だった。
2019年は二軍で17登板し主に先発として4勝3敗1セーブ、防御率4.60の成績を挙げるが、一軍昇格はなかった。
2020年は二軍で14試合に登板し、0勝4敗、防御率7.71と結果を残せず、シーズン終了後の11月25日に、日本ハム球団から戦力外通告を受ける。
球団からは育成選手としての再契約を打診されたが、他球団での支配下登録選手としての契約の可能性を考え、12月7日、明治神宮野球場で行われた12球団合同トライアウトに参加。
シート打撃形式の対戦で堀内汰門、小山翔平、中村和希相手に、3選手とも前所属球団で一軍出場経験のない選手ではあったものの3者連続奪三振の好投を見せた。
日本ハムからの育成再契約打診のほか、この好投をもって複数球団からオファーが届き、中でも東京ヤクルトスワローズが支配下登録で宮台の獲得を検討していることが報じられた。
12月23日、ヤクルトから正式契約を結んだことが発表された。
ヤクルトに東大出身選手が所属するのは球団史上初めてのことで、背番号は68となる。
また、宮台の移籍によりヤクルトは2021年シーズンの支配下登録選手に東京六大学野球リーグに属する全大学の出身選手が勢揃いすることになった。
性格はすべてにおいて真っ直ぐで、自分で決めたことを真っ直ぐにやり続ける。
また、自分にも仲間にもストイックで、座右の銘は、「最も困難な道に挑戦せよ」。
野球と勉強の両方でトップを目指すことを目標としてきた。
代表に選出された日米大学野球では、大会期間中もポケット六法を持ち込み、宿舎の部屋にこもって「民法第二部」の勉強に励んでいた。
趣味は温泉。
投球フォームはスリークォーター。
ストレートは大学3年生の時に自己最速150km/hを計測した。
変…

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