森原康平, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3561418 / CC BY SA 3.0

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#近畿大学体育会硬式野球部の選手
#日本製鉄広畑硬式野球部及びその前身チームの選手
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森原 康平(もりはら こうへい、1991年12月26日 – )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する広島県福山市神辺町出身のプロ野球選手(投手)。
右投左打。
野球好きの祖父の影響で軟式野球を始める。
広島県内の実家から広島市民球場まで遠く離れていたにもかかわらず、当時同球場を本拠地に使用していた広島東洋カープのファンだったで、小学6年時に中条少年野球クラブ、中学校への在籍中は軟式のクラブチーム「神辺レッズ」で捕手としてプレー。
中学2年時に、「神辺レッズ」の監督だった三原新二郎の勧めで投手に転向した。
三原が山陽高校の監督へ就任したことに伴って、中学校からの卒業後に同校へ進学。
3年夏の選手権広島大会で準決勝にまで進んだものの、春夏共に阪神甲子園球場での全国大会へ出場できなかった。
硬式野球部での2学年後輩に、中川皓太がいる。
近畿大学工学部への進学後は、4年時の秋に広島六大学野球リーグの優勝と明治神宮大会での準々決勝進出を経験した。
3年秋から3季連続で最優秀防御率、ベストナインを受賞。
卒業後に新日鐵住金広畑へ入社すると、急成長を遂げた2年目から2年連続で日本選手権に出場。
第87回都市対抗野球大会では、近畿地区の最終予選における投球で、NPBの複数球団から注目されるようになった。
チームはこの試合に敗れたものの、森原は日本新薬の補強選手として本大会に出場。
本大会では、1試合(1イニング)のみの登板ながら、ストレートで151km/h(当時の自己最速)を記録した。
2016年のNPBドラフト会議で、東北楽天ゴールデンイーグルスから5巡目で指名。
契約金4,000万円、年俸1,000万円(金額は推定)という条件で入団した。
入団当初の背番号は52。
2017年には、同期入団の高梨雄平・菅原秀と共に開幕一軍入りを果たした。
3月31日には、オリックス・バファローズとの開幕戦(京セラドーム大阪)7回裏に、3番手投手として公式戦にデビュー。
この試合から、4月19日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武プリンスドーム)12回裏にサヨナラ負けでプロ初黒星を喫するまで、10登板試合連続無失点を記録した。
その後の公式戦でも、主にリードの局面で7回を任されるなど、チームの前半戦首位独走に貢献。
6月9日の対広島東洋カープ戦(Koboパーク宮城)まで29試合に登板したが、登板を重ねたことによる疲労の影響で5月下旬から救援の失敗が相次いだため、翌6月10日にプロ入り後初めて出場選手登録を抹消された。
8月2日の対西武戦(プリンスドーム)で一軍に復帰すると、ストレートで152km/h(当時の自己最速記録)を計測している。
チームのレギュラーシーズン3位で迎えたクライマックスシリーズ(CS)では登板の機会がなかったが、一軍公式戦全体では、42試合の登板で2勝4敗13ホールドをマーク。
復帰後の登板は13試合のみで、5月中旬まで1点台の後半だった防御率が、レギュラーシーズンの終了時点で4.81に達した。
シーズン終了後には、推定年俸1,600万円(前年から600万円増)という条件で契約を更改したほか、新日鐵住金広畑時代から交際していた女性と結婚した。
2018年には、オープン戦期間中の3月7日に、右肘後方鏡視下のクリーニング手術を受けた。
実戦への復帰まで4ヶ月を要することが見込まれていたが、実際には8月12日から一軍へ復帰。
9月19日の対オリックス戦(楽天生命パーク宮城)で、一軍公式戦におけるシーズン初勝利を挙げた。
シーズン中盤までクローザーを務めていた松井裕樹が先発に回ったことや、松井に代わってクローザーへ起用されたフランク・ハーマンが故障したことから、同月下旬にはクローザーに抜擢。
抜擢後に2試合連続で黒星を喫したものの、復帰後に登板の17試合中16試合でストレートが150km/h台を計測したり、フォークボールの精度が上がったりするなどの進境も見られた。
2019年には、オープン戦期間中の3月上旬に京セラドームで催されたメキシコ代表との強化試合で、プロ入り後初めて野球日本代表のトップチームへの選出および試合出場を果たした。
レギュラーシーズンの前半戦ではビハインドや大差の場面での起用が中心だったが、後半戦には新加入のアラン・ブセニッツと共に…

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