マーロン・バード, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2078928 / CC BY SA 3.0

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#テキサス・レンジャーズ及びその前身球団の選手
#シカゴ・カブスの選手
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#ニューヨーク・メッツの選手
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マーロン・ジェラード・バード(Marlon Jerrard Byrd , 1977年8月30日 – )は、アメリカ合衆国フロリダ州パームビーチ郡ボイントンビーチ出身のプロ野球選手(外野手)。
右投右打。
現在は、フリーエージェント(FA)。
1999年、MLBドラフト10巡目(全体306位)でフィラデルフィア・フィリーズから指名され、プロ入り。
傘下のA-級バタビア・マックドッグスで65試合に出場し、70三振を喫したものの打率.296・13本塁打を記録した。
2000年はA級ピードモント・ボールウィービルスで133試合に出場。
打率.309・17本塁打・93打点・41盗塁という好成績を残した。
守備では103試合の外野守備で守備率.980を記録。
2001年はAA級レディング・フィリーズで137試合に出場し、打率.316・28本塁打・89打点・32盗塁という高いレベルの成績を記録。
ランクは異なるが、2年連続で打率.300・15本塁打・80打点・30盗塁のラインをクリアし、攻撃・走塁の両面で実力を示した。
2002年はマイナーリーグで15本塁打と15盗塁を記録し、9月8日にメジャーデビューを果たす。
同年は10試合に出場した。
2003年はレギュラーとなり、135試合に出場して打率.303、86得点を記録。
ルーキー・オブ・ザ・イヤーの4番目に入った。
2004年は106試合に出場したものの精彩を欠き、安定した成績を残せなかった。
2005年5月にエンディ・チャベスとのトレードで、ワシントン・ナショナルズへ移籍した。
同年は移籍前にフィリーズでも5試合に出ており、2球団計79試合に出場したが、打率.266に終わった。
2006年7月15日にDFAとなり、AAA級ニューオーリンズ・ゼファーズに降格。
10月31日にFAとなった。
同年は打率.223・5本塁打・18打点と不振だった。
2006年12月8日にテキサス・レンジャーズと契約を結んだ。
2007年は外野のユーティリティとして109試合に出場し、打率.307をマークして復活を遂げた。
2008年は打率.300には届かなかった (.298) ものの、2年連続で2桁本塁打を放ち、守備面でも引き続きユーティリティとして外野の3ポジションを万遍なく守った。
2009年には20本塁打・89打点を記録した。
犠飛はリーグ最多だった。
守備面では中堅手での起用がメインとなったが、104試合の中堅守備で守備防御点 – 10と振るわなかった。
オフの11月5日にFAとなった。
2009年12月31日にシカゴ・カブスと総額1500万ドルの3年契約を結んだ。
2010年はオールスターゲームに選出されたほか、自己最多となる152試合に出場するなど飛躍を遂げた。
打率も.290台と安定していた。
2011年は119試合に出場したが打率が.270台に終わり、本塁打も5年ぶりに1桁に終わった。
2012年はレッドソックス移籍までに13試合に出場したが、打率.070という大不振を呈した。
2012年4月21日にマイケル・ボウデン、後日発表選手のハンター・セルベンカとのトレード(金銭含む)で、ボストン・レッドソックスへ移籍。
6月9日に松坂大輔の復帰に伴いDFAとなり、6月12日に自由契約となった。
レッドソックスでは34試合に出場して打率.270、OPS.606に終わった。
6月25日には禁止薬物に陽性反応を示し50試合の出場停止処分を受けた。
2013年2月1日にニューヨーク・メッツとマイナー契約で合意した。
後にメジャーに昇格する。
メジャー昇格後は長打を量産し、三振は大幅に増えたが21本塁打を放つなど活躍した。
2013年8月27日にディルソン・ヘレーラ、ビック・ブラックとのトレードで、ジョン・バックと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。
移籍後初戦のミルウォーキー・ブルワーズ戦で3点本塁打を放った。
パイレーツ移籍後は30試合で打率.318・9二塁打・3本塁打・17打点と打ちまくり、パイレーツの上位躍進に貢献した。
10月31日にFAとなった。
2013年11月…

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