中田廉, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1623496 / CC BY SA 3.0
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#存命人物
中田 廉(なかた れん、1990年7月21日 – )は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
広島東洋カープ所属。
旧姓:野林(のばやし)。
小学5年時に野球を始め、八尾ファイターズに入る。
以来投手一筋。
大阪市立長吉西中学校時代はナガセタイガース(ボーイズリーグ)に所属。
中学3年生の時には関西選抜メンバーに選ばれる。
この頃から最速137km/hを記録する速球派投手だった。
広陵高等学校に進学し、1年春から公式戦に出場した。
1年秋には明治神宮野球大会で、2年生では第79回選抜高等学校野球大会でも登板し、広陵のエース候補筆頭だった。
しかし同年夏の広島大会で不調となり、第89回全国高等学校野球選手権大会準優勝のメンバーに入ることはできなかった。
同校の1学年先輩には野村祐輔、小林誠司、土生翔平、同学年には上本崇司がいた。
3年生になると再び頭角を現し、背番号3の投手兼一塁手として夏のメンバー入り。
広島大会では主戦投手として活躍し、第90回全国高等学校野球選手権記念大会出場に貢献。
1回戦の高知高校戦で先発し、90回大会では最速の148km/hを記録。
チームは2回戦で横浜高校に敗退。
打者としては高校3年夏の公式戦で31打数13安打10打点を記録した。
2008年10月30日のドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け、同年11月17日に契約金7000万円・年俸720万円(金額は推定)で仮契約。
ドラフト指名時には「どこの球団でもいいと言っていたけど、カープが一番よかったです」と会見で述べ、涙を流した。
2009年は体調不良でファームでも1試合の登板に留まった。
2010年は体重を80kg前後に絞り、7月16日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板を果たした。
また台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されたものの、直前に左太もも裏肉離れの怪我をしたため、やむなく辞退した。
2013年後半には中継ぎとして一軍定着。
クライマックスシリーズでの登板も経験した。
2014年はチーム救援投手の中で唯一年間を通して一軍に帯同。
6・7回を中心に、チーム事情によって8回での登板、回跨ぎをするなどセットアッパーとしてフル回転で活躍し、66試合78 2/3回を投げている。
特に6月半ばまでは防御率0点台をマーク、磐石のリリーフ陣の一角を担った。
2015年は右肩の故障により僅か5試合の登板だった。
2016年は開幕からセットアッパーを任されたが結果を残せず、8試合の登板に終わった。
2017年に再度一軍に定着。
シーズン終盤に調子を落とし一軍から離脱するものの、前の投手がランナーを残した場面での登板を中心に、時に回跨ぎをこなすなど、縁の下から支えるリリーフとして優勝に貢献した。
2018年は調子が上がらず、前年を大きく下回る15試合の登板に終わった。
福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは中継ぎとして2試合に登板した。
2019年は3年ぶりに登板数が一桁に終わった。
2020年は3年ぶりに30試合以上(32試合)に登板した。
11月17日に右膝の手術を受けた。
189cmの長身から投げ下ろす平均球速約139km/h、最速149km/hの速球と縦横のスライダー、カーブ、フォークなどの多彩な変化球が武器の本格派右腕だが、制球力に難がある。
高校時代の寮ではスポーツ店で貰ったカープのポスターを貼っていた。
父は元プロ野球選手で広島にも在籍したこともある野林大樹。
叔父(母の実妹で元歌手・中田ゆうこの夫)は元近鉄の村上隆行。
親子で広島に在籍するのは永田徹登、永田利則以来2組目。
さらに村上の義弟(村上の実妹の夫)は元DeNAなどの中村紀洋で、食事を共にしたり、野球を始めた小6の頃に中村の自宅へ遊びに行ったことがある。
その時にグラブとバット、そしてトレーニングウエアをプレゼントされ、今でも宝物として大切にしている。
同じ大阪のボーイズリーグのチームである忠岡ボーイズのエースには前田健太が在籍していた。
カープ入団の背番号は、前田のルーキー時と同じ34番。
11月の仮契約の際には「(前田健太さんは)坂本さんや田中さんよりも凄かった。憧れです。話を聞きたいです」と目を輝かせていた。
前田健太は「ドラフトの時から気になってました。僕の昔を知っている人は少ないので、嬉しいです。…
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