中嶋聡, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=163361 / CC BY SA 3.0

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中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 – )は、秋田県北秋田市出身の元プロ野球選手(捕手)。
右投右打。
オリックス・バファローズの監督。
1987年(昭和62年)に阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ・横浜ベイスターズ・北海道日本ハムファイターズでプレー。
日本ハム時代の2007年から2015年までは、一軍バッテリーコーチを兼務していた。
また、阪急ブレーブス及びオリックス・ブレーブスに在籍経験のある最後の選手でもある。
2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成。
愛称は「サメ」で、妻はモデルの中嶋愛。
漫画家の制野秀一は義父にあたる。
秋田県立鷹巣農林高校への在校中は全国大会と無縁だったが、3年時(1986年)のNPBドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団。
1988年10月23日、ダブルヘッダーで開催された阪急としての西宮球場最終戦(対ロッテ27回戦)にて、ダメ押しとなる3ラン本塁打を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。
1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴む。
球界随一の強肩もさることながら、打撃センスに優れ、俊足で盗塁も果敢に挑戦し走攻守すべての面を持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた。
四番打者を務めたこともある。
1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁からインフィールドフライを故意に落球。
打者には落球の有無にかかわらず審判から自動的にアウトを宣告されたため、本塁における三塁走者のフォースアウトで併殺を狙ったが、インフィールドフライの扱いに対する解釈の誤りからロッテに得点を許してしまった。
チーム名がオリックス・ブルーウェーブに変更された1991年以降も正捕手の座を維持していたが、1990年代の中盤以降は打撃が徐々に低迷。
仰木彬が監督を務めていた時期には、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から加入した高田誠や、若手の三輪隆と併用されていた。
それでも、持ち前の強肩は衰えず、1995年には佐藤義則のノーヒットノーラン(当時のNPB公式戦史上最年長記録)や11年ぶりのパシフィック・リーグ優勝に貢献。
翌1996年には、仰木の下でリーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇も経験している。
1997年シーズンオフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明。
複数の球団と接触し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けた。
一時は入団が決まりかけたが、エンゼルス側が提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念。
国内球団の移籍に的を絞り、西武ライオンズと日本ハムファイターズが中嶋の獲得に乗り出したが、最終的に西武へ移籍。
1998年、日本シリーズでは不調のベテラン伊東勤に代わり一時的な活躍こそしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。
その後、1999年に入団した松坂大輔専用の捕手として起用されることで出場機会を得たが、2001年以降は松坂登板時も伊東がマスクを被る機会が増え、さらに打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減っていった。
2000年、和田一浩と背番号を交換したが、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという。
また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われた古巣オリックス戦で、2回裏にテリー・ブロウズから同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている。
2002年、大半を二軍で過ごし、同年オフに富岡久貴と共に石井義人と細見和史との2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。
2003年、前年に正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、若手の相川亮二、前年に谷繁と入れ替わりで中日から移籍した中村武志の正捕手争いに…

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