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【あらすじ】
遊行寺の大僧正は後継者を誰にしたらよいか悩んでいた。やっと一計が浮かんでいよいよ跡取りを決める日になって大勢の若い僧が遊行寺に集合した。千人もの若い僧が客殿に集められたその光景はまるで冬瓜畑のように青々している。
若い僧たちは息子に白い紐のついた小さな鈴を結ばれて奥の大広間へと送られて行く。一体これはどういうことなのかと皆が訝しがっている。全員が揃ったところで、
大僧正「今日は特別な日によって酒、魚、料理を食するように・・・」との五戒破りの意外なお言葉だ。
続いて藤沢宿の遊女やら江戸は新橋、柳橋の芸者やら、選りすぐりの美女連がスケスケの着物で現れ、若い僧の膝元にピタッとくっついて座って、胸元、裾元もあらわにしな垂れかかり、艶然とお酌を始めた。
すぐに大広間中にチリン、チリンと鈴の大合奏が始まった。若い僧の中にはこれも我々を試す修行の一つかと悟る者もいて、無念無想の境地に入ろうとするが、女たちの柔らかい肌を感じるし、いい匂いが鼻をついて、身体の一部の反応は如何ともしがたい。
これを間のあたりに見ていた大僧正、あまりの鈴のうるささと、若い僧たちの堕落ぶりに耳をおおい、「これぞまさに末法の世じゃ」と、目をつぶって嘆いている。
大僧正がもうこの中には自分の後継者たる者はおらんと、諦めて出て行こうとすると、一人の若い僧が目を半眼に開いて、女や酒には目もくれずに鈴の音も立てずに静かに座禅を組んでいる。
大僧正は感激して跡目を継ぐのはあの僧と決め、部屋に呼んで、「鈴を見せるように」と言い僧衣の前をめくらせると鈴がない。
若僧「はい、鈴はとうに振り切れてしまいました」
(落語散歩より)
【五代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう)】
1890年〈明治23年〉6月5日 – 1973年〈昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。本名∶美濃部 孝蔵(みのべこうぞう)。生前は落語協会所属。出囃子∶「一丁入り」。戦後を代表する落語家の一人と称される。
長男は十代目金原亭馬生、次男は三代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(十代目馬生の娘)。
出生
1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男。出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[注釈 2]。明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。
下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした。
落語との出会い
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める。1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという。
1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた。1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する。
結婚
1922年(大正11年)11月、結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。
当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる。
この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。
馬生・志ん生襲名
1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる。1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。
1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという。
満州へ〜帰国後
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る。満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。
1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。この頃から人形町末廣で余一の日に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。
1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。
会長就任
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。
5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる。
病気
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。
1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。
事実上の高座引退
1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった。
この年、勲四等瑞宝章を受章する。
1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。
1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した。
1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している)。
(ウィキペディアより)
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