大正昭和における洋画の重鎮として知られる梅原龍三郎を紹介します。
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こんにちは。人から分かる3分美術史。
今日は梅原龍三郎について勉強していきましょう。
梅原龍三郎。1888年生まれ。大正昭和における洋画の重鎮として知られます。
梅原は明治21年、京都の呉服屋の息子として生まれました。
幼い頃より自宅に出入りする呉服の図案家と交わり、琳派などの模様を親しみました。
15歳の頃より、当時の日本ではまだ馴染みの薄かった洋画を志し、洋画家・伊藤快彦(よしひこ)に入門。
間も無く、洋画の先駆者の一人である・浅井忠が聖護院洋画研究所を開きます。伊藤快彦の塾もそれに合併し、梅原は予期せずして忠の指導を受けることとなります。
この頃の代表的な作品が「三十三間堂」。模範的な透視図法が特徴で、色使いは忠の影響が見られます。
研究所での友人として、のちに昭和の大作家として並び称されるようになる安井曾太郎とも出会っています。
1907年には安井曾太郎が津田青楓とともに渡仏。
同年浅井忠が没すると、梅原も、のちに美術史家として知られるようになる友人・田中喜作とともにパリへ出発します。
そこでアカデミー・ジュリアンに通いながら、高村光太郎らと交流しました。
翌年には、梅原は以前より敬慕していたルノワールの自宅を訪ね、以後懇意となります。
梅原は、5年の留学を経て帰国しました。
当時日本の洋画界は立ち上げの盛り上がりを見せており、洋画の最新動向を身を以て知る梅原は、画壇の寵児となります。
西欧の風土から出発した西洋画と日本の風土の違いに苦しんだ梅原は、スランプとなりました。
5年ほどスランプは続きますが、その中で日本の古典美術を改めて注目。また、1919年のルノワールの死により気を引き締めた梅原は、再び洋画界の中心人物の一人として存在感を発揮していくこととなります。
梅原の作品を見ていきましょう。
「北京秋天」。ルノワールの明るい印象派の画風を受け継ぎながらも、北京の大都市をスケール感を持って描いています。油彩ながら支持体に紙を用いることで、油の照りを抑えた透明感のある仕上がりが特徴です。
その後の梅原は多くの団体設立に関与しながら、1986年に92歳で亡くなるまで、洋画界の重鎮として多くの名作を残したのでした。
以上!
 
						
			
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