天文21年(1552)3月
尾張国を実質支配していた織田信秀の死により家督を継いだ信長に対抗するように尾張は混乱状態に陥った。
駿河・遠江の太守 今川義元は 織田派と今川派で割れる三河を支配下に置くべく軍を動かすも その最中の 天文24年(1555)閏10月 今川の軍配者 太原雪斎が病で亡くなってしまった。

雪斎の死により今川軍の動きが鈍化したことで救われたのが織田信長であった。
尾張守護 斯波義銀の傀儡化に成功し清洲城へ移っていた信長は 敵対する弟の織田信勝を力でねじ伏せ 更には 斯波義銀を尾張から追放し自らが守護となるべく策を講じた。
その動きに黙っていなかったのが尾張上郡の守護代 岩倉織田家の織田信賢であった。信賢は 信長の弟 信勝や美濃の斎藤義龍 更には蟹江城を押さえた服部友貞らと通じ信長の強大化を防ぐべく動き出した。
その動きを察した信長は 知多郡の水野信元を使い 今川から開放され幡豆に戻っていた 吉良家嫡流の吉良義安を挙兵させ 今川の目を吉良に注がせる間に 岩倉織田家の討伐 同時に重臣 佐久間信盛を三河に向かわせ 織田派の寺部城や広瀬城救援に動いた。

その狙いを察知したのが 今川義元の庇護下で元服を終えた 松平宗家当主 松平元信(後の徳川家康)であった。
吉良家の内訌は織田や水野により謀られたことであり その目的は三河北部に織田軍を入れ安祥や岡崎といった三河の中枢を北から狙うことだと元信は説き 吉良家の前に先に西加茂郡を制圧する敵の裏をかく策を提言し 義元は それを受け入れ松平元信を総大将に任じた。
吉良鎮圧軍の総大将 岡部元信や 副将 鵜殿長照 朝比奈元智といった今川の主力が幡豆郡に集結する中 9年ぶりに岡崎城に入った松平元信は 祖父 清康の「康」の字を貰い 松平元康と名を改め 初陣戦である西加茂郡制圧戦に挑んだ。
上野城の酒井忠尚の援軍を得た松平軍は 佐久間信盛を大将とする織田の後詰をあっさり追い払うと 士気が低下した広瀬城そして寺部城を力攻めで攻略、初陣戦を見事な勝利で飾ったのだ。

その報せが信長の耳に入ったのは それから5ヶ月も先のことであった…

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※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
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※2023年時点での歴史資料を元に作成しております

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