#残しておきたい昭和の演芸
#漫才 『 #あした順子ひろし 』
「あした順子・あしたひろし」による漫才をお楽しみください。
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残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね
【横山やすし・西川きよし】
【ツービート】
【太平サブロー・シロー】
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【コントレオナルド】
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1960年結成。五代目柳家小さん一門、のちに五代目鈴々舎馬風一門へ移籍。昭和後期から平成にかけて体を張ったどつき漫才で人気を博し、2015年11月のあしたひろしの逝去により事実上の解散となった。二人は師匠と弟子のコンビであり、夫婦ではない。
あした順子(1932年12月12日)本名:河野順子。
両親は音曲漫才の市山寿太郎・小寿。父・寿太郎(河野晴雄)は当時珍しい大卒芸人で、英語が堪能だったという。日本舞踊市山流の名取、壮士芝居、講釈師を経て、妻とコンビを組んだ。
姉の一枝は大阪の上方柳次に嫁ぎ、のちに夫婦で漫才コンビを組んだ。いとこは歌舞伎役者の六世中村東蔵、日本舞踊家の藤間紫。
芸能一家に育ち、日本舞踊やモダン・バレエの素養があったため、戦後間もなく、楽団専属ダンサーとして進駐軍のキャンプ回りで稼ぎ始める。その後1950年に一般人と結婚し娘1人をもうけたが、怠け者の夫に愛想を尽かせてすぐ離婚。松旭斎一門の奇術師(和妻師)「松旭斎純子」として再出発したところを、旧知のひろしに見出されコンビを組んだ。結成当時の芸名は南順子。
あしたひろし(1922年6月10日-2015年11月3日)本名:大野寛。
兵役検査では、丙種合格に留まったため徴兵されなかった。大都映画の雑用係、『笑の王国』の端役、東海林太郎らの歌謡ショーの司会者を経て、順子とコンビを組む。結成当時の芸名は北ひろし。
長兄は将棋棋士の大野源一で、大野によればひろしの将棋の腕前もプロ級とされる。2015年11月3日、老衰のため逝去した。
1960年に南順子・北ひろしの名で結成。最初は漫才ではなく、ひろしの司会で順子が手品をするマジック・コント主体だったが、覚えも要領も悪いひろしを、順子が舞台上で思わず叩いたのを見たリーガル天才・秀才に、どつき漫才への転向を勧められる。歌謡ショーやキャバレー、女子プロレスの前座などで稼ぐうち、ドサ回りで芸が荒れるのを自覚し、1965年の大須演芸場開場を期に高座に専念。
秋田實の後見を得て1960年代末から上方に移り、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、かしまし娘ら大看板の中で揉まれて芸を磨き、認められて「秋田」の屋号を許されたものの、畏れ多いと辞退して、一字違いの「あした」を名乗るようになった。
大阪万博終了後の1971年に拠点を東京に戻し、五代目柳家小さんの身内となり、落語協会に入会。1976年、漫才協会真打ちに昇進。ひろしが老境に差しかかった1990年代後半から猛然と売れ出す。弟子はいない。
2010年5月以降、ひろしの病気療養でコンビとしての活動は見られなくなり、2015年11月にひろしが逝去。その後、2017年4月に順子が落語協会を退会し、事実上の引退状態。
漫才でふたりは夫婦のような役回りを演じた。恰幅のよい順子が亭主を尻に敷く猛妻のような貫禄を漂わせ、痩身のひろしは妻に頭が上がらぬ蚤の亭主のようにたたずんだ。順子が大声で一方的にまくし立てたりひろしを張り倒したりし、弱々しいひろしが狼狽する滑稽な構図は、幅広い世代から支持された。
「間」で勝負する芸風で、矢継ぎ早なしゃべくりが主体の東京漫才では異色であった。
時事を扱ったネタを得意にした。マイケル・ジャクソン死去時はひろしの「暗闇の歩き」のような珍妙なムーンウォークで演芸場内を沸かせた。テレビドラマ『アテンションプリーズ』が人気だった頃には「アテンション、ブー」で始まる航空ネタを展開し、パラパラ、マツケンサンバ、モーニング娘。、ヒロシ、羞恥心などもギャグに変えた。
芸歴を活かし、奇術やコントも披露した。
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