大野まりな, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=58003 / CC BY SA 3.0

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大野まりな

大野 まりな(おおの まりな、1972年4月5日 – )は、日本の女性声優、歌手。広島県呉市出身。身長158cm、血液型はO型。以前は青二プロダクション、アトリエピーチ、TABプロダクションに所属していた。2009年からアトリエピーチの顧問。愛称はりなりん。

5歳までは東京に住んでいたが、父親をなくし、母の実家である広島へ引っ越しをした。幼い頃から琴の修業を積むなど音楽性を育んでいくなかで「歌を歌いたい」という夢を強く抱くようになり、元々祖母が芸能志望であった夢を果たせなかったこともあって、母親には反対されたものの、祖母の夢を叶えるため」と、14歳で自ら様々なコンテストに応募するようになった。1988年にテレビ東京の『ミス・エクボ堂コンテスト』でグランプリとなり、同番組レギュラーを務めながら、アイドル雑誌の音楽祭などでも次々と最優秀賞を受賞。さらに、翌1989年10月、広島での『海と島の博覧会・美少女コンテスト』で優勝し、これにより本格的に芸能活動に入ることを決め、上京し芸能事務所に所属する。しかし、度々デビューの話が潰れたことで移籍をし、乙女塾一期生松本裕美 、モモコクラブ桃組2902番片山裕美などとしてTVなどに出演しながら歌手を目指すこととなる。乙女塾の最中には大賀埜々・佐藤愛子とともにribbonとしてデビューする話もあったが、母子家庭であった大野と大賀は、親元を離れて一人で生活するのが困難であったため、涙を飲んであきらめざるを得なかった。

当時の時代状況として、大野が活動を始めた1980年代後半はすでにアイドル歌謡が斜陽となっており、特に1990年代に入ると本格的にアイドル冬の時代を迎え歌手活動を始めることは困難になっていた。一方で、宮沢りえの様な絶大な人気を誇るアイドルがヘアヌード写真集を出してヌード表現に対する社会の評価を変え、フェミニストからも賞賛される状況であったこともあり、歌手活動に至るための「ステップとして」ヌードも含めたグラビア活動を行うことを決心する。家族へ迷惑がかかることから母親に土下座して許可を取り、1993年、野村誠一の撮影でスコラでデビュー、麻生ひろみとなった。モデルとしての活動は、アイドル性を保持したまま、その一番美しい時にヌードまで見せるもので、専門誌ではヌードアイドル(ヌードル)とも呼ばれ高い評価を受ける。

そうして数冊の写真集の出版や雑誌への連載を果たし、脇役での映画・ドラマ出演やラジオパーソナリティなども務めたものの、なかなか歌の仕事が来ることはなかった。そんな中、青二プロダクションのマネージャー経由で「声優になれば歌が歌える」と聞いて声優となることを決心し、大野まりなと名を変え、青二へ移る。当時はアイドル声優が流行り始めており、機会に恵まれたことでそれまで八年活動してもできなかった歌手の夢が三ヶ月後に早速叶えられることとなる。

芸歴はあったものの声優としては全くの初心者であったが、アイドル時代から叩かれて育ってきた経験から、いくら怒られても平気で、九怒られて一誉めてもらうぐらいが一番いいと語るほど熱心に取り組み、1995年にPC-FXのイメージキャラクターロルフィー役に抜擢され、アニメフリークFXで出演を始める。年末にはオーディションに受かって『ラジオ・声優グランプリ』のメインパーソナリティを担当、翌1996年には『エターナルメロディ』(レミット・マリエーナ役)で単体作品の主役級として初めて出演、さらに1997年にはオーディションで「リカちゃん電話」のリカちゃん役(2代目)に選ばれる。これは情報量が多く早口でしゃべらなければならない応答を編集無しの一発録りで半年分(18本)一気に収録というもので、「これを30年もやっていた(初代の)杉山佳寿子さんはすごい」と語っている。しかし、1999年に初のアルバムを発売し、まさにこれからという時に、前述のヌードグラビア活動がゴシップ週刊誌などで取り上げられたため、スポンサーの意向で降板となった。

その後も、『ファーストKiss☆物語』に引き続き主役として出演するなどしたものの、新天地を開拓するため事務所を移籍し、アダルト作品も含めた美少女ゲームへの出演を開始する。初の美少女ゲーム作品は2002年発売の『妹でいこう!』の吉住麻由夏役で、同作では主題…

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