4K動画 折口信夫「死者の書」 主催・企画制作 朗読ユニット音がたり 出演 朗読:戸丸彰子笛:藤舎眞衣胡弓:加賀山紋 衣装製作 銀ときこ ヘアメイク 五十嵐公子監修 杉山洋

[音楽] 折り口しぶ 死者の書 [音楽] 深い深い古墳の闇に悲合の死を遂げた1人 の男大津の魂が呼びます。の人が求めるの はかつて愛した女性耳 その血を引く藤原家の姫は死者の魂に 寄り添い惹かれ幻の中にかの人の姿を見る ようになるのでした。 かの人のこえた魂を温めるために姫は慣れ ぬ折り物を始めます。 そして成婚込めて作り上げられた1枚の マンダラ折おり物の中に姫はかの人の清め られた姿を見て涙するのでした。 [音楽] [音楽] [音楽] かの人の眠りは静かに覚めていった。 真っ黒い夜の中に目の開いてくるのを 覚えたのである。 下 [音楽] 耳に伝うようにくるのは水の垂れる音か。 ただ凍りつくような暗闇の中でおずと まつ毛とまつ毛とが離れてくる。 膝が腕がおむに埋もれていた感覚を 取り戻してくるらしく 全身に怖った筋がわずかな響きを立てて 引き連れを起こしかけているのだ。 して なお 深い闇 時が経った 長い眠りであった けれどもまた 浅い夢ばかりを見続けていた気がする。 耳 蘇った言葉がかの人の記憶をさらに弾力 あるものに響き返した。 耳物閉じ俺はまだお前を 思うている。 俺はお前を思い続けていたぞ。 物閉じの人はくっした。が筋が切れるほどの痛みを感じた。俺はこの俺はどこにいるのだ?ここはどこなのだ?ナが動き出した。 [音楽] [音楽] 片手は真っ暗な空を指した。 耳物閉じ。 俺が見たのはただ1目。ただ1度だ。 俺によって来い 耳 。 [音楽] 何家のイつめの神隠しにあったのはその夜 であった。 藤原族打財の措置何家のなりその第一を 乙女なる姫である。 藤原4の筋で1番神たちを持って生まれた と言われる娘語である。 イつめは昨日のくれ方奈良の家を出てここ まで歩いてきているのである。それもただ の1人であった。 イつめは脇も降らず山に見っている。 まるで瞳が吸い込まれるように 夕闇の上に目を疑うほど鮮やかに見えた山 の姿。 その2つの峰の間に ありと憎な人のおかげが瞬間現れて消えた 。 金色の髪の豊かに垂れかかる肩肌は白じと 脱いで美しい肩。 かなお顔は鼻高く前で 夢見るようにまみを伏せて ああ雲の上に明けの唇 匂いやかに微笑れると見た そのおかอ にござるのはどなたぞな? 丘の影から恐る恐る頭を差し出して通っ 1人の寺っこはとめるような声をかけた。 イつは如人の身として入ることのできぬ 結界を犯していたのであった。 ここまで出ておざれ。見ればなら良のお方 だそうながどうしてそんなところに いらっしゃる? 山を大神に 誠にただ一言 塔の姫すら思い儲けなんだ言葉が匂うが ごとく出た。 それで立ちはどこぞな? 家かよ。部教藤原なん家然としてめきが起こった。 如人結界を犯し経く入った罪はイつめにあわさねばならなかった。姫の実は法騒員のおりにしばらく置かれることになった。 [音楽] イつめはい織りに身にすらもせずにいる。 イつめ 様 を破って物寂しい 空が響いた。 シの大の語り辺滅び残りの1人である。 イラ 聞いてみる気は終わり。 生まれなさらぬの世からのことをそれを 知ったババでおざるがやぶ [音楽] のア鳥の都に草壁の巫女かそれともこのお 方かと申し伝えられた尊いお味方 大津の巫女 [音楽] 恐ろや立てをなされるという噂が立ち、 そのお方が推しの際にガく 思い込まれた耳という1人のお人がござり ます。 その耳物閉じとはイつ様の祖父気南家打に は 気味にお当たりになってります。 藤原4の中で1番美しいつ 様が今耳物閉じと重なってその大津のお方 の目には見えるらしいのでござりまする。 なつ様はその力におびかれてこのタまでおいでなされたのでのて何でござりましょうか? [音楽] 下、 下、 下 水は岩肌を絞って垂れている。 然として闇 量のカナは首の周り胸の上腰から膝を まぐっている。そうしてまるで生き物の するような深いため息が漏れて出た。 俺は死んでいる。 殺されたのだ。 ここは 俺の墓だ。 大変だ。俺の着物は もうすっかり 腐っている。 おお、寒い。 着物くれ。 着物を俺の体は地べたに凍りついてしまう 。 イつめの耳にこ宵いも谷の響きが 聞こえ出した。 吹けた夜空には今頃やっと襲い月が出た ことであろう。 イつめの心は今軽かった。 おかげに見たお人には合わずともその おかげを見た山の麓元に来てこう安らかに 身を横 の音 つ とふーんと立ち止まる気 この狭い部屋の中を歩く足音。イつめは切 な頂大の中で身を固くした。 語り辺のオーナの物語のそのお方の来て 伺う夜なのか。 物閉じ その子の 腹からのこの 乙女の1人 我が妻に来よ。 [音楽] [音楽] [音楽] とりがふわっと風を含んだようにし玉 ついと凍るようなレキ イラつは目をつった。だが瞬間まつ毛の間 から移った細い 白い指るで 骨のようなとりを掴んだ片手の白く光る指 なも りは元のままに垂れている。だが白玉の指 ばかりは細とそれに絡んでいるような気が する。 悲しさとも懐かしみとも知れぬ心に深く イつめは沈んでいった。 ああ、肩、胸、荒わな肌冷えびえとした 白い肌。 お、追い通し、追い通し お寒かろに イらつめは起き直った。 好みの考えることができることか 試してみや。 [音楽] 村はこの頃1本の草一くれの石すら光を 持つほど賑いつ が奈良の立から高畑を取り寄せたからで ある。 片にたけた女も1人や2人は和コードの中 にいた。 この女らの動かして見せるおさや火の扱い 方をイつはすぐに徳得した。 [音楽] 天軸から渡ったものより手に入らぬという 破水通り。 は切れてはり、おっては切れ、手がだるく なってもまだ火を離そうともせぬ。 [音楽] この旗を折り上げてはよあの素肌の隠を 覆ってあげたい。 ちち は 蝶 早くおらねばやがて岩どの凍る冷たい冬が ハタハタ ゆらゆラ はたはハ [音楽] 大きな一面の綴りの旗が出来上がった。 あ日 絵の具の届けられイつは住きなしに絵の具 を塗り始めた。 角ランの屋根 数多い柱やローの立ち続く姿が目輝く ばかり。 雲の上には光輝くモヤが漂つ の命を絞るまでの年力が筆のままに動いて いるのであろう。 やがて金色の運気は次第に凝りなして うしの人とも見えぬ 尊い姿が 現れ [音楽] [音楽] 匂いやかな笑んだ顔が初めてもにイつめに向けられた。 [音楽] 節めに半ば閉じられた目はこの時イつめを 認めたように涼しく開いた の [音楽] なも [拍手] [音楽] 花 あ、 [音楽] [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] [音楽] [音楽] イつめの描いた絵はそのままだラの姿を備えていたにしてもイつめはその中にただ [拍手] [音楽] 1人の幻を描いたに過ぎなかった。 しかし 見るみる 数千の菩薩の姿が浮き出てきた。 [音楽] イつが筆を置いてにやかなを人々の背中に 落としながら 喉かにしかし音もなく立ち去った説な心は 1もなかったのである。 ましして とムに消える際に振り返った姫の輝くよう な方の上に細く伝うもののあったのを知る ものの あるわけはなかった。 は 育人の人々が同時に見た 白実無の類いかも知れです。 [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [拍手] [拍手]

氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。七四八年に越中守大伴家持が富山県氷見市から氣多神宮に赴き参詣したと書かれている。八世紀、九世紀の能登の氣多大神宮は、渤海(ぼっかい)と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中、佐渡、越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。続日本後紀八三四年には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝二人が把笏せしめられる。把笏をするということには官人と見なす意味がある。氣多大神宮の公的存在という位置付けを中央が強く求めていた。寺家遺跡の祭祀遺物は八世紀、九世紀ものであり氣多大神宮の祭祀の盛期を物語っている。氣多大神宮で国家祭祀が行われていたと考えられる。
蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮、越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に「日本四社」と称せられた。
七六八年に封戸(ふこ)二十戸と田二町を寄進され、しばしば奉幣(ほうへい)を受けた(『続日本紀』)。また、七八四年に従三位から正三位(『続日本紀』)、八三四年に正三位勲一等(『続日本後紀』)、八五九年には従一位勲一等、八九六年には正一位の神階(しんかい)を賜った(『日本三代実録』)。
氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。
万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。
昭和五十八年五月、石川県で植樹祭があった。それは二十二日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。その行事がとどこおりなくおわったあと、天皇陛下は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。
斧入らぬみやしろの森めづらかに
からたちばなの生ふるを見たり
というお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。
 陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。
「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。
『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)によると、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社(こたじんじゃ)と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していたことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。
一二一七年に将軍源実朝(みなもとのさねとも)が公田(こうでん)として十一町余を寄進したが、これは古代の封戸(ふこ)などによる神領とみられる。中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していたという。
一五六一年に、能登守護畠山氏が正親町天皇の勅許(ちょっきょ)を得て社殿の造営を進め、一五六九年には摂社(せっしゃ)若宮神社(事代主神(ことしろぬしのかみ))(国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。
一五七七年に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。
特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領三百五十石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。
本殿(大己貴神(おおなむちのかみ))、拝殿、神門、摂社白山神社(菊理姫神(くくりひめのかみ))(以上、国指定重要文化財)。神庫、随身門(ずいじんもん)(ともに県指定文化財)がそれである。
一八七一年に国幣中社、一九七一年には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。
神社の生命は、祭祀(さいし)にある。一六一九年の由来書によると、実に七十四度の神秘な祭祀(さいし)を執行(しっこう)していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会(しゅしょうえ)、仏生会(ぶっしょうえ)(花まつり)、放生会(ほうじょうえ)、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。

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