松江市史Web講座第16回「戦後80年 松江市の戦争遺跡をあるく―松江連隊遺跡群―」後編(講師:若槻真治氏、高嶋敏展氏)

2025年はアジア太平洋戦争の終戦から 80年となる節目の年にあたります。 今回の講座では島根県で戦争遺跡研究を 行っている若月慎司と写真家の高島俊信を 講師に迎え、今も残る戦争遺跡を歩き ながら軍都としての末裔の歴史をご紹介 いただきます。 公編では松江市西田の緑山公園にある陸軍 遺跡を歩き、最後に東朝日町に残る松江 連帯区司令部後を紹介します。 [音楽] えっと、今いるのがですね、あの、今緑山 公園、緑の山と書いて緑山公園という風に 呼ばれてる、え、松江市の公園です。え、 緑山っていうのは元々さっき平で63連帯 っていうのがあのこうにいたっていうこと 言いましたけどもその63にかけてですね 、ちょっと引っ掛けてうん。緑山公園と いう名前をつけられた戦後つけられたもの です。で、元々じゃあどうだったかって 言うとこうあの陸軍墓地えその平に付属 する陸軍墓地です。あの、ま、63連帯と か163連帯から142連帯から南第4 死体から 、え、第9教育、あ、教育航空隊という、 ま、部隊が入れ替わりこの平には入って くるんですけども、ま、特に主なのはその 、え、63連帯、163連帯、142連帯 、南陽第4死体っていうのが主な歩兵の 舞台なんですけども、ま、彼らのが戦場に 行って亡くなって、え、その異骨をですね 、えー、ここにまったという、そういう 陸軍の墓地ですね。陸軍が、え、運営する 墓地です。ま、たくさんの、え、ここには そういう選ぼ者の方が、ま、釣られていて 、今はこう見ての通りですね、ま、公園 遊具もできてて公園になってて、で、この 向こう側ではあのゲゲートボールをして おられるあの恒例の方がおられたりするん ですけども、え、かつてはですね、ま、 ここには母皮が立ち並び、また今のこの あの有具のあるとこはですね、あの農骨道 と言っ 建物が立って、え、もうあの母費を立てる、もうスペースもないぐらい戦士が増えてくるんですね。で、ま、それもあって脳骨動っていうの立てて、ま、そこに納めたという建物が立っていた場所ですね。 あの、陸軍墓地っていうもの自体がちょっとよくわからないんですけども、例えば僕なんかが死んだら自分の家のお墓に入ると思うんですよ。 それを止したらそれは異骨は国のものというか軍のものになるんですか? あの当時の考え方としてはあの 3つぐらいだから3 回ぐらいをお葬するんですよ。だから 1 番その代々的にあるのがこの陸軍の兵隊として死ぬっていうことです。 その、ま、若者兵士が死んだ場合、その 1番最上級のられ方っていうのはう ん。 陸軍の兵士として うん。 ここに祭るというのが、ま、ま、その上は本当は安国人神社という神社があるわけですけれども、 その陸軍墓地としてはこの陸軍墓地、これが 1 番最上級の墓地からその亡くなった方はですね、地域に戻るとそこでまたそのお葬式をするんですね。 入れます。で、その時に中婚費というのを地域で立てる場合もある。そしてまた彼らは自宅では 1つの墓にられる。うん。 ま、3 回ぐらいんです。これ多分日本独特のやり方。うん。うん。うん。 だから例は何かっていうか、その死者を祭祀祭り方が、ま、分裂してます。分裂してて うん。ま、1番その当時主なっていうか、 1 番公栄なら方っていうのはこの陸軍墓地に祭られる うん。 ということです。ただ実際は異骨がジャンプあったかっていうと異骨はあ、ま、ほ、ほぼほとんどと言っていいぐらい異骨はありません。 あの、死者はそこで死んだら多分そのままなんで、 あの、もう骨もないコツが帰ってくるんだけど、コツの中には何も張ってなかったという。 ああ。ああ、映画なんかよくそういうあの回層もよくありますので、ま、実際は何もか、ま、空っぽの 空っぽのこうツだったとは思いますけど、ま、彼らが亡くなったものだとして、え、ここで祭祀ということになります。ま、それをやった場所がこの慰例の場学校です。ですからすぐこの下が閉なんですね。 [音楽] だから兵隊は あの年に何度かはここに来て全員で来てここでその慰例をすると今まで自分たちの先輩で戦場に出て死んでいった人たちをあの現役で今訓練している人たちはここに来てあの自分たちも後を継ぎますということをまそういった祈りを捧げる場でもあったわけですね。 この位置ですね。ここが入り口なんで うん。うん。 入り口の両脇に脇に はい。あった。 これは中で中のはい。あの中、え、戸う中コ超中コですね。超中コということですね。 今は13年8月12日の昆ですね。 そうですね。 磯谷レンスさんていう当時は関東軍の三房長だった人で その前があのこのこの 63連隊が所属した第 10次の団長なんです。 1938年昭和13 年に立てられたあの松の旅館組合がですねえこれを起造してますけれどもここに立てられたものですね。ま、これは多分当時のもの。 当時当時もこの場所。 はい。はい。当時もこの場所で 向こう側のあの要光という風に書かれてますけれどもこれはあの本性しげると言って 1935 年に立てられたあのこれも大きな灯です。あの当時は本条茂は自重武官長というですねの [音楽] 1番にいる、えだったんですね。 ま、その前が関東軍の長官だったんで、 あの、ま、満州事とか日中戦争とかでこの 63連帯を指揮する立場にあったので、ま 、それがもあって、あの、 ま、この記号を頼まれてこ に、ま、大きなを、え、まったんだと思い ますね。それは3度のこれだけなんか当時 のものかなと。そうですね。ここの1 番上のとこ はいはいはい でこれが多分門のスライドじゃないかなという気がしてるんですけど [音楽] はい あをま回収してるんですけどまこうやって元のものも うん 多少残ってるわけですねこだけ当時のものだ うんそうですねそうかも分かりませんね まここはこうやってまあだから兵態が上がってきてここに正面にここには 411柱のあの母 が、ま、立ち並んでた。今全くあの何も ありませんけれども411の防費が 立ち並んでいたんですね。でもそれで こちら側がもういっぱいになっちゃったん で、この西側の方をもう1度開発してそこ にあの脳骨道を立てて、その農骨道には 2000500 ぐらいだから合計には3000人ぐらいの その選没者の、え、ま、ま、異骨っていう か、え、があの、ま、ま、釣られていた 非常 今当時としてはその神聖な場所です。平坦ここに来て、ま、ここでいい例載を行ったというところですね。後 GHQの指示でなんか提供なんですよ。 あ、あ、なんか予想で僕は陸軍墓地とかを見たことはあるんですか?そういうのも全国的にも、 え、全国的に指令を出すんですけど、ただ全てそうなったかどうかが、あの発卦し残ってる場所もあるんですね。 あ、残ってますよね。 うん。 大阪の田山の陣地、あの田山の墓地とか から浜田の 21 年体の墓地は残ってるのでもう徹底してるわけじゃないけど、ただここはかなり厳しくあの新中軍がこれを その良くないとその軍国主義の、え、象徴になるようなものだからこれは取り壊しなさいという指令を出して、え、結局、ま、それを取り壊して今のあの慰例費を、ま、もう 1回立て直した。 ただ、ま、このさっき見たような灯路はどうもそのまま、これはどうもそのまま残ったみたいですね。 ですから、ま、その戦後の新中軍の指令によってこはもう全くその風景が変わったことになります。それまではここにもうたくさんの防皮が並んでたりの骨度があったりしたようですね。 あの、での場所がもっと手前なんですか? いや、あそこは場所はあそ、うん、あの場所だと思うけどね。 門中の後は も、門中って そう、そう、そう、そう。それが ああ、 あれがよくそこの左右のあれがよくわかんない。元々こっちから向こうなのかと思ってたんで。 [音楽] うん。 いや、もう多分母費はもうこの辺り全体に並んでて、ま、案外階級によって階級順にな、あの、並んでるから それの区切りだったのかも分からないけど、ま、門中が確かに両側に両側にあって ありますねから、これはその戦後に作られた あの、母費を撤去した後で うん。その母費を使ってもう 1 回作り直したあの灯ろだという風に言われています。 この両側にある灯路がですね。 はい。はい。 [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] はい。えっと、ここがその陸軍墓地のあの 、ま、中心になります。慰例灯です。え、 今は、え、ま、慰例灯という風に書いて ありますけど、かつてはですね、あの、 満州自変中止者の日と書いてあります。 中止者っていうのは忠実の中、あの、死者 の日という風にかつては書かれていました 。満州時を、え、1931年にマン州事 起こりますけれども、ま、それ のその、ま、凱旋を勝利をですね、あの、 記念、え、して立てられた、あ、ものだっ たんですね。 ま、それがちょっとこういう風に今違う文字になってるのは新中軍がですね、ま、そういうものは取り外せという風に指令を出して、え、ま、それによってですね、あの、付け替えたと言いますか、書き換えたというか、 ま、それで今この慰例という文字に変えられたんですね。 あの、割と、あの、ま、僕が見た範囲でも日川なんかのお寺で中婚費を中レ費にあの、書き換えるとか表側を裏側にするとかそういうことよく起こったんですか? [音楽] あの、ま、新中軍がそういう風に指示を出したので書き換えたり、あるいはもう埋めたりですね、あの、ま、もちろん捨てたり、え、壊したり、え、様々なケースがあります。 あのでもう1 度新中軍が日本からなくなった後を掘り出してもう [音楽] 1 回立て直したっていう風なところもありますし、ま、いろんな例があって、ここの場合は この裏側に回っていただくと分かるんですけれども削られた後があって、文字を削られた後があって、その満州編中止のし、え、日っていうん、当時の文字をもう 1 回削ってですね、当時裏面だったのを表に出して その新たに慰例灯という風にも を、え、刻み直して、あの、ま、ここに 立ってた、ま、多分これもその新中軍に 許可をもらってですね、そういう風にした んだろうなという風に思います。 これなんだ?特ここを整備する時に、ま、整備しれなかったっていうか、あの、ま、残ってしまったものだと思うんですね。ま、当時その戦後すぐの時代なんで、もうかなりの混乱機なんですよ。 [音楽] で、ここも陸軍墓地かつては非常に聖地と して、その陸軍のにとっては非常に、ま、 聖なる場所だったんですけども、配線に よって非常にうん、なんていうか、ま、 混乱する時期の中で荒れ果ててで、なんか 放火事件とかもあって、その濃厚都動が 焼かれたりとかっていうこともあったよう ですし、もう荒れ果てた状態のところで その整備をしていくという感じになるん ですね。ですから、ま、その整備自体も 結局行政がやるわけにいかないっていう ことで、ま、宗教連盟っていう新たな団体 を作って、その宗教連盟があの、ま、軍人 がいるわけにもいかないと。で、宗教連盟 がやるっていう格好になるんですけども、 あの、ま、実際どこまでその徹底したこと をやったのかっていうのが、ま、よく 分からないところがあって、ま、こうやっ て、あの、放置されたままの、え、菩石が 実は、ま、ここだけじゃなくって、あの、 ま、そんなにたくさんじゃないけど、この 周りに、あの、いくつか、あの、転がっ たりもしてるんですね。ですから、ま、 その辺りはね、その当時のやっぱ混乱した 時期のこともやっぱ考えないといけないし 、ま、なぜそういうそれまで軍人を崇め られていたのにその配線後にそのそうじゃ なくなる。う、むしろその軍に対する反発 っていうか、そういったものも、ま、急激 に 高まるんですね。で、世の中変わったと、 ま、これから民主主義の時代だみたいな形 で急激に転換していくんですけども、ま、 その、その時代のやっぱり乗り越え方って 言いますかね。ま、それは非常に本当は 大事な問題だったんだろうなと思います。 これは分かりやすいんですよ。 文字がちゃんと見えて、あ、ちゃんと綺麗に見えますね。 あの、これがあの、陸軍墓地の、え、かつてここが陸軍墓地であったっていうことを物語っている陸軍用地のこれも標中ですね。 あの、後ろ側には多分番号が 番号が 番号がなんか17とか16 とかっていう番号が売ってあったかと思いますけれども、あの、ここを陸軍墓地として買い上げて、え、ま、ですからこの平営ができる時からすでに、え、かなりの面積を国が、国がっていうかその軍部が買い上げてますので、ま、それをこういう表中を周りに立てて あの、示したものです。今は、ま、こう いうのがかつてはですね、ま、どこのその 戦争遺跡に行っても多分かつてはあったん だと思います。だけど今は本当に少なく なってて、ま、ここの陸軍墓地ではここと もう1箇所2個ですね。今僕の知ってるの はその2個だけなんですけど、残るのは もうそれぐらいになってます。本当はま、 多分10個とか20個とかあったんだろう と思います。これで今後ろ掘った 8っていう番号が8個は確実にある。 はい。 あった。 うん。ですね。 あのここも結局国にもう 1 回戻ってそのはあの戦後にですねえ大倉の幼地になってそこから松江市に要違いされて今は多分松江市の土地になってると思いますけれども、ま、そういう変線を辿どっ。ま、元々はここは陸軍の用地であったということを証明してます。 第7えっとこれもですね、あの先ほどと 同じで、え、陸軍用地、ま、ここで僕は 知ってるのはこの2箇所なんですけれども 、あの、もう1箇所がこの、え、表中です 。 例えば基地な泉雲市の代謝基地なんかでこういう敷地協会のようなものを見た記憶がないんですけどもこれと作ったり作らなかったりするもんですか? あ、あの、ま、基本的には時代によって うん。 あの、もう崩れていくんですね。あの、結局元々はきちんと土地をその買い上げて ここが陸軍の用地ですよと。 うん。 で、ていう風な、こういったを立てて、ま、これがずっとその本来のやり方だったんだけど うん。 その選境が悪化すると共にも壊れていくんですよ。 で、それも例えば兵隊 1人1 人の倫理感も壊れたり、あの、もう様々なあの軍を維持していくようなシステム自体も壊れていく と同時にあのこういう途中を買う場合にもうあのこういったその買わなくても買わなくても結局軍用地軍に必要であればその地使っていいんだっていう風な法律できてしま だからもうあの代謝基地の場合にはもう あれは、え、1945年の3月ぐらいから 実際の建設工事が始まるんで、もうその時 にはもうその土地は軍隊が必要であれば もう使っていいというようなもうえ ていう風な法律がもうできてしまった後な のでだから大基地はおそらくこういうもの はないんです。 だからこういうものがある時代とない時代があるっていうこと。 それはもう戦争というか軍隊を考える上でももう別のものだと考えた性質変わ性質が変わってしまったと。 うん。 だから本当は、ま、だんだんと変わっていったんだろうと思うけど、選境によって、あの、変わっていったんだろうと思うけど、これをここを作った時にはまだそういう実際の戦争のない日戦争が終わった後に作りますから、まだそういう実際の戦争状態になってない時代に作るものなので、それが実際に戦争になるとまた変わってくるし、 その戦争の状態が悪くなると、 悪くなるとさらにまだ変わる。 うん。うん。 ていうように、あの、ま、こういった土地の取り扱い 1 つ取ってみても、あの、ま、軍隊のあり方、それから国民とのあり方、ま、結局国民にそれその分負担をかけるわけです。 [音楽] あるいは兵隊に負担をかけていくわけなんだけど、 その、ま、そういったあり方っていうのが大きく変わっていく ま、ま、この時代は、ま、こういう風なものをまだきちんとできてた時代 だったということですね。 なるほど。 でもそれって結構さ、あの時代によってルールがこうちょくちょく変わるってのは本来 どうなの? それはもうそのすごくいい加減いい加減すぎると思いますよ。 つまりきちんとそういったものが結局なぜそういう風にしないといけないのか国民に対してそれを負担与えることが本当はどういうどうなのかっていうことがきちんと議論された上で やるのではなくてもうともかく戦争 うん 戦争最優先だから はいはい そのともかく勝つためにはもう何をしてもいいっていうまに言うと うん そういう風な時代になっちゃうともう国民の負担だろうが何だろうが国民の生活だろうがま隊の命だろうがもうそういうのがどんどん軽くなって くるっていうか、あの、じゃあ一体何のために戦争してたんだっていうことになるんですけど、ま、結局そういう風に崩れていくっていうか、壊れていくっていうか、 ま、そういう状態だったんじゃないかなという風に思いますね。 人もルールも 人もルールも壊れていくんです。 戦争は狂気ですということです。 [音楽] [音楽] はい。え、ここはですね、あの、連帯が できる時に同時にできます連体育司令部と いう組織があるんですけれども、え、そこ の建物側あった場所です。あの、元々は、 え、連帯のすぐ横に立てられていたんです けれども、え、かなり業務料が増えて人が 増えてきたので立て替えることになって、 で、1942年、え、初17年ですけれど も、こちらに移ってきました。ですから、 ま、30何年は、あの、先ほどの平のすぐ 横にあったわけですけれども、その後の3 年間、3年ちょっとぐらいですね、ここに その建物を一して、え、ま、ここで業務を 行っていたということになります。で、ま 、ここにですね、実はもう建物もすっかり 、え、今もうあの残ってないわけです けれども、え、その陸軍の場所を示す表中 、え、それが3箇所、え、この周りに残っ てますので、ま、それをちょっと見て いただきたいなという風に思います。 [音楽] [音楽] あの、元々連帯主令部というのはどういう ことをしてたかって言うと、あの、よく あの赤髪というものがありますけれども、 あの長兵を抑えれて、え、その人が証集さ れで、え、軍隊に入るという時にあの赤神 というもの配ります。で、その赤神の発球 元になったのがこの連体育司令部。え、 先ほど見たですね、あの弊社の方は軍事的 な、え、陸軍の軍事的な本部ですけれども 、その陸軍の事務的な本部、事務部隊の 本部があったのが、 ま、ここのその連体区司令部ということに なります。従ってそういう、え、長兵検査 をしたり、あるいはその兵隊を応、王応 王将と言いますけれど、応傷したり、あと はそれからあの兵隊が戻ってきた時に、え 、その手続きをしたり、あるいは年金の 手続きをしたり、あるいは怪我をした人、 怪我をした軍人のですね、あの生活の支援 をしたり、あるいはその兵隊から、え、 それを引退して在軍人というものになり ますけれども、在軍人との関係を持ったり という風なあの陸軍の連帯に伴う事ブ的な 業務をやっていた、え、組織です。大体 300人ぐらいの人が最終的にはここで 働いていたそういう組織になります。 あの、今日は軍としての松江をですね、え 、もう1度見直すということで、え、松江 の連帯遺跡関連の遺跡を、え、回りました 。あの、かつてのその戦争を体験された方 が少なくなっていく今日ですね、もう残さ れたものは、ま、いろんなアーカイブで いろんな資料もたくさん残ってますけれど も、え、資料を読むのともまた写真を見 たりするのともまた違う、え、ことがです ね、ま、このこういう戦争遺跡を、え、に 足を運ぶことによって感じ取ることが できると思いますので、え、ま、皆さんも 是非ですね、一度あの、ま、たくさん戦争 指席ありますので、え、関心を持ってです ね、あの、え、見学してもいただければ いいかなという風に思います。え、是非 よろしくお願いします。今日はありがとう ございました。 [音楽] [音楽] ああ。 [音楽] はい。 [音楽] [音楽]

【松江の歴史を分かりやすく知るWeb講座】
2025年はアジア・太平洋戦争の終戦から80年となる節目の年にあたります。本講座では、島根県で戦争遺跡研究を行っている若槻真治氏と写真家の高嶋敏展氏を講師に迎え、今も残る戦争遺跡を歩きながら、軍都としての松江の歴史をご紹介いただきます。後編では松江連隊遺跡群より「陸軍墓地遺跡」と「松江連隊区司令部跡」をとりあげます。

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