【衝撃】“日本一のシャッター商店街”で見た現実
ここは岐阜県岐阜市柳瀬商店街 。かつては東海随1のハカ外と呼ばれ全国 から人が集まり活気に満ちていました 。しかし今この商店街には日本一の シャッター商店街という不明誉な別名が ついてしまっています 。なぜこんなにも姿を変えてしまったのか 。そしてここで行き続ける人々の姿と は私は今岐阜駅前に来ています 。ここ岐阜市はかつて繊維の町として栄え ました 。そして今もなおくの人が暮らす地方都市 です 。今日はこの駅から徒歩で15分ほどの 場所にある柳瀬商店街に行きます。 日本一のシャッター商店街とも言われたその町で今何が起きているのか実際に歩いて見て聞いてみて探ってみたいと思います。 いや、ここまで昭和の時代が色濃く残って いる商店街って今の時代あまりないと思い ますね 。このようなレトロな雰囲気が好きな方は 是非一度足を運んでみて欲しいですね 。いくつもの商店街で柳瀬商店街は形成さ れているんですが、どこのエリアに行って もこういったスナック夜のお店があります 。いや、これもこれで柳瀬ならといった 貢献なんでしょうね 。柳瀬商店街は岐阜市の中心部に位置し、 長年に渡り、地元住民に親しまれてきた 商業エリアです 。ここは複数の組み合いによって構成され 、それぞれの通りが独自の色を持ってい ます 。柳瀬商店街の店舗数は昭和のピーク時に は1000点以上に達したと言われてい ます 。日本一の商店街全国有数の繁火街として 栄え、三川剣一さんの柳瀬ブルースも ヒットしました 。しかし、高外の大型ショッピングモール との競争などから柳瀬の客足は減少 。現在営業しているお店は約350 と言われています 。どうですか?率直に今の柳の様子は 少し寂しいなと思ったりもするもなんです か?どうだろうね。でも実感としてやっと 昭和が終わったんだろうなみたいなそんな 感じだね。 性がなかったというか昭和のビジネスモデルとかその昭和の生き方っていうのをどんだけあの円命させるかっていうのがストラッグってかそのそういうきがあったんだけどもうそうじゃなしにこの時代に合わせた方向にうん転換していこうよっていこうよっていうう節目が来てるとかそういう感じだからそれに寂しいって感じは実はそ僕個人は持ってないです。うん。世代交代っていうかそういう新しい町に変わってく時期が来たんだろうなってその実感の方だね。うん。 [音楽] 2016年にオーダースーツさテラーを 創業した水野さんは2024年に商店 街連合会の理事長に就任しました 。日本一若い商店街連合の理事長に柳瀬 が目指している姿について聞いてみました 。私が目指の柳瀬をもう1回日本一の商店 街にするんだっていうう元々柳瀬商店街の おそらくですよ。 からわかんないですよ。日本一の商店街だと私は思ってるんですね。サイズ感で言うと全国大体ベスト 4に入る大きさを持ってるんですよ。 そう思いました。 え、人口で見たら岐阜士っていうのは40 万人都市なんで日本で人口ランキングするの多分 50 番目とか多分そんなもんかな。そうですね。はい。 え、その中で商店街全国ベスト4 に入るサイズ感っていうのはそれだけ昔規模感を誇っていたってまず前提があります。 今柳がね、できて136 年目ですんで、こっから15 年かけてえ、柳瀬生誕150 周年のタイムでもう一度柳瀬商店街を日本一の町にしたいよと。 ああ、 商店街の水体にはいくつもの要因が重なっています。 全国的にもバブル崩壊以降商店街の店舗数 通行量売上は下落 傾向柳瀬もその例外ではありませんでした 。特に1990年以降高の波が柳に大きな 影を落としました 。大型モールが高郊外に続々とオープンし 、車社会の加速と共に街中での買い物が 減っていきました 。そして2024年柳瀬の象徴だった岐阜 高島が 閉店中心地で買い物をする文化が1つの 節目を迎えました 。高島屋の閉店のは結構大きターニング ポイントとなったと思うんですけど。そう です。 それ行くと大きなターニングポイントになったと思っています。元々百貨点っていうのは、ま、ある種調和のね、強い店舗の象徴みたいなとこであったと思うんですけれど、 これは別に岐阜にかけずつ今全国の地方の百貨点のどんどんどんどんくなっていく路線になっています。 なんでそれを中核に置いてしまうと時代の流れにそぐはなくなってしまうんですね。 うん。はい。 だから商店を復活するたは個人のたがちゃんと自分たでちゃんとして自分たでを盛り上げるんだっていう この流れでなければ町は最高できないっていうのが時代の流れとしてあると思うんですね。 そういう意味では百貨店がなくなって確かに悲しいですし確かに苦しんでる店舗さんもあるんですけれどそこに頼らない街の形をいち早く作り上げたところが 20 年後も生き残る商店街になると思ってるんですね。 この言い方はすごく怒られますが、いなくなってくれたのが早かったおかげで柳商店街は新たなターニングポイントに向かってすぐ動き出すことができたんじゃないかなと。だから新しい店舗が昨年高しめがしまったにも関わらずここ 10年間で最も多い20 店舗の出点があったんだろうなと思ってます。そんな柳瀬の中で異質な存在を放つのがスタープレイス柳瀬。 ここはかつて陥落街として賑わった金ず 有郭の名残りを色濃く残すエリアです。 昼間は静まりっていますが、夜になると スナックやバーのネオンがとり、昭和の 記憶が顔を出します 。一見するとシャッターが降りたままの 店舗と使われなくなった建物が並ぶ。 そんな風景が広がっています 。ですが、このエリアにはかつての賑いを 知る人にとっては忘れられない記憶が刻ま れているそうです 。スタープレイス柳瀬にて祖父の台から 続くウナ屋を経営し、同商店街の理事長を 務める小沢さんにお話を聞きました 。 小さい時からこの西柳瀬で育ってですね、もうたくさんのお店が締めき合って本当お客さんもたくさんいて本当ね、おもちゃ箱をひっくり返したような商店街でとにかく楽しかったんですよ。 [音楽] 週末なんかは本当にたくさんの人がお見えになって逃げましたね。 ああ。 ええ。で、スナックであの当時はまだ風俗店もありましたし県外からも、 ええ、なんかお目になるお客さんがたくさんました。 ああ、は、そうですか。 ええ、滋賀とか名古屋からも来てくれるんで。 へえ。 ええ、そこで飲むよりもタクシーってでもここで飲んで遊んだ方がすごい楽しいと。 はい。 スタープレイス柳瀬にある唯一のキャバレーアとムーランルージュの中を見せていただきました。 [音楽] これが柳瀬最後のキャバレームーランルージュ入り口 入り口です。最後のキャバレですね。バブルの匂いがすごいですね。です え。 [音楽] 1970確か74 年あたりの建設されたもので、元々ムランルージュは 1960 年代に別の場所でオープンしたものが10 年経って一きた。移設されてここに来たという感じであります。 あ、 ですから生付きのキャバレーがま、本来柳瀬の売りだったんですけど、そん中ではコツブなキャバレーとして、 ま、こう高発で出てきたと。 でもやっぱりその時代の衣装があって、当時できた頃はやっぱこんなね、すごくシれた 衣装があって はい。 結構凝った店の作りをしてるんです。最後 2019 年にキャブレートした営業終了するんですけど、 客草走も高齢化、 ホステ高化するので、だんだんチープになってくんですね。 なのでお店のこの金キラのモールとかだんだんチープな上書きがされていくっていうのがこの店の歴史があって、あのいいすよね。このムーランロージスペシャルナイトってのこのチープ感がいいですよ。 [音楽] はい。うわあ。 面白いのがこれあのお姉さんの名前が書いてあるんですよね。普通客の名前が書くんですけど お姉さんの名前が書いてあるんですよね。これはやっぱ個人事業主として管理してるからかなと思うんですけどね。 ああ、なるほど。 で、2階ですね。2 階はこんな作りになっていて、 お、すごい こういうタイプのボックス席か になっていますんで、1 階よりもちょっとだから高いんすよね。座ると隣の席のは見え、見えないというか視線が切られるんですよ。 [音楽] 本当ですね。はい。 いや、これは一体何を意味していたのかってのはちょっとまだ複数の説があって はい。分かりませんが、 ま、意図された設計であろうとは思います。 なるほど。はい。 斜めの虎ラ柄の模様とかも非常に斬いんで。 あ、すごいな。本当だ。 このナプキン自動販売機10円も。え、 こういうのにはまる人はこれにはまりますね。 10円。10 円。おほ。はい。物質みたい。 そうなんですよ。物質っぽくて、え、 こう無奇質なロッカーが はい。 カーっとこうぐるっと、ま、並んでるという感じですけど、このロッカーにお姉さんたちの服が残ってると いうところがやっぱポイントでありまして、え、 こういうところにもこれはおそらくはま、なんだろう。新人キャストのお姉さんがとりあえず着るものというようなイメージで バレンシアがすですね。そうなんです。 なんか割とブランドものが多くて岐阜ってのはアパレルな街でお客さんってのもあのアパレルのバイヤーさんが来られるので バイヤーさんから見た時になんかあのチープな服着てるなと思われないように いい服を着せていたとは思われる。 あ、そういうことか。なるほど。 名古屋さんとかちゃんと服が残っていてですね。こんな感じで。 うわお。はい。 こういうこんな感じでかかったままであります。名前をちゃんとね、マジックでこう直接上書きしていくのがこのシステムですから。 すごい。 へえ。 とにかくあの開ければ開けるほどいろんな服が出てきますんで。南さんもよくかかってる人だと。南さん。 お可愛い。南さん。こんな感じ。可いい ね。このボタンがめちゃくちゃいいっすよね。 [笑い] なんすかね、これは。ちょっと私あんま女性のことわかんない。へ え。なかなかすごいですね、これ。 すごいっすね。 クラッときそうですね、これで。そうですね。 一昨年水曜日のダウンタウンの番組で日本一のシャッター商店街を決めるというな、何ともね、ちょっとイラとくるような企画の相談が持ち込みがあったんですけれど、 取材があった時に結構ですね、うちはそんなシャッターじゃないつって追い返すような商店街さんもあったんですね。 ああ。 柳瀬の中でも西柳瀬というエリアはですね、ま、夜のお店中心にやってたもんですからかなり厳しくなってしまってるエリアなんですね。 で、正直このまま行ったらもう打つ手がないと。 はい。 ただそこの通りを担当する理事長さんがもう悪は無名に勝さると。 ああ。 それで注目されて何か街が変わるんだったらそれにかけてみたいっていうのであの番組を巨したんですね。 うん。 やっぱそれで注目されたことによって結構ですね、テレビ CM であったり映画のワンシーンの相談が結構来るようになったんですよ。 だったら注目されたことを生かしてこの西アが変なこと始めたっていう流れにしちまおうぞと。昔むちゃくちゃ栄えてたからバブルの遺産がめっちゃ残っとるんですね。その目玉は廃墟ツアーだってやったんですね。 そしたらそれがめちゃくちゃバズってですね。廃墟ツア 1口1万円すよ。40 口がすぐ埋まってしまってですね。 へえ。へえ。 日本一のシャッター商店街というな称号がむしろ西柳瀬の活性化という誰もどうしたらいいか悩んでいた問題に糸口を見出してくれた。でもこれっていうのは別に私が 1 人で言ってもできないんですけれどその西柳を束ねてくださっている、ま、昔から地元に寝付いてる方々がやりたいって言ってくれたから。 あ、廃墟ツアーっていうのはどの頻度で なんだかんやで2ヶ月に1 回ぐらいはやってますよね。それか なんやかんやで。 だけでも本当10 回やりましたぐらいやってる。そうですか。やってますよね。 ぐらいはやってるんです。 これをつけた時もうすごい西流せっていうのがうん。 本当もう全部埋まってたの。 へえ。すごいっすね。 月の付金収入だけでも本当700万とか。 へえ。いい時代だ。 うん。 でもそうだな。 なんかこれ、これを見に来てもらう、写真撮ってもらうだけでもなんかね、集客できそうなレベルにはなりましたよね。うん。 たまにそういう何、あちこちの商店街もま、好きな YouTuber さんが西流ですっていうその特に何も Twitter撮ってくれてるのは YouTuber がてたりするんですけれど、この風景は本法初公開なんで ああ、嬉し。だからそういう意味じゃ YouTube の中にこうやって残してもらえると。 そう、そうですね。 ランチは先ほどお話を伺った小澤さんが 経営するウナぎ屋さん田中屋に行きました 。三川一式さんの住林焼きのウナぎが特徴 だそうです [音楽] 。はい。ウナの特を頼みました 。おお。美いし。そうです。 ボリューム満点です。 いただきます。 うん。ね、外はパリッとしていて、中はふっくらで うん。 関西風っぽい風味というか、え、焼き加減でめちゃくちゃ美味しいです。お刺身などの一品メニューも豊富なことからお酒好きの方にもたまらないお店だと思います。 ま、若者の出点であったり、リノベショップの対当であったり、 そういった新しい流れについてはどう感じられてますか? あ、本ん当ね、ありがたい限りで今柳瀬商店街っていうのは 20代、30 代のが非常に増えてるんですね。 昨年1年間だけでも新規出点が20 店舗、この柳商店街に生まれていたりですね。で、私今 37 の年なんですけれど、私はね、別にもう若手じゃないんですよ。 中堅ぐらいでやっぱ私がこんな年齢なもんですから結構やっぱ若い子たちも結構気軽に相談してくれたりとかですね。え、それがいい循環感生まれてそういう若い子が出点成功するとまた次の若い子がそれ見て出したいっていう今そのいい公循環の流れが生まれ出してますね。 ああ、なるほど。ええ、 柳瀬商店街の北側にある柳というカフェはコミ家をリノベーションし、今年の 2月にオープンしました。 すごいなかなかディープなところに目をつけて ここにお店を出そうと思ったきっかけてあったんですか? 1 つはこのテナントの大家さんがもっと昔からの知り合いう でいろんなとこにこう物件を持ってらっしゃる方で その人に相談した時にずここを見してもらって もうこの物件に一目惚れをしたんですね。 あの、すごいコミたいな感じの建物なんですけど。 はい。え、 例えばこう古い電線がまだ残っていたりとかですね。はい。 そう。そういうのとかがすごい好きで、 まず1 目惚れていうのと、柳瀬商店街というか、ま、岐阜市がバックにこう応援してくれる仕組みがあってうん。 あの、秋店舗を活用する事業をする方向けの補助金ってのがあって、家賃補助だったりとか うん。うん。補 があってでもそういうのがないとやっぱり若い世代は はい。 直近があるわけでも多分ないと思うので 銀行から受けるかうまいこと補助金を使うかっていう 2 択になってくると思うんですけどはい。ああ。 それでま、補助金があったっていうのもすごい大きいきっかけのうちの 1つ。 ご自身のお店柳さんは今後どうしていきたいとかっていうビジョンとか思いはありますか? もう当初から言ってるんですけど岐阜のメーカーになりたいんです。 おお。で、柳瀬といえば弁天堂。 うん。 で、今はつばメ屋っていうお菓屋さんが柳瀬といえばつばメ屋だよねってなってるお店があってで、そこ行きたいんですよ。まずはあ、 そう。今例えばあ、ア柳だから来るとか、私だから来るっていう うん。 お客さんが多い状態ですけど、これなんかお土産に良さそうやなっていう。自分が食べたくて買うというよりかはお土産で買うみたいな。 なんかそういうポジションのお菓子になれたらいいなっていう はい。 ところがまずこの店舗でやりたいこと。 食レポとかもやるんですか? いや、いや、あんまやらないです。いや、美味しいしか言えないんで いいと思います。 あ柳さんの看板商品ただきます。これ反則の美味しさです。これちょっと反則ですね。はい。是非皆さん柳ヶしたら味運んでください。最高です。 かつての記憶と今を生きる挑戦者が交差 する場所。水体の象徴に見えながらも実は 最出発が始まって いるそんな空気が確かにここにはあります [音楽] 。どんな街に変わって行ってほしいとか 希望のあったりしますよ。それはもう単純 です。あの若い子たちが自分の ライフスタイルで飯が食いけるような街に なってほしい。それにきます。 ね、個人事業ので商売やることのメリットって考えたら やっぱ自分のライフスタイルに近いとこで何度か飯食っていきたいんじゃない?みんな おっしゃりです。 うん。それができたら、ま、それなりに充実した人生になるだろうし、そういう個人事業師の集合隊として商店街っていうのはあるわけだから。 日本で1 番うまく行ってる商店街であの高松の丸亀町商店街って言われてんですね。 これが日本一うまくいってる地方の商店街です。 で、ここっていうのはバブル崩壊時点で比べると柳返しの方が良かったんですよ。 うん。で、そっから30 年経って今比べるともう向こうが1 位になって我々は落ちてきたっていうバブル以前はどこまどこの商店街もそれなりに潤ってたわけですよ。 で、そん時のお金をあの無駄なイタリアのフィレツ旅行や姉ちゃんとの会に使ったのが柳瀬でそん時のお金を不動産経に変えたのが高松みたいな。 これ使っていいですか?相談します。 だから商店街っていうのは1 番大事なのは町は人が死んだ後も生きるわけですよ。これが 1 番大事であってその今がいい。こっから先 5年10 年がいい。これじゃダメなんですよ。20 年30 年先に向けた投資ができるか動きができたかによってその後の世代がうまくできできないか決まってくるんですよね。 なるほど。はい。 では、今私がやってる組っていうのは私がうちの成果の話じゃなくって私の次にバトンを受けてくれる方のためにやっているというか。 うーん。 いやあ、シ中に勝つを求める排水の人って いう言葉ありますけど、どんな苦境に立っ ていても諦めずに前を向いて必死にもがけ ば復活できるんだなってことを今日商店街 散索して思いました。いい人生の勉強に なりましたね。本当に来て良かったです。 日本一のシャッター商店街と呼ばれた 柳瀬でもその裏には今もなおこの町で 生きる人たちの姿がありました 。失われたものばかりに目を向けがちです が残っているものの価値こそ見つめ直す べきなのかもしれません 。柳瀬は終わった町ではありません。 静かにでも確かに新しい風が吹いていまし た 。この町の再生にはきっと意味があると 思います 。もしかしたらあなたの町にも柳瀬のよう な風景があるかもしれません 。再生はすでに始まっている 。あなたの町にも柳瀬はきっとあると思い ます 。ということで今回も長時間ご視聴 いただきましてありがとうございました 。さよなら。
<参考文献>
▪️丸山幸太郎, 道下淳 , 佐藤今朝夫「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 岐阜」, 国書刊行会 ,2022年
▪️山田恭幹「写真アルバム 岐阜市の昭和」, 椡林舎 ,2019年
▪️辻 喜久雄「柳ケ瀬百年誌」, 岐阜柳ケ瀬商店街振興組合連合会 ,1988年
岐阜県岐阜市の「柳ケ瀬商店街」に行ってきました。
”東海最大” ”日本一”の商店街として名を馳せた商店街の今に迫ります。
<取材協力をいただいた方々>※順不同。敬称略。
◾️水野琢朗(柳ケ瀬商店街振興組合連合会 理事長)
https://x.com/takuro_mizuno
https://www.instagram.com/satsukitailor_official/
https://www.satsukitailor.net
◾️小澤達雄(スタープレイス柳ケ瀬商店街振興組合 理事長)
https://n089000.gorp.jp
◾️田代達生(カンダまちおこし株式会社 代表取締役)
https://www.kanmachi.co.jp
◾️御八 あんやなぎ
https://www.instagram.com/an_yanagi_cannele/
<岐阜市の中心市街地活性化空き店舗活用事業>
https://www.city.gifu.lg.jp/business/sangyoushinkou/1005749/1025947.html
⇩お仕事のご依頼はこちらから
tomos.trip1102@gmail.com
https://www.instagram.com/tomos_travel1102/
#日本一 #商店街
39 Comments
30年前は良く遊びに行きましたね当時は市電も走ってましたし良くパルコにも行きましたね
時代ですかね?ただ飲みには行きます
岐阜センサがあった時はよく行っていて雑誌に載ってるような個性的なブランドが沢山入ってて憧れのファッションビルでしたがいつの間にか無くなり寂しい商店街になっていることをTVで知り、気になっていました。興味深く見させていただきます。
地元の人はどこで買い物してるんだろ
久々に行きたくなった〜
トモズトラベルさんの動画は、人の息吹が感じられる所が好きです。
トモさん、ぜひ大垣も取り上げて下さい!
旧遊郭の跡地もありますし、岐阜駅前より昭和の感じさせる街だと思います。
これからの季節は銘菓水まんじゅうも美味しいですよ☆
食べ物に古着屋など新しい店増えてるし歩くの楽しいけどな
今あんまり人歩いてないからすっと店は入れるしw
VS郊外と考えると駐車場問題がどうしてもあるから金払ってでも行きたくなる新たな個性を獲得して欲しいですね
柳ケ瀬商店街を見ると「20世紀少年」を思い出します。ロケ地になっていたので。
柳ヶ瀬の良いところも悪いところも表している素晴らしい動画
見応えありました
近鉄百貨店が無くなり、名鉄百貨店が無くなり、パルコが無くなり、ぎふ清流国体で西柳ヶ瀬が壊滅的になり、人の流れが変わってしまい、過疎化した印象です。そんな中、高島屋はかなり頑張った方だと思います。
ちなみに30年程前は『バレンシアガ』って、そんなにたいしたブランドでは無かったです笑
貴重な歴史的ドキュメンタリーですね。
成功例に挙げられた高松に住んでましたが、丸亀町商店街は他の商店街とも繋がって
回遊性のある構成、アーケードも素晴らしかったですね。
郊外化はありつつも、中心街として求心力がある気がします。
任侠社会も同様だが、これから生まれ変わる。その理由と関係するスジついて以下に貼らせてもらう。
任侠社会が連合政府である以上は、それぞれはこの理解とこれを理解した正しい盃契約を結んでいなければ、利権や権利を語ることは出来ないし、それ以前に現役を名乗ること自体が間違いと成る。
それぞれの主権国家の外を仕切る裏政府である以上は、外国籍の者を認めること自体が間違いであり、認めている時点で外患誘致罪で死刑だ。
それどころか、傘下であっても外部の正義を現役に優先させたじて外患誘致罪で死刑と成る。
どちらも山口組に対する侵略行為だし、前者の外人を受け入れたものとその上位ラインは活動する主権国家に対する侵略行為だ。
他の下手打ちがケジメで済む所を、盃契約の間違いは、やくざになってからの全てが否定される。それゆえにそれまでしてきた正当な行為も不当なものとなり、正当な報酬も全て倍返しとなる。
結果として俺がこれを指摘した時点で、これまで全てのヤクザが全否定されるということだ。まずは即座に絶縁として権利は認めないとした。当然ヤクザから派生してるマフィアやギャングや宇宙というふざけたイカサマ野郎たちはヤクザ以前に問題外だ。
得に報復や返しを、盃の調整と教育と言う基本をやらずに優先してきた者を、欲に目がくらんで利権や権利を守ることに終止した者達と定義する。
コイツらは全ヤクザに対して暴対法を成立させて強化させ続けた罪で、それぞれ三本残しと十分部袖のケジメとし赤字絶縁とする。
「櫂から始めろ」や「泣いて馬謖を斬る」を掲げて戸田隆を否定した名神会の者達から、まずは一切妥協すること無く即座にケジメをつけろ。
そして田堀組の所属を筆頭に、名神会と弘道会と山健組の連中の一人ひとりに伝え、聞かれたことと必要なこと以外は、二度とヤクザに付いて口を出すことを許さない。
当然コイツラの母体や連合である、福博会や共政会や酒梅組や稲川会や住吉会と私的に連合を組んでいる者達全員に伝えろ。
まずは人生80年とし、半分の40歳以上の者達を赤字絶縁としてケジメを付けるのがスジと成る。個別の間違いや迷惑についてはそれぞれ見積もりしてケジメを付けなければいけない。
奥の部屋いきたい
2年前に引っ越してきたここのところ考えていたので参考になりました。岐阜おもしろい。柳ケ瀬も面白町にしたい。関係者が多すぎるけどそれを利用する。方向性を示すの大事。昭和感を大切にあの時へほぼ元に戻すだけでいい。。町が壊れたのは市や国の規制、まず緩めて次世代や子孫へ。うなぎ屋ほかにも訪ねようと思う。感謝。
コメ欄を落書きで埋めつくすジジーがここにも。そこら中、コメ欄が同じジジーの偽コメまみれ。
商店街衰退の最大の原因は繊維産業の衰退没落にある、近郊の尾西、一宮,江南、大垣の工場が無くなり又は海外への生産拠点の移転などにより地方からの買い入れが激減したことである。勿論大型量販店の郊外進出も拍車をかけたがそれに対応しうる旧来のデパートの魅力が減衰し集客力が格段に低下した。全国的な市場状況であり当然の結果で予測可能な現象ではあった。デパートの魅力は接客、珍しい物産などがあげられるが近年はテナント商売化しており一部の顧客の満足を得られているに過ぎない。又大型スーパーも昨今このようなテナント化が顕著でデパートの二の舞になる可能性があり売り上げ、集客的にも
衰退の傾向が見られる。
高島屋が無くなると聞いて、昨年久々に柳ヶ瀬に行ってみましたが、想像以上にJRからも名鉄からも柳ヶ瀬が遠過ぎた。
はっきり言って、生活の動線にない商店街はどこもキツイです。
もっといえば駅前の更にシャッター街になってる繊維街の位置に柳ヶ瀬レベルの商店街があったのならば、今尚栄えてる商店街だったと思います。
更地の後はコインパしか利用出来ない衰退した街です
悪名は無名に勝る、なるほど。
行政がまるで企画力のない 無責任 体制。 自分たちのことは自分で何とかしなさい という姿勢では あと50年 このまま。
一気に衰退したのは、役人接待と役人のツケ飲みが出来なくなった頃から。
栄えてた頃は残業終りに皆でパ~っと柳ケ瀬へ。飲み代もタクシーチケットも「お疲れ様代=交際費」として自治体から出てたんだよね。今じゃ嘘みたいな、本当にあった世にも奇妙な世界。
街の活気には、飲み屋と風俗店等とは切っても切れないという点もお忘れなく。
次のターゲットは金津園。遠くない将来解体されるでしょうね。
私は甲府市民ですが 甲府市商店街も似たようなもの
既視感が強いと感じたが、1,2か月前の岐阜NHKと ドキュメント24時間の二本より掘り下げ感がなかった。ほかの回もこのような感じの配信なのだろうか
月2回くらいやるサンデービルヂングマーケットってイベントの時は結構、賑わうけど、それ以外であんまり行かないなぁ
もうどうあがいても、無理
俺の超地元でさぁ。淋しい気持ちで見始めたけど、最後は希望が持てた。
先日、久しぶりに柳ヶ瀬付近から岐阜駅方面に車を走らせて、人の少なさに愕然としたんよ。
やっぱ駐車場な。無料で使える駐車場が無いと集客は今時難しいやろなぁ。
柳ヶ瀬の地面の下に川が流れとって、清流の魚のカマツカが生息しとったけど、あれどうなったやろ。
すごい取材力だしいつも地域の人が協力的
もう一度ここをとは、地縛霊か。絶対ムリ、国鉄岐阜駅周辺に移動しなければ廃墟になるだけ。場所とか柳ケ瀬という名前に取り憑いてる亡者め。除霊してあげましょうか。
昔おばあちゃんと一緒に出かけた思い出があります。成人して結婚してからは古着屋さんや古道具屋さんなどをのんびり巡ったりします。
柳ヶ瀬を少し離れると、ツバメヤさんの美味しい和菓子や、小物作りが好きな方には駅方面にある大塚屋でたくさんの布をみるのも楽しいです❤
大店舗法が全てを変えたよ
全く更地から綺麗でおしゃれなアーケード、商店街を作るならまだ可能性あるけど
古くボロいアーケードやシャッター店も多いのに、中途半端に新しい店も入っていってるから壊せない
地震が来たらすぐ崩れそうだし今残ってるの 物は綺麗には見えない
正直このまま昔の雰囲気を残しながら活気のある商店街は無理だと思う
岐阜は路面電車が無くなってから衰退したイメージ。
商店街の衰退と消費税の導入はパラレルではなかったか。
何年前かに口裂け女のホラーハウスで町おこし的なのやってませんでした?
アパートを探す時常に商店街がある街にフォーカスしています。商店街のあの雰囲気、店のオーナーとのやりとりなど地元が好きです。しかし段々とその商店街もシャッターが降り始め寂しく感じています。
柳瀬の最盛期を知る爺さんです 飲み屋街商店街として有名でしたが 鉄道を挟んで男の歓楽街が有り当時18歳のねいちゃんが働ける日本唯一の場所でした 夜ともなれば 道に客引きや 遊び男が溢れていました 当時が懐かしく思えてきます。
商店街の衰退は大型ショッピングセンターや車社会などの影響は当然ありますが、それ以前に商に対する商店街側の体質に大きな問題があったと言えます。例えば、品揃・品質・価格が極端に悪く、みんなで19時閉店の殿様商売をしていたら誰も利用しなくなるのは当然の結果ではないでしょうか。またTOMO’S TRAVELを観てきた人には判るけど、戦後闇市から始まった商店街の歴史や風俗性を否定し、浄化運動に勤しんで健全化したら衰退してしまったのが根底にあると思います。当方の故郷にも立派なアーケード付の商店街がありましたが、極端な健全化を図って見事に衰退しました。柳瀬に関しては、全国的に知られた聖地でしたので「夜のテーマパーク」として復活して欲しいものです。
励みになる動画でした。ありがとうございます😊