縄文旅行は自分旅
いつも気になっていた釈迦堂遺跡博物館。
本日は、しっかり車内で仮眠をとって、開館時間を迎えたので、念願通り、観覧しました。
とりあえず、二階の常設展示。
当博物館の代表選手は水煙文土器。
他に目を引いたのは、石の飾り。
触れるレプリカを展示していたが、質感が樹脂だろう。と思って、受付のお姉さんに質問。
奥から学芸員さんが登場して、私の疑問に即答してくれました。
やはり樹脂製でした。
他、
①割れた土器片から完成させた展示物の発掘部分と、リメイク部分がわかりにくい点。
②勾玉と翡翠と柔らかい石の縄文アクセサリについて。
等、思いつき質問に、丁寧に教えていただきました。
ありがとうございました。
次回は有名なユーチューバーになって、正式に予約を入れて、ガッツリ投稿します。
その後、一階の特別展は韮崎市の博物展からの展示。
とにかく、猪之助がすごい。
あれば、90度、傾けて横顔になるように配置した方が良い、と思いました。
志賀さんって方が、個人的に近所を掘って、集めて作った日本初の展示場らしい。
なんだか、川上村の鉱物博物館を思い出した。
韮崎市は八ヶ岳の南麓に位置します。
山の民の独立心と継続力、執着心には、縄文人の人として生き方を受け継いでいるようで、感服です。
とにかく猪之助への感動は、この釈迦堂遺跡博物館は、ここでの発掘品に限られていて、もっとすごいものが日本はそうですが、山梨県にはあることに改めて、気付かせてくれました。
そこで知った、山梨県立考古博物館へそのままGO。
そこは、石器時代から明治時代までの展示。
さすがに、縄文がメインだったが、物に対する意識における、時代の変遷を感じました。
縄文のデザインは、人々が我が思うままの、自由な生き方を感じる。
個性を解き放つと、ここまで、独創性と、パワーを発揮できて、芸術を超える。
稲作が始まった弥生になると、土器は機能性重視で、デザインはつまらなくなる。
食糧備蓄のために、人々は働くようになり、土器はルーチンに省力制作されたのではないだろうか。
権力が集中した古墳時代以降、国家と有力者の蓄財と争いのために、末端の人々は更に時間を失い、制作物も、人の個性もつまらなくなっていった。
ただ唯一、目を奪われたのが、弥生時代のガラス玉。特に注釈はなかったが、ペルシャ辺りから届いたものかもしれない。
博物館に置く、展示物は、その美術性よりも、歴史的意義を持つものです。
だから、錆びた鉄や素焼きの欠片や、文献なんか、知識なく見ているだけだと、面白くもない。
でも、縄文だけは違った。
芸術に知性は要らない。必要なのは、人としての、動物としての感性のみ。
縄文文化に心躍らなくなったら、人として、終わっているのかもしれない。
その後、博物館に隣接する古墳のある公園を歩いた。
本当に、古墳で、その下に埋められた空間からは、人間入りの石棺と埋葬品が出土している。
日本ヤベーです。
今回の考古小旅行。
お約束通り、近々、ユーチューブでアップします。
おかげで、旅行が楽しくなりそうです。
以下ユーチューブ原稿:
釈迦堂遺跡博物館。
触れるレプリカの土器を展示していたが、質感が樹脂だろう。と思って、受付のお姉さんに質問。
奥から学芸員さんが登場して、私の複数の疑問に即答してくれました。
やはり樹脂製でした。
石の飾り。
次に来るときは 有名なユーチューバーになって、正式に予約を入れて、ガッツリ投稿します。
その後、一階の特別展は
志村滝蔵氏 ゆかりの坂井考古館 韮崎市 からの展示。
個人的に近所を掘って、集めて作った日本初の考古館らしい。
川上村の鉱物 温泉、博物館を思い出した。
とにかく、猪之助がすごい。独創性。縄文の中のイノスケ。
韮崎市は八ヶ岳の南麓に位置する、同じ八ヶ岳文化圏、原村 茅野 和田峠
山の民の独立心と継続力、執着心には、縄文人の人として生き方を受け継いでいるようで、感服です。
とにかく猪之助への感動は、
ここで分かったこと:ここでの発掘品に限られていて、もっとすごいものが日本はそうですが、山梨県にはあることに改めて、気付かせてくれました。
そこで知った、山梨県立考古博物館へそのままGO。
そこは、石器時代から明治時代までの展示。
さすがに、縄文がメインだったが、物に対する意識における、時代の変遷を感じました。
縄文のデザインは、人々が我が思うままの、自由な生き方を感じる。
個性を解き放つと、ここまで、独創性と、パワーを発揮できて、芸術を超える。
稲作が始まった弥生になると、土器は機能性重視で、デザインはつまらなくなる。
食糧備蓄のために、人々は働くようになり、土器はルーチンに省力制作されたのではないだろうか。
権力が集中した古墳時代以降、国家と有力者の蓄財と争いのために、末端の人々は更に時間を失い、制作物も、人の個性もつまらなくなっていった。
ただ唯一、目を奪われたのが、弥生時代のガラス玉。特に注釈はなかったが、ペルシャ辺りから届いたものかもしれない。
博物館に置く、展示物は、その美術性よりも、歴史的意義を持つものです。
だから、錆びた鉄や素焼きの欠片や、文献なんか、知識なく見ているだけだと、面白くもない。
でも、縄文だけは違った。
芸術に知性は要らない。必要なのは、人としての、動物としての感性のみ。
縄文文化に心躍らなくなったら、人として、終わっているのかもしれない。
その後、博物館に隣接する古墳のある公園を歩いた。
本当に、古墳で、その下に埋められた空間からは、人間入りの石棺と埋葬品が出土している。
日本ヤベーです。
1 Comment
その通りです!