【お便り】昭和末期から平成初期に八鹿町住民だった

【まず、はじめに】
いつも動画を拝見しております。
人権問題についての鋭いご指摘や、新しい物の見方・考え方を教えていただき、大変勉強になっております。宮部さまには心から感謝申し上げます。
当方、年を重ねて頭が固くなったせいか、自分でネット投稿をするのが苦手です。そこで、宮部さまにお願いして広報していただきたく、このようなお便りを差し上げました。

これからいろいろとお話しさせていただく前に、まずは私のことを簡単にご紹介いたします。
私は70代後半で、名前は「太田 一夫(仮名)」と申します。大学時代は学生運動に加わり、左翼系の集会やデモで先頭に立ち活動しておりました。話は少し逸れますが、同和問題にも当時かかわり、たとえば石川青年奪還闘争や、浦和地裁寺尾裁判長糾弾の全国デモ集会に参加するなど、さまざまな活動を行っておりました。

【俺は、部落や~部落や~】
学生運動の仲間たちの前で、私が自信ありげに
「部落民は長きにわたり、差別で苦しめられてきたのでありィ~……」
と発言していたときのことです。
すると、全く見知らぬ男性がものすごい形相で私に詰め寄ってきて、
「お前なぁ……エラそうにヌカシテオッテェ~! 俺は、部落や~、部落や~。お前は部落かぁ? 部落とちゃあうんやろぉ~? この世に生まれたその時から、お前らとはちゃーうんや。わしらの気持ちがわっかってたまるかぁ~!」
と言い放ったのです。

その瞬間、私は何も言えなくなり、恥ずかしさのあまり赤面してしまいました。
同時に、心の中で
「嗚呼~、自分が部落民だったらよかったのになぁ……」「部落民になりたいなぁ……」「もし部落民だったら反論できただろうに、悔しい……」
とまで考えてしまったのです。

数日後、その場にいた友人の同志が落ち込む私をなだめてくれました。
「部落の人にも、いろんな人がおるんや。あんまり気にしたらあかんでぇ」
と言ってくれたのですが、今でもそのときの光景を思い出すと胸が痛みます。

【職略歴】
昭和50年代の初め頃、社会人となりました。
業種は、一般民生や事業者向けの各種物品の販売とメンテナンスをする営業で、集金なども含めて走り回っておりました。
昭和60年頃から約10年弱、兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)に単身赴任することになります。
妻と子どもを残しての単身赴任でした。

この八鹿町で過ごした約10年弱の間に、同和問題について見聞きしたこと、そして自分自身が体験したことなどを、ここで改めて思い起こしてお伝えしたいと思います。

【八鹿町の実態を知り驚いた】
新しい職場へ着任した際、前任者からの引き継ぎ期間はおよそ1週間ほどでした。
さらに、その前々任者で八鹿町に詳しいベテラン幹部のA氏が、連続してサポートに来てくれました。

そのとき、A氏は車中で次のように話してくれたのです。八鹿町の同和問題に関する重要な周知事項として、

八鹿町民の面前で、不用意に「同和」や「部落」という言葉を口にしないこと
八鹿町民の一人ひとりが、同和問題で「心に大きな傷」を負っていることを周知しておくこと
住民同士のあいだに、目には見えない大きな「心の壁」があり、強い警戒心が存在していること
さらに、A氏自身が昭和50年頃、八鹿町で実際に体験したという話も聞かされました。

A氏の体験談
A氏は休みや仕事の合間に、公立八鹿病院のすぐ近くの商店街へ買い物に行っていたそうです。
ある日、その商店街の道路上で、ケンカのような怒号が聞こえました。近寄ってみると、数十人の腕力のありそうなグループが、少人数の人たちに怒鳴り散らし罵倒しているのです。
徐々にエスカレートした結果、腕っぷしの強そうな男が、若い女性(20~30代くらい)を引きずり倒し、そのロングヘアーを鷲掴みにして路面をズルズルと引きずり回し始めました。女性の体はあちこち出血し、上着も赤く汚れていたそうです。
さらに、ズタボロになった上着からは乳房があらわに見えてしまっている。その場に居合わせた商店街の人も通行人も、それを見ていながら誰一人止めに入らない。
A氏は「これはいかん!」と思い、八鹿警察署(現・養父警察センター)へ走りましたが、なんと署員は誰ひとりいなかったのです。
後にわかったことですが、その商店街の騒動は、部落解放同盟の関係者や支持者が、対立する反解放同盟側を暴力で潰そうとしていたとのことでした。
「まるで西部劇さながらの完全無法地帯……」と感じたそうです。

【同僚から偶然に同和問題の深刻さを知る】
職場の事務所で、私の机のすぐ近くにいるベテラン女性事務員は、生粋の八鹿町民で、とても温厚な方でした。彼女の自宅へも訪れたことがあり、場所もよく知っています。

ある日、彼女と世間話をしているときに、私はつい口を滑らせ、彼女の自宅がある町名を誤って、別の地名で呼んでしまいました。ごく普通の言い間違いです。

すると、彼女の表情が突然豹変し、目を三角にして語気荒く
「変なことを言わんでください! 違いますよ。失礼ですわ、困ります……」
と一喝されたのです。

その後、どうやら私が言い間違えた地名は、いわゆる同和地区とされる所だったようです。
「同和」や「部落」という言葉に対して、彼女が必死で“自分は違う”と打ち消そうとしている様子を見て、改めてA氏の忠告
「八鹿町民の前で不用意に『同和』『部落』を口にしてはならない」
という言葉を思い出しました。

【直属の部下から恐怖の体験を聴かされる】
八鹿に単身赴任して5年ほど経った頃、地元高校を卒業したばかりのB君が入社しました。
若いのに物覚えがよく、非常に助かりました。数か月後、私とだいぶ打ち解けたある日のこと。車中でB君が、小学生低学年の頃に体験したという恐ろしい出来事を語り始めたのです。

B君の話
当時、学校がいつもより早く終わったので、午後に自宅へ戻り、居間で一人テレビを見ていました。すると、遠くでザワザワした人声や足音が聞こえてきたんです。恐らく10~20人くらいの集団だったんじゃないかと思う、と。
それはみるみるうちに自宅のほうへ近づいてきて、男性数人が多数の男たちに追いかけられているような雰囲気でした。
やがて、追われた人がB君の家の門をくぐり、玄関の手前にある庭へ逃げ込んだところで、とうとう捕まってしまった。
窓のすぐ外からは怒号やドタドタと殴る音、うめき声などが響いてきて、一方的な暴行であることが子ども心にもわかったそうです。あまりにも恐ろしくて窓を開けることもできず、身体が震えて硬直し、何もできなかったといいます。
B君は「今でもあのときのことを思い出すと辛くなる」と言い、「あれはたぶん、部落解放同盟の人たちとその支援者が起こした暴力行為だったんじゃないかと思う」と話してくれました。

【八鹿町の同和対策事業のこと】
ある日のこと。
私はいつもどおり営業と御用聞きを兼ねて、八鹿町内のある事業所を訪問しました。ちょうど社長が門の横に立っていて、敷地内の奥に何やら見慣れない物品が雑然と置かれていました。

私が「これは何ですか?」と尋ねると、社長は
「アッハハァー! 太田ハーン。これがホンマの“逆差別”ってやつやわァ~! アッハハァー!」
と笑い飛ばすのです。

その後、社長の事務所に移動して詳しく聞くと、数日前に“町の者”が来て「同和改善事業の工事をするので、関連備品を敷地に置かせてほしい」と頼みに来たとのことでした。
社長は「それはええこっちゃ。ぜひうちのも工事してほしいんやけど、費用はこっちで持つし……頼むわ」とお願いしたそうですが、あっさり「対象外です」と拒否されたとのこと。

社長は「これは逆差別や!」と怒り心頭でした。
私も、その言葉を聞いて初めて「この社長さんは部落の方ではないんだな」と気づいたのです。
ちなみに、その事業所のトイレは昔ながらの“ポットン式”で、私も何度か使わせていただいたのでよく覚えています。

【新しいラーメン店に行った時のこと】
私の職場からほど近いところに、新しいラーメン屋が開店しました。
同僚たちにも「一緒に食べに行こう」「飲みに行こう」と声をかけましたが、なぜか誰も乗り気ではありません。妙に顔をそむけるのです。何か腑に落ちませんでしたが、結局ひとりで行くことにしました。

そこは歩いて行ける距離ですし、味もそこそこおいしかったので、私は何度も通うようになりました。常連客も徐々に増えていく中、いつも気になる存在がいました。
三~四十代くらいの男Cという人で、店主と以前から馴染みらしく、酒を飲んでは大きなオナラをするなど、あまり行儀はよくありません。さらに、社名入りのバンを自分で運転して帰るのですから、正直目に余る光景でした。

そんなある日のこと。
平成2年5月24日の夜、私が店に入ると、客は私と男Cの二人だけ。私はいつものようにラーメン、ギョウザ、ビールなどを注文し、ふと天井近くにぶら下がっているテレビに目をやりました。
ちょうど天皇陛下が韓国の盧泰愚大統領を宮中にお迎えしての晩餐会のニュースを放送しているときでした(生中継か録画かは覚えていません)。画面には、陛下が韓国に対してかつての不幸な歴史を謝罪されているお姿が映し出されていました。

そのときです。
男Cが突然立ち上がり、テレビを指さしながら大声で
「こいつや! こいつや! こいつやァ……! こいつのせいで、わしらはずーっと差別され、苦しめられてきたんやァ!」
と叫んだのです。

すると、カウンターの向こうから店主も
「そうや! こいつやァ! こいつが悪いんやァ!」
と声を合わせました。

人それぞれ考え方はあるとはいえ、陛下に向かって指をさし、こんな言い方をするとは……日本人としてはかなりショックでした。
そして、ようやく「この二人は部落出身の方なんだな」と悟ったのです。あのとき、A氏が教えてくれた「三つの注意事項」を改めて思い出しました。

【おわりに】
冒頭にも述べましたが、私は10年弱、八鹿町で単身赴任生活を送りました。
その間、八鹿町民の方から嫌な思いをさせられたことは、一度もありません。ケンカやいじめ、犯罪行為を見たこともなく、正直で正義感の強い方々だという印象を持っています。

ただ一つだけ違っていたのは、「同和」問題・「部落」問題でした。
そこには目には見えない何かがあって、私が住んでいた10年弱の間、町の人と一度も「同和」や「部落」について話したことがないのです。これは非常に不自然に感じました。

あれから30年以上が経ち、人々も変わり、考え方も変わっていることでしょう。
もし今でも、当時のわだかまりや対立が少しでも残っているのであれば、どうか一日も早く克服していただきたい。
八鹿町民の皆さまの今後の歩みが、より明るいものであることを、心から願っております。

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