奇跡の町家 玄洋社員古賀壮兵衛 旧宅みねとこより  九大生の鋭い疑問

07:27奇跡の町家 玄洋社員古賀壮兵衛 旧宅みねとこより  九大生の鋭い疑問

前編

02:59 Q1 玄洋社と薩長・筑前勤皇党の繋がりは
07:27 Q2 なぜ玄洋社はアジア諸国の独立を支援した
11:29 Q3 玄洋社と選挙干渉 日清戦争

解説:浦辺登 一般社団法人もっと自分の町を知ろう会長
   https://www.mottoji.net/

浦辺登プロフィール
 幕末、近現代史の研究者、書評家。福岡大学卒。一般社団法人もっと自分の町を知ろう会長。福岡を近現代史研究の中心に置き、思わぬ人と人の繋がりから近代日本の盲点や謎を紐解いている。特に玄洋社については日本でも数少ないの研究者の一人。主な著書、『明治4年久留米藩難事件』弦書房、『維新秘話福岡』花乱社、 『玄洋社とは何者か』弦書房 令和6年6月「霊園から見た近代日本」新装版発刊 等多数

著作は以下のサイトから
https://www.urabe-noboru.com/

博多町家 喫茶&酒舗 みねとこ
福岡市博多区下呉服町9-121

玄洋社
玄洋社(げんようしゃ)は、1879年に福岡で創設された政治結社で、日本の国家主義を掲げた組織です。初代社長は平岡浩太郎で、中心的なメンバーには頭山満や内田良平などがいました。

頭山満 (とうやま みつる)
生没年
安政2年4月12日 〜 昭和19年10月5日
(1855年5月27日 〜 1944年10月5日)
出身地
福岡県
職業・身分
社会運動家
別称
立雲(りつうん)
国家主義運動家。父は福岡藩士。明治初年、福岡の不平士族の結社・矯志社の蜂起計画に加わり入獄。のちに民権運動に参加し、12(1879)年向陽社を結成、国会開設請願運動を行う。14年向陽社を玄洋社と改称、次第に国権論・アジア主義の主張を強める。対外強硬論を唱え日本の対外膨張政策に関与する一方、孫文・金玉均はじめアジアの独立派・革命派の政治家たちを支援した。右翼の巨頭として政界に隠然たる影響力を持った。

乙丑の獄(いっちゅうのごく)

 維新では薩長土肥ばかりが有名になり芸州藩や福岡藩の動きはあまり注目されておりません。

 黒田如水の福岡藩は外様大名であり52万国の雄藩である。幕末には島津重豪の13男黒田長溥(くろだ ながひろ)が藩主となる。実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。
 幕末には尊王攘夷派の筑前勤皇党が主力を占めていて、彼らは第1次長州征討の回避工作に奔走した。その際に長州に居た五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角と言われるようになった。

 黒田長溥が幕府にそのことを責められていた。幕府が第二次長州征討を決定した結果、福岡藩では先の勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾く。長州の俗論派の台頭のようなものである。勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら15名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。
 この150名にも及ぶ大弾圧の結果戊辰戦争の際には兵を率いる人材が全くおらず、失態を重ねて廃藩置県を待たずに廃藩となる。遠島や謹慎の処分にしておけば良かったと言ってみても手遅れです。

切腹 以下7名

征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。

1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契を発送した。 しかし、朝鮮政府は書契の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されたが、これを「征韓論」という。1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが辞職した。 この事件は1873年政変または明治6年政変と呼ばれるが、政変の背景に朝鮮出兵議論があり、征韓論政変ともいわれる。 概して日本史研究で定めた論は1873年の政変と関連があると認識されるが、その背景にも幕末の朝鮮侵略の主張があり幅広く19世紀後半の朝鮮侵略論と理解されることもある。

選挙干渉(せんきょかんしょう)とは、政治体制の支配勢力(たとえば明治憲法下の天皇制の軍・官僚勢力)や政権をもっている勢力が、選挙に際して自己のためになる候補者の当選、あるいは対立候補者の落選を図って、本来、公正に運用しなければならない警察・検察の取締り規定や行政上の権限を政略的に、党派的に行使することをいう。

日清戦争(にっしんせんそう、旧字体:日淸戰爭)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。

壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。

写真 文案はウィキペディアより

「九州プリンシプルTV」

https://qpri.tv/

2 Comments

  1. ゆっくりくつろげるお店です。一度、覗いてみてください。150年の空間を体感するのも悪くないです。

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