【正太寺、岩松寺、宇津山城跡】湖西市の寺院巡り(静岡県2024年9月24日)

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【BGM】ストラヴィンスキー/バレエ音楽「ペトルーシュカ」から

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タイムスタンプ
0:00 オープニング・名月橋から浜名湖弁天島 観月橋(小島の右)と朝日橋(左)
国道301号線
さわやか 湖西浜名湖店
葉月(うどん屋)の交差点を右折、新所へ
曹洞宗 海蔵山 岩松寺(がんしょうじ)
入出へ
入出郵便局
入出太田線
曹洞宗 宇津山 正太寺(しょうたいじ)
宇津山城主の墓
宇津山城跡ハイキングコース入り口
宇津山城跡案内板
エンディング

#自転車旅 #ポタリング #寺院

正太寺(しょうたいじ)縁起
曹洞宗のお寺
正太寺は、応仁元年(1467)本寺宿蘆寺二代の祖、受信大和尚の創建。享禄2年(1529)宇津山城主で今川氏親の家臣朝比奈紀伊守泰満により本堂が建立。以来宇津山城歴代の城主の帰依により寺門興隆。慶安元年(1648)徳川家光公よりご朱印を賜る。
ご本尊聖観世音菩薩は、大同2年(807)浜名湖より出現、村民宇津山の中腹に堂宇を設けて観音堂となしと伝えられ、後に、この観音さまを本尊に迎え正太寺が開創された。

岩松寺(がんしょうじ) 縁起
曹洞宗のお寺
戦国の世、1450年三河設楽地方に名声を高めていた三豪族が居た.三河山家三方衆と呼ばれた、田峰菅沼、長篠菅沼、作手奥平の三家である。ともに血縁関係で結ばれ、外敵に備え協力していた。しかし天正元年(1573)家康は、武田の城長篠城を攻略し長篠菅沼は敗走。変わって作手の奥平を城主とした。天正3年(1575)3月武田勝頼、三河に侵攻し長篠、設楽ヶ原の戦で織田、徳川の連合軍に敗れ田峰菅沼は武田とともに敗走。天正10年(1582)3月勝頼自刃、武田家滅亡と共に田峰菅沼定忠家も滅びる。作手奥平は徳川家に加担し功績を上げたので、家康から新城の城を与えられ加増される。田峰菅沼定忠の法名、安養院殿剣叟浄秀大居士石祠の中に娘夫婦の五輪塔と共に三体納められている。
菩提寺岩松寺は元和5年(1619)源智により開かれた小さな草庵に始まり、やがて松岳院と称し、天和2年(1682)玄誉和尚は宗祖承陽大師二十七世法孫大川梵益を請して開山とし、三代将軍家光公よりご朱印を拝領して本尊阿弥陀如来を安置し、寺号を岩松寺と改めた。
札所本尊千手観世音菩薩は子育て観音とも呼ばれる。文政5年(1822) 当寺十一世大心和尚代。門前の子供が大病で、まさに死ぬばかりであった。母親はなんとしても子供を救おうと一心に仏さまを念ずると、手の沢山ある仏さまが現れ、子供の体をなでさすった、とたんに、大病は癒えた。これが当寺に祀られる千手観音菩薩である。

宇津山城跡(うづやまじょうせき)
戦国時代、遠江と三河の国境に位置したこの地は、徳川の遠江侵攻を食い止めようとする今川氏にとって重要な拠点でした。しかしながら、力を強めた徳川勢の侵攻により、永禄十一年(1568)12月15日、宇津山城は落城しました。城を守っていた小原鎮実(おはらしずざね)は城に火を放ち、船で浜名湖の対岸まで逃げ延びたと言われます。

1 Comment

  1. おー!これは夜明けですか?日の出時の早朝に撮影おつかれさまです🌞✨この鮮やかなオレンジ色の夜明けにぴったりです、ストラビンスキーの「ペトルーシュカ」さすが管弦の魔術師!音色がきらびやかですねー✨空気も爽やかな湖畔の秋の朝の雰囲気が漂っています。これまでも動画でご紹介いただいた浜名湖畔は今川氏関係の史跡が豊富でほぼ立派な所ばかり、地元では名君の誉高かったのが想像できます。現在に至るまで大切にされているんですね。
     さて…「ペトルーシュカ」はカバレフスキーの組曲でしか聞いた事がなく、ストラビンキーのそれは存在は知っていても聞いた記憶がありませんでした。こんなに華やかな素晴らしい楽曲だとは思ってもみませんでした。何しろ物語の主人公ペトルーシュカの運命が哀れ過ぎるので、余り聞く気になれなかったのです…(言い訳)これで目から鱗、いえ耳から栓がとれた?という所でしょうか。ありがとうございました。

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