「桑名城」本多忠勝が最後に築いた巨大城郭の役割とは?揖斐川を背にした徳川の要塞を紹介
1600年、天下を二分した関ヶ原の戦い。その直後、徳川家によってとんでもなく巨大な城が築かれました。その名は桑名城。巨大河川「揖斐川」を背にいくつもの曲輪を配置。中心となる本丸には四重の天守が建っていました。城の要所に配した櫓の数は実に51基。城壁の役割を兼ねる多門櫓まですべて合わせると97の櫓が建ち並ぶという、とんでもなく堅固な城。周囲に幾重にも水堀を巡らし城下町と一体となった広大な城域には、なんと5万人の兵士を収容できたとのこと。全国有数の規模を誇る城が、ここにあったのです。この城を築いたのは徳川四天王のひとり本多忠勝。早くから家康に仕え、桶狭間から関ヶ原までの多くの合戦で活躍。名槍「蜻蛉切」を手に武をもって徳川の天下を実現させた猛将です。忠勝がこの地に入ったのは1601年。桑名城改修にあたっては、徳川四天王の一人である井伊直政が家臣を動員して普請を応援したという逸話が残っています。それにしても、どうして本多忠勝は97もの櫓が建つ堅固な城を築いたのでしょうか。忠勝の桑名築城には天下をねらう徳川家康の考えが大きく影響していたはず。今回は徳川四天王の城、「桑名城」を見てみます。
6 Comments
やはり時代の産物ですねえ。東海道信州甲州あたりの譜代がきちんと動員・統制できる状況なら軍事的価値は高いんでしようが、逆に人手が集まらないと城の広大な防御線を一藩では守備することもできない。家康の頃には有効だったが、幕府の統制が効かなくなった維新の時代には(軍事的に)活用できる施設ではなくなっている。いざという時には時代遅れになっている点が大和型戦艦みたいでロマンがあります。(昨今の世界情勢を見るとロマンでは済まないことが多々ありますが)
UPお疲れ様です。
桑名は名古屋に巨城が整備されるまでは中京地域の最重要拠点だったでしょう。港に近い城なら伊勢湾の制海権を徳川が握っていれば、徳川本拠の三河水軍などを使っていくらでも補給ができたはずです。またこのころは半ば破却されていましたが近くに長島城という戦国屈指の堅城があるので、「徳川の敵」が長島城を修復して入城するのを防ぐためにも桑名に大城郭が築かれたのだと思います。
工事助力した井伊直政も本来なら関ケ原戦での負傷の養生をしたかったはずですが、そのとき窮地を救ってくれた忠勝への恩返しだったのでしょう。三河武士の義理堅さを感じ、直政を少し見直しました。
次回も楽しみにしています!
昔は松本城みたいな難攻不落の城だったんですね。破壊されても残る城の遺構が素晴らしい。
良い城ですね。
平城であっても、十分な土木量を投入したら堅城になる見本です。
でも櫓の数が尋常じゃないので維持管理は難しいかと思います。
同じく四天王の井伊直正の彦根城と桑名城はペアの存在。
街道の要所に築かれた豊臣・西国大名へ睨みをきかせるために家康は重臣である二人を配置しました。
桑名城ってそんなにでかいんですねーーー。関ヶ原の時に氏家卜全の孫が立てこもって全然落ちなくてみたいな話がありましたけど、忠勝が難攻不落の城に仕上げたんですねーー