🌺沖縄県与那国町.東地区芸能保存会/ミティ唄🌸Heart of Ryukyuしまじまの芸能祭🎀首里城公園/2024.10.26🌺OKINAWA YONAGUNI ENTERTAINMENT
すみません フレームアウトが多いです🙇♂️
10.26首里城公園での模様です
与那国島(よなぐにじま、与那国語: どぅなんちま)は、南西諸島八重山列島の島。 日本の最西端に位置する島で、国境の島と呼ばれる
かつて南方文化、中国文化の影響を受けるとともに、西下した琉球王朝時代の文化をも受け止めて八重山諸島の中でも特異な文化を継承してきている。
与那国島を代表する東崎の景観。与那国馬が点在する。
八重山列島の西端、台湾の北東に位置する。行政区分としては、一島で沖縄県八重山郡与那国町を成す。
日本最西端の島であり(与那国島西端の西崎(いりざき)の位置は北緯24度26分58秒 東経122度56分01秒、東京からの直線距離は約2,000キロメートルを超え、日本の領土の中で東京から最も離れた島。
島内には十二の御嶽【うたき】があり、季節の折り目にはそれぞれの祭事があって、この祭事の際にはさまざまの歌や踊りが行われている。 これらの歌や踊りにはその古態をいまに留めたものが多く、神器を採って舞うタマハティ(魂貼)をはじめとし、芸能史的にも民俗的にも注目すべき芸態を数多く伝承している。
この地の祭事における芸能には、ウブンダと呼ばれる翁が登場して祝詞【のりと】を述べ、その後、棒踊り、舞踊、狂言、組踊り、獅子舞などを演じるものがあり、みるく(弥勒)が大勢の者を引き連れて登場し、舞踊、狂言、棒踊りなどを演じてみせるものもある。
与那国島の芸能
与那国島の民族芸能には「座」という形態がある。 与那国島は古くから世持制度(ドゥムティ)による集落単位の社会が構成されてきた。 東・西・島仲・比川の4集落(その制度は現在の久部良集落が成立する前から存在しているため。
世持制度は集落総代制で各集落に「座」が設けられている。「座」は舞踊・棒踊・狂言・組踊・三線(地謡)・獅子・旗頭・花座・ンナクル(船香炉)の九座で組織されていたが、現在は組踊座・花座・旗座・棒座・狂言座で形成される。
各座には師匠(チス)、中師匠(ナガチス)がおり、道具の保管や芸能指導を受け持つ。 昭和52年に制定された公民館制度(町を一円とする公民館の成立)により、総代制における「座」は統合される。現在は各集落の自治公民館に「座」の形が残り祭事芸能を支えている。
与那国島の伝統芸能|地謡
与那国島の伝統芸能|三味線 与那国島の歌謡を年月を遡って調べていくと、祭事などで述べられる祝いの言葉や、祈願の言葉などに辿り着く。
農耕の播種から収穫までの一つのサイクルで行われる年中行事の祈りの場で、与那国独特の方言の祝詞やタカビ(崇べ)言葉、ドゥングトゥ(読み言)などが、神と人とが交流する一つの手段であった。
おそらくこれが「うた」の始まりではないかと思われる。
現在歌われている、与那国の数多くの民謡や、歌謡は与那国の厳しい歴史背景や、政治的、経済的困窮の長く過酷な抑圧の中で、それに堪え忍びながら少しでも明るく、楽しく日々を暮らそうという思いの中で豊かに育まれて来たものであるといえる。
与那国島の伝統芸能|舞踊
与那国島の伝統芸能|舞踊 与那国島の舞踊は各公民館ごとに数多く保存・継承されている。
舞踊の一つ一つに意味があり、時節や祭事に踊られるものが多い。 例えば祭事の時などは東であればチディン口説、西であれば旅果報、嶋仲であればナガク節というように必ず踊られるものもある。
古くから唄と共に発展してきた与那国の舞踊は自由な形のものが多いが、時代が経つに連れ、歩調を合わせるや、手の振りを揃えるなどして洗練されて今に至る。
嶋仲自治公民館 ミティ唄・旅果報節・でぃんな節・空手・陣笠・来夏節・うぶだみてぃ節・豊年口説・かせかけ・七尺節・さあさあ節・ながく節・布晒節・御用布節・東節・大原越地節・入船節・その他
西自治公民館 みてぃ節・でぃぶでぃ・来夏節・旅果報節・与那国口説・釣瓶踊・早作田節・金武節・うんきやり・変り行くなんた浜・ばがはとま節・布晒節・屋良籠節・だーとぅだぎ・その他
東自治公民館
籠踊・御前風・地踊・しゅうら節・ちでぃん口説・釣瓶踊・早作田節・金武節・木遣り唄・与那国ぬ猫小節・与那国十番口説・ながなん節・海旅食糧精米でぃらば・かみんぐばた節・豊年歌劇・綱引踊り・その他
比川自治公民館 今日が日節・弥勒・杯持ち・籠持ち・たんたぶる・亀久畑節・古見の浦節・みてぃ節・一人棒・退場の歌(入羽)・布晒節・その他
与那国島の伝統芸能|棒踊り
与那国島の伝統芸能|棒踊り 与那国島の棒踊りはおよそ290年の歴史がある。 西暦1700年頃に首里出身の棒術者であった幸地氏が与那国に漂着し与那国島の娘と結婚した。
7男1女の子宝に恵まれたが、息子たちの怪力と、気性の荒さに棒術の伝承を危惧し、一人娘にだけ棒術を伝授した。 娘が嫁入りの際に道具一式を持たせたという。
娘は自分の息子たちに棒術を教えたのが始まりという一説がある。 当時、役人の統制、抑圧の厳しかった与那国島で、島民は役人の目をごまかしながら創意工夫を凝らし、数多くの棒術を編み出し、練習を続けたのである。
以来与那国島全体に広く伝えられるようになった。
現在では、各公民館によって保存・継承されているものの一つである。 多くの棒踊りは各集落共通しているものが多いが、棒のティ(打つ手)に異なりが見られる。
与那国島の伝統芸能|組踊
与那国島で組踊が演じられだしたのはおそらく明治初年頃からといわれている。
現存する写本などの多くも明治20年代のものでそれより古いものはないであろうとされている。
嶋仲自治公民館 勝連の組
西自治公民館 本部大主(北山敵討)・雪払い・八重瀬・花売りの縁・護佐丸・羽衣の縁・薪取り
東自治公民館
大川敵討・手水の縁・銘刈子・伏山敵討
比川自治公民館 久志の若按司
与那国島の伝統芸能|狂言(キングイ)
与那国島の伝統芸能|狂言 狂言のことを方言でキングイという。
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