令和7年12月15日・祭主黒田清子様 – 伊勢神宮 (内宮) 正宮へ参進 「御卜」の儀・Japanese Emperor’s Sister at Ise Grand Shrine
12月の月次祭に先立ち「御卜」が行われました。祭主黒田清子様を先頭にたくさんの神職が参進されました。
Scenes from the “Miura” ceremony at Ise Grand Shrine (Ise Jingū). Sayako Kuroda (formerly known as Princess Nori), the younger sister of Emperor Naruhito, is participating in this ceremony.
#japaneseculture #伊勢神宮 #祭り
33 Comments
黒田清子様
弥栄❗弥栄❗弥栄❗
清子様今日もご苦労様です
黒田清子様💐凛々しき御姿に感動致します🙏
黒田清子様、
お勤めご苦労様です。ありがとございます🙇。
彌栄あれ!
玉砂利ASMR
15日の午前中に参拝に上がっておりました。直接清子様を拝見したかったです。
配信、ありがとうございます。
黒田清子祭主さま、大勢の神職方の祈り、誠にありがたいですね。
感謝天皇陛下的愛🥰💘💘💘💝💝💝💖💖💖💗💗💗💓💓💓💞💞💞💕💕💕
配信ありがとうございます。
本日正午 外宮でもお見かけしました。
感動しました!
香淳皇后の面影が・・・
絵巻の中から出てこられた様なお姿ですね。表情も変えず一糸乱れずたくさんの男性をリードするお姿はさすが皇室出身で得られたんですね。これからもお健やかにお幸せに。
黒田清子さん(56歳)の次の祭主は
皇室に残っている女性皇族のどなたかがお勤めになるのでしょうか❓
皇族の皇統は男系男子ですが、伊勢神宮の天照大神は女神で
伊勢神宮の祭主を務めるのは、元皇族で、天皇の娘で降嫁した女性が務めて来ました
と言うことは
次の伊勢神宮祭主は
敬宮愛子内親王が、降嫁されてのち、勤められるのでしょうか❓
私は旧態依然の皇室典範に疑問を感じます
敬宮愛子内親王に
天皇陛下になって頂きたいです
おはようございます。
お名前のように 清々しいお姿です🙇✨
ありがとうございます
厳か🇯🇵
たん たたたたん たたたたん たん
ありがとうございました😊
皇室は
目に見えないところで、日本の伝統を守っているのですね。
もっと皇室の事を日本人は象徴として受け入れている限り、活動への理解に努めるべきですね。
愛子さまの、おばさま
清子様がこの歩調に合わせるの大変だったでしょう
地元ですが「御ト」の儀初めて拝しました。
ありがとうございました。
このような動画は、日本人として清々しい気分になります。
寒い中お疲れさまでございます。 ありがとうございます
清子様の後ろを歩くのが久邇朝尊大宮司。旧皇族の久邇宮家出身で実業界では三菱商事にお勤めでした。
紀宮様、神神しい! 日本人に生まれてよかった!
歩く、という事がこんなに美しく厳かだとは!
さすが清子様です
配信ありがとうございます。
「斎王」は未婚女性の称号です。
いつも心に伊勢神宮
清子様❤ 有難う御座います。 弟💙が、2年間住んでいた場所です。卒業式🌸に 行けました。五十鈴川って ここなんだなぁって。今年 1年 伊勢神宮の神さま✨️有難う御座います。
配信ありがとうございます。🎉
百済の野望と目的達成
⑴ 藤原鎌足は百済人であった(阿武山古墳)。百済名は翹岐であり、「百済王を倭国王にすり替えるため」に倭国に来た(642年)。その手始めが乙巳の変(645年)であった。
その後、倭国王(高市、忍壁、穂積)を次々と暗殺していくが、ほぼ目的を達成したのが、宮崎県にいた百済王の聖武天皇を奈良県に遷したときであった(718年)。
⑵ 扶余義慈・扶余豊璋のように百済人は扶余族であった。扶余族(藤原五摂家=霞会館・春日大社)は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である 。
金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も良い評判も言葉も国も。
倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。
鳥取県にあった地名を、筑紫や日向や葛城や磐余や石上や伊勢や難波や河内や高千穂や宗像(もとは胸形)や稲葉(因幡)などに持っていった。
難波を南場に変えさせ、安倍を阿部に変えさせ、歴史書の人名を奪った。
大谷翔平一族は坂上田村麻呂が来るまでに卑弥呼一族と一緒に奥州市に来ていた。杉原千畝の評判も奪う。
周りに受ける言葉を、そっくり口真似する。
他国(倭国・朝鮮・満州国)の領土を強奪した。
藤原鎌足(翹岐)は倭国を奪う手段として六韜「権力者に近づいて徹底的におだてろ。相手の判断が鈍ったところで殺せ」を用いた(藤氏家伝)。
また、扶余族は選民意識も持っているので自分たち以外の人々を家畜や虫けらのように扱った。藤原五摂家(霞会館・春日大社)がそれである。
⑶ 蘇我馬子大王は日羅の進言(583年)により「百済は三百隻の船で倭国を侵略する計画をたてている」ことを知り、百済王の用明天皇を殺し(587年)百済兵273人を捕虜として倭国に連れて帰り奴婢とした(丁未の乱)。次の百済王の崇峻天皇も殺した(592年)。
百済は殺されないように女帝の推古天皇をたてた。推古天皇のときに75名の俗人と10名の僧を肥後国の葦北の港に送るが、蘇我馬子は11名の僧以外は受け入れなかった(609年)。
⑷ 百済王の武王(舒明)は倭国王の蘇我馬子が亡くなり次の蘇我善徳(入鹿)は人の良いことを知ったので、殺されることは覚悟のうえで、試しに幼い次男(豊璋)と三男(塞上)の王子を人質として倭国に送った(631年)。
武王(舒明)は641年に亡くなったが、次男(豊璋)と三男(塞上)は殺されずに大事にされていることが分かったので、百済は作戦を変更して、策士の翹岐(藤原鎌足)と高名な百済人40人余りを筑紫に送った(642年)。この船には皇極(斉明)や孝徳(軽皇子)や山上憶良の父も乗っていた。
「藤原鎌足(策士の翹岐)は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた(日本書紀・644年)」。「王家」とは百済王家であり、「企て」とは「百済王と倭国王をすり替えること」である。その手始めが乙巳の変であった。
⑸ なぜ、白村江の戦いを起こしたのか、なぜ、中大兄(百済王子の豊璋)は7年間即位しなかったのか(661年に中大兄は百済に行き、663年に百済王の禎嘉王を宮崎県に連れて帰り、高句麗(扶余族)の主戦力や九州各地から兵を集めて軍備を整えていた)、なぜ近江大津に遷都(667年)し壬申の乱を起こして騒ぎ立てたのか(宮崎県に百済王をかくまって軍備を増強していることが見つかりそうになったので、宮崎県の神門神社を守るためにヒバリの偽傷行動をした)、の謎が解ける。すべては、「百済王と倭国王をすり替えるため」の準備であった。
⑹ そのあと、鎌足の子孫は何度もすり替えのため、倭国王の暗殺をしているが、ほぼすり替えが成功したのは宮崎県から春日大社に呼び寄せた百済王の聖武天皇のときであった。
藤原不比等は権力者(倭国王)をおだてて側近になっていた。呪詛を罪とする大宝律令の制定(701年)や日本書紀の編纂(720年)を主導した。穂積大王を暗殺し(715年)次の倭国王は鳥取県の倉吉に留まらせ、山上憶良を見張りにつけた(716年)。
宮崎県の神門神社から聖武天皇を奈良の春日大社に呼び寄せた(718年)。
5年間、倉吉の倭国王のそばにいた山上憶良を奈良に帰らせ(721年)、聖武を倭国王のように教育させて即位させた(724年)。
春日大社にかくまっていた聖武天皇と鳥取県倉吉市にいさせた倭国王を奈良に帰らせる途中にすり替えている(734年)。しかし、平城京には本当の倭国王を知っている者が多くいたため「聖武は倭国王ではない」と言われた。「聖武は倭国王ではない」と言われるたびに遷都した。「聖武は倭国王ではない」という者は謀反を企てたとして斬首し晒首にした。怨霊として祟らないように東大寺を建立した。同じことを全国各地で行った。岩手県奥州市は802年に坂上田村麻呂を派遣して平和に暮らしている住民を殺害。その後、祟らないように中尊寺を建立した。
奈良時代は倭王朝の一族と百済王朝の一族との血で血を洗う権力争いの時代であった。長屋王や西大寺の道鏡や大伴氏や菅原道真は倭王朝側であった。東大寺と興福寺の怨霊を鎮める処理能力が限界に達したため、桓武天皇は怨霊に苦しみ平城京を捨てた(784年)。平安京では多くの寺を建て、陰陽師を雇って殺した者達の怨霊を鎮めた。東京に遷ってからは、鎮魂神社、鎮魂の碑、明治神宮と靖国神社である。藤原五摂家(霞会館)は今でもこの国を動かしている。
天照大神と徐福
⑴ 天照大神の名の由来
第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。
第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れていき、その国で王(大神)となり帰ってこなかった(史記の淮南衡山列伝)。大神となった徐福は最初に見て感動した光景「光上照天」の「天照」を大神の前に付けた。
⑵ 徐福と天照大神の来倭コースは同じ
➀ 徐福の来倭コース(史記と徐福文書より)
第2次の徐福(紀元前210年)は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち伯州(伯耆国)に渡った(王輯五の日支交通史より)。徐福は鳥取県の大山(蓬莱山)を見ながら海を東に進み、大山の裾野の小さな湾(橘の形をしていた初期の倭)に上陸した。徐福は鳥取県北栄町の大島と原(徐福文書の宇記島・原)に上陸し、蒜山高原(史記にある瀛州)に上がり仙薬を探した。
② 天照大神の来倭コース(神社の祭神と古事記より)
天照大神と須佐之男は西の海から出雲の日御碕神社(祭神は天照大神と須佐之男)に到着し、途中、四ヶ所の日御碕神社を経由して、伊邪那岐が禊をして待っていた鳥取県北栄町の原(葦原中津国)に到着した。伊邪那岐は三貴神(天照大神)須佐之男・月読)と一緒に北栄町の大島(葦原中津国の中心)に行き、彼らが治めるべき国を命じた。また、一族を葦原中津国で天忍穂耳に育てさせるよう言依さした。
天照大神は灘手神社に移ったのち、五神社すべてに天照大神を祀っている蒜山高原に上がった。須佐之男は朝日神社で泣いた。
③ 徐福も天照大神も来倭コースは同じである。どちらも、鳥取県北栄町の原と大島に上陸して蒜山高原(史記にある瀛州・徐福文書と国史にある高天原)に上がった。
⑶ 大神(伊邪那岐)は「名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ」と言った(史記より)。始皇帝は、探し求めていたのはこれだ、として三千人の少年少女と百工を集め船の準備もして旅立たせた。始皇帝はクロームメッキされた剣(始皇帝陵より)を作っているので、光が天を照らす電気の存在は知っていた。
高天原は岡山県真庭市の蒜山高原と鳥取県江府町であった。
大神(伊邪那岐)は徐福(天照大神)一族(徐福が連れてきた少年少女は三千人なので、産屋を千五百建てると伊邪那岐は言った。「毎日」とあるのは、もっともらしく思わせるための改ざん)を住まわす葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)を造るため、蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨した。
伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市不入岡)から葦原中津国(鳥取県北栄町原)までの主に鳥取県道23号線であった。
伊邪那岐(大神)が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった。伊邪那岐(大神)は鳥取県北栄町の原で天照大神(徐福)を待っていた。天照大神(徐福)は伊邪那岐(大神)の命令で蒜山高原(史記にある瀛州・国史と徐福文書にある高天原)に上がった。
紀元前194年頃、殷王朝の末裔の準王一族(出雲族)が鳥取県中部を占拠したので、徐福は約束の地を取られまいとして蒜山高原(瀛州)から降臨し、「平原」(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と「広沢」(北栄町大島周辺)を得て王(大神)となった(司馬遷の史記)。
天照大神は江戸時代まで男性であった。天照大神は道教の方士徐福である。徐福は最初に見た「光が天を照らす」情景に因んで自ら「天照大神」と名乗った(史記より)。月読は保食神であり女性である。
神社神道のルーツは同じく鏡を祀る道教にあるが、始祖の天照大神が道教の方士であったからである。日本の神社庁は神社神道のルーツに対し、口にチャックをする。
日本は倭国を乗っ取ってから(734年)、倭朝廷を慕っていた民衆に団結され抵抗されることを最も恐れていたし、今も恐れている。民衆を信用させ従わせるためには、良い政治をして民衆に信頼されていた倭朝廷と連続している(万世一系である)、と洗脳・マインドコントロールしなければならなかった。しかし天照大神が中国人であることを隠さないと、中国に対して頭が上がらないので、隠さなければならなかった。
天照大神が紀元前210年に中国から鳥取県に渡来した徐福であることを隠すために、蓬莱山は鳥取県の大山であるのに富士山が不二蓬莱山であるとしたり、高天原は蒜山高原と大山の麓であるのに富士山の麓あるいは雲の上にあるとしたり、神武元年を600年古くして紀元前660年としたり、神武の前にウガヤフキアエズ王朝が72代続いたとしたり、天照大神は女性である、とした。
いずれ愛子さまもですね。
神道は災い。と、神道方々でさえ言ってます。神道は災い。