37 赤阪 旅舎招婦ノ圖

これは赤坂塾の旗し が中庭越しに部屋を覗いたような絵になっ ています。 五宿から赤坂塾まではおよそ1.7km しか離れていませんでした。 ちょうどその中間あたりには有名なご湯の 松波があります。 これは今でもほぼ当時のまま姿を残して いると言われています。 など東海道には再現された松波は多々ある ものの、当時の姿を残す長いマはここだけ で 江戸時代の街道旅をイメージできる貴重な 場所となっています。 また当時の荷物の贈り場である 電の主院上を見てみると赤坂5という表記 になっています。 ご意とはごゆのことで 両縮を合わせて五湯と呼ばれていて赤坂と 五湯は一まとまりと見られていました。 村そのものを隣接していて、その境目とし てこの松波が設置されていました。 宿場を分けたことで大名行列は今日から 江戸に向かう際には赤坂塾を 江戸から今日に向かう際にはご有を利用 するという暗黙のルールができていたそう です。 松波からさらに進み、大きな靴の木と秋葉 神社が見えたらその先はもう赤坂塾です。 東海道は東から来るとお川の直前で姫道と 合流し、まずここでご有のため女の半ば 強引な客の洗礼を受けます。 そこを買いくって15分ほど歩くと、今度 は赤坂塾でト女が腰淡々と待ち受けてい ます。 この先の藤川宿までは9km弱もあるので 試案のしどですね。 これは勝国北斎が描いたご有の目も女の 西城です。 ご有مل縮の旗子は100件を超えていた と言われていますが、赤坂塾にも83件 ほどの旗があって、 そこにもト女と呼ばれる客女がたくさんい ました。 このト女はほぼメ盛り女のことで ほとんどが江戸時代の宿板に存在した師匠 でした。 江戸時代友女は江戸の新吉原など 幕府が公認の郭の中のみで営業が許されて いたのですが 飯盛り女に限っては宿場の方向人という 名目で半ば目認されていました。 女郎とも呼ばれ、この赤坂五湯吉田塾は 特に飯盛り女の王さで東海道でも指折り でした。 この飯盛り女の多くは近隣の村の農家や 街道筋の宿町出身の娘たちでした。 完成元年1789年の記録には 年具宮具に差しつまり 娘を飯も暴行に出す。 今年で11歳年気は12年と決め金 として1両2部受け取り 年具宮具を上能したとあります。 江戸時代のSSと太田南歩別合産人も共和 元年 1801年に東海道を旅した時の様子を 残しています。 冬より赤坂までは16丁にして1つの宿の 裕友 同じ宿なれど ご湯は癒しく 赤坂はよろしい。 さてここで広しげの詳しく見ていき ましょう。 中庭の岩とそこから入る素鉄で 画面を左右に分けています。 左は旅人が止まる部屋。 右側が勝負たちの控室ですね。 左には風呂から上がって肩肌に手ぬいを かけた客が部屋に帰ってきました。 この右でキセルを吸っている客の上の3に は手拭いが吊されていることからこの客は すでに風呂を済ませたことがわかりますね 。 右の部屋からはタイミングよく料理を2人 分 がいて、その後ろにあんまが夜の予約伺い をしています。 奥には御用の超賃と共に紅用の上爆を運ん でいる 継ぎ客と思われる人の 腰と超沈だけが描かれています。 の右側には勝負たちが描かれ、ロソ1本の 日で鏡に向かって化粧と身くに4年がない 姿を見せてくれています。 その右に立つ女性は勝負のマネジメントを 行っている女性で、いわゆるジロ屋の やり手ババーと一緒ですね。 その後ろに布団が重なっておいてある ところを見るとそこが布団部屋だという ことがわかります。 絵の副題で勝負とは正式には出女やおじれ と読みほぼ飯盛り女のことを指します。 ですから 漁者勝負の図は 飯盛は二子の勝婦たちの姿という意味です 。 例版は赤坂塾の客の激しさを少しだけ 抑え気に円形から宿賀町の様子を描いてい ます。 様々な人たちの姿から当時の宿場の雰囲気 が感じられますね。 業所版は五区と赤坂区の間に整備された 松波の間を御曜日客と小田原町をぶら下げ た旅人たちが 月が出た自分にすれ違う姿を描いています 。 教会入りは石の見つけが見えているので 赤坂塾の西の入り口あたりを描いていると 思われます。 ちょっと寂しげな戻りかと暴露が描かれて います。 ここに実際行ってきました。 広げが描いた旗のヤゴは 家門小屋で現在の大橋屋だと言われてい ます。 今も江戸時代の旗子の姿を保ちし指定文化 剤となっています。 2015年までは実際に旅館として営業し ていました。 広げのアングルに近づけるとこんな感じ でしょうか。 これは大橋や裏から見たところなのですが 、 素鉄と石道路を向いてあって、ちょっと 広しげの絵を意識してあるようです。 これはその大橋屋右に五湯有方面を見た 東海道です。 左先のお崎屋さんは今では見なくなった 曲げ物屋さんです。 火の木安ぎの薄い板を曲げて作るぼやけ、 お弁当箱などを扱っています。 これは大橋屋を左にして少し登り坂になっ ている東海道の写真です。 坂を登って山の方に行くと間もなく赤坂を 抜けます。 深坂塾も当時はとても活気のある宿でした が、 現在の東海道本線を開通させる時に経由地 から外れちゃったため、 ご有同様賑いとはほぼ遠い町となって しまいました。 男と女の頂長発が行われていた宿町は今 とても静かな町になっています。 その後名鉄名古屋本線の駅が設置された ものの 王子の反映は戻りませんでした。 今この名電赤坂駅もご有駅同様 急行が通りすぎるちょっと寂しい無人駅 です。 Googleのストリートビューで少し 上空からこの先を見てみました。 東海道は女の誘惑から逃れた旅人と共に お川沿いに山合を抜けて次の藤川区に 向かいます。

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歌川廣重の描いた東海道五十三次の浮世絵、それが何処から見た景色なのかを調べて、実際にそこに行ってきました。一緒に描かれた場所に至る道すがらや、その界隈の歴史や地形なども解説しています。
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Ukiyoe of the Fifty-three Stages of the Tokaido drawn by Hiroshige Utagawa, I researched the view from where it was seen and actually went there. The route to the places depicted together with explanations of the history and topography of the area are also included in the book.

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これは、赤阪宿の旅籠を、廣重が中庭越しに部屋をのぞいたような画になっています。

御油宿から赤坂宿までは1.7kmしか離れていませんでした。

ちょうどその中間あたりには、有名な御油の松並木があります。

これは、今でもほぼ当時のままの姿を残していると言われています。舞坂など、東海道には、再現された松並木は多々あるものの、当時の姿を残す長い松並木はここだけで、江戸時代の街道旅をイメージできる貴重な場所となっています。

また当時の荷物の送り状である、伝馬の朱印状を見てみると、「赤阪、五位」という表記になっています。「五位」とは御油のことで、両宿を合わせて「御油(五位)」とよばれていて、赤阪と御油はひとまとまりとみられていました。村そのものも隣接していて、その境目としてこの松並木が設置されていました。
宿場を分けたことで、大名行列は京から江戸に向かう際には赤坂宿を、日本橋から京に
向かう際には御油宿を利用するという、暗黙のルールができていたそうです。

松並木からさらに進み、大きなクスノキと秋葉神社が見えたら、その先はもう赤坂宿です。
東海道は東から来ると音羽川の直前で、姫街道と合流し、まずここで御油宿の留女の、半ば強引な客引きの洗礼を受けます。そこをかいくぐって15分ほど歩くと、今度は赤阪宿で留女が、虎視眈々と待ち受けています。この先の藤川宿までは9km弱もあるので、思案のしどころですね。

これは葛飾北斎が描いた、御油の飯盛り女の日常です。
御油宿の旅籠は、100軒を越えていたと言われていますが、赤坂宿にも83軒ほどの旅籠があって、そこにも留女と呼ばれる客引き女性がたくさんいました。この、留女はほぼ飯盛女のことで、ほとんどが江戸時代の宿場に存在した私娼でした。
江戸時代、遊女は江戸の新吉原など、幕府が公認の遊廓の中のみで営業が許されていたのですが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていました。
宿場女郎(しゅくばじょろう)ともよばれ、この赤阪、御油、吉田宿は、特に飯盛り女の多さでも東海道で指折りでした。

この飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789年)の記録には、「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出す。今年で11歳、年季は12年と決め、給金として1両2分受け取り年貢を上納した。」とあります。
江戸時代のエッセイスト、大田南畝(おおたなんぽ)別号、蜀山人も、享和元年(1801年)に東海道を旅したときの様子を残しています。
御油より赤阪までは十六町にしてひとつの宿のごとし、遊女多く、おなじ宿なれども御油はいやしく、赤坂はよろしい。

さて、ここで廣重の画を詳しく見ていきましょう。
中庭の岩とそこから生える蘇鉄で、画面を左右に分けています。左は旅人が泊まる部屋、右側が娼婦たちの控え室ですね。
左には、風呂から上がって片肌に手ぬぐいをかけた客が部屋に帰ってきました。その右で煙管を吸っている客の上の桟には手ぬぐいが吊されていることから、この客は既に風呂を済ませたことが判りますね。右の部屋からはタイミングよく料理膳を二人分運び込む仲居がいて、その後に按摩が夜の予約伺いをしています。
奥には、御用の提灯とともに、公用の状箱(じょうばこ)を運んでいる「継ぎ飛脚」と思われる人の、腰と提灯だけが描かれています。

蘇鉄の右側には娼婦たちが描かれ、蠟燭一本の火で鏡に向かって化粧と身支度に余念がない姿を見せてくれています。その右に立つ女性は、娼婦のマネジメントを行っている女性で、いわゆる女郎屋の遣手婆と一緒ですね。その後に布団が重なって置いてあるところをみると、そこが布団部屋だということがわかります。

画の副題で、「招婦」とは、正式には「でおんな」や「おじゃれ」と読み、ほぼ飯盛女のことをさします。ですから、「旅舎招婦ノ圖」は「飯盛り旅籠の娼婦たちの姿」という意味ですね。

隷書版は、赤阪宿の客引きの激しさを、少しだけ抑え気味に、遠景から宿場町の様子を描いています。様々な人たちの姿から、当時の宿場の雰囲気が感じられますね。

行書版は、御油宿と赤阪宿の間に整備された松並木の間を、御用飛脚と小田原提灯をぶら下げた旅人たちが、月が出た時分にすれ違う姿を描いています。

狂歌入りは、石積みの見附が見えているので、赤阪宿の西の入口あたりを描いていると思われます。ちょっと寂しげな戻り駕籠と、馬喰が描かれています。

ここに実際に行ってきました。廣重が描いた旅籠の屋号は「伊右エ門 鯉屋」で、現在の大橋屋だと言われています。いまも江戸時代の旅籠の姿を保ち、市指定文化財となっています。2015年までは、実際に旅館として営業していました。

廣重の画のアングルに近づけると、こんな感じでしょうか。これは大橋屋を裏から見たところなのですが、蘇鉄と石蟷螂も置いてあって、ちょっと廣重の画を意識してあるようです。

これは、その大橋屋を右に、御油方面を見た東海道です。左先の尾崎屋さんは今では見なくなった、曲げ物屋さんです。ヒノキやスギの薄い板を曲げて作る盆や桶、お弁当箱などを扱っています。

これは、大橋屋を左にして、少し上り坂になっている東海道の写真です。坂を上って山の方に行くと、まもなく赤阪宿を抜けます。
赤阪宿も当時はとても活気のある宿場町でしたが、現在の東海道本線を開通させるときに経由地から外れたために、御油宿同様、賑わいとはほど遠い町となってしまいました。男と女の丁々発止が行われていた宿場町は今、とても静かな街になっています。

その後、名鉄名古屋本線の駅が設置されたものの、往時の繁栄は取り戻せませんでした。今のこの名電赤坂駅も、御油駅同様、急行が通り過ぎるちょっと寂しい無人駅です。

Googleのストリートビューで、少し上空からこの先を見てみました。東海道は、留女の誘惑から逃れた旅人とともに、音羽川沿いに山間を抜けて次の藤川宿に向かいます。

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