民俗のサラダボウル、秘境椎葉村へようこそ!民俗学者・柳田國男の足あとをたどる旅

皆さん、こんにちは。ナビゲーターの長井 ゆりです。今日は日本3大秘教の1つシー バソンからこの損を巡るツアーをお届けし てまいります。私も宮崎県民として シーバソンのことある程度は知っているん ですが、柳王のことやこのシバの土地の 深い魅力のことはまだまだ知らないこと ばかりですので皆さんと学んでいきながら 進めていけたらと思います。そこで今日 このツアーを一緒に回ってくださる方をご 紹介しましょう。 は民族芸能博物館学芸院の森内小さんです。よろしくお願いします。 こんにちは。 こんにちは。ようこそいらっしゃいました。 森内さん、今日は主にどういったことをご紹介いただけるんでしょうか? そうですね。えっと今日はシーバ民族芸能博物館ですね。 えっと、シーバンの式折りおりの民族文化ですとか、あとはシーバだけじゃなくて、あの、九州一体とか、 あの、広くは東アジア一体の民族芸能を紹介しておりますので、見所をご紹介したいと思います。 はい。 そして、あの、今手に持ってるものがすごい気になったんですけど、こちらご紹介してもいいですか? あの、現在ですね、あの、先ほどお話しいた柳北国王さんとシーバソンがすごいゆかりの うん。 あの、深い方なんですけど、その柳邦お夫さんを紹介する特別点を、えっと、特別点実で開催してるんですけれど、 えっと、その特別点を開催するということを村の方にお伝えしたら、あの、お祝いで、あの、初動作品を 持ってきてくださった松岡夫さんていう、 村に在住の方なんですけど、その方の作品を今 あの、博物館 の玄関に展示させていただいてます。 へえ。 お祭り気分で 盛り上がっておりますっていうのなんですね。 ではその地元の方からもあのすごく馴染みの深い はい。柳田国おさんの関なるスポットを今日はここ博物館を期点に あの巡っていきたいと思います。よろしくお願いします。 早速 出ス発しましょうか。 行きます。 レッツゴー。 さあ、内に入ってきました。こちらに柳邦国とシーバソンとドーンと展示がありますね。 はい。 はい。 この柳国というのはそもそもどういった人なんでしょうか? えっと、日本でこの任谷って確保の民族学っていう学問を 1番最初に作った人がこの柳邦さんに うん。 なります。 うん。 で、そもそも民族学がよくわからないっていうお声を博物館にいるとよくいただくんですけど はい。思いました。 うん。そうですよね。そうですよね。 うちの博物館自体もあのシーバ民族ゲの博物館ってなってるんですけど結構その民族のところを家族の族でかく民族とあの間違われる方が多くて でみその家族の方の民族とこの人べに谷の民族もちょっとだけやっぱり違うんですよね。 うん。 研究のジャンルとしてで人族学は私がこうよく説明するのはなんか歴史から取りこぼされてきた人たちの暮らし、普通の人たちの歴史 をあ 研究する学問ですっていう風によく説明するんですけど、なんか日本市の教科書とか世界種の教科書ってその時の異性者の人たちのうん。 歴史がすごい書かれてると思うんですけど、織田信とか徳川イアスとかはい。 なんかそういう人たちじゃない大多数の普通の暮らしをしてた農民の人たちとか商人の人たちとかってじゃあ一体どうやって暮らしてどういう歴史を持ってるのかっていうことがあんまりわかんない。 はい。 ていうか見逃されがちなんですけど、民族学という学問はそういう普通の人の普通の暮らしにこう焦点を当てて記録して研究するっていう学問のジャンルです。 その民族学をこう切り開いたような方が柳だからそれまではもう全然なんていうか研究するに値しないことって思われてたんですよね。 私みたいな普通の人の普通の暮らしって研究対象にならないって思われてたんですけど、そういうものも拾い集めたら日本全体のことがよりよくわかるよね。っていうことを 考えてた人。 です。 じゃあ柳田国が学問として研究したからこそ今の民族学っていうのがしっかりこう残りつつある。ですね。 そうです。 で、こちら入っていきますと、展示がありますよね。 はい。 えっと、この特別点の趣旨としては柳北区におってシーバーソンに 6泊7日しか滞在してないんですよね。 はい。 それでも6泊7日着てるってあの ありがたいことなんですけどあの6泊7日 のシバソ村ソで滞在してでシ馬で見分した ことが柳のその こう構築していく民族学問にどういう影響 を与えてるかっていうところをこう広い 集めよう へえ 企画として やりますからそのたったの7 日間のことなのでシーバでの経験ってそんなに多くはないんですけどでも結構その柳さんのそれまでのシーバに来るまでの人生があのこう反映されてシーバに来ることになってるしそのシーバに来た後もすごいその後 88 歳まで長息きするんですけど柳板さんのその後の人生にも結構シーバで 見聞きした経験が生きってるよねみたいなこと を紹介したくって ああ、 この特別点を へえしています。深く関わりがあるってことなんですね。 ではちょっとご説明していただいてもいいですか? いいですか?うん。はい。 初めに柳北邦さんがうん。 そういう風に こう民族学っていう学問普通の人の普通の暮らしぶりを記録しないといけないっていう風に直感してたんですけど、当時やっぱりその日本にそもそも民族学という学問はなかったので だから柳さんの中ではそのえっと明治時代になってで欧米の文化が日本に入ってきてるその文化的な過の中でこの日本 に元々あった文化がこう消えてしまうんじゃないかっていうような危機感とかがあったと思うんですね。 はい。 で、あと柳さんってそのシーバに来た当時はあの政府の官僚だったんですよ。 ほエ。 あ、そうです。 元々スーパーエート官僚で東大の法学部出て で、もうそのまま政府の完僚として務めているその若き柳さんが農民の暮らしがどうして貧しいのかっていうことにすごい課題を持ってでその政府のお仕事にも研究にも取り組んでた人だったんですけどうん。 そのうん。 自分の興味関心のもで日本全国を農村の暮らし を見分するためになんか出張旅行みたいなのを 重ねている時で でシー馬に来た時もその四国九州を 3 ヶ月ぐらい旅する旅の道中でシーバに寄っててでそのたまたま立ち寄ったシーンでたまたまあのシーバの狩猟の文化につい はい。 の書かれたすごい長い顧問を うん。うん。 村の方から見せてもらうんですけど、その文章に記録されてた狩決まってて、 山に入る前はこういう都唱事を山の神様に対してで、山に入ってからもこの方学には入ってはいけないとかそういうルールが決まっていてうん。 で、山でしか使わない、修行者しか使わ ない言葉みたいなのが決まっていて、で、 そういうルールをこ細かく守って、で、 狩猟っていうのをしているっていうのを その文章を見て柳さんは分かって、で、 この普通に暮らしてる人たちにそういう 文化 もう文字通りもう うん。 字として残されているよう、残すべきなはい。うん。 細かいっていうことに驚いてで、これはしかもその人たちはそのルールを守ってる狩猟をする人達って口伝えとか うん。うん。うん。 もうご先祖様 1個上の台からおもう はい。体で教えてもらったことをそのまま またまたいでっていう風に 伝承してたものなので、だからいつか消え てしまうんじゃないかっていうような危機 感が柳さんの中にもちょっとあって、これ は今の時代に本として残さないといけない ていう風に直感して、で残した本がこちら です。へえ。 後の借り言葉の木。うん。 結構分厚いですよね。 あ、そうなんです。 これがえっとその柳さんはそのシー場でその仮の巻き物を見た時は見れただけだったので あのその後東京に帰ってからあの文章のことが忘れられへんって言ってで当時のシーバの村長にお願いをしてで姉を書き移してほしいと ほはほ お願いをしてで書き移してもらったものがこれです。 へえ。 で、書き移したものをこう字に起こして本にまとめたのがこの後の言葉な ああ、 そうやってその暮らしに根付いてる、ま、独自の文化などを守っていかなければいけないっていう意識でもうあの資格化というか 記録として残したもに。 へえ。 そもそもじゃあの柳板国は最初は学問とよりかはこうその暮らしの生活実態調査みたいな形で 全国回っていてある意味こうシーバでちょっとこう 考えがちょっと なんか研究というか うん。そうですよね。 フィールドワークしてこれを記録しないといけないみたいな 感覚にちょっと移行してるんですよね。 あ、そういう意味でもこう貴重な そうですね。受験になるんですかね。 はい。そうです。 うん。 で、これが柳さんが 1 番初めに書いた民族学的な著作っていう風に ああ、 言われるようになって、もうかなり後の時代にですね、振り返れば後のり言葉の木から始まったんじゃないかっていう風に 言われるようになって、今シーバが民族学発症中じゃないかっていう風に。 へえ。始まりのそうです。そうです。 ものなんですね。 そしてこのお手紙のようなものは何なんでしょうか? こちらがですね、柳邦男さんが東京に帰ってから当時のシーバ村長の中瀬素直に当てて書いたお手紙 ほおになってます。 おお。どういったことが書かれてるんですか? これはですね。えっと、やっぱり、えっと 、東京に帰ったんだけど、シーバソンで 見きしたものがすごく印象に残ってて、 歓迎してもらってありがたかったっていう ような話から始まって、で、そのやっぱり シで見た狩猟についての文章がすごく貴重 なものだと思うので、あれを是非 広代にまで残る形にしておきたいんだと それでその文章を書き移して送ってくれませんかっていうことをお願いしている手紙です。 へえ。こうじゃ暑い。 熱いってそうですね。 だからここに少し文字で焼きハのこととかもう本当だ。本当だ。 書いてあるのが ね。 はっきりでありますね。ハという文字が。 そうです。へえ。うん。 そもそも柳さんが新場に入ってきた 1 番の理由は焼の調査のためじゃないかっていう風に言われていて ああ。で、やっぱりその当時その農民の 暮らしを見るっていうことで、あの農業の 実態に1番関心を持っていたので、なんか そのシの山奥では今でも焼き農業してるん だっていう話を当時えっとね、九州の福岡 の方から入ってきてで、熊本に降りてで、 熊本で滞在している時にあのシの山奥では やって いるみたいな話を聞いてでそれで興味関心を持ってへえ 熱シーバに入ってるんですけどへ なんか当時からしても焼きハを今でもやってるって貴重なことだったんですよね。 今もシーバの方たち雪農業されますけど、その 120 年前ぐらいの時点でもすごく貴重な文化だったので はあ。 柳さんは是非見たいっていうことでシーバでこう焼きハがされてなかったら はい。 柳田国はここに来てなかったかもしれないし、 民族学が、ま、後にあの深まるとしてもちょっと遅れていたかもしれないですよね。 そうですね。 だからすごい柳北とシーバの縁ってすごい貴重だなって 今振り返ても思いますね。 へえ。こんな何つもね、手紙をラブコールがしたら 当時の村長もちょっとね、無限にやできないですよね。 です。で、やっぱりなんかラブコールが 来るには理由があって、中素直も相当歓迎 するために表なしの準備をすごいした みたいで、で、あ、邦男さんが1番初めに シバに立ちいる時に超えてくる峠があるん ですけど、笹野峠って言って、で、その 笹野峠を歩いてくるその三道のこう雑草を 道切りってシバでは言うんですけど、 草刈りして で、もうなるべく歩きやすいように道を整えて、え、 で、もうすごい清掃をして、で、山の山頂に迎えに行ったら柳さんも柳さんで門月で白旅を吐いて、 へえ。 山道をそんな学校で歩かないじゃないですか。 でもすごい清掃でビシっと決めた気候のような姿で峠に現れたっていう風になんか切も 10回してるんですけど。 そうか。やっぱりこうのね山奥にま、当時のこうエリート完が来るっていうことで結構迎え対戦をそうです。 あ、手かったんですね。ですね。 もう東京からシーバにやってきたのはあなたが初めてですみたいな言われ方をしてすごい表なしを受けたっていう風に柳さんも振り返っていてうん。 その後もね、こうやり取りがあったっていう素敵な。 そうですね。そうですね。うん。 やっぱりなんか背素直がちゃんとこう答えてあげてなかったら後のおり言葉の気にこうね、身を結ぶことも なかったのかなと 思うので。 このパネルはどういったものなんですか? えっと、柳邦国男さんがそのシーバで 2 き機したことを東京に帰ってからあの九州南部地方の民風っていう タイトルで講演しているんですけど、 そこでシーバについての こう柳さんの素直な感想とか なんかこれがすごい勉強になったとかこれ は、他の地方では見ることができないとかそういうことをこう語っているもので、その公園録から一部抜粋してるんですけど ほは 結構その私としては今シーで私が暮らしながら感じてるシーバの魅力と同じようなことを柳さんもやっぱりシーバの魅力としてああ取っていたんだなっていうこと が伝わってくるので、それが面白くてここで特集しています。 へえ。私の中で 1番うん。 面白いなと思ってるのが社会主義の理想が実行されてるのが新バソンじゃないかっていう話を してるんですけどっていうのがなんかその土地の 持ち主が誰かみたいな話をシーではそのかなり特殊なやり方で管理していたみたいで 普通はもう誰々さ地の 山とかって なってるじゃないですか。今のお家もそうだと思うんです。 ですけど、なんかシではあの共有の山とし て全部を見ていて、で、ある時この年この お家の方がこの山で焼きハさせてくださ いって言ったら、ああ、いいよって言って 、一時期その焼きハをする期間だけその人 の持ち主 の山になるみたいな風に土地を管理して たっていう。 今は今は違います。 違いますよね。 そうですよね。 今は違います。 でもなんか当時はその全部が共有打ちで である時期だけ個人の 権利を認めるけど別の時になったらまたみんなのものに戻ってみたいな風にこう割とこうフレキシブルに山の持ち主を決めたりみんなのものって言ったりしていたって え揉めませんってそうですよね。 だから揉め、揉めた記録とかもあの江戸時代の記録とか見てるともちろんあって でなんかそういうことを管理する地区の取りの商屋さんっていう仕事があったりとかするんですけどうん。 だからなんか多少裁判をしてたりとかそういうことはあるんですけど基本的にはそういう風にみんなの山で この人の山でみたいなことをこう割と問題なく へえ それで回してた ようだっていう風に柳さんが見ていて 本当だユートピアの実現ピアの実現っていう風に表演しててなかなかこういう理想主義的なこ ことでも柳さんはその後研究に入ってからはあんまり言わなくなっていくんですけどでもシーバで見たことにかなり驚いてるっていうのがこの辺りからも分かってくるかなと へえ。 シーバソンならではの、ま、習慣とか文化が結構柳の中には大きな影響を伸したんですね。 うん。そうですね。うん。 続いては2 階にやってまいりました。ここはどんなところなんでしょうか? えっと、博物館の情節点に入っていただいてるんですけど、情点が はい。 あの、シーバの年中行事をお正月から大晦日まで辿どっていただく。 へえ。へえ、 こう円になっていて、で、焼コーナーはこの 2階の秋の暮らしを紹介する コーナーに入っていて、雑国の収穫の時期が はい。うん。 秋になるので、そういうことになってるんですが、焼きハ自体は年中 作業が色々あってすごい忙しい 農業のやり方です。 へえ。 あの、そのイメージはあるんですけど、ま、そもそもこの焼きハっていうのはどういうものなんですか?そ、焼きハ自体がこの写真見ていただくとすごいイメージが的 やかなと思うんですけど、やっぱりすごい山の斜面が急なところでもできる濃厚として 知らて、やっぱり田んぼって平な土地で水が溜められないとできないんですけど、 焼きハ面のところで も岩がゴロゴロしてるところでも焼いて その元々森だったところの土の層不用度の 層を焼いてで肺にしてでその肺が栄養文に なってその栄養分でそばとか泡とか冷えと かを育てるっていう 農です。 これはつぐらいから続いているか?それは本当にわからないんですけど、 シバってあの記録に残ってるものが江戸時代以降しかないのでもう江戸時代にはもちろんハ農業やってましたけど古くは高古学の世界では縄文時代から 焼農業は人類はしてきたという風に考えられてます。 そんなこう長い歴史を持つ中で このシーバソンでは今も焼きハが 続いてるっていうのがまたすごいところですよね。 シーバソンま、柳邦さんもですけど、焼もすごくシーバの名前を有名にしたもの 1 つかなと思っていて、で、シーバは日本全国で唯一ハ農業を途えることなく現在まで継承してきた 地域っていう風に言われていまして、それで結構今焼業ってそういう風に山を焼くことで、栄養分 を作り出してで、虫も寄りにくくなるんですよね。火を入れると。 うん。 で、そういうやり方ですごく農薬とかも使わなくていいのでサステナブルな法なんじゃないかっていう見直しが進んでて、 それで全国各地からシーに焼くる方が結構いらっしゃいます。 そういった方はどんなところにも驚かれたりとか あの学びになるって思われたりしてるんですか? やっぱり1 番はそもそもこんな山の急斜面で人が立ち入れるのかみたいなところからまず驚かれますしでそこに入っていってで山を焼く作業も火を扱うのでやっぱりもちろん危険も共なんですけどそういうところもシーバの皆さんま風の向き とか日当たりとかすごいろんな自然の条件をこう考えてで 3日間晴れが続いた後の日が 1番よく焼けるので なんから少しでも夕立ちとかが来ちゃうと また日入れの日って延期になったりとかするんですけどそういう条件を読み取ってで今だっていうタイミングでヒレをしてでその後も山の管理もすご 大変なんですけど、そういうことをこう年中通してされてるのはやっぱり驚かれます。 ま、この焼きハで雑国を取ってその後はこうなんか活用とかはあるんですか? そうですね。焼の雑国って、えっと、1年 目にその山を焼いた年はそこにそばを植え てで、その次の年そばを収穫した後は次の 年はまた泡を植えて冷えを植えてで台豆と かあ豆を植えていう風にこう循環させて 回で土地 の栄養を余すことなく使うことが できるっていう風に言われてるんですけど 自体はあの その元々はただの森のところを切り開いて山を焼くので、その下ろした木を椎茸の原木に 使ったりとかであとはそばの花が咲きは三バが花のを取りにくるんですけどシの方って両方もされてる方多いのでなんかそばの花の密が蜂蜜になってっていう風になんかすごいんなことにこう派生 してで、焼きハがあるからこれができる、これができるっていう暮らしがあります。しかもこう資源を余ますなく うん。 使えるっていうのがなんか 3Gですね。 はい。本当に叶ってる暮らしぶりだなっていう風に 毎日見てって思います。 次は3回をご案内します。 はい。3 回はシーの冬の暮らをご紹介してる冬 オーナーなんですけど、こちらが うん。 初めに解説したあの柳北国男さんの後の仮言葉の木の世界観を 表現しているような展示を並べている狩猟の文化を紹介するうん。 コーナーです。 はい。1 番柳邦おさんが当時関心を持っていたのが このすごい不思議な 茶色い はい。カピカピのものなんですけど。 うん。 これ、えっと、海の魚のおこっていう 魚を内臓取り除いて乾燥させてドラインしたものでして、で、これが何かって言うと 山に入る漁師さんが山の神様としてこれを待つったりとか、あとは山に入る時のお守りとして懐に へえ 忍ばせて 修料に出かけた っていうお守りなんです。 海の魚をですか? そうなんです。そうなんです。 わざわざ海のないこのシー場の山奥に海からお小を取り寄せて、え、 お守りとして持ち歩いたっていう伝承があって、今も今の漁師さん、あの、お家に大事に持ってらっしゃる方が いらっしゃるんですけど、この小背を山の神様として、あ、祭る伝承は日本全国に共通してあって、で、それ と柳北国も興味を持って調べていてでシーバでもこに出会ったのでやっぱりこの山奥にもこの伝承があるんだっていうのを驚いて へえ。 当時の所管に書き知りしています。 ああ。 え、じゃ、今でもこれを自宅にお持ちの方がいらっしゃる。 あ、そうです。 え、き、 ちょっとびっくりしますよね。最初見た感じです。へえ。 博物館にもいくつかこのお小を起造していただいてるんですけど、 その起造していただく状態の時ってすごい何枚もの神に包まれてる状態でおこが 来ていてでそれは何かって言うとあの柳邦が記録していることなんですけどシバでは お小 に対して狩猟の前に小様今 イノシシシを取らせてくださったらこの世の光を見せて差し上げますって 言ってで山に入ってでイノシシが取れたらありがとうございますって言って神にくるむっていう例をしていて でそれはこの世の光を見せてあげますって言ってるのに騙して日の光からどんどんどんどん遠ざけていくっていう うんうん 不思議な お祭りなんです。 へえ。そういう風におこに狩猟のお祈りをしして山に入っていたっていう。 ああ、 全国共通でそういった信仰があって、今も続いているっていう貴重な展示ですよね。 地域ごとにそのお小の扱い方は違うんですけど、シーではそういう風に おと山の神様を紐付けて語っています。 このやっぱり狩猟っていうのも今でもシーバでは欠かせない。 そうですね。やっぱり冬になると漁師さんたち漁に入るとやっぱり山に入って イノシシと今は鹿も増えてるので鹿も取るんですけど以前はやっぱりイノシシシがほとんどだったっていう風に 言われてます。 もう1 つシーバの冬の暮らしをご紹介しても良いですか? またなんか違った雰囲気の はい。 スペースが見えてきました。結構広いですよね、この館内。 そうですね。 おお。あ、 あれですね。 はい。はい。 もうシーといえばでよく ご存知の方も多いと思うんですけど、シー神楽 うん が冬の年末のお祭りとして 村の方皆さん能されています。 はい。 シカ楽はえっとシーバにですね、 26 の地区それぞれに神楽の保存会があって、 今でも15地区ぐらいで 大体土曜の 6時ぐらい、夕方の6 時ぐらいから次の日の日曜のお昼まで同士の神楽祭りをされます。 すごい。はい。 あの、シーバというね、ま、小さなこう参の地域に うん。 こう結構定期的な感覚で そうなんですよ。 やっぱり結構 その 日本三大秘教と言われてるだけあって結構 山に囲まれてるんですけど山 1つ超えるのにやっぱり かなり依然前は時間がかかったので山 1 つ超えたら違う文化権超えたら違う文化権みたいな風に結構その生活と文化のまとまりがいくつもシーバの中は天在してるのがシーバの 豊かなところだなと うん。 思ってるんですけど。うん。 こんなにね、たくさんの神楽があるってことはあまり知られてない部分をかもしれないですね。 うん。うん。 だからやっぱり神楽の舞いし目も違うしで写真見ていただいたら衣装も お祭りの道具も 全然チックによって違うっていうのが う 分かっていただけるかなと思います。 雰囲気にね。それぞれの特徴を そうですね、 感じますよね。 うん。 カフラって言ったら結構紙で作るの飾りはい。 が印象に残ってる方も多いかなと思うんですけど、この兵の切り方とか髪の色の揃え方とかも地区によってそれぞれで これは各地区であの 4年に1 回ぐらいの頻度であの大きいお祭りをされるんですけど大きい祭りになった時だけ作る 語弊の飾りですね鼻じめと へえ 言ってるもので これもやっぱり全然見た目の印象が 違いますし。 そうですね。え、なんか中に入ってくとまたいろんなこう 飾りが 展示されています。 この辺りは神楽の舞い手さんが手に持ってまう鳥物と呼ばれるものなんですけど、取の種類も 弓矢があったり、 この兵があったりはい。 それぞれやっぱり違うもの使いますし うん。うん。うん。 神楽に登場する。 面もそれぞれの地区によって全く表情が へえ 違うのでそれも面白いところですね。 え、これはあの表情もお顔立ちもこうそれぞれ違いますけど神様としては同じ そうなんです。同じ神様と へえ。へえ。 言われていて、 あの鬼に神様って書いて人さんて 呼んでる神様とあと人っていう風に荒い神様アラブル神様って書いて光人って 読ませる地域とあるんですけど基本的には同一の神様ではないかっていう風に 考えられてるんですが九州一体の神楽もご紹介してい うん。うん。うん。 あの、この宮崎県の Cの中にも26 ぐらいがあってこう九州内の中で国指定、検定、指定されてないものも うん。 含めるとやっぱ日本ってかなり多いですよね。 そうですね。日本全国で大体 4戦 の保存会があるっていう風に言われてます。 中でも九州って割と魚地域なんですか? うん。多く残っていると言われてますね。 やっぱり特に県内でもね、地域によって神楽かなり違うやり方でされますし はい。 九州もね、研究超えて大分の方とか行ったりするとまた違ったやり方になってるので 面白いですね。 うん。 こうシーバだけでなくこう剣とこうやって九州のものも紹介されつとこう広い目で見られますね。そうですね。 で、やっぱり比べると初めてシーバはここが特徴だなっていうところが見えてくると思うんですけど、 やっぱりシーバはあのご紹介してきた焼きハとか狩猟の暮らしがあって神楽のお祭りをされるので焼の雑国 台豆を巻くような 儀式が出てきたりとかあとは狩猟にまつわる 板起こしっていうギ例があるんで ですけど はい。 あの神楽のお祭りの1 番最初に漁師さんがそのお祭りのために奉能するために取ったイシをまな板の上に置いてで唱えごとを 20 分ぐらいしてでイノシシシをさばいてで内臓を七れに切って串にさして神様にお備えするっていうお祭りから神楽が始まるとかなんかそういうのはやっぱりこの九州 3地の一体にし がないお祭りの仕方なのですごい特徴的かなと思います。神楽の中にも今日ご紹介してきたその焼きハの文化ですとか狩猟の文化っていうのがこう密接にね、暮らしの中に根付いてるんですね。 そうです。さ、博物館から車でおよそ 20分。 小崎地区の竹の枝を集落にやってきました。 森内さん、ここはどんな場所なんでしょうか? ここはですね、あの民家になってるんですけど、実はあの柳北をシーバー村中案内して回った当時のシーバの中瀬尾さんの大生まれのお家となっています。 へえ。その当時の村長の はい。 家の後地みたいな感じです。 あ、そうです。そうです。 ああ、 なんと言ってもこうこに着いた瞬間に 続学発症の地と 刻まれてますね。 あります。ここから民族学が誕生したと言って良いのではとシーバの皆さんが考えて費を立てられてると思うんですけど。 うん。うん。やっぱりその柳 1 人では後のり言葉のきって誕生しなかったと思うんですよね。 なんかスさんがすごい親切に柳を表なししてシーバ中案内してあげてでその後も手紙のやり取りがあっていうそういうこう長い うん お付き合いがあって初めて 生まれた本だと思うのでこの場所自体には柳国王は来たことは あ、えっとここにもあの立ち寄ったという風に 言われています。 ただ、あの、宿泊はここではなくて、あの、村内あちこち、特にあの、やさんと呼ばれるそれぞれの地区を取りしきる大きいお家に、えっと、それぞれの日に、それぞれの集落で滞在したっていう風に言われています。 そしてその中瀬素直当時の村長があの住んでた家はもうここになるんですか? あ、もう本当にここでもう昔ながらのシーバ型住に なってて、今も当時の形を残したままの 姿で、 へえ。 そのままの はい。 今はなんかこう塾になってるんですか? そうなんです。 今こちらお住まいの方はシー身の方ではなくって、あの、宮崎市の方から移住されてきた今 80代の方がお住まいなんですけど、 今でも誰かが住んでらっしゃるっていうのが不思議ですよね。 そう。はい。やっぱり今も生活の中に残ってる場所になってるので。 へえ。 うん。 今度は松尾や後にやってきました。 山をね、ずっと登ってきたこともありまして、行も高く、 すごくこう見晴らしのいい場所ですが、 ここはどんな場所なんでしょうか?さんて言うと江戸時代のこう地区を取りしる役職のことで、 で、この辺りの地区の名前が松尾って言うんですけど、この松尾地区を納めていた商やさんっていうことで うん。 で、さんてその地区の内で何か揉め事があった時はこう裁判をこうしてあげたりとか あとはここって 1 取りとしてちょうどこう向こうの道から降りてきてシーバに初めて立ちいる人が立ち寄る場所でもあったのでどういう人が来たかとか そういう話を聞いたりここに 1泊止めてあげたりとかうん そういうに地区のことを管理していた お家です。 じゃ、ここにそのお家があったということですか? そうですか。元々この石垣沿いに大きく へえ。 もうすごく立派なお屋敷が お かなりね。 そうですね。 面積広いですよね。 そう。で、特にシーバの、えっと、昔ながらの住宅ってシーバ型住宅って言ってるんですけど、 シバ型住宅。 シーバ型のこうお家って横に長くて奥行きはそんなに広くないんですよね。 へえ。 やっぱり山にこう土地を こう開拓して立てる都合でやっぱり奥行きはあんまり取れないけど横には長く取れるので こういう形のお屋敷が多いです。うん。うん。 で、元々はこれぐらいの大きさのお家が立ってたんですけど、今はもう古くなってしまったので取り壊しになって、今はもう誰でも使える休憩所のあが立ってます。 で、ここに当時いろんな方が、ま、宿泊もされたってことですか? そうですね。柳国をもこで 1番初めのシーバの旅の 1番目にここで 休憩をさせてもらいて この景色をじゃあ見ていたわけですね。 はい。見ていたに違いない。 で、やっぱりああ、すごい山奥に来たなと 思いながらここでやっぱり松の親さんだった松岡旧次郎という方が柳を表なししてるんですけど、もうそれはそれはもうすごい表なしを受けたっていう風に振り返って記録されてます。どこに行ってもね、こう手厚いタイ遇だったんですよね。 そうなんです。そうなんです。へえ。 で、やさんがの大きさを物語るほ 場所が あって、 もうここだけでもね、十分大きいような感じは いや、もうね、普通のお家としてはすごく 大きいんですけど はい。 この下の辺り一体も少屋さんの 敷地に あ、へえ。 うん。ふん。うん。 で、この少し開けた辺り、ここに昔はあの馬小屋が はあ。 立ち並んでいてで、ここに馬を 49と うん。うん。 買って養ってたっていう。 49と江戸時代の記憶がえ で で当時ってま移動にもちろん馬を使いますし特にあの村で作った商品を近くの市場に売りに出すダ賃漬けっていう仕事があってでそういう荷物運び運搬の仕事を地区の人たちにさせて地区の人たちにお お金を稼いで へえ。 もらう方法を提供するとかそういうことも親さんのお仕事としてあったので馬を貸してあげたりとかそういうこともしていたので やっぱこれだけね工程が多いと大切な足になりますよね。 そうそうですね。やっぱり移動手段としてすごく大事だった。 なんか松尾のここの夜さんはかなりそうやって地区の皆さんがどうやったらこう貧しくならないかちゃんと食っていけるようにみんな食べて生活できるようにっていうことを考えて色々政治的なお仕事をされてたっていう風にご親戚の方が今も千葉にいらっしゃるのでその方から聞いてます。 地区全体のお世話をされて うん。そうですね。 うん。 この下に1000 人の棚って言って、あの石垣を積んで水電を作ってやるところがあって、シーバでは結構有名な はい。 景色としてなってるんです。 うん。 知らてるんですけど、 その田も 昭和に入ってからここのおさんのご親戚の方が取ってみんなで頑張って作ろうって言って電されたっていう風にうん。 聞いてます。 大切なね、存在の方だったんですね。 さ、今日はここまで博物館に始まりまして、このシーバの歴史や脈ク脈クと受け継がれる、こう、今の暮らしなど歩きながらいろんなところを巡ってまいりました。 実際にあの学芸である森内さんのお話を聞きながら自分の目で感じることで 柳邦国男さんの存在の大きさですとかこのシーバの暮らしの魅力っていうのをよりこう感じることができました。 ね。 いや、ありがとうございます。 やっぱりシーバソンに残ってる暮らしって他の地域にはないものが多いと思うんですけど、やっぱり私としては シでこうすごいシーバの特徴的なシーバらしい文化を見ていただいた後にやっぱり民族学のこととかあとはもう自分もう皆さんそれぞれの暮らし うん。をもう1 回振り返えるきっかけにしていただけたら 1番嬉しいなと思ってます。やはり実際に 目で見て心で感じることが大切かなと思ったんですけど、まずは博物館に行けばうん。 あ、そうですね。 いいってことですよね。 はい。まずシバにお越しいただいたら街中 の1番道も 良い比較的良い道を通って博物館までお 越しいただいてでそうしたら博物館の方で 私たちあの今日行った中瀬村長のお家だと か松尾の商さんのお家とかあのご案内し たりご紹介したりできるのでまずはシ馬 民族芸能の博物館越しいただけ です。 はい。是非旅の続きは皆さんご自身でこシー場まで足を運んでくださると嬉しいです。森さん、今日はありがとうございました。 是ひいらしてください。 お待ちしてます。

日本三大秘境にかぞえられる宮崎県椎葉村の椎葉民俗芸能博物館です。愛称でMUPA(みゅーぱ)と呼んでください!

1908年、当時33才の柳田國男がここ椎葉村を訪れました。

当時の柳田は、まだ民俗学者ではありませんでした。彼がなぜ椎葉村を訪れたのか、椎葉村で何を発見したのか、そして、どのような目的ではじめての民俗学的著作である『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を書いたのか、椎葉での柳田の足あとをたどりながら探検していきます!

|出演
ナビゲーター:永井友梨(フリーアナウンサー)
案内人:森内こゆき(椎葉民俗芸能博物館 山奥学芸員)

|制作
撮影・編集:中川薫
企画:株式会社museum pick

|お問合せ先
椎葉民俗芸能博物館
MUPA (Shiiba MUseum of folklore&Performing Arts)
883-1602 宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良1822-4
TEL 0982-68-7033

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