特別講演会「住田町発見の紺紙金字一切経」

[音楽] 平安時代に大きな勢力を誇っていた欧州 藤原市大 秀平が中村時に奉能した仏教州 一教 この教官の1つが町内で発見されたとの 話題は今年の春の大きなニュースになり ました。 およそ5300巻あるとされる金事一教。 現在中村時に残されているのはおよそ 2800巻でその全てが国報に指定されて います。 [音楽] 850年余り前の大変貴重な共感。 住田町教育委員会では調整思考70周年の 記念事業として住田町文化産業祭りで一部 を公開。また町内で発見された共官の調査 を行った公財団法人岩手県文化進興事業団 埋蔵文化財センターの橋直 専門調査員を講師に招き特別講演会を開催 しました。 この番組ではその様子をお届けします。 [音楽] はい、あの橋直と申します。え、本日は 住田町発見の今事一教についてお話しし ます。 はい、自己紹介からいたします。え、橋直 と申します。 5年生まれ、あの、昭和40年生まれです 。で、実はあの60になりました。はい。 で、岩手県文化振興事業団というところに 属しております。で、あの、文化振興事業 団は、あの、岩手県の、ま、文化的な仕事 の一部を、あの、受けわせてもらっており まして、え、内蔵文化財センターとか県立 博物館などそういう施設の仕事をやって いる会社であります。 で、まあ色々あの長い間勤務しております けども、住田町とは色々ゆかりがありまし て、ま、埋蔵文化財センターに勤務してる 時は 住田町では山脈地跡 神ですね、そこの担当をさせていただき ました。 それからセタ城後、これは審災後なんです けども、ここもあの道路改良ということで 発掘調査をすることになり、ここの担当と なっております。あと、ま、県立博物館に 勤務していた時はですね、あの世ま中学校 、それからアリス中学校で出前事業なんて いうのをしたことがあります。これは1日 でやったと記憶しております。午前中、あ 、どっちがどっちだったか忘れましたが 午前中アリスセタというように1日であの 授業をしたような記憶があります。 それから平泉世界遺産会談センターに勤務 していた時なんですけども、 あの、本日お話しする今近事教について、 あの、調べさせていただく機会がありまし て、ますます住田町とは深い関わりを持っ たというような次第です。 えっと、古い画像を色々あの、 調べて、え、持ってきました。 これ2010年の 山脈地跡の写真です。 これあのアリス小学校ですかね。で、今 ここあの道路に道路時期になっている ところです。ま、こういう今全然風景が 変わってしまったというようなあの画像 です。これあの2010年度だったので この2010年度の3月にですね、あの 東日本大震災があったということなんです けども、ここを調査してる時はそういう ことが起きようとは夢にも思っていなかっ たというようなことです。 で、これは2016年世前 ここもまあちょっと今この角度から見ると どういう風景になってるか分からないけど も、ま、ここにあの国道が通っている走っ ているというような状況になっていると 思います。これは審後のここもあの復興 事業の一環ということであの道路改良を するということで発掘調査になったわけ です。 で、あのお経の話を始めます。 え、あの、大衆 偽造従林教間第2というお経なんですけど も、これは住田町 在住の個人の方の所蔵であったものです。 で、その所蔵者がですね、住田文化財調査 員の千葉先生にあの問い合わせしたという ことです。で、千葉先生からあの平泉外談 センターに、あの、これはどのようなもの かと平泉と関係があるのではないかという ような問い合わせがあった。それで私当時 あの平泉世界遺産センターに勤務しており ましたので、あの色々調べさせてもらった ということです。ま、まず最初に実験実際 に見たと、そして写真撮影等を行いました 。 で、それをもにですね、まずあの中村寺 にでですね、あの今事教を多く所のま、 元々中村時に奉能したものですので、中村 時に問い合わせました。これはあの中村 事教今事 ではないのかとそれで良いのかと 問い合わせました。それからあの専門の あの仏教美術などの先生にも様々色々な方 に問い合わせしました。で、ま、その結果 ですね、本共官は藤原秀平、平泉3大藤原 の秀平が中村寺に放した今事 一教 の中の一教っていうのは5000数百巻 からなるあのお経の大前収のようなものな んですけどもその中の一環であるという 結論に達しました。 それで3月27日、まあ今から半年ぐらい 前ですね。住田町とこ私が勤務しており ました公財団法人岩手県文化振興事業団の 合同主催で、えっと、平泉世界遺産会談 センターにおいて記者発表を行いました。 えっと、これがその時の画像です。 あの、こちら住田町のあの佐々木さんなど も写っております。まあ新聞、隠し、 テレビなどもあの来ていただいて大きく 発表されたというような次第です。で、 その後4月になりまして、あの、 あの、役場の方で、あの、一般公開なども していしたというようなところです。 まあ、半年ぐらい前なんですけども、もう 随分前のような感じになってしまっており ます。 で、あの、今近事大衆蔵住林教第2につい て話をしていきます。えっと、繰り返しに ありますけども、住田町内で今年まだ令和 7年ですから発見されたお経です。欧州 藤原市の3大藤原の秀平が成暦1180年 頃、あのかはっきりした日、あの年月日は 分からないんですけどもこの頃に中村時に 奉能した今近事一教のうちの一環と見られ ます。 で、 今近事教の説明をいたしますと、愛染め愛 で染めた神に金粉を川、これ二川と読み ます。二川で解いた近霊で協点を処者して います。共問をあの書いています。で、 本来はこれは巻き物だったんですけども、 住田町のこのお経はあの張から剥がされて 紙が別々になっています。 それからあの巻き物の表面に来る表紙その 裏の見返しへが通常あるんですけどもそれ は失われています。で、現凶では現在では 18枚の共問が残っていますけども、あの 、お経全文を見ていくとどうも紙1枚分の 共問 も共問がですね、共問が失われていること がわかります。だから本来は19枚の紙を ついで巻き物にしたものだということが わかります。で、この失われた1枚分と 現在残っていない表紙を合わせると元々は 約10の 長さのものだったと思われます。それを 巻き物にしたというようなものです。 で、今事のあの説明をいたしますと、まず 通常紙があります。これを愛で染めて紺色 にします。あの、ちょっとパソコンのあの 関係でですね、綺麗な紺色が出ないんです けども、ま、イメージだと思ってください 。そして、え、この今に 金ではなくて銀の粉を川で解いたもので 回線、ま、あの軽線と読み換えてもいいか と思います。軽線を引きます。 で、本来はこの軽線を引く前に神をついで いるようです。 網をついでからこの銀の形を引いている ようです。 そしてこれにあの金例あるいはコンデとも 読むようですけども 、え、金粉を2川で解いたものでお共を 処射していきます。 ま、こんな感じになるかと思います。ま、 このような今にあの近霊でお経を書いた ものが今近事教とあのいうものです。 で、ちなみにですね、 平泉のあの中村寺のお経の中には藤原の 清平、初代清平が奉能した一教もあるん ですけども、清平の一際教は金銀事交所教 と呼ばれるものです。で、それはですね、 一を金で書く。で、次の行は銀で書く。次 の行は金で書く。金銀事の交渉というよう なものです。ま、あのこの住田庁の資料は あの銀事がなくて 金だけで書かれた今事教ということになり ます。 で、これがあの皆様にお渡ししている資料 と、ま、同じ画像なんですけども、え、 住田発見の、え、今近次大条大衆偽造住林 教官第2のあの前用です。これが全体です 。 で、紙12こっちからですね。 123456789101112131415161718 枚にバラバラになった状態であの住田町の 個人の方のところで所されていました。で 、1枚目、2枚目、本来はこの3枚目に 当たる部分の共問、1枚分が失われている ということがわかりました。 それからこれがはい、あの納められていた 木の箱がありまして、それにこう住きも なされているというようなあのものです。 これがあの住田町発見の今事教の前用です 。 で、あの 住田町のこのお経はですね、紙がバラバラ になって表紙もなくてちょっと本来の形と は違っているので本来のこのお経の形に ついて説明いたします。 住田町の共問はこちらの文字のところだけ がこう残ってるんですけども、本来はこの 最初の部分に表紙がついていたはずです。 で、表紙の表はこのような極楽に咲く花と 言われている 極楽に咲く咲いている花あるいはその草と 言われる放送から草を門用化した 法げ下げ下げから草門がこのように描かれ てここにタイトル大線がつきます。で、 この裏側ですね。今はこっちの表紙表に 来る方の話をしておりました。この共問側 のこちらにはこのような仏の教えを書いた 仏がですね、ここにあったと思われます。 その後共が続くとでこれは巻き物になって 軸軸の端っこのこの軸鼻というものもあっ たはずです。 で、あの、展示の方にもあるんですけども 、 本来の姿、あの、復言してみました。この ような巻き物になっているかと思います。 表紙のタイトルがですね、ちょうどここに 来るようにあの対戦がなっております。 これが巻いた状態です。 で、これ、この軸鼻ですね。 これあのホームセンターで買ってきた プラスチックのキャップつけてるんです けども、本来の中村事況はここもあの 金滅記したあの近藤であの細かい彫刻が 施されたこの軸鼻も非常に美術的な価値が 高いものがここに装着されているのが本来 です。 で、ちょっと開いてみますと、このような 感じになります。今開くと、これを開くと 大変なことになるので、ちょっと開きませ んけども、少し開いてみるとこんな感じ です。 で、表紙の裏側には仏、あの、住田町の このお経にもこの仏があったはずです。 で、ちょっとめくって見せてるんですけど も、これが表側に来る、こちら側に来る 表紙ということになります。 で、ちょっとこの違うお経なんですけども 、ま、このように紙ついでこう長かったと いうような形になります。え、住田町の 資料の場合はこの長さがおよそ10m あったと考えられております。 はい。でですね、あの住田発見農教、え、 今事一教の一部だということで、あの、お 話ししてるんですけども、そもそもその 一教というのはなんぞというような話をし ます。 で、一教というのは大増とも呼ばれとも 言います。 で、お経や仏教の研究を研究書ですね、 研究論文などを修正したいわば仏教前収と いったものです。ま、あの、お経だけでは なくて、その後中国等でなされた仏教の 教えについての研究、それから修行の仕方 をまとめたもの、それらも含んだ仏教前収 といったようなものだそうです。 で、 この一教の中にどのようなお経や研究所が 含まれてるか含む含むべきかということは 中国で当時代8頃にその目録一教の中には こういうものを納めるべきだというような 制定が進められました。その結果、ま、 一般的にあの定められたあのこの目録は 1258 タイトル合計約5300巻がその標準とさ れています。 ま、王京一環、あの1つのタイトルで10 巻、このあの事蔵住輪鏡も10巻からなる もので そのそれらを合わせると5300巻という ようなことになります。 ま、あの、中国でですね、中国の僧侶たち があのインドから お経の原点を持ち帰って間略、あの中国語 幹事に訳していきます。 で、ま、それがですね、あのインドのお経 をですね、全部あの体型的に持ち帰ったの ではなくて、あの自分が出会ったお経を ですね、あの各々持ち帰っていて様々な 内容、同じような重複する内容のものが 観約が進められていたのですけども、それ では体型的ではないということで、あの 中国で後に目録を作っ というようなことです。 で、この目録が完成したのは当の時代、え 、成暦発生機代のことです。で、この目録 もですね、も、目録もですね、様々あり まして、代表的なものには、え、会元18 年に変算された会源借境録というものと それから少し後に編集された上限申底借境 目録というものがあの代表的な目録だそう です。で、日本ではですね、こちらの上弦 録の目録が多く用持ち入いられていて、 中村寺の一教、あの、秀平の一際教も清平 の一教もこちらの目録に従っていると考え られております。で、この目録によると 全部で1258 タイトルですね。1258部合計5390 巻からなるのが一教だと定められています 。 で、この上限神定釈境目録を見ていきます と、もちろんその中に大衆 事造住林教あの目録の中に含まれています 。 で、大衆偽造住輪教は10巻からなると、 あの、記されています。で、その10巻は 165種165枚の紙からなっていると紙 の枚数まで決められています。で、上2 11巻同と書いてるんですけども、この上 の事蔵菩薩問答 発審さんというもの、これ一貫なんです けどもこれと事造重輪教10巻合わせた 11巻をこの教というあの強箱に納める前 にあのお経を10巻ぐらいこうまとめて あのまとめるものがあるんですけども こちらの教とこの大場大衆事造住林教を 一緒にこの教述にまとめなさいとそういう ことまで書いております。 ま、これが円々とこう続いているという ようなのがこのじゃ上限申底借境目録と なります。 で、これに書かれているあの目録のですね 、 お経、それから研究所、 仏教の修行の仕方などのものをこうまとめ たものです。ま、その中に大腸、大衆、 児童、住林教 ということです。関数が多いものなどでは 大半若教600巻なんてのもあります。 これを合わせたのが5390巻ということ になります。円々とお経のタイトルが書か れてそれが何もかというのがこう書かれて いるわけです。 どんどん続きますが、ま、詳しく見る必要 もないかと思います。 はい。これぐらいのものが含まれています 。で、それだとちょっと数量が分からない んですけども、 これがま、お経通常のあの10枚ぐらいの 紙のお経一環だと思ってください。で、 これがそのお経10巻です。 12345678910 です。で、これを5391 巻並べるとですね、このぐらいになります 。あの、莫大な分量です。これが一鏡 全部がこのぐらいあるということです。で 、住田町で見つかったもの、この中の一環 です。はい。 だから、ま、このお経の大前収である一教 をですね、お寺に奉能するということは 非常に仏教的に高い駆であり、あの大きな 利役、ご利役があるというようなものです 。ま、これを全部処者するわけですから 大変なあの作業であります。それだけの あの真心を仏に捧げるというようなことだ と思われます。 で、一教に書かれた文字数はどのぐらいか 、ま、あの、およそ 6000万、 63万1180 時ぐらいではないのかと、あの、言われて おります。ま、誰もちゃんと数えたことは ないんですけども、ま、江戸時代末期の 越後のほず何がしという方があの、一挙の 文字数に非常に関心を持った方のようで、 彼の著書によるとあの6000万、63万 文字だと書いております。まあ、多分1億 文字はないと思いますけども、まあ6 数千万文字 のあの文字がかか使われているということ が分かります。それを全部手書きで著する わけですから実にあの大変なことだという ことがわかります。 それから、まあ、一共の諸者層は何人かと いうようなタイトルになってんですけども 、これもインターネットからあの見つけた 記事なんですけども、ま、あのこの平安 時代の今事あるいは近銀事教の話ではない んですけども、奈良時代のあのお経を処者 する処者層の1日のあのノルマというか 作業量が決められていたそうです。1日約 0.44巻あの処者することと定められて いるそうです。 だからまこれから計算するとこの インターネットの記事だと 1人で所すると420ヶ月かかると50人 であのやった場合だと8.4ヶ月かかると いうような記事が載っています。でもまあ これですね、あの 上限 録の5300巻じゃなくて海元録の 5048巻を基準にしてるようです。で、 これ、この基準をもに、え、上限録の 5390巻で計算しますと、 まあ、1人で処者した場合約1日も休まず 37年間かかるということになります。私 、あの、勤務し始めてから36年ですけど も、あの、まだ完成していないというよう なことになります。 ま、あの、4.6人ぐらいであると約8 年間。これはですね、あの秀平の あの 今事教じゃなくて清平の今事一教の諸者に 8年間かかったという記録があるのでそれ には諸者省が4.6人ぐらいいたという ような計算で用いたものです。 で、ま、あの、いずれ莫大な時間がかかる ということがわかります。でですね、この インターネットのこの記事は普通の牧で 住みきした場合のあの作業量だそうです。 だからですね、川金粉を2川で解いたもの 多分牧中より非常に書きづらいと思います 。さらに時間はかかったと思われます。ま 、ちなみにあの今禁事交渉一教だと金で 書いて次銀で書くということで禁事教事 一教よりも時間はさらにかかったと思われ ます。いずれ、まあ、あの、休みなく1人 で書き続けても、書き続けると約37年間 もかかるというような大変なあのものです 。で、これは処者するだけの話ですから、 あの、近例を準備する人、それから神を 救く人、神を染める人、神をつぐ人でそれ らの人を養う、あの、ご飯を作る人も考え られないくらいの様々の人々の労力が かかるということがかかります。わかり ます。だから非常に仏教的にあの 大きな駆読 で奉能したのだと思われます。 で、次はあの中村事況について説明いたし ます。今回のあの住田町のこのお経は藤原 の秀平が奉能した今事一教ですけども 中村事教というあの大きな言葉の中では それ以外のものも含まれています。 でまずは初代の藤原の清平が奉能した 今銀事 交渉一教というのがあります。これは1 ごとに金で一を書き、銀で一を書き、それ がに交互に繰り返されるというようなお経 です。これは奉能したあの年が分かってい て1126年あの中村時の楽系苦養の時に 奉能したということが分かっております。 来年900年経つということです。それ から2代の藤原の元平は全部1日教という ものを奉 あのちょっと一切教とは違うんですけども 補ケ教ですね 3部教を 1日で所作するとでこの北三部教というの は補ケ鏡本体が発管とその処分みたいな ものが一間、それからまとめみたいなもの が一巻、合計10巻からなるのが北部教だ そうです。それを1日で所すると共問 10巻を1日で所する。 それを先日間行うというものだそうです。 おそらくこの先日間っていうのは連続した 先日ではないようなんですけども、この1 日での処者を1回行うということです。 で、まあ1日であのお経10巻1人で所 するのは無理ですので何人か10数人で あの1日で処者するのだと思います。それ を先回行ったということです。 これから3台の藤原の秀平が奉能したのが 今近事一教です。これはあの奉能したあの 年がはっきりしないんですけども1180 年頃ではないのかと水されています。で、 ま、あの、2台元本平さん一教じゃないの を奉能しているのだから、元平あまり 大したことないんじゃないのかと思われる かもしれないけども、あの、ホケ3部教 っていうのは10巻です。それを前回やる のですから、1万間の一教のおよそ2倍の お経を処者しているということです。 それからですね、中村寺には、あの、この 三大秀平法能の今事一教 を所する時の手本ですね。あの、書する時 はあの、元のものがないと書きませんから 、その手本、ま、テキストと言いますけど も、その手本と見られる相番一教という ものも中村に伝わっています。これは中国 の層で目犯印刷されたものです。目犯印刷 物印刷したものかと大したものないんじゃ ないの?大したことないんじゃないのかと 思われるかもしれないけども、もう現在は この目犯も失われていますし、あまり中国 には整って残ってないそうで、日本でも数 セットあるだけだそうで、非常に貴重な ものです。 はい。 で、藤原の黒平が放能したのは今近銀事交 金で書き タイトルは金ですね。次は金で書き、銀で 書き、金で書きというようなものをこの 一教を木平は奉能しております。 で、2代元平、あの部1日教。これはあの 今事教のようです。こういうのを前回 1日1日で10巻処者してそれを1000 回行ったということです。なぜこういうの を行ったかというのをあの最後に書いてる んですけども父の藤原清平の例を慰める ためにあの処者したというようなことが 書いてあるようです。 ま、この線部1日教ですね、あまり残り あの現在3一してしまってあまりあの多く は残っていないようです。 それからこれがあの 秀平の今近事教の手本テキストだったと 思われる総犯一教です。これはあの中村時 に残っているもののようであります。ま、 こういう木ハ釣り印刷物です。これをあの 開いて禁事で今に処射していったという ようなことだと思われます。 で、中村時には大場大衆蔵住林教間第2の 総一教はあの残っていないようなんです けども、え、区内で持っている、ま、皇室 で持っている相犯一教の中には、あの大腸 大衆実造林教第2があの残ってるようです 。これあのインターネットから ダウンロードしてみたんですけども画像は これ白黒です。さっきのような このような色合いだったとなんだと思われ ます。 で、まあ今回あの住田発見のお経がですね 、え、秀平の奉能したお経であるのかと いうことを検討する際にですね、この総販 一のこの画像は非常に役に立ちました。 あの、一文字、一文字、あの、比較して いったらこの総犯一教と同じ字が使われて いるということが分かりました。あの、 お経、今残っている、伝わってるお経です ね、長い間色々一部違ったりしていて、 あの違うものだとですね、ちょっと漢字が 違ったり、あの、前後が違ったりしてるん ですけども、住田町発見のものはこの総 一教、これとあの同じでした。ま、それが あの秀平法能の今事一教の一部だという ような大きな根拠になっております。 はい。 で、次はあの藤原秀平法の今近事一教に ついてあの詳しく話をします。 えっと藤原の秀平が中村寺に奉能した根事 禁事一歳教です。には極楽に咲く法げから 草門見返しには仏教の教えを解く仏が描か れています。で、王たくさんのお経の中の 一部にですね、最後に奥書きに安2年 1161176 年に処者した胸が書かれた間があります。 だからその全体の処者はこれよりも後だと いうことが分かって奉能はそれより後の 1180年頃と推測されます。 で、眼来の相関数は約5300巻、さらに 細かく言うと5390巻ぐらいなんです けども、現在中村寺大腸 大腸院にはですね、2724 巻が修造されています。まあ、半分ぐらい はどこかに行ってしまったというような ことだと思います。 で、中村寺であの所蔵しているこの 2724 巻の中には大場大衆偽造住輪教官第2は 含まれていません。あのこれは大きな ポイントだと思います。この2724 巻の中にこの大場大衆蔵住林教の第2が あったとしたらこの住田長発見のものは あの中村寺の秀平奉能のものではないと 言えるんですけどもあの中村寺ではこちら そうなのであのこれも 住田町のものが秀平法能この一教の一部だ という大きな根拠になります。ちなみに 中村寺に問い合わせたところこの大場大衆 蔵重林教は10巻からなるんですけども3 巻から10巻までは中村時にあるそうです 。1巻と2巻がないということです。 ま、あの、これ江蔵市度文化官で展示して いる複製品なんですけども、 ま、この見返しにこのような物が書かれて いるということです。あとは禁事で近例で 共問が書かれているというようなものです 。 で、この図ロから引用したものなんです けども、これらあの清秀平の根事、禁事、 一教のあの様々な画像です。で、ま、非常 にこう残りも良くて綺麗なんですけども、 これあの天に出されたものですので状態の いいもの が展示される傾向にあると思います。 で、ま、あの、ですので、あの、住田町の がちょっとバラバラになって一部あの、 破損しているという、あの、ちょっと 見晴らしく感じるかもしれませんけども、 これらは特別残りがいいものだと考えて くださっていいと結構だと思います。 で、画像がちょっと小さいんですけども、 この字もですね、様々あの、ある、あの、 書き癖があるようで太く書いたり細く書い たり、あの、初体も様々なようです。で、 まあ、見た中では、あの、 この住田のお経と似た、あの、 初対というか、柿き癖というか、あの、 住田町のものちょっと細い感じがするん ですけども、そういうものもあります。 はい。で、次は大場大衆事造獣輪教 をします。 で、この大場大衆偽造住輪教は当中国の当 の時代の、え、現状 があのインドから中国に持ち帰って観約し た10巻8勝からなるです。この現状って いうのは通称三蔵奉仕士です。あの最有期 のモデルになったあの僧侶です。 で、これどのようなものが内容が書かれて いるんですかというような質問がなされる んですけども、ちょっとあの事蔵菩薩の あの関連の書籍などから引用したんです けども、自蔵菩薩の駆毒を解く強点で 兄弟にある住輪は如来は樹種の知恵の力、 それを重というそうです。で、宗情を導き 安らかな境地をもたらすことと解かれてい ますと書いています。 あの、私今読みましたけど何を書いてるの か実際よくわからないです。あの、本には このように書いておりました。いずれ造 菩薩の駆読 あの非常にありがたいというようなことが 書いてあるようです。 で、その中の間第2ですね。第2巻はです ね、第2章の住輪品って書いて住輪本と 読む層です。本と読む層です。輪本で事造 菩薩が如来に物林 を問うことから重林という答えが示される 内容であるとされますと、あの解説書には 書いていましたけども、あの実際のところ ピンと来ない感じがします。ま、あの、 こういうことが書いてあるそうです。 え、ですね、あの、世の中には様々な本が あるもので、この児童住輪教を告約日本語 に直したあの本があるそうです。 で、あの、そんな古い本じゃないですね。 2009年にあの、観光されたもので、え 、 大造出版というところから出てるそうです 。で、あの、1万円するです。 あの、ちょっと買おうかと思ったんです けど、高いから、あの、買っておりません 。ま、これは住田町で買っていただければ いいんじゃないのかなと思います。まあ、 でもですね、あの、告約と言っても現代語 役に訳してるわけではないから、非常に 内容は、あの、 難しいのかと思います。 で、あの、Amazonのレビューを見た ところ、あまりいい評価は、あの、ない ようなものでした。 で、ま、あの、ま、繰り返しになります けども、住田町発見の大場大衆事造住林教 を秀平法能の今近事採する根拠、ま、 まとめますまとめますと全体的な特徴から 平安時代の諸者教と考えられる。いずれ 中村時のものであろうがなかろうが全体的 な特徴から平安時代のあの に処者されたお経と考えられていことです 。 そしてさらに深めるとその低裁や寸法など から、え、中村事教のうちの秀平法能の 一教の一部と考えて少なくとも矛盾はない というようなです。 で、中村事蔵の秀平教2724 巻のうち大場大衆事蔵住輪教官第2は結落 している。先ほどもあのお話ししたように 大場大衆蔵造住輪教全10巻のうち 3巻から10巻までは中村時にあるけども 、え、第1巻と第2巻は結落していると いうことですので 住立ちを発見のものが中村時秀平教である ことは非常に可能性を高くしているという ことです。で、使用された漢字とか低裁 から秀平教と同様に総一教を手本にして いる相反一教をテキストに処者している ことがわかります。 ま、あのこの手本が中村教、中村寺の秀平 教と同じ共通するということです。 それからですね、中村寺ゆかりのお経の 存在は被済みと気仙地方の地域的な繋がり から十分に考えられる。まあ、例えば今回 のこのようなお経が全然平えとは関係の ない他の件で見つかったとか関西で 見つかったなどというとなかなか中村時と の繋がりはあの考えがいんですけども、ま 、平泉と気仙あの住田非常に地域的にも 近いですし、まあ何よりも古来からのあの 金などの繋がりは考えられますからそう いうバックを考えますと、中村寺のお経が 住田町にあのもたらされているということ は十分に自然に考えられることです。で、 まあ以上の点からこの本お経は藤原の秀平 法能の今事一教のうちの一環と考えられ ます。というような、これはまあ3月4月 段階の見解なんですけども、その後ですね 、あの色々 全国の先生方からも問い合わせがあって 画像などをお見せしたんですけども、ま、 あの、多くの、多くの方かほとんどの方は 積極的にこれは秀平教でいいんだという方 が大半でありますし、少なくとも否定的な ことをおっしゃる方は今のところ 。うん。はい。 ま、あの、 3月段階にはですね、ちょっと調査も足り ず心配な面もあったんですけども、その後 、ま、あの、様々な方からあの意見さらに 頂いたんですけども、皆、少なくとも否定 的なことをおっしゃる方は、あの、今の ところ であとはですね、この住田町発見の大場 大衆偽造住輪教をですね、あの、丁寧に見 ていきたいと思います。今日展示してるの は全部じゃないので、この画像で全部を見 ていただければいいかと思います。 で、まず最初は、あの、実際は存在残って いないものなんですけども、おそらく このような表紙がついていたと思われます 。極楽上土にしげ先しげる法げから門と いうのをこの金調に書かれている。他の あの秀平法能の一教は皆大体共通する ちょっと様々パターンはあるそうですけど も共通する表紙を持っています。そして ここに、え、巻いた時にこう分かるような 位置に大上大衆事造輪教官第2とこう大線 がつきます。で、巻くとこのような状態、 このような状態になるということです。 あの、繰り返しますけども、これは残って いません。これは想像、想定です。 で、表紙の裏側はこの見返し、あの、金で 描かれた、あるいはこの雲などは銀で描か れて、着色されてますね。こういう仏が 共問の戦闘にこうつく形で配置されます。 で、この仏もですね、様々色々なあのもの があってですね、1番多いのは真ん中に こういう車迦如がいて切法をしていると いう絵なんですけども、そればかりでは なくていろんな絵があるようです。だから この事造住輪教間第2の見返支援がこの パターンだったかどうかは分かりません。 ま、あの1番あのポピュラーなものを 貼り付けてみました。 ま、これもまた繰り返しになりますけども 、これもあの 実際は存在しておりません。 で、これがあの残っている第1種1番目の あの紙です。ここを見ますとこうのり の痕跡がありましてやはりこちらにですね 、 こっち側にあの表紙それから物がついが ついていたとあの考えられます。で、1枚 目ですね、あの、広げる時にこれが やっぱり1番上にあったようで、え、何度 も広げられたり触ったりしたようで、痛み が一々しくなっております。で、最初の 辺りのこの金文字もあのなんとなく劣化し ています。輝きを失っています。 裏返すと おそらく初蔵の方が書いたのでしょう。1 、1枚目の1。こういうのが手で書かれて います。 これが2枚目です。先ほどの1枚目に比べ ますとだいぶ残りはいい状態です。で、 やはりこのヘリを見ますと、 繋いでいたのりの跡が観察できます。本当 に代もですね、数mで非常に幅が狭くて ですね、この紙をつげる作業というのも 非常に熟連した技だったことがわかります 。 で、まあ、1枚目に比べるとこの金の文字 も非常に残りがいいというようなことが わかります。 で、裏には2と書いております。 で、次3枚目です。3枚目はですね、あの 、 ま、残りはいいし、ま、のり白のが残って いるのは共通です。で、これ、あの、最初 から別な共問、あの、テキストの共問、 こう見ていったところ、3枚目の共問が ちょっと違っていてですね、調べたらこの 3枚目になっている神は本当は18枚目 だということがこのお経の文言から分かり ました。 裏に3と書いてるんですけども、実は後ろ の方の18枚目でした。ま、応がってい ないのでバラバラなので、あの、間違えた か 辻妻が合わなくなったか なんだと思われます。 で、実際の3枚目はですね、残っており ません。ま、住田町にもたらされた時から かけていたのか、まあ長い間にこの3枚目 だけさらにどこかに流出したのかそれは 分からないです。 だから この3と書いたのはもうこれが失われてい た時あの時代だと思われます。 で、これが4枚目です。 後ろに4と書いてるんですけども、あの、 元々の3枚目がかけていて、3枚目じゃ ないのに後ろに3って書いてますから、 これは本来の4枚目でいいようです。辻様 は会います。 後ろに4と書いています。 5枚目です。 5と書いてます。 ま、裏にもこうのり代が のりの跡が分かるような状態です。6枚目 です。 まあ、1枚目などに比べるとだいぶあの ボロボロになっていないし、金の残りも 良いということがわかります。 6枚目裏 7枚目です。 8枚目、 9枚目、その裏です。 で、10枚目です。 11 で、これ12枚目で、ま、あの、これは ですね、あの、初蔵とかの家庭の問題は ないんですけども、1つ親と思うことが ありました。 これ、あの総一教、あの手本にした テキストの相一の今移した第に対応する ところなんですけども、 この行なんですけども、 この1業行業はですね、この12種の中で は1業抜けていることがわかりました。 この行です。 はい。 この行が この住田のお経では抜けています。分かり づらいんですけども、このゼ、このこ れっていう図字ですね。ゼがここです。で 、次がこのハと読むんでしょうか?この人 行になるんですけども違います。1飛んで 円。これが次の行に来ていて、どうもここ 1行を抜けております。 本来 この行とこの行の間にもう1行本来はある ということです。 で、まあ、多分これはですね、あの、その 平安時代、藤原の秀平の時代処者した 僧侶が一業者 をあの、間違あの 飛ばしてしまったというようなことだと 考えられます。ま、何分あるだけ5300 数10巻の中、6000万文字の中です からこういうこともありうるのかと思い ます。 まあ、うん、そういうこともあるんだなと うん、いうようなものです。 意外とですね、あのこの今近事事教じゃ ないんですけども、以前平泉外談センター で秀平の金銀事 あの交渉一教を削用してきて展示したこと あるんですけども、それを見ましても ちょっと同じ文言を繰り返し書いてしまっ たりですね。こういうことは見受けられま すってから、あの、 特の高い処者なさったあの僧侶の方でも そういうことはある。それが人間だという ことなのだと思いますね。まあ、一義を 抜けてる方と言ってこの住みた が偽物だとか価値が低いとかそういうこと は全然ないと思います。むしろあの実際 手書きで処射したものだというようなあの 証拠、むしろこれが本物だというような 証拠にもなるかと思います。 で、これが12枚目今の裏です。 で、13枚目。はい。ノりの後などが 分かるのは同じです。 その裏です。 はい、14枚目 裏です。 で、15枚裏、 16枚の裏です。 はい、17枚目 で、この17枚目のこの次、本来の10、 本当は18枚目だったのが裏に3と書いて いるこれです。ここに18枚目にこの3枚 目があの入ることがわかりました。 で、これは背中にこれで最後なんですけど も、これは後ろに18と書いてるんです けども、本来はだからこれが19枚目と いうことがわかります。で、ま、お経の 最後もあのひ、あの始まりと同様にいく度 も広げられて見たり、指でこうなぞって見 たりしたようで痛みが一々しいです。 こ最後にタイトルを書いて終わっていると いうことです。 後ろ18と書いてるんですけども、ま、 本来は19だったわけです。 で、ここ激しくこう剥がす跡があるんです けども、 これはその次のこれがついていたと思い ます。で、これは軸に巻きつける部分だっ たようです。 その裏です。 で、本来あったであろう軸、それから軸の 端っこのこの軸鼻は失われているという ことです。 あの、2枚ずつ重ねて巻いて 箱に収めてありました。だから一見巻き物 上にはなって納められておりました。 で、そのお経はですね、あのこのような木 の箱にですね、入れられて納められていた ようです。で、これが箱の蓋です。 で、こっちは箱の底ですね。あの、入れる 箱の底にそれぞれこのような墨書きがなさ れていました。 箱の蓋にはですね、近命点の 染め室って読むんでしょうか。線筆と書い ていました。で、この染めるの字のところ はこの誠という字をこう消してあります。 最初は近命天皇の と書いていたのを真のところを消して 染めるという字が書かれています。 で、箱の底にはですね、 稲子沢ので弁形の書と 弁形の書と少も 高野さん 認子 は 近命点のごと鑑定整 とあの書いています。 まあなかなかこれど、どのような意味なの か分かりかねるところもあるんですけども 、あのこういうことが箱に書かれてその中 にあの先ほどのお経が丸められて一見 巻き物上になって納められていました。 で、ま、こっちの箱のあの蓋の方、ま、 近命天皇 がの新筆、近命天皇が書いたものだという ような意味なのかと思われます。 で、箱底の方はですね、稲子沢ので弁形の 書と少するも高野人海総子は近命天皇 ご秘筆と鑑定整理というものなんですけど も、ま、あの、おそらくは稲子沢から出た ものだと。稲子沢のでっていうのはで、 弁形の書と消するも弁形の処者したものと 承しているけれども高野さんの認会総師と いう人は近命天皇のご親と鑑定したという ような意味なのかとあの私は思います。 で、稲子沢は何かっていうことなんです けども、あの、稲子沢長者のことかと思わ れます。で、私あまり詳しくないんです けども、大船の井川町にあのいた、今でも 子孫の方はあの続いているそうですけども 、そこの伝説的な金持ち、伝説的な長者の 稲子沢長者のことだと考えられます。 つまりこのお経はですね、元々は稲子沢 長者のところにあったと。そこからあの おそらく住田の方のところにあのもたらさ れた、譲られた愛いは勝ったというような ことなのかと思います。 で、 弁形の処者したものだと言われていたけ けれども荒野さんの認会総師という人に 鑑定いただいたところ近命天皇のご親筆と 鑑定したということなんだと思いますけど も高野人士 なる方がですねどのような人なのかあの はっきり未だわか分かっておりません。で 、あの著名な方では宮崎任海、この方荒野 さんの僧侶だったそうです。で、意外と 最近の方で、え、明治、え、21年だった かな、1889 年からに生まれて1975年、昭和50年 に亡くなった方で色々あの著作も多い方の ようです。 それから近命天皇なんですけども、罪が 成暦ですね。成暦539年から571年の 天皇 誤在意した天皇です。で、近命天皇の時代 に日本に仏教がもたらされたと。で、仏教 の伝来に重要な役割を果たしたあの天皇 陛下なのだそうです。まあ、なんですけど も、実際このお経が近命天皇が処者した ものではちょっと時代的にはあり得ない、 考えられないと思います。 で、稲子沢長者なんですけども、あの、 おそらく皆さんの方が詳しいのかと思う けども、 これちょっとあの民族学の方の本から引用 したんですけども、ま、岩手県大船都市、 井川町、船畑に稲子沢というヤ王の家が あると。戦争は云々とで江戸時代には非常 に高能で、ま、仙台犯にも急量などあの すごい額を上能しているというようなこと だそうで実際にあのそういうものすごい 合能がイ川町の船畑にいらっしゃったと いうことです。 で、ま、あの、その他にそういう施実とは 別にですね、あまりものすごいあの、合長 なので様々な伝説伝承があるというのが このあの論文、あの、文章のあの内容です 。 で、まあ、今でもあの子孫の方続いている 鈴木さんという家のようですけども、あの 明治以降ですね、ま、没落したというよう に言われてるんですけども、ま、江戸時代 があまりにものすごく合能だったから、 あの、没落したように見えてるわけでなん ですけども、ま、今でも続いてるオタクの ようですけども、かなり色々あの仏進行も 扱ったようで、 あの江蔵市教度文化官に今展示されている 100、100体の観音像、あれもあの 稲子沢のにあったものを明治以降にあの岩 やの方に譲ったということのようです。 ま、そのようなことから考えると明治以降 に稲子沢から の文物のうちの 所お経がですね、住みた蝶の方に譲られた 、譲ったということは非常に考えられる ことで、箱の稲子沢から出たということは 、あの、非常にあの、客観的、あの、客観 性があるのではないのかと考えております 。で、ま、その稲子沢では弁形の所射した ものだというような伝えがあったのかと 思われます。ま、弁形の書いたもののって いうのは突票しもないような感じもします けども、事代的には弁形の時代と非常に あのそれに分かっしてると考えられます。 で、宮崎忍、ま、人会総師についてなん ですけども、 まあこれ、この方がこの箱書きにある認会 総かどうかは、あの、結論、あの、付け までには至っておりません。で、この宮崎 忍という方、宗教評論家だとあの、書いて おりました。は荒野さんの僧侶であった ようです。で、明治22年徳島県生まれ、 昭和50年、ま、あの、ま、最近といえば 最近ですね、2亡した方だそうです。で、 信言州の今でも続いている、あの、信言州 のなんていうか解放みたいな新聞みたいな 6大進法という雑誌があるんだそうです けども、その編集主観を長くあの務めた方 だそうです。その他荒野さん護衛士事務局 理事、あの、ま、そういう、あの、何か 事務局があるんでしょう。それらを務めた ということです。で、著作も多くてですね 、あの、特に戦前なんですけども、公防 大使の法音主義とか荒野賛報酬などの 方だそうです。非常に、まあ、戦前などに は著名な宗教評論家だったようです。 で、ま、この方が箱書きにある認会総か どうかは分からないんですけども、あの、 ま、これはただの想像なんですけども、 これ著名な方ですから、 ま、住みた内しは気仙のどこかにあの呼ば れて公演などをしたりしたことがあって、 その際に持ち主のま、数前の方が見て もらったなどということも考え られます。ま、考えられるというか想像さ れます。ま、その認会さん、これは近命 天皇のご親筆だとあの鑑定したわけなん ですけども、おそらくそういう時はですね 、非常に多くの方が色々お仕用 なあの古いものなどお見せしたりするのか と思います。で、忍海さんもあの1つ1つ 丁寧には対応できずそういう答えになった のではないのかとあの想像ですね。想像さ れるのかもしれません。いずれ、ま、 そんな昔のことではないのですから、この 宮崎認海市住田内しは、あの、この気仙 地方など 訪れたことはないのかななどと、あの、皆 さんにお聞きしたいところです。 あの、まだまだ全然あの、 調べはついておりません。当初はですね、 あの3月とかの段階では、ま、荒野さんを 名乗る法老みたいな人があの世まみた あたりにやってきて一晩の宿をあのこうて その時にあの俺礼に鑑定したとかそういう ことかと想像したんですけどもいずれ荒野 さんの忍耐あの に当てはまるこの宮崎人会という著名な方 はあの実際にいることは確かめることが できております。ま、今後あの 色々 ネットとか 見たんですけども、あまりこれ以上の 詳しい来歴は分からなかったです。 で、全体のまとめをいたします。 え、住田町で中村事教が発見されたことは 被済みと気仙地域の関係の深さを示して おります。ま、これはあの当然なことです 。で、このお経共官がもたらされたのは 江戸時代以降の可能性が高いのですけども 、平泉の時代だけではなくてそれより後の 構成にあってもこの地域がですね、住田町 気仙地域が平泉文化をする気分が強かった ことを物語っております。ま、あの江戸 時代とかになってもこれは中村寺平泉の お経だ。ということをこう重要視するよう なあの気運があったことがわかります。 で、中村事況の大半はですね、国報に指定 されております。あの秀平の近事一教も 国報に指定されております。 で、そのような中村事況の一部が住田町に あることはこの地域にとって重要な宝、 あの、非常に重視すべきことだと考えます 。それからですね、住田町には12世紀 平泉の時代の網田三存座像が祭れ続けて おります。 この江戸時代とかその高生の話じゃなくて 12世紀平泉の時代にも平泉と住田は強い 関係を有していたということがあのこの 仏像のあの存在から指摘することができ ます。これあの世田前の交渉寺に祭祀られ ております。網田三存座像。え、満ギも なく12世紀平泉と同時代の政策のもの です。 で、ま、あの、3金、金の鉱山の掘りの ために、あの、この仏像を制作して祭った というような伝承になっておりますけども 、ま、そういう側面もあるのでしょうけど も、このような仏像があるっていうことは 、ま、平済みと直接関係を有する有力者が 住町長にもいて、その方が祭った仏像 なんだと考えられます。積田自体の金だけ ではなくて、あの、気仙地帯、一体参金 地帯ですから、あの 、平済と気仙の海岸部を結ぶこの 住田町にですね、そういう流力者がいた ことは十分に考えられるわけです。だから 仏像以外にそれをあのまった有力者の巨 なども住田長域にあることあるのであるの であろうと私は考えております。ま、今後 の12世紀における住田地域の研究の進化 を強く望みます。 はい。ありがとうございます。 [音楽]

平安時代に大きな勢力を誇っていた奥州 藤原氏。
その3代 秀衡が、中尊寺に奉納した仏教集「紺紙金字一切経」。
「この経巻の一つが住田町で発見された」との話題は、今年の春の大きなニュースになりました。

850年あまり前の大変貴重な経巻。

住田町教育委員会では、町制施行70周年の記念事業として住田町文化・産業まつりで一部を公開。また、町内で発見された経巻の調査を行った
公益財団法人 岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センターの上席専門調査員を講師に招き特別講演会を開催しました。
この番組では、その様子をお届けします。

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