会津若松城は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城です。
地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれますが、同名の城が他にあるため、
地元以外では会津若松城と呼ばれることが多くなっています。
文献では黒川城、または会津城とされることもあります。
 城は復元された建造物であるため、国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されています。若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心でした。
 藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となりました。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されています。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館があります。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっています。
 1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされています。諸説ありますが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していました。以後、代々蘆名氏の城でした。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築きました。
 1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にしました。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられました。
 代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より92万石の大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備しました。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行いました。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われています。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められました。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に
金箔が貼られたものが出土しています。
 1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に減封のうえ下野国宇都宮に移されました。かわって越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封しますが、1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉氏を30万石に下げ、出羽国米沢に移封しました。翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城しましたが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封されました。
 代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組み直させています。1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となりました。
 1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、
会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けました。1か月間籠城の後、
板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日(太陽暦11月6日)開城しました。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったものの修復は行われず、しばらく放置された後、解体されました。

2020年11月撮影

1 Comment

  1. 会津の誇り。日本は新政府軍が統治したという流れですが、五稜郭・土方歳三と並び最後の砦であった、という個人的印象です。

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