鎌倉街道上道 奈良梨宿 Kamakura Kaido Kamitsu-do , Naranashi-shuku Post Town, Japan 2025/09奈良梨宿#鎌倉街道上道#Japan

鎌倉街道上道

06:26 大スギ    36.082514, 139.288549
08:00 奈良梨宿駅  36.080691, 139.287892
10:00 普賢寺 36.081440, 139.286299
10:13 萬福寺 36.081423, 139.286927
16:21 大字奈良梨天王原北 馬頭観音 36.081977, 139.283721
17:40 大字伊勢根普済寺東 36.083674, 139.281814
22:45 大字能増永昌寺大松跡北  36.085012, 139.280348
23:00 普光寺  36.113314, 139.256573
24:10 赤浜     36.116698, 139.254534
28:55 荒川河畔付近 36.118087, 139.253954
30:06 お茶々が井戸 36.120925, 139.217574

鎌倉街道上道(かみつみち) ― 比企郡奈良梨村の奈良梨宿

――ある日の奈良梨。
冬の夕暮れ、雪雲の迫る比企の山あいを、鎌倉からの早馬が駆け
抜ける。使者の顔は冷気に凍りつき、馬は泥と汗にまみれていた
。村人は急ぎ新しい馬を引き出し、旅籠の女は温かな粥を差し出
す。使者は息を整える間もなく再び飛び乗り、信濃へ向けて駆け
去っていく。その背を見送る村人たちは、「ここはただの村では
なく、武士の世を支える要である」と感じたことであろう。

戦国の騒乱を経てもこの道は利用され続けたが、江戸時代に中山
道が交通の主役となると、鎌倉街道や奈良梨の中継地は歴史の陰
に退いていった。

しかし今も小川町周辺には「奈良梨」の地名が残り、古道跡や伝
承が語り継がれている。往時の宿駅の姿は失われたものの、地名
そのものが、この地がかつて鎌倉街道を支えた拠点であったこと
を静かに物語っている。

鎌倉街道上道とは、鎌倉時代に東国の政治的中心地であった鎌倉
と、武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)を縦貫し
、さらに上野国(群馬県)を経て信濃国や越後国へ通じたと考え
られる幹線道路網の一つを指す、歴史地理学上の呼称である。

鎌倉と各地を結んだ道路網は後世「鎌倉街道」と総称されるが、
特に武蔵国を通過する主要な道筋は、上道(かみつみち)、中道
(なかつみち)、下道(しもつみち)の三道に区分される。

主要経由地(武蔵国)には、村岡(藤沢市)、小野路(町田市)
、関戸(多摩市)、府中(国府)、小手指原(所沢市)、苦林宿
(毛呂山町)、笛吹峠(嵐山町)、高見・奈良梨(小川町)、赤
浜(寄居町)などが比定されている。終点は上野国(高崎方面)
を経て、さらに信濃国・越後国方面へと通じていたと考えられる

「鎌倉街道上道」という名称は近世以降の呼び方であるが、道筋
そのものは鎌倉時代(12世紀末~14世紀前半)に幕府の交通網と
して重要な役割を担った。ルート自体は鎌倉幕府の成立以前から
存在し、古代末期から平安時代にかけての官道や地方路を基盤と
して整備されたものと考えられる。

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのち、鎌倉を中心とする放射状の道
路網が整備され、上道も軍事・行政・交通の要路として頻繁に利
用された。この頃には各地に「宿駅」が設けられ、人馬の継ぎ立
てや伝令の中継拠点として機能したとみられる。

室町時代に入ると、政治の中心が鎌倉から移るにつれて街道の重
要性は相対的に低下した。戦国期には軍事利用が続いたが、江戸
幕府成立後は五街道が整備され、人馬の往来はそちらへ移り、鎌
倉街道の多くは脇街道や在地道へ変化していった。

その途上、比企郡奈良梨(現在の埼玉県小川町奈良梨付近と推定
される)には中継地が存在したと考えられる。『吾妻鏡』には奈
良梨の地名が見え、鎌倉から北国方面への軍勢移動や使者派遣に
関連する記事が残されている。制度的に宿駅として明確に位置づ
けられていたかは定かではないが、人馬の継立や休息を担う場と
して機能した可能性が高い。

鎌倉街道上道は単なる交通路ではなく、中世東国の政治・軍事・
経済において極めて重要な役割を果たした。

音楽
時は流れる written by のる
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