赤穂市坂越の船祭り 小倉御前の碑 2025年10月12日 9:26

赤穂の昔話・第23話「小倉御前の墓」2021年01月30日 
  
 坂越の本町に、小倉御前の墓といわれる五輪の石塔があります。この石塔には、南北朝の悲話と、赤松一族の哀話とが、からまって伝えられています。
 赤松則村の孫の子である赤松満祐は、嘉吉の乱を起こして、将軍足利義教を殺しました。その後細川・山名氏らに討伐されて、赤松満祐は自殺、家臣もばらばらになってしまいました。
 一族の則繁は朝鮮に脱出して、清水将軍と名乗る、有名な海賊になりました。満祐の弟、彦五郎・彦三郎は、鹿久居島で赤松再興を計画しましたが、失敗に終わりました。
 それから約十五年たって、満祐の弟、義雅の孫にあたる赤松政則は、残党を組織しなおして、赤松家の再興を計画しました。再興するためには、足利幕府に何か手柄をたてて、取りたててもらわなければなりません。考えたすえ、天皇のしるしである神璽(勾玉)を、吉野朝(南朝)の皇胤(天皇の血統をひく人)から奪って、北朝の天皇に献上することで、その手柄を認めてもらうことにしました。
 長禄元年十二月二日、雪の降りしきる吉野に入り、その山中で、後亀山天皇の皇子、一の宮・二の宮を殺害して、神璽を奪い取りました。それから難波に出て、舟でひとまず坂越に引きあげてきました。そして、坂越から京都の足利幕府に、ことの次第を報告して、返事を待ちました。
 政則は、坂越に滞在している何日間か、毎夜、毎夜、吉野の亡霊にうなされました。そこで政則は、その霊のたたりを鎮めるために、五輪の石塔を作って、手厚く供養しました。
 吉野で殺された後亀山天皇の皇子、良泰親皇が、小倉御前と呼ばれていたところから、その石塔が、小倉御前の墓といわれるのです。
 赤松氏は、この功績によって家を再興し、応仁の乱を利用して旧領を復興させることができました。(赤穂市教育委員会刊『赤穂の昔話 第二集』・「小倉御前の墓」より)
https://www.ako-minpo.jp/news/15254.html

坂越の船祭り

概要
国の重要無形民俗文化財に指定されている坂越、大避(おおさけ)神社の祭礼「坂越の船祭(ふなまつり)」は、塩回船の港町として栄えた坂越の伝統行事。航海安全を司る大避神社で祭典が行われた後、浜辺までの参道を神輿や獅子舞が練り歩き、国の天然記念物の生島お旅所までの船渡御が開始されます。十数隻の船が旗や幟を立て、生島へと巡航していきます。日没後、提灯に灯を点し、各船が還幸する風景も幻想的な美しさです。

北前船寄港地と塩作りの歴史文化の二つの日本遺産でともに構成文化財になっています。大阪の天神祭、広島・宮島の管絃(かんげん)祭と合わせ、瀬戸内三大船祭りに数えられる祭りです。

開催日
10月第2日曜日

問い合せ先
坂越大避神社
TEL:0791-48-8136
https://www.city.ako.lg.jp/sangyoshinko/kanko/hunamaturi.html

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