令和6年9月21日【物集女宗入450回忌法要】清浄華院

[音楽] え 、 おじ [音楽] 長 60万 の 豊 が 言水 [音楽] 術物園 約億8万千層 [音楽] せぬ よ [音楽] なみダブナムアミダブナムアミダブナムアミダブナムアミダブつナムアミダ [音楽] がおら場所といは今のこ士ですね、えのモスメという場所でございます。 ま、あの、ノとしてもですね、え、これ [音楽]

令和6年9月21日、現向日市物集女町にある物集女城跡の最後の城主「物集女宗入」公の450回忌法要をお勤めしました。
当院には宗入公のお像が伝来しており、地元の有志で結成された「物集女宗入公没後450周年記念事業実行委員会」の依頼で行われました。

悲劇の武将の450回忌として飯田台下御親修の下で法要が営まれ、お像の修復開眼、また実行委員会の発願で製作された模刻像が開眼されました。
宗入公とも縁深い勝龍寺城を拠点に活動されている「京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ」さまなど甲冑姿の武将たちが焼香し、式後は剣舞も行われました。また当院よりお像の解説や、中西昌史実行委会長の紙芝居も行われ、参列者に宗入公への理解を深めて頂きました。

〜物集女宗入公とそのお像について〜

物集女城は現京都府向日市物集女町(旧山城国乙訓郡物集女庄)に現在も土塁や水堀を残し、現在は国の史跡に指定されています。
城が所在する桂川西岸域は「西ヶ岡」とよばれ、京都の公家や寺院などの諸勢力の領地が点在する近郊農村でしたが、権力者と渡り合うために地域で結束し、時には武力を持ち「一揆」となって歯向かう事もありました。室町時代頃には代表者が「国人」と呼ばれるような武士化し、京都の交通・経済・政治にも大きな影響力を持ちました。

西ヶ岡の国人たちは「西岡衆」などと呼ばれ各村で小規模な城館を持ち、それぞれに諸勢力の領地の管理をし、お互いに協力・反発しつつも、権力者の求めに応じ時には権利の主張をするなどして地域をまとめました。そんな中でも大きな勢力を持ったのが物集女城を拠点にした「物集女氏」でした。

西国街道や丹波道などが交わる交通の要所に拠点を置き室町幕府や三好長慶政権とも強い関りをもった物集女氏でしたが、戦国時代になると新興勢力として京都へ入った織田信長には抵抗した様で、信長が西ヶ岡支配を任せた細川藤孝に対して度々反発し、最後の当主となる物集女宗入公は天正3年10月に勝龍寺城(現長岡京市)にて暗殺され、物集女城も攻め滅ぼされてしまったとされています。

地元領主としての誇りを貫いた悲劇の武将ですが、権力者に逆らって殺された人物として公に語ることが憚られた事も有ったようです。しかし地元では密やかに物集女氏や宗入公が祀られ続け、各地に散った子孫たちも先祖を誇りにしていた事などが最近知られるようになりました。

当院に伝来する宗入公のお像は彼が創建した聖衆院という寺院で祀られていたものです。聖衆院は「物集女村城之内(詳細不明)」という場所にあったようですが、江戸時代中頃には荒廃してしまい、当院の隠居所とするため岡崎(現左京区)に移転しました。明治初期に廃寺となり、遺物は当院に納められこのお像も一緒に伝わったようです。

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