【100名城シリーズ】No93 人吉城の歴史と魅力
[音楽] さて、今回は熊本県にありますよ。吉城ですね。こちらを、え、深く見ていきたいと思います。 はい。よし城 なんと言っても約 700年。 ええ、1 つの大名家らしがずっと収め続けたっていう。これは日本の城の歴史の中でもかなり珍しいですよね。 いや、本当に珍しいですね。 700年1 つの家が同じ場所を拠点にし続けるっていうのはう、これは日本の歴史全体から見ても驚くべきことだと思います。 [音楽] 戦国時代とかいろんな道乱があったわけじゃないですか? そうなんです。戦乱の時代も平和な時代も、えっと、様々な変化を乗り越えてきたその証ですよね。 うん。 だから人よ市場を理解するっていうのは単になんていうかの構造を見るだけじゃなくて はい。 その嵐らしっていう一族の、ま、匠な生き残り戦略というか ああ、生き残り戦略。 ええ、それとか人よく地方の文化がどう育まれてきたか そういうところまで繋がってくる非常に重な場所だと思います。 なるほど。まず基本的なところから行くと鎌倉時代 はい。 さ長寄りという人が気づいたと原因より共に使えた人物だそうですね。 ええ、そうですね。 面白いのが傷の時に三日月の模様の石が出たと。 ああ、そのエピソードありますね。 それで先月城とか三日月城っていうなんかやな別名があるんですよね。 ええ。ま、その城の長い歴史の始まりをこう会い揃いような話ですよね。 [音楽] うん。うん。 でもやっぱり1番注目すべきはその継続性 700年。 ええ、鎌倉から明治心まで、ま、資料によっては約 670年とか700 年近くとか言われますけど はい。 35代にわってらしが白主であり続けた。 35代。 これはあの例えばタイの森とかさ磨の島寿司 ああ、島ず ええ、そういったところと並ぶ本当に数少ない例ですね。 でも九州って周りには島ずとかあと大友とか結構有力な大名がイメージですけど そうなんですよ。 その中でどうやって700 年もなんかただ強いだけじゃなさそうですよね。 まさにそこが非常に興味深い点なんです。 はい。 佐らしの歴史をこう見ていくとですね、強大な怒鳴人に囲まれながらもその時々の状況に応じて非常に匠みに立ち回がってるんですよ。 へえ。 ある時は、ま、新獣、つまり嫌いになるわけですね。 うん。うん。 で、またある時は独立を保つ。外交渉をうまく使って両地を守り抜いた。 外交ですか? ええ、例えば豊秀吉の九州兵の後とか はい。 関ヶ原の戦いの後 はい。 こういう大きな戦いの後でもちゃんと処料をアンドされている。つまり両地を認められているわけです。 すごいですね。 これは単なる幸運とかじゃなくて、やっぱり凡ななんていうか政治感覚。 ああ、政治感覚。 ええ、時代の流れを読む力があったからじゃないかなとそう思いますね。 なるほど。力だけじゃなくて、その知恵とか戦略で乗り切ってきたってことですね。 そういうことだと思います。 その中で城自体の役割とか姿形も変わっていったんでしょうね。 ええ、もちろんです。 最初はやっぱり地域の支配拠点っていう性格が強かったと思うんですが はい。 戦国時代になると 19 代投手の佐原の頃ですね、この時に防御力を高めるための大規模な回収が行われています。 防御力アップ。 ええ、石垣きなんかがこう導入されて、より、ま、戦闘的な城へと変化したと考えられますね。 うん。 そして江戸時代に入ると今度は人よし班 2万2000国の半長。 班長、つまり政治の中心。 そうです。政治の中品地としての役割を担うことになったわけです。 なるほど。 じゃあ次はその城の構造について見ていきたいんですけど。 はい。 まず立致がすごくないですか?熊川とその主流の胸側が合流する地点の丘の上。 ああ、そうなんです。まさに 川が天然の堀みたいになっててまさに川城って感じですよね。 その通りですね。 自然の地形をこう最大限に利用するっていうのは白づりの基本中の基本ですけど、 ええ、 一東市場はその典型例と言っていいと思います。川を防御線にして丘の傾斜を利用して各つまり区画されたエリアを配置していく。 各 ええ、専門的には低格式って呼ばれる配置ですね。 低確式。 はい。麓元の3の丸から2 の丸、そして頂上の本丸へとこうだんだんに登っていくそういう構造です。 本丸にはあのお城のシンボルとも言える天使角あれはなかったんですか? あ、そうなんです。記録によれば本丸には天手は作られなかった。 ええ、 代わりにご魔堂があったとされていますね。 ご魔堂。 ええ、で、白主の住まいである五点は 1つ下の二の丸にあったようです。 なるほど。 じゃあ、必ずしも全部のお城にドーンとした天があったわけじゃないんですね。 そういうことですね。城の機能とかその時代の白主の考え方によって形は様々だったということでしょう。 そして石垣東市場にはなんか他ではあんまり見られない珍しい工夫があるって聞いたんですけど あ、来ましたね。それです。幕に気づかれた武者返しと呼ばれる石垣ですね。 武射返し。 熊本城の無者返しとはまた違うんですか? ええ、ちょっと違う特徴があるんです。特にお立ち方と呼ばれるエリアの石垣に見られますね。 お立ち方どう違うんでしょう? 人よのものはですね、石垣の 1番上の部分天場って言いますけど、 天場はい。 そこの平らな石が少しだけ外側にこう突き出てるんです。 突き出てる。 え、羽出し後方っていう技術なんですけど。 羽出し後方。 これが文字通り敵の兵隊が石垣きを登ってくるのを物理的に邪魔する返しの役割を果たします。 [音楽] なるほど。出っ張ってるから手がかりにしにくいし登りにくいと。 それだけじゃないんですよ。 お、 この突き出た石っていうのは構造的に上から落としやすくもなってる。 ああ。 だから石垣に取り着いた敵兵に対して上から石を落として攻撃する。そういう手段としても考えられていたようです。 防御だけじゃなくて攻撃もできる。 ええ、両方の機能を持たせた非常に実践的な工夫と言えますね。 しかもこの羽出しっていう構造は日本の格ではかなり珍しいって。 そうなんですよ。 これは例えば函館のご量郭とか ああ、五角星型の ええとか長野の竜王課場とかわゆる西洋式の蓄上頭を取り入れたお城 [音楽] はいはい あるいは幕松のお題場なんかにも見られるものですけど伝統的な日本のわゆる和敷のお城では極めて稀れです。 へえ。 で人よ市場のものがその中でも 1番規模が大きいとされていますね。 なんでまた松の人市場にそんな西洋的な技術が入ってきたんですかね。 これがまた興味深いところで 1つには文休2年1862 年にですね、トラス家事っていう大きな家事があったんです。浄下町から日が出て [音楽] ああ、家事ですか。 え、この家事の後燃え広がるのを防ぐために石垣きをより高く、そして、ま、防化性も考えて回収したと。 なるほど。防火壁。 そういう意味合いもあると思います。 その時に当時の最新技術としてこの羽出しが取り入れられた可能性があるんですね。特に川に明した部分が高く熱く作られているのは防御だけじゃなくて防価の意味もあったのかもしれません。 防御、攻撃、そして防価なんかその時代のこう妖精に答えて変化してきた感じがしますね。 ええ、まさに まさに生き残ってきた城っていうあと川としての特徴を示す意向も残ってるんですよね。 はい。熊川に面した船付き映と繋がる水の手門の後地ですね。 水の手。 ここは文字通り船でこう物資を運び入れるための重要な玄関口だったわけです。 はい。 品には米像とか塩像とかもあったことが分かっていて、川がいかにこの城の生命線だったかを物語っています。 うーん。なるほど。でも 700 年の歴史の中では平和な時ばかりじゃなかったはずですよね。危機みたいなのは もちろんありました。記録に残ってる限りですけど戦国時代の大営 6年1526年ですね。 はい。 この時ヒ雅の北原っていう勢力に攻められて城が放されたことが 1度だけあったようです。 あ、攻められたこともあるんですね。 ええ、でもこれをちゃんと乗り越えています。 すごいな。江戸時代に入ってからはどうだったんですか?さっきのトラス家火事のような災害が大きかった。 そうですね。江戸時代には 2度大きな火災に見舞われてますね。 2度も。ええ、今日は2年1802 年にも白内から日が出て、そして文岐 2年1862年のトラス家事 うん。 これらの火災で白内の主要の建物は残念ながら多くが失われてしまいました。 そうか。そして明治時代。 はい。 日本の多くのお城がそうだったように人よも大きな天気を迎えたわけですね。 人よ市場も廃になります。 廃上。 ええ、建物は取り壊されて内の木も切られたりしたと言いますね。 あら。 さらに追い打ちをかけるように明治 10年1877年の青南戦争。 青南戦争。 この時には最後タラル軍の拠点になって戦闘の舞台になったんです。 あ、そうなんですね。 ええ、この時にわずかに残っていた建物もほとんど焼けてしまったんですね。 旅重なる火災とか戦争で昔の建物はほとんどなくなっちゃったんですね。 そうなんです。残念ながら。でも 1つだけ お 奇跡的に堀合音というもんだけは戦下を招かれたんですよ。 堀合も ええ。1 度は市内の民家の方に移築されていたんですけど後にまた場内に再一築されて現在も見ることができます。 へえ。それは貴重ですね。 700年の歴史をつなぐ証人みたい。 そう言えるかもしれませんね。 今は人吉し公園として市民の皆さんの遺行の場になっているんですよね。 はい。昭和36年1961 年には国の指跡に指定されて平成 18年2006年には日本100 名城にも選ばれています。圧は大切に保存整備されていますね。 [音楽] 何か復現された建物もあるんですか?矢倉とか兵とか。 ええ、平成に入ってからですけど、発掘調査とか残された絵なんかを元にしていくつかの建物が木造で復現されました。木造で。 はい。住や倉とか大手モの脇にあった紋 はい。はい。 あとそれらをつぐ兵とかですね。これらがあるとやっぱりかつての城の景観を少し想像しやすくなりますよね。 うん。うん。白について学べる歴史館あるって聞きました。地下になんか謎の意向があるとか。 ああ、人吉場歴史館ですね。 2005年に会しました。 はい。 ここには人吉市場と相の歴史に関する資料が展示されています。そしておっしゃる通りその地下にはですね、発掘調査で見つかった総理の地下室の移向がそのまま保存公開されているんです。 石ぞりの地下室。 ええ、これが一体何に使われていたのか。隠し倉庫だったのか。 あれはその隠れキリスタンの洗礼施設だったんじゃないかとか 洗礼施設説も え、いろんな説があってまだはっきりとは分かっていないちょっとミステリアスな意向なんですよ。 へえ、面白い。 ただこの歴史館令和 2 年の合意で被災して一時休刊してたんですが 2025年の7 月にリニューアルオープンを目指して今準備が進められているところです。 あ、そうなんですね。再開が楽しみですね。 ええ、 白そのものの歴史もめちゃくちゃ深いですけど、一よしっていう街自体もすごく魅力的ですよね。九州の故郷都なんて呼ばれたり そうですね。風勢がありますよね。 この町の文化っていうのもやっぱり白と深く関わってきたんでしょうね。 まさにその通りだと思いますね。 700 年近くに渡るその相の統地。これは城だけじゃなくて白川町下町の文化とかにもすごく大きな影響を与えてきました。 うん。 その安定した支配があったからこそ独自の文化が鼻開いて現代にまで受け継がれているものが少なくないそう思います。 例えばク焼酎。 あ、ク焼酎。 これは有名ですよね。米を原料にした焼酎で 400 年以上の歴史があると。今じゃ国際的にも認められたブランド GI指定でしたっけ? そうです。そうです。地理的表示ですね。 すごい。 え、熊焼酎はもう人よし熊地方を代表する三品であり文化そのものですよね。たくさんの倉本が伝統を守りながら個性豊かなを作り続けています。 うん。 これもやっぱり市の時代から続く米作りとあとは熊川のあの清らかな水。この土地ならではの条件があったからこそでしょうね。 なるほどな。工芸品もなんですよね。 竹工とか家事とか ええ、一熊地方は良質な竹の産地でもあって古くから竹サイクが作られてきました。特に核かゴっていう四角かゴが代表的ですね。 格か。 あとは刀とガ事の流れを組む家事の技術も受け継がれていて、今でも刃物なんかが作られています。 へえ。 こういう手仕事の伝統がちゃんと残っているのもやっぱり浄化町ならではの魅かなと。 食も豊かそうですよね。熊川の恵み、あとかウナぎとかこれは外せない感じがします。 ええ、熊川の青龍で育つ愛はやっぱり確別ですし。 うん。うん。 ウナぎ料理も古くから親しまれてますね。あと一駅の駅弁。 あ、繰り飯有名ですね。 ええ、旅場を誘う名物として長年愛されています。こういう職文化も地域の自然と歴史の中でこう育まれてきたものですよね。 B級 グルメで餃子も人気とか聞きましたけど。 あ、そうですね。餃子も結構有名ですね。 そして忘れてはいけないのが一温泉。これも歴史が古い。 古いですよ。室町時代の記録にも登場するくらいですから。 [音楽] 室町時代。 ええ、泉室は弱性の炭酸線とかが多くて美人の湯としても知られてますね。 [音楽] 美人の湯いいですね。 歴史円文化が根付いてる土地です。 城を中心に歴史があって文化があって自然食温泉本当にいろんな魅力が詰まってますね。人よしは。 そうですね。 実際に訪れるとしたらどんなところに注目するとより深く楽しめそうですか? まず白跡ではやはり石垣軍ですね。 石垣。 特にさっきお話した無者会社の羽出し石垣。これはもう筆見です。 羽出し石垣き。 ええ、その構造のユニークさとか力強さとか間近で感じていただきたいですね。 うん。うん。 あとは復されたとか兵、現存する堀合いも、それから川との繋がりを示す水の手の跡。これらをこう順番に巡っていくと城の全体像とか機能が見えてくると思います。 歴史館が再開したら地下もセットで見たいですね。 そうですね。是非 アクセスはどうでしょうか? 公共交通期間ですと JR の秘殺線の人吉が最寄り駅になります。 はい。ただ、あの、令和2 年の合雨災害の影響で一部区間が今普通になってるんですね。 あ、そうでしたね。 ええ、なので大体バスでのアクセスになる場合があるので最新の運行状況を確認していただくのがいいと思います。あとは福岡とか熊本、鹿児島からは高速バスも出てますね。 車の場合は お車なら九州自動車道の人よしインターチェンジ、人よし ICから10分くらいです。 意外と近いんですね。 散索するとしたらなんかおすめの順番とかありますか? そうですね。例えば大手モの後から入って はい。 まずは歴史館。もし換していればで全体像を掴んでいただく。 うん。うん。 その後お方の後にある神社にお参りしてそれから貴重な現存以降堀合い門へ。 堀合いも そこから二の丸本丸へとの登って城の中心部を感じていただく。 で、下に降りて水の手の後で川との関係を確認して最後にハイライトの羽出し石書きをじっくり観察する。 なるほど。 そんなルートが考えられますかね。結構肯定差もあるので歩きやすい靴がおすすめです。 季節はいつ頃がいいですかね?やっぱり春とか秋。 まあ、どの季節も魅力もあるんですけど、気候が穏やかで白跡の緑とか紅葉が美しい春 3月下旬から4月とか秋の 10月から11 月この辺りは特に散索しやすいでしょうね。 夏とか冬は 夏はやっぱり熊川での川下りとかラフティング ああ、楽しそう。 あと花火大会とかアクティブに楽しめますし、冬はやっぱり温泉でゆっくり温まるのがいいですよね。 [音楽] いいですね。 熊川には冬限定の小たつなんていうのも登場しますよ。 こたつ風流ですね。お城の記念になるご上員ご上員とか 100 名場スタンプとかもちろんありますよね。 はい、あります。ご上員は白跡の中にある佐がご国神社でいただけます。 はい。それから日本100 名城のスタンプは人吉場歴書館ですね。休刊日には注意が必要ですけど、ここで入手できます。旅の記念になりますよね。 是非集めたいですね。さて、こうして人よ市場を 3球してきましたがいやあ、 700 年っていうまずその歴史の長さに驚きますし。 ええ、本当に。 それから自然の地形を匠に利用した縄張り、そしてあの無射返しのような他にはないユニークな工夫本当に多くの発見がありました。 そうですね。単に古いだけとか大きいだけじゃない人用市場ならではないこう個性っていうのが際立っていましたね。 うん。うん。 そしてその城が中心となって育まれた浄下町、浄下町の文化、熊焼酎とか伝統光景芸温泉、豊かな自然。これらがこう全部一体となって人よしという地域の奥行きを形作っているんだなっていうのがよくわかりました。 [音楽] [音楽] 1 つの大名家がこれほど長く続いた背景には単に地理的な条件が良かっただけじゃなくて、 ええ、 やっぱり佐原市のその時代の変化を読んで柔軟に対応していく凡な戦略みたいなものがあったんでしょうね。 間違いないと思いますね。 城の構造自体が中性的なものから石垣を使った金星的なものへ、さらに爆末には西洋的な技術も取り入れようと変化していった。 ええ。 それ自体がもうその証拠というか肖なのかもしれないですね。 まさに常にこう現状に甘じることなく生き残るためにそして両地を守るために最善を尽くそうとしてきた。その積み重ねが 700 年という時間になったんじゃないでしょうか。 うん。700 年という時間の中でこの城と浄下町はそこに住む人々の営波とか文化を深く静かにでも確実に形作ってきたんですね。 ええ、ですからもしあなたがこの人よしの地を訪れる機会があれば是非その時間の層っていうのを感じ取ってみて欲しいなと思いますね。 時間の層。 ええ、コケ無した石垣きにこう手を触れた時とか古い街並を歩いた時、あるいは熊川の流れを眺めた時、 700 年の歴史の中からどんな声が聞こえてくるか。 うわ、 それを想像してみるのもこの地を訪れる 1つの醍醐みかもしれないです。 人よし、そしてよしという土地が持つ深い物語に触れることができました。この探球があなたの知的後奇心をさらに刺激するきっかけになっていれば嬉しいです。
このエピソードでは、熊本県人吉市にある人吉城を徹底解説!
対話形式で、人吉城の知られざる歴史や、周辺の観光スポット、文化、グルメ情報までを深掘りします。
人吉城の歴史と特徴
700年以上続いた相良氏の居城、球磨川と胸川を活かした平山城、そしてユニークな「武者返し」の石垣の秘密。
別名「繊月城」「三日月城」の由来: なぜそう呼ばれるようになったのか、そのロマンあふれる物語に迫ります。
人吉の魅力
人吉温泉や球磨焼酎、竹細工など、城下町人吉の豊かな文化と特産品。
旅行計画を立てている方、歴史好きの方、そして人吉の新たな魅力を発見したい方は必見です!
#人吉城 #熊本観光 #人吉 #球磨焼酎 #人吉温泉 #歴史 #城巡り #日本百名城 #観光スポット #旅行 #ポッドキャスト #ラジオ