福岡市博物館 漢委奴国王印(金印)

福岡市博物館は、福岡県福岡市早良区に位置する市立博物館です。
 1989年(平成元年)に福岡市のシーサイドももち地区で開催されたアジア太平洋博覧会のテーマ館の跡地に1990年(平成2年)10月に開館しました。
 1972年(昭和47年)11月16日に福岡市中央区天神一丁目の旧日本生命保険株式会社九州⽀店の建物(重要文化財、現在の福岡市赤煉瓦文化館)に開館した福岡市立歴史資料館(1974年9月21日博物館相当施設指定、1990年3月末閉館)の所蔵資料と、福岡市美術館から移管した福岡藩主黒田家伝来資料の⼀部を引き継ぐ形で開館しました。
 シーサイドももち地区の中央に位置し、西側に福岡市総合図書館、北側に福岡タワー、川を挟んだ東側に福岡ドームなどがあり、周辺は観光スポットとなっています。
 なお、2021年(令和3年)にはかた伝統工芸館(2011年に福岡市博多区上川端町で開業)が博物館内に移転しましたが、博物館の改修のため、2025年(令和7年)5月2日に福岡市博多区博多駅前1丁目に再移転しました。
 博物館資料の収集は、開館前の1983年度(昭和58年度)から始められました。先述のとおり、旧福岡市立歴史資料館と福岡市美術館から移管した資料などを収蔵しています。
 旧福岡藩主である黒田家の貴重なコレクション(黒田資料)は、1978年(昭和53年)9月に黒田家から福岡市に寄贈されました(一部は寄託または購入)。福岡市美術館に所蔵されていた黒田資料のうち、歴代藩主の甲冑、漢倭奴国王印(金印)や名槍の「日本号」、刀剣や古文書類が福岡市博物館に移管されました。
 また、市民などからの寄贈された所蔵品が7割に上り、多くを占めているのも福岡市博物館の特徴となっています。
 常設展示は金印に始まり、板付遺跡、鴻臚館等、主に福岡市内の遺跡から発掘された遺物を中心に時代順に展示されています。
 現代の収蔵品では、現存する日本最古の国産自動車で機械遺産として認定されているアロー号を動態保存しています。

交通
西鉄バス博物館南口・福岡タワー(TNC放送会館)・福岡タワー南口下車
福岡市地下鉄空港線西新駅下車、北へ約1.1km(徒歩約15分)
西新駅・藤崎駅からバス利用も可能だが、本数は少ない。
福岡高速環状線百道出入口から980m

 漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、旧字体:漢󠄁委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)です。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もあります。
 1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されています。
 1931年(昭和6年)に、同金印は当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定され、世に知られるようになりました。金印の出土地および発見の状態は詳細は不明です。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託されました。
 1973年(昭和48年)に黒田家・東京国立博物館・文化庁の許可を得て、福岡市立歴史資料館が複製品を作成。材質純金24カラット。福岡市立歴史資料館・九州歴史資料館・文化庁・東京国立博物館も一顆を作成。翌年の1974年(昭和49年)より福岡市立歴史資料館にて展示しています。
 その後福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され(黒田資料の一つ)、1979年(昭和54年)から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で常設展示されています。貸し出し中は複製品が展示されており、福岡市文化芸術振興財団ではこの複製品から型を取ったレプリカを博物館監修の元で販売しています。
 出土地については文献上、筑前国那珂郡志賀島村叶崎(かのうのさき)または叶ノ浜とされています。志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内ですが、正確な場所は明らかとなっていません。
 1914年(大正3年)、九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と旧福岡藩主黒田侯爵家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を志賀島東南部と推定しました。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立されました。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出されました。ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていません。
 1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されています。
 通説では、江戸時代の天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説があります)、甚兵衛という地元の百姓が水田の耕作中に偶然発見したとされます。発見者は秀治・喜平という2名の百姓で、甚兵衛は2人の雇用者であり、那珂郡奉行に提出した人物という説もあります。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていたということになります。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定し『金印弁』という鑑定書を著しています。
 発見の経緯を記した「百姓甚兵衛口上書」は複製しかなく原本は散逸しており、所蔵する福岡市博物館によれば、いつなくなったのかも不明であるとされています。
 1931年(昭和6年)に、金印が当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定されたため、帝室博物館員入田整三が金印を測定し、「総高七分四厘、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六匁」の結果を得ています。
 1953年(昭和28年)5月20日、戦後初めて金印の測定が岡部長章(最後の岸和田藩主岡部長職の八男、昭和天皇侍従)によって試みられました。「質量108.77 g、体積67 cc、比重約18.1」、貴金属合金の割合を銀三分、銅七分を常とする伝統的事実からして22.4Kと算定しました。
 1966年(昭和41年)に通商産業省工業技術院計量研究所(現独立行政法人産業技術総合研究所)で精密測定されました。印面一辺の平均2.3477 cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.8877 cm、総高2.2367 cm、重さ108.7297 g、体積6.0625 cm3。鈕は身体を捩りながら前進する蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇鈕である。蛇の身は、蛇特有の鱗ではなく、円筒状の工具を捺して刻んだ魚子(ななこ)文で飾られています。蛇鈕は漢の印制とは合致しませんが、現在確認されている印を眺めると、前漢初めから晋代までで26例知られ、前漢初期に集中しているものの、後漢以後でも13例知られています。駱駝鈕が、北方諸民族に与えられるのに対し、蛇鈕は南方諸民族に与えられた可能性が高いとされています。日本は中国の東に位置し矛盾するように見えますが、この頃の中国は倭を南方の民族と誤解していたためだと考えられています。辺の長さは後漢代の1寸(約2.304 cm)に相当します。1994年(平成6年)の蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、出土している後漢代の他の金製品とも概ね一致しています。
 現在使用されている印鑑とは違って中央が少し窪んだ形状になっており、これは封泥用の印であるためと考えられています。後漢との正式な文書外交の展開で、恒常的に外交交渉を円滑に行うため、外臣と言えども漢の役人として印の使用を求められた可能性があります。1世紀の倭国内に木簡にしろ書簡にしろ封泥で閉じて通信する為の権力指令伝達機構や封をして読まれることをさけなければならないほどの識字率と広範な文字文化が既にあったと唱える研究者はおらず、今のところ国内での使用は考えられていません。金印と同時代に中国から下賜されたとされる鏡やのちの律令国家で正当な権力であることを保証し見せる駅鈴のように、「これを持っていること(見せること)がすなわち権力の正当性の証」であった可能性もあります。

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