葛飾の下町に迫る危機 商店街、食べ歩き、その先とは?|東京都葛飾区立石・せんべろ文化【小春六花】
ご視聴ありがとうございます。 今回は、東京都葛飾区の街に迫ります。 街を彩る通称「せんべろ文化」のいまと、その未来に注目です。 常連さんがあふれ、謎の呪文が飛び交う名店。無事に注文できるでしょうか。 ここは、京成押上線の京成立石駅です。 立石は、葛飾区ではやや南西寄りにあります。 区役所はこの駅から600mほど北にあり、最寄り駅となっています。 そしてこの駅の南側には、立石駅前通り商店街と立石仲見世があります。 商店街はアーケードに覆われ、120mほど続きます。 いまは平日の昼頃なので人がちょっと少なめですが、さまざまな業種のお店が集まり、街を支えています。 立石仲見世は、商店街に向かって右側にあります。 駅前の狭い路地を進んだところに、立派な入口が。 ここをちょっと入ったところにあるのがこのお店。 あたり一帯でひときわにぎわっています。 このお店が、もつ焼きともつ煮の名店「宇ち多゛」です。 最後の文字は多に濁点がついており、味わいある店名が特徴です。 ここは、立石を語るうえでは絶対に外せないお店です。 平日の昼から人がたくさん集まっている理由、それはこの宇ち多゛が立石のせんべろ文化の象徴ともいえる場所だからです。 せんべろ文化とは、1000円でべろべろになるまで酔っぱらえることの略です。 時代の変化や街の再開発により、国内では珍しくなってきました、そうです。 立石でせんべろ文化ができた理由を解説です。 立石はもともと、近隣の川を利用した水運が盛んで、米や野菜を江戸に出荷していました。 江戸の食料供給地だったのです。 街道は通っていたものの、京成線で隣の青砥などのほうが大きな集落で、立石は小規模な農村集落でした。 立石という地名の由来が、駅の東の公園にある祠に鎮座するこの石です。 立石という言葉は普通名詞で、道しるべなどに使われる石や、巨大な石製の建造物などを指しますが、 この石は結構有名らしく、ウィキペディアにも立石様として独立した項目があります。 江戸時代には高さ60cm以上あり、地面を掘っても底が現れなかったことから「根有り石」とも呼ばれ、 立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説もあります。 立石様は寒さに弱いので冬には縮み、暖かくなると大きくなるという、かわいらしい言い伝えもあります。 その後、立石様をはがしてお守りにする人が出たことや、まわりの土地が地盤沈下したことで、今ではほんの少ししか見えません。 立石様自体は、祠とあわせて東京都の史跡になっています。 京成立石駅の開業は、1912(大正元)年11月。 京成立石駅は、京成で最初に開業した駅の1つです。 当時はいまとは線路の位置や駅の場所が異なり、周辺では路面電車のように鉄道が道路上を走っていました。 その後、鉄道の線路を分離して安全性向上を図ることになり、 同時に洪水対策のための荒川放水路の建設が1913年に始まったことで、 ルートは1923年に切り替えられ、京成立石駅も今の場所に移転されています。 駅ができたことで、立石は農村から工業や住宅地へと変わっていきます。 駅前に人が集まり、のちの立石駅通り商店街や立石仲見世につながっていきます。 ところで仲見世というのは、普通はお寺などに結び付けられる言葉です。 お寺の参道の真ん中にお店がある、ということで仲見世です。 ただし立石仲見世のまわりには、お寺などはありません。 仲見世と名付けられた理由には諸説あり、浅草仲見世のにぎわいを目指したからという話や、 仲見世を形成するときに浅草の人の力を借りたからという話もあります。 いずれにしても立石仲見世は宗教的な参道ではなく、浅草仲見世にあやかって付けられた名前です。 立石仲見世が形成された当時は、まだ立石駅通り商店街が未発達で、 駅前から続く参道的な空間としての役割が強かったのです。 「うちも駅から伸びる参道のように、商売繁盛の拠点にしよう」という狙いだったわけです。 戦後には復興需要で人が増えていき、自然発生的に八百屋や魚屋などが集まったことで、買い物ストリートとして発展していきます。 これと並行して駅のまわりに町工場などが集まり、 職人が仕事帰りに軽く一杯できる場所が必要だったため、 安い酒場が自然に集まりはじめたのがきっかけです。 高度経済成長期には日本全国に立ち飲み屋や大衆酒場が増え、 立石も工場労働者の街であったため、低価格で飲める店が集まりました。 立石の場合、商店街や仲見世に多様なお店があり、惣菜屋やもつ焼き屋、立ち飲み屋が並び、 気軽にハシゴできる環境が整ったのも大きいです。 都心部ではバブル時代に地価が高騰し、再開発が進んだ場所もあった一方、 立石は住宅地と町工場のエリアで再開発の波に乗らなかったことが、そうしたお店が残った要因です。 2000年代後半から2010年代にかけ、立石がせんべろの聖地として紹介されたこともあり、観光地としての人気も高まっています。 立石駅通り商店街は駅からまっすぐ南に伸びるのに対し、立石仲見世は小文字のhのような形状です。 今回ご紹介する宇ち多゛があるのはこのあたりで、商店街に近いほうが出口、遠いほうが入口です。 というわけで、立石の名店、宇ち多゛に突撃です。 といっても、いきなりお店に入れるわけではありません。 この日は水曜日で、お店の営業時間は午後2時からですが、すでに人が集まっています。 宇ち多゛は人気店なので、開店前から人々が列を作って順番待ちをしています。 私が来たのは午後1時半よりちょっと前ですが、それでも遅かったようです。 駅に近い側には順番の早いお客さんがいるので、私は反対側の入口に並びます。 最初はのれんの内側に立って並んでおきます。 じきにお店の人が出てきて席を指定されるので、それを待つのがルールです。 初見だと何をどうしたらいいかわからないので、その場合は近くにいる人に尋ねるのがよいです。 地元の常連のお客さんもたくさんいるので、人に聞けばすぐわかります。 店内は男性客がほぼ100%で、女性客は男性客の連れが基本。 私のようなピチピチの女子高生が1人で来ることはほぼないようです。 もつ焼きやもつ煮だけでなく、店内では焼き鳥などもいただけます。 注文のルールは独特で、部位や焼き加減などを組み合わせた言葉を店員さんに伝えます。 事前に勉強してきたものの、私のようなぼっちの陰キャには、人がたくさんいる店内で注文を伝えるのは一苦労です。 近くの人の注文の仕方をまねして、同じものを頼む立ち回りも有効です。 食べたあとの串はテーブルにそのまま置き、箸置きとして使います。 お皿はそのまま重ねることで、店員さんが会計しやすくします。 慣れている人は料理もお酒も爆速で注文するので、あっという間にお皿が積み上がっていきます。 肉系のメニューが多いですが、大根ときゅうりを中心としたこのメニューのように野菜系もあります。 紅しょうがとお酢がかかっているので、テンポよくいただけます。 尚、店内はスペースがぎっしりで、隣の人と肩が触れそうな状況です。 1人あたりの幅が狭いので、お皿などが散らからないよう配慮が必要です。 座席は独立しておらず、幅の広い平均台のようなイメージに近いです。 私はお店の隅の席で、横は壁、後ろに棚があったので、立ち上がるときは隣の人にどいてもらわないといけないなど、気を遣います。 尚、お会計は座席でやります。 せんべろ文化ができたころとは物価が違い、さすがに1000円でべろべろになるまで酔っぱらうのは無理ですが、それなりに食べても2000円です。 店内は料理以外撮れない決まりなのでなかなか伝わりにくいですが、気になる方はぜひ足を運んでみてくださいね。 私は女子高生なのでお酒は飲みませんでしたが、お店の外装には宇ち多゛の名物である梅割りハイボールをモチーフにした商品の張り紙があります。 これは近くにあるスーパーのヨークフーズで販売されています。 ヨークフーズは立石界隈でも有数の規模で、日常の買い物はここで済ませる人も多いようです。 もともと1963年にイトーヨーカドー立石店としてオープンし、2020年6月にヨークフーズへとリブランドされています。 大規模スーパーのオープンで商店街が打撃を受けることは多いですが、立石仲見世と立石駅通り商店街は現役です。 ただし立石の周辺は、それとは違う意味で変わりつつあります。 宇ち多゛以外にももつ焼きのお店はいくつかあり、もつ焼き四天王と呼ばれることもあります。 その1つである「ミツワ」は、宇ち多゛と同じ立石仲見世にあります。 食べログの評価は3.59。居酒屋やもつ焼きジャンルでの3.59はかなり評判がよいといえます。 ただしこのお店、食べログでは掲載保留と出ており、去年1月頃からずっと閉まったままだそうです。 女将さんが亡くなったという噂もあるそうですが、正確な理由は不明です。 休業期間が未確定で、移転や閉店の事実確認ができていないため掲載保留という表記なのです。 次の四天王が「ホルモン屋」。 このお店は宇ち多゛よりも東にあるのですが、こちらも掲載保留で、すでに営業していないようです。 さらに、駅の北側にある「江戸っ子」も掲載保留になっています。 このお店は、おととし7月29日に当時の場所での営業を終了し、閉店しています。 創業から五十年、立石駅の北側で営業していた人気店が閉店したのは、駅の北側で進む再開発のためです。 駅の南北では、再開発計画が進んでいます。 区画は全部で3つで、一帯には古い木造住宅が集まるエリアもあり、防災面の懸念があったため、再開発で抜本的に改善される予定です。 京成立石駅周辺のバス乗り場は大通り沿いに点在しているため、 バスが駅前に乗り入れられるように整備し、バスターミナルをつくることも計画されています。 これは、まわりで進む高架化工事の関係です。 高架化の総延長はおよそ2.2kmで、11か所の踏切がなくなります。 踏切の南側に交差点があるせいで交通量が多い踏切もあり、開かずの踏切問題が深刻でした。 高架化は2002年に事業に着手し、いまは線路を移設する工程が進んでいます。 線路の上にあった駅舎は上物が解体され、今後は土台の鉄骨なども解体される予定です。 去年9月には、高架化後の京成立石駅の駅舎の外装デザインが決定しています。 地名の由来である石にちなみ、石材が大胆にあしらわれます。 また、川を活かした産業が盛んな土地柄を考慮し、鉄やアルミ製品を想起させる部材、 川を想起させる青色を使うほか、シンボリックな和模様も取り入れる予定です。 再開発は駅の北側が先行しており、おととし9月には北側の横丁が閉店しています。 江戸っ子が閉店したのも、再開発の対象エリアにあるからです。 江戸っ子では当時の場所での営業終了を機にご店主は引退し、今後は若い人だけでやっていくそうです。 おととし9月の映像では、解体予定の建物のまわりにはフェンスが立てられ、人気もありません。 一部の道路も廃道になったため、歩行者と自転車以外は通れない状態になっています。 その後、周辺一帯の建物は道路もろとも解体されています。 駅の北側への往来を確保するため、いまは対象エリアの中央に歩道があり、歩行者や自転車はここを通れるようになっています。 そのため工事エリアは2つに分かれており、双方を工事車両が横切ることがあります。 再開発の過程で、せんべろ文化が消滅することが懸念されています。 近隣のお店には、建物や土地を自分では持っておらず、賃料を払ってお店を経営している人がたくさんいます。 再開発で商業施設をつくる場合、開発コストを回収するため、もとの場所よりも賃料が上がるのが普通です。 低価格を売りにしたお店ではその賃料を払えないため、お店を継続できないです。 おととし9月に駅の北側の横丁が閉鎖されたときは、再開発の完了を待たずに廃業を決めたお店もあるそうです。 南側の商店街や仲見世も再開発の進展で閉鎖されることが決まっており、「せんべろの街・立石」は転換点にきています。 また、1997年に葛飾区が作成した報告書では、北口地区にあたるエリアで295億円とされていた事業費が、 2021年10月時点で900億円あまりに膨らんでいます。 さらに、今年はじめの時点では1280億円になり、1000億の大台を超えています。 ここ数年で建築コストがどんどん上がり、国内では再開発が中止になる事例も出ているだけに、この金額もさらに増えそうです。 足りない分は補助金やタワマンの販売利益で補う計画ですが、 それでも予算の不足を指摘する声があり、葛飾区は老朽化した区役所を移転し収支を合わせる作戦です。 高架化事業も当初は2013年の完成予定だったのが、用地買収の難航などにより、2023年、そして2030年の完成予定に延期されています。 事業費を工面するために計画が変更されれば、まわりのお店にはやさしくない展開になるかもしれないです。 立石に残る最後のせんべろ文化、体感するなら今のうちです。 ご視聴ありがとうございました。
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4 Comments
かつては京成線文化と言われ独特な沿線の街並みでしたが、時代とともに薄れていきますね。狭いアーケードに立ち飲みのお店は関西ではよく見られるスタイルですが、都内では珍しいです。
鉄道の立体化と駅周辺の再開発は最近よくセットで行われ、前に紹介された小田急の下北沢と似たような経過をここも辿りそうです。利便性と防災上いずれは変わらざるを得ないのでしょうが、街並みが一変されてしまうのは寂しいですね。将来はストリートビューのアーカイブでしか往時をしのぶことが出来ないとは、、
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女子高生がせんべろ・・・?
職場の近くなんだよな
なくなる前に見に行こうかな