【100名城シリーズ】No86 大野城の歴史と魅力
[音楽] 今回は福岡県にあります国の特別跡大野城 です。えっと今から1300年以上も前 ですよね。なぜこれほどま巨大とも言える 山次郎がこの場所に気づかれたのか。その 大な歴史の謎に一緒に迫っていきたいと 思います。はい。 このお城がですね、生まれた背景にはやはり 7 世紀後半の東ナジア、え、当時の国際情勢があの大きく関わっていますね。特に 663 年に起きた白の戦い。これがま、決定的な転換点になったと言えるでしょう。 白村の戦い。 ええ、この戦いが古代日本のその国防意識をどう変えていったのか。そこから見ていくのがえっと理解の鍵になりますね。 なるほど。7世紀の半分 ですか? 朝鮮半島だと小雷信羅が争っていて そうですね。 で、さらに大陸の塔も力を伸ばしていたと。そういうかなり複雑な時代だったんですね。 え、そうなんです。当時の日本、ま、和と呼ばれていましたけど、和は特にとあの深い交流がありました。 ところがですね、660 年にその頼りにしていたがと信羅の連合軍によってこう滅ぼされてしまうんですね。 ああ、それで爆雷の維新たちが日本に助けを求めてきた。 そうなんです。必死の救援要請でした。これに応じたのが当時の底で 最名天皇そして後の天地天皇になる中大王の工事までが地水から九州へ。 ええ、式を取るというまさに国家的なあの大事業だったわけです。 しかし結果は、 ええ、残念ながら663 年の白村の回線で日本との救援軍は当信羅連合軍の前にも壊滅的な大敗北をしてしまいます。 うーん。壊滅的ですか? はい。これは当時の日本にとっては本当に国家損の危機とも言えるような大きな衝撃でした。 それは想像絶しますね。 となると今度は自分たちが攻められる番だとそういう恐怖がもう日本中を覆ったということでしょうか? [音楽] まさにその通りです。その危機感が国防体制のえっと抜本的な見直しを迫ることになるんです。大和廷は西日本の政治外交軍事の中心であったあの大財富、打財布。これを守るためにもう 9ピッチで防衛毛の構築に乗り出します。 大財富防衛 はい、まず664 年ですね。博多湾から大財布へ至るそのルート上、福岡平野が 1 番こう迫まっている地点に巨大なドイと、これを組み合わせた水きを気づきます。 水文字通り水の白。 [音楽] ええ、全長が1.2kg にも及ぶ、ま、巨大な壁ですね。 水着きだけでも相当な規模ですよね。でもそれだけでは万全ではなかったと。 そうなんです。水完成のまさに翌年。天皇の 4年665 年になりますが、今度は大財布の深刻、ちょうど背後を守る形になる山。大野山、大き山ですね。ここに気づかれたるが今回の大野城なんです。 大財布の背後の山に。 ええ、で、ここで特に注目したいのがこの 巨大な城の建設にはですね、あの滅びから 日本に防明してきた貴族とか技術、 とか福 といった名前が伝わらそ 技術が不可欠だったという点なんです。 なるほど。 つまり攻めてくるかもしれない大陸柄のその進んだ上技術をある意味皮肉なことにそこから逃れてきた人々によって取り入れて防衛のようにしたと。 ええ、 これが大野城が朝鮮式参生と呼ばれる理由なんですね。 まさにその通りです。雷の首都だったふ与にあった不 3 条なんかがモデルになったんじゃないかと考えられています。彼らが持っていたその山の地形を匠に利用する地上のハウ。 [音楽] それが大野城の設計に存分に生かされたんでしょうね。 水希が全面の守りで大野城は背後の守り、そして大財府成長を見下ろせる監視拠点でもあったわけですね。 ええ、この2 つでセットになって大財布という当時の西宮を守る 1 台防衛システムを形成していたと考えられます。 福岡県にある大野上司という市の名前もこの大野定石が由来になっている。 それだけ地域にとっても大きな存在なんですね。 そうですね。やはりそれだけの歴史的なシンボル性が致名として現代まで残っているということでしょう。 さて、その大野城ですが、城と言うと私たちはどうしても天主角がそびえているようなああいうお城イメージしがちですけども、大野城はそれとは全く違うタイプのものと考えていいんでしょうか? え、全く別もですね。 これは古代山次郎というそういうカテゴリーになります。天角のような権威を見せるための建物というのは基本的にはありません。あの標が大体 410m ほどの塩王子山。ま、この山のえっと本来の名前は王子山と言うんですが [音楽] 王子山。 え、その山全体が丸ごとお城塞になっているんです。 山丸ごですか?それはスケール感がまず違いますね。 [音楽] 東西に約1.5km、南北には約 3kg、周囲の長さは約 8km にも及ぶとか、今現地に行くと具体的にはどんな意向を見ることができるんでしょう? はい。最大の見所はやはり山のお筋ですとか谷間をこうぐるっと巡るように気づかれた泥類、それから石垣きのラインですね。これが上壁の役割です。特に谷筋をこう塞ぐ形で気づかれている百巻石垣き。 これはその規模と技術において本当に目を見張るものがありますよ。 百観石垣き。写真で見てもすごい迫力ですもんね。長さが約 180で高いところだと8m 近くもある巨大な石の壁。しかもただ積んだけじゃなくて箱が使って内部に染み込んだ水をうまく排水するようなそういう構造まであったと。 [音楽] そうなんです。 1300 年以上前の土木記術とはちょっと思えないですよね。 行動ですね。 ええ、単に頑丈な壁を気づくだけじゃないんですね。ちゃんとその自然の地形とか水の力とかそういうものを計算に入れた非常に洗された技術が伺えます。これなんかはまさに先ほどお話した雷から伝わった技術が応用された 1つの称号とも言えるかもしれません。 なるほど。他にもですね、上映の出入り口 だった縄文、縄文の後、これが9箇所確認 されています。例えば大財富成長に つなげる重要なもんだったと考えられる財 富口縄文とか北側の守りを固める 石垣門とかそれぞれ に役割があったんでしょうね。門の後 ええ門否に使われてる 金具なんかも湿度しています。 消壁や門だけじゃなくて常内にも重要な施設があったんですね。約 70 等もの建物を示す籍。つまり柱の土台になった石が見つかっていると。これは何に使われていたんでしょうか? これらは主に倉庫群だったと考えられていますね。 倉庫。 はい。長期の向上線に備えて食料、特に 保存が効くもみのままのお米もみ米ですと か、あるいは武器や部具といったものを 大量に備蓄していた場所だろうと。増朝点 軍と呼ばれる一角がありますし、あとは 発掘調査で実際に単価して黒くなったお米 が見つかった場所には焼き米ヶ原という 知名が残っています。焼きヶ原名前が何と も生々しいですね。 単なる砦出というよりは平坦つまり補給基地としての機能も非常に重視されていたということですね。そういうことです。そしてやはりこの山の立そのものが最高の武器だったとも言えるかもしれません。 立ですか? ええ、山頂付近からは北の博多湾から福岡平部平そして南に守るべき大財府のエリアまで本当によく見渡せるんです。 ああ、なるほど。 つまり防衛であると同時に敵の動きをいち早く察知するための、ま、監視基地でもあったわけですね。 ここに中屯していた兵士たちは先森と呼ばれていた。 そうです。彼らは遠く東北などから故郷を離れてこの九州の防衛任務部についていました。彼らがこの絶景を見ながら一体何を思っていたのかねえ、色々想像が膨らみますよね。 [音楽] いや、本当にこれだけの、ま、覚悟と費用をそって技術を注ぎ込んで気づいた大野城ですけども、結局のところその想定されていた党か信羅の大軍が実際に攻めてくるということはあったんでしょうか? それがですね、幸いというべきか、歴史上の大野城が本格的な戦闘に使われたという記録は実はないんです。 え、そうなんですか。使われなかった。 はい。 想定されていたような大規模な信仰というのは、ま、現実には起こらなかったということですね。 それはある意味驚きですね。これだけの備えが結果的には、ま、無駄になったとも言えるんでしょうか? いや、それはむしろ逆かもしれませんね。 逆ですか? ええ、これだけ巨大で健康な細軍、水上と大野城ですね。 このセットの存在そのものが攻め込もうとするかもしれない相手に対する非常に強力な抑力として機能したと考えることもできると思うんです。 なるほど。抑力。 はい。実際に戦わなくともその存在によって平和が保たれたとも解釈できるかもしれません。 そして 上は後もちゃんと維持管理されていて 698 年にはされたという記録も残っていますから少なくとも上後しばらくは国防の最前線としての役割をきちんと担い続けていたと考えられます。 なるほど。存在自体に大きな戦略的な意味があったと。でも時代が下っていくとこの山の性格というのはまた大きく変わっていくわけですね。 え、そうなんです。 ちょっと経った奈良時代ですね。 774 年にこの城の区域の中に仏教のお寺が立てられるんです。これが塩、使用寺あるいは四天王寺とも呼ばれるお寺になります。 四天王寺というと仏教を守るあの四天皇をまったお寺ということですね。 その通りです。自国点、増朝点、項目点、そして多紋、別名飛車門店ですね。 この四天皇をまったことから四天皇寺あるいは塩寺という名前がつきました。そしてこのお寺ができたことによって山の名前も元々の大次山からいつしか塩さんと呼ばれるようになっていったんです。 ああ、それで塩さんなんですね。なるほど。 軍事的な要塞だった場所が今度は国を守るその仏教の力で守るという祈りの山へとその意味合いが変わっていった。これは非常に興味深い変化ですね。 ええ、 山頂の近くには未だにビシャモ道が残っていて、毎年お正月にはちょっとユニークな風習があると聞きました。お賽戦を借りて翌年倍に返すとか。 そうなんですよ。そういう信仰が今も地域に行きづいているんですね。 ええ。 信仰が途切れずに続いている。 はい。平安時代になるとお経などを埋めた軽化が作られたり、江戸時代には観音巡礼のための 33 体の石物群軍が置かれたり、使用時さは時代を超えて人々の精神的な支えであり続けたと言えるでしょうね。 古代の山城としての機能は失われていったけれども信仰の山になった。 でも妖外の地位という性格はその後も ええ、そうですね。例えば戦国時代になると山の別の場所服になるんですがそこに岩城というまた別のお城が作られます。 岩城。ああ、それはあの1586年でした か。名称として知られる高橋がきた島ずの 大軍に対してわずか700弱余りの兵で 向上して壮絶 にダしたという。そうです。 まさにその場所です。あれもこの山が持っ ているその守りに適した土地であるという 性格を物語るなんとも悲しくもヒロイック な英雄的な歴史の1場面ですよね。 王野城とはもちろん時代も目的も違いますけど、同じ山の記憶として深く刻まれているわけですね。 その通りですね。このように育中にも歴史が積み重なっている大野城とは現在国の特別跡という文化財としては最もランクの高い指定を受けて大切に保護されています。 さらに日本遺産古代日本の西宮子中クロヌと反響拠点というものがあるんですが、これを構成する重要な文化剤の 1 つとしてもちゃんと位置づけられています。 今ではその歴史的な価値ももちろんですが、豊から自然もあってハイキングコースとしてもすごく人気があると多くの人に親しまれているそうですね。 ええ、本当に素晴らしい環境ですよ。 例えば西鉄電車の都前駅あたりを起点にし て、あの令和ゆかりの坂本8万ですとか、 先ほど話に出た岩谷城後なんかも経由し ながら早朝点素籍軍飛美道 そしてあの百巻きなどを巡るルートは歴史 と自然を同時に満喫すのコースですね。 いいですね。 それから海町側からも使用寺県民の森としてよく整備されていてアクセスしやすくなっています。あの AI オンデマンドバスノルート海なんていうのも利用できるみたいですね。 へえ。見所を全部繋いで歩くと結構な距離とあと肯定差もありそうですけどでもそれだけの価値がありそうですね。役目原からの眺めまた確別だと聞きますし。 そうですね。全程をじっくり歩くと、まあ 数時間はかかりますね。でも見所をしっ たりあるいは公共交通機関とかタクシーを うまく組み合わせたり色々な楽しみ方が できると思います。何より古代の人たちが 気づいたあの巨大なを実際に自分の足で 歩いてそのスケールを肌で感じられると いうのが最大の魅力ないでしょうか。確か に。それに周辺にはすぐ近くに大財不天 マ宮もありますし、貴重な仏像がたくさん 残っている完全寺とか九州国立博物館 なんかもあって合わせて訪れたいスポット も豊富ですから1日でじっくり楽しむのも 良いと思いますよ。歩き回った後には 大財富エリアで唯一の天然温泉三笠のでし たっけそこで汗を流して疲れ癒すなんて いうのも最高の締めくりになりそうですね 。 ああ、それはいいですね。最高でしょうね。 ということで今回は大野上を巡ってきました。 7 世紀白村上での配線という国家的な危機を背景にして、当時も日本の総力を上げて気づかれた巨大なった。 そして戦乱の時代を直接経験することはなかったけれども、その後信仰の対象へと姿を変えて現代では歴史と自然が融合した人々の意恋いの場として愛されているとこの移り変わり自体が実にドラマチックだなと感じました。 [音楽] そうですね。この大野城跡から見えてくる こととしては、まず古代の日本が決して 閉じた世界ではなくて、東アジア全体の 非常にダイナミックな動きと密接につがっ ていたんだという事実ですよね。それから 国家的な危機に対してこれほど巨大な インフラを短期間で構築できた当時の組織 力、そして技術の高さ、特にあのバ雷から の防名者たちがもたらした知識や技術が 日本の国防に決定的な役割を果たした。 という点は改めて強調しておきたいですね。 大陸からの位に備えるにその脅威を産んだ地域から来た人々の助けを借りて国を守ろうとした古代の国際関係の複雑さというかダイナミズムというかそういうものを感じますね。 ええ、最後にですね、これを聞いてくださっているあなたに 1 つ思考の種というか問いかけをしてみたいと思うんです。 これほどまでに壮大な準備を整えた王野城 ですが、結局想定されていた敵の大軍に よる直接的な攻撃を受けることはありませ んでした。もし歴史のもしもですが、実際 に当信羅の連合軍が王して攻み寄せてい たらこの城は計画同に機能したんでしょう か。そしてその戦いの結果次第では日本の その後の歴史はもしかしたらどのように 変わっていた可能性があるでしょう。 このわば使われることのなかった巨大な。これは古代の人々の危機感や覚悟についで現代を生きる私たちに何を問いかけているのだとあなたは考えますか? うーん。歴史のもしもを深く考えさせられますね。非常に飛んだ問いかけだと思います。 この壮大な大野城跡を実際に訪れてその場 の空気を感じてみることで、あるいは7 世紀の東アジアの歴史をもう少しだけ 紐解いてみることであなた自身の答えが 何か見つかるかもしれませんね。
今回は、福岡県にある古代の山城、大野城跡について語り尽くします!
日本書紀にも登場する大野城は、7世紀後半に築かれたとされ、朝鮮半島からの侵攻に備えるための重要な拠点でした。今回は、そんな大野城の知られざる歴史的背景や、土塁・石垣といったユニークな構造について深掘りします。
国の特別史跡にも指定されている大野城は、実は絶好のハイキングスポットでもあります。歴史ロマンを感じながら、豊かな自然を満喫できるその魅力に迫ります。
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