250913-2_藤原塾イン糸島バスツアー 伊都国に行こう!(三雲南小路遺跡:7分16秒)

[音楽] [音楽] [音楽] 江戸時代の時に こっちの1 号募ってのがまず見つかったんです。江戸時代ですか? ええ。 [音楽] で、それであのブとか鏡とか色々出てきて、それを青種信という黒田ハの方が書類として残してて、それを元に原田大さんて先ほどみ友さんが説明されてた方があの発掘調役所と一緒に発掘調査して、あの 2号募というところを見つけて で1号の方はあの剣とか要 剣とか槍とかそういうものが武器類が出てきてますけど 2 号募の方はアクセサリー類と鏡しか出てきてないです。 だから原田大さんは 1号募男の人の方お墓 2 号募女の人のお墓ということでこれは夫婦のお墓だということで女王とあの王様と女王の墓だということでちょうどここがあの三雲行ってに出てくる糸国区のちょうど中心地なんですよ。 だからここのお墓が糸国の応募ということになってます。 で、大体これがあのそこちょっと見にくいですけどそこが溝があるんですよ。 さっきのヒラバオーブの大体 3倍の面積持ってますけどうん。 溝があってこの2 人のお墓のためだけのこの噴がここにあったってことです。 うん。 だからそれだけの うん。それだけの一応江戸時代の文献には 2尺というから 60cm、あ、1m弱かの森土があったと いう話になってます。で、一応ここの方が 祭祀のが多分向こうのサザ神社だろうと いう 地元の人たちはみんなそう言ってます。で 、ここが鎌倉時代ぐらいまであのお祭りし てた後があるんです。 いわゆるあの末行って古墳時代の同期とかそういうあとは鎌倉 鎌倉じゃない。 あ、そうそう。鎌倉か鎌倉ぐらいの時とかが向こう側のあの今道になってますけど道のところに溝があるんですよ。 この溝の続きがそこに全部祭祀した後にそれも再利用できないからそこに埋めたという場所がそこにあります。 だからそれだけ極端に言うとここが大体成暦前後の墓っていうことなんでもう早い話が 400年から500 年ここずっとお祭りしてた場所です。 俺もね ええ、なんかそういう証拠は物的症ちゃんと思ってます。 お祭りされなくなったのはいつ頃から 一応はっきり分かってるのはあのそこのそこのサザレ神社っていうのが うん。 あの、豊秀吉がここに九州生って言って来た時にうん。 そのサザレ神社の神殿とか全部没収したと言うんですよ。 その時に 地元の文献に残ってるのは新刊が 12人と おお。サザ石神社に そうです。12 名も12 名。 はあ。大きい だから1年ずつその12 名回し回してたのか 1 月ずつ回してたのかっていうのはわかんないです。 ただ12 人の新刊がいて、その新刊と神殿を全部没収して、 あの、その後はどうしたかわかんないんですけど、そう、要は豊秀吉がこの一体を制抜ていうか、あの、制服した時にその佐石神社がそれだけ大きな神社だったのが一ぺに廃たれてしまって、今村の社代って書いて損社って書いてありますけど、そこまで廃たれてしまう。 だからその時にもうここが多分あの言い方悪いですけど廃棄された感じになってしまってもう極端に言うと 12 人の新刊がいなくなったってことは一族殺された可能性もあるです。 [音楽] で、それこそ昔はその新刊やってたということはある程度知識も持ってたし技術も持ってたんでやっぱり知識階級っていうのはその知識する時に知識が欲しいじゃないですか。 だから他のとこに連れて行った可能性があるんで、ここの住人がいなくなったからここのことを知ってる人がいなくなった。 だから新しい人が来たらここが何かあるけどなんかわからんからて言って畑とかにして で江戸時代の時に今はもうこんなある程度復縁されてますけどもあそこの目の前あたりまで家があったんですよ。 おお。 で、それでその家の家の敷地を広めるために森土を崩したら発見されたというです。を作るきっかけ。 佐石神社です。 はい。 は、 成暦何年ぐらい?0年? 0年です。0 年にちょっと前でしょうね。はい。 はい。ここがサザれ石神社です。 この花咲姫さんていう人が言われる神話の中で言われる人がさっき見た三雲南商司の王妃様の方です。 はい。玉より姫ではありません。この花咲 はい。もう一丁前 天尊臨の巫が 王様でそれが三雲南商司の王様です。 で、の奥様はこの花咲夜姫です。隣の大牟 がその花咲のお墓です。そしてここ サザれ石神社はこの花咲夜姫と岩永姫が 最人としてお祭りされています。三雲南 商司の王様をお参りする場所っていうのが ここだったんです。 だからみ南正司とここはもう切っても切れない。多分ここはですね、えっと、おお参りする場所 ハ伝ハ電だったと言われております。 だから約もう2000 年前の話です。もうみんなね、現代の姿で、現代の場所でそれを想像するのはちょっと難しいんですけれども、やよい、 2000 年前のやいの人々になって、ちょっと思いをはせてください。やい時代の話です。 [音楽] その頃の人になって話を聞いてくださると よくわかると思います。はい。バスが来 ました。よかった。はい。 [音楽]

250913-2_藤原塾イン糸島バスツアー 伊都国に行こう!(三雲南小路遺跡:7分16秒)

250913-藤原塾イン糸島バスツアー
伊都国に行こう
in ITOSHIMA 三雲南小路遺跡

三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は、福岡県糸島市三雲に所在する弥生時代の遺跡。「三雲・井原遺跡」の一部(三雲・井原遺跡南小路地区)として国の史跡に指定されており細石神社の裏手に所在する。甕棺2基からなる埋葬主体部と周溝をもつ一辺30メートルの弥生墳丘墓で、古代伊都国の王墓と目されている

江戸時代:文政5年(1822年)2月、三苫清四郎が住宅の土塀を築こうと南小路の畠の土を取ろうとして偶然発見したという。後の1974年(昭和49年)の再調査の時に「2号甕棺」が発見された。平成の学術調査で周溝をもつことが判明し、現在は「方形周溝墓で、甕棺を2器を添える様にして設置した墓」である、とされる。甕棺の形式は「立岩式古段階(弥生時代中期中頃)」の形状をもつ。西側の周溝に祭祀跡とみられる痕跡があり、東側の高祖山系の山並みとの関連性がうかがえる。これは後の時代の平原遺跡1号墓(平原弥生古墳)に通じるものであろう。

最新の研究では、この三雲南小路遺跡と、春日市の須玖岡本遺跡の巨石下甕棺墓とは同一規模の構造を呈している可能性が示唆されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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