湯原温泉の砂湯が露天風呂番付で西の横綱と呼ばれる理由

[音楽] ここは今坂三島の1つ茨原温泉です。 イ原ダムの下にある路天風呂素は自然に 湧き出る豊富なで多くの人に親しまれてい ます。 [音楽] 湯原温泉を全国の数ある温泉地の中でも西 の横綱として紹介したのは露天ブロバ付 です。 [音楽] この番付けを作ったのは旅行作家の野口富 さん。 2016年12月に亡くなった偉大な旅行 作家です。 [音楽] 東京都内で取り行われたのは旅行作 野口さんを忍ぶ会です。 [音楽] 野口さんはお締まりながら 2016年12 月に亡くなられました。待せましたが 去年83歳でした。 しぶ会には全国の旅行関係者や旅行作家仲間が集まり野口さんとの別れを惜しみました。 ま、おかげ様で、ま、最近では全国あるいは外国からもたくさ、旅行作家野口さんは登山や旅行、温泉関連の石が大きく、特に温泉文化の普及には大きく貢献しました。 [音楽] 大かで優しい野口さんの人柄に引かれる人は多かったようです。 [音楽] あの、旅行作家の会議の参院で、ま、40 年近くあのご一勝させていただいて本当に 優しい方で、ま、優しさをまといながら あの山と温泉をまたあの景色から人を大臣 にされた方でしたね。え、私は社員な方だ なと、え、思います。あの、なかなか表に ですね、え、こう、みんなの前でこう、 どうこいう言う人じゃなかったなと。でも シーンはしっかりしててですね、結構 社員っていうか、照レアな、私はそういう テレアな一面をじゃないかなと思います。 さんとはですね、え、総会が終わって夜の もう部屋でですね、もう朝までもう飲んだ と飲んでその業界をどうしようかという 語り合ったのが私にしては1番の思い出 ですかね。え、田さんの本をね、読み直す とね、ああ、考え方すごいね。もう本当に 今これやんなきゃいけないなということが あまりにも多すぎるんで。 だからこう本当にこう今やらなきゃいけないっていうか、今あの人が言ったことが大事になっていくんですよ。 本当に私にとっては、ま、先生というよりも兄貴のような存在で 本当に遠慮なくろんな相談事をしたり、ちょっと飲みましょうか、直事しましょうかと、あの状況のたびに寄らせていただきまして、本当に真剣になって私どもの悩みとやりますとか、あ [音楽] 色々と答えていただきましたし、ま、本当に偉大な兄貴だったと思います。はい。 先生です。私の我がです。温泉文化。 [音楽] 今でこそ温泉文化と言われておりますが、 40 何年前はね、女文化文化よりお釈しろとそんなね、湯の町で先生が教えたいたことをね、今一生懸命実生しております。 素晴らしい愛の人。 全て愛は全てを包み、全てを許すという言葉がありますよね。穏やかなは春風のような人ですね。 尊敬申し上げております。 あの、 そんな野口さんと長年仕事を一緒にしてきた竹村さんにお話を伺うことができました。 だから各地のおっさんて親子で。 親子で。 親子で。 いや、そうですよ。 あそこの親の息と通ったと。 これはもう現場主義。 現場主義。 うん。それは修世現場主義で物を書くっていう時は自分が必ずその現場に行って見きして体験しないとあの発表していかないっていうのがもう私たちそのわゆる弟子うん。 にもそれはものす徹底してましたね。で、自分もそれは一生 通しましたね。 うん。ですから晩年は車数で 3 年ぐらい過ごしたんですけど、あの普通の方たちみたいな取材できないじゃないですか。そしたら今度車椅子の旅っていうのをあの追求するんだって言うんで結構ね車であの関東近のあの旅行先取材取材という形で旅行してましたね。 うん。 そうですね。そういうところはね、あの、 何しろそのなんて言うのか、喋るよりまず 書く方があの、多分自分を表現できる るっていう部分があったんだと思うんで、 そのベッドに寝ても必ずあの、原用紙と ペンは置いてあって、で、現稿子にかけ ない時はあの、手帳、手帳にもこう書くん ですよ。へえ。 で、それほど書くことが自分の意思の表現みたいなとこあったので、その例えば山が、山を歩けないとか温泉に入れないとかになると今度今自分ができるう仕事は何なの?どんな分野なのかなっていうところに行くんだろうと思うんですね。 で、最後はだから車椅子で旅行を実際してで、どういうところが不便で、え、どういうところが足りないかみたいなのを実体験してそれをまとめようとはしてたんです。 うん。 茨原温泉でも特に進行の深かったのは小林さんです。 バラ温泉を、え、ある意味再生するきっかけになった スピリッツリーダー的な 感じの先生でした。 これが昭和55年の12 月に発行された私どもの出会いのきっかけになりました日本発見の里路天ブロバ付が紹介されております。 湯原温泉が温泉地として注目されたいことにまずびっくりしましたね。 ああ、 しかも横綱。これはびっくり業行でした。だ、今まで何と思わなかったものが突然とんでもないその意味を持ってきたという。砂湯に大きく掲げてある野口んが救った露天ブロ付。 [音楽] なだたる温泉が並ぶ中、横綱の座には堂々 と湯原の文字があります。 この番付けこそ湯原を名所として知らしめ たきっかけにもなりました。 [音楽] まず全国的に結構有名温泉地がどんどん おは力 をつけてた時ですし、その中で湯の温泉的 には、ま、確かに今坂3ということで岡山 県の建北の3と結びて訴し特出するものが なかなかなかったと。しかも昭和56年、 え、7月に大数外でもう温泉があの使え ないという状態が何ヶ月んで、それが全国 に放送されたりしましたんで風評でもう 本当にこれのこのまま温泉として継続 できるかどうかという瀬戸際だったんです ね。その時にもう本当にこの本を発見した 時のは本当神様に出会えたような気がし ました。 その後湯原はこの番付けをスタートとして 温泉に感謝する路天ブロの日を始め温泉の 知識を広める温泉市難役の創立プラン 付きの人間などを始めました。そもそも 温泉に対する思いが今までもうどうでも ええわで温泉がどうでもええわになっとっ た面があったんですよ。それで、ま、先生 のお話を聞く中でもっと温泉を大事に すりゃいけませんよと。で、ゆ原温泉には 宝があるじゃないかと。あの天風はその 先人たちの残してくれた湯原温泉の宝です よとから大戦そのものは天からの恵みです よと。これを生かして、え、やることが 重要じゃないかと。 ま、そんなことにごいただいて、え、ま、そういったことが先生との出会いのお出会いでしたね。 うん。なるほど。 この場所で そこで そこでそれこそ野口先生と野先生にお会いして、ま、あれがもう あのスタートでしたもんね。それまでそれこそどうやったらエストリプ劇場ができるでかとか。 ああ、そうだね。 もうあの、 そういう時代だったからね。 ええ、だからもう湯温泉的には本当転換機を迎えてたんですよね。教育である岡山県において温泉地を、ま、当時、ま、あの、どこというと、どちらかというと男の温泉場っていうと男の遊び場みたいな感じで取られたんでじゃなくってうん。 あの、個人旅行 うん。 への対応とか いうことの1 番最初のきっかけですよね。ま、だからそこまであのピントは来てませんでした。 温泉は宝なんだということを、そからその地域の文化なんだっていうことを うん。 こう思い返させるというか やっぱり時代ってこう循環してるからあの流れてるようで同じことの繰り返しのとこあるじゃないですか。江戸から明治対象ぐらいまではやっぱり温泉ってあの体のためにだったですね。で昭和になってからちょっと陥落的になってうん。 で、戦争終戦後はまたちょっとあの医療がちょっと滞ってたんでな、体がちょっと悪いとか風邪引いたって言えば温泉行ってちょっとあったまったりそういう時代があって、またそれがある程度行くと観光になるじゃない。うん。やっぱりその繰り返しが日本の温泉の歴史かなってみたいな思いまさしく言うまでもそうですね。 うん。だからまあ今どうあれ関心がないと言いつね。 うん。 もうしばらくすると伝然的にまたもう 1 度温泉とか何かみたいな温泉の寝みたいのに注目されるようになるんじゃないかなと私は思っててあんまりだから悲観はしてないんです。 うん。 ただただやっぱり地元の人たちが温泉を信じるっていうのかな。温泉のあの効果みたいのを信じていることが大事なのかな。 [音楽] 現在の湯原町旅館共同組合の理事長を務める池田さんも野口さんと信仰を深めてきた 1人です。 私が野口先生とお会したのは、え、何年ぐらい前かな?旅館青年部の頃で。そうですね。 10年ぐらい前だと思います。 私が、ま、お会いした時には本当に優し そうなおじいさんだなと、おじいちゃんだ なと、あの、いう風に、え、あの、感じて ました。で、ま、野口先生と、あの、 いろんな温泉の話であるとか地域活性側の 話をすると本当にあの、引き出しが多くて 、私が質問したことに対してもう全てこう あの何らかの答えをお持ちになられてると いうのを本当に感じましたし、いただいて 本当にあの本の好きなあの方だなという風 なことはあの感じてました。 ここをからお借り受けさせていたい作ったという。だから窓がないんですね、ここって。で、これが野口先生の治療室になるんですけども、 おお、 すごいカの本ですね。 え、ここでね、ま、皆さんがあまり気づかれないです。この上の方にはそれぞれの市町村の調子 おお。とかがずっとあるんですよ。 有名温泉地の初代地の町村大体町村地にはあの温泉を維持するための工夫というものが ほお 書いてあるんで うん 茨原温泉ミュージアム内の記念資料室に自身の著書所や旅行温泉関係の本取材時に使用した全国各地の歴史資料などおよそ 1万を起造しました。 これ本は上に並べれるんですね。 うん。それはそこに ね、 私温泉を週に仕事してきましたんで約してきました。その間に温泉関係の本を、ま、参考資料に集めてきましたんですけども、それを、ま、縁がありまして湯原と人に親しくなりましたので、原がこう第 2の殺的な感じになってきました。 それで、え、図書室を、え、作ると いうことで、え、起動させてもらいました。 特に温泉の本が、え、非常にたくさん集め てありますので、え、古い本から新しい本 まで、え、湯原温泉は温泉地でございます ので、ま、温泉の本はこんな本があるんだ というところで見ていただきたいなと思い ますが、 ま、大体もっとあの本や現稿が散らばって ましたけどね。 あ、ある意味先生の言うことはそのに聞い てきましたから、 ま、最初のきっかけやはり、ま、その思い を伝えることができたんでご本をそういっ た資料を、え、岩にお預けくださったと いうところから、ま、この写真も実はその 最後に先生がもうああ、今まで使われた 取材の時のカメラ お お手に持らっしゃるのは全プロニカですわ ね。あの、キャノンのカメラとかニコンと かペンタクスとか色々お持ちでしたけども 、私は特に、ま、あの、これが岩線の1番 宝だなとこう他と違うんだということと おそれから、ま、これからの1つの色々き 方、温泉中の中でのなりを考えてくる時の 意 になる部分だと思うんですけども、ま、 そのことはあの、ま、お亡くなになって こすのもなんなんですけども、え、 1 つのきっかけになればなと思っております。 野口冬と記念資料室の会館当時に撮影した貴重な野口さんのインタビュー映像です。 えっとね、 あの私ね、え、若い頃はね、山登りをやっておりまして、 で、昭和39年から40 年ぐらいあたりから、 あ、旅行するようになったわけですよね。 それでその後温泉もついて回るようになって ああ ということですよね。 へえ。まず温泉にこう見せられたのはどういうところからでしょう? あのやっぱりね、山からの影響がありましてね。山から降りてくると温泉地入温泉がありまして山の温泉に [音楽] うん。 それでま、汗を流して帰ると うん。 その総会感というのはだんだんだんだんと答えられなくなってきまして それでそのうちに山の方はえ疲れるから 温泉だけにしようなということになってったわけですね。 湯原にはね、彼これそうですね 10何回か20 回近く訪れておりますですね。 うん。 まず最初に来た時っていうのを覚えとられますか? え、あの昭和 40 年代の半ば過ぎぐらいですよね。 あの、そろそろ温泉が人気になりつつあるという時に うん。 う、ま、全国の温泉をぐるぐる回って湯原温泉が山の中にあるから行ってみようかと いうことで、え、何人かで、え、参りました。 当時の印象って何か残られますか? え、あの、やはりね、その天ブロがね、なかなか素晴らしいなと思ったんですよ。で、当時はね、そんなにロー天ブロってのは全国がたくさんかったもんですから。うん。 ですから旭日川のその自然の露天ブロというのにもう非常に引きつけられましたですね。 うん。あの、自然がいっぱい残ってるとそれともう 1 つは、え、温泉街の人たちが温泉を非常に大事にしてると、 え、いうことですね。 そういったことを 、ま、総合的に考えまして、え、 ちょうどある雑誌で、え、露天プロの 番付けを作ろうじゃないかという話が 起こりましたもんですから、え、それに、 え、ま、あ、 西の横綱はどの辺あったりだろうなという んでさ、色々と検討されたんですけども、 やはり湯原がなんと言っても1番ではない かということで、え、横綱しました。え、 626 という言葉に合わせて天の日という風に設定されたそうなんですが、え、やはり天ブロというものを茨原で第一地に皆さん考えていらっしゃるということから、え、そういったイベントも作らるようになったんだろうと思いますけども、ま、あの、当日大勢の人たちにアピールして、え、ま、おいでく [音楽] というような面で、え、なかなかいいので はないかなと思います。え、他には、え、 露天の日というような日を制定してる ところはございませんのでね、え、あの、 私の事論でもあるんですけども、え、ま、 温泉はただ、え、陥落的に温泉を楽しむと いうだけではなくて、人間の健康という ような面を大いに考えていただきたいと いう風に思っておりますんですね。 で、え、湯原の場合には、え、湯原温泉という、え、立派な施設もございますし、え、温泉両方位の先生方もいらっしゃるということで、え、温泉と医療というものをドッキングした形をこれからも、え、ま、今までも進めては来ておりますがさらにさらに、え、進めてそれで、え、人間の健康というような面に大いにこう起していただきたいという風に思っておりますが、 まずですねじ先生というお名前を皆さん 意外にお尻でないという で 実際問題路天ブロの日にはもう 10回近く見えいただいたりかそれ以外の 時にも私りいいたんですけどもまその 旅館の関係者はまそこそこただ他の方って 言うと一体どんな人やねんとあそういや 路天ブロ番付のここに書いてあるあの人の ことつうレベルでそこまで意識改革こうし てくださったその1番の恩師であるという ことに対して分かってくださってなかった んですね。で数年前に先生からあのま先生 もねだいぶ考えておられたんでしょうかね 。さの後のこと、あの、今まで こう先生がこう書かれた本の資料ですね、 その取材してらっしゃいます。その取材 資料というものを、そしてまた作られた本 のものを湯原温泉に起造していただいて おりました。で、湯原温泉ミュージアムの 2階にそれを置いて野口と資料館として 置いてるんですけども、ま、その意味すら 分かっていただいてない方が多かったです よ。 で、私 どもはというか、私は特に、ま、あの、 これが岩温泉の1番宝だなと、こう他と 違うんだということと、お、それから、ま 、これからの1つの色々方、温泉中の中で のり を考えてくる時の意 になる部分だと思うんですけども、ま、 そのことはあの、ま、お亡くなになって こすのもなんだんですけども、え、 1 つのきっかけになればなと思っております。 はい。 ちょうど野口がその盛坂に帰てた頃っていうのは観光化が非常に強い時代だったからあの保養とかぐらいはいいんですけどね。当時なんて言われるとまあもうもうその当時の殿の字言ってもああやめてくださいっていう時代だったんですよ。 だけど野口自体がやっぱり現地現地主義で各地歩いてんじゃないですか。そうすると目で見えるわけですよ。その重お湯に入ってる方があのだんだん良くなってく様子とかそれから各地に残ってるニューヨークの仕方の入り方が色々昔はあったんですよ。 あの、温泉地によって例えばあの胃腸の名党なんていうところはその胃にね、お風呂の横に寝そべってね、お湯を 100 杯かけると早く良くなるとかね。そうから頭にかけたりとかね。腰せみたいなも盛でしたしね。 で、そういう実例を見てるので、やっぱり 、あの、これは人間の体を健康にしてく やっぱり1つのシステムじゃないかという ところが、ま、始まりなんでしょうね。で 、やっぱりそういうものが伝統だったわけ 。日本の 日本の温泉のだ、これをやっぱり伝えて いくべきじゃないかっていうところはあっ たんだと思うんですよ。 だからもう最初からやっぱりあの当時保養と温泉っていうのはあの彼のテーマだった。 ああ、なるほど。 あの温泉が温泉値そのものがやっぱり日本の人たちの生活文化のあの長い歴史をそれぞれ持ってるわけですよ。 [音楽] だ、それは温泉地、温泉地によって性格が違うわけじゃない。そういうのすごくね、あの、愛してましたよね。 うん。そのだから湯原も大事にするし、例えば長い、大分の長も違った形の伝統があるわけですね。で、それをやっぱり大事にして、大事にしてる人たちがいるとこが好きでしたよね。うん。うん。 だからお湯だけではなくてやっぱり伝統的な文化、温泉文化とか生活文化とかそういうものを大事にしてるところを今考えてみるとそういうところと非常にあのコネクションが濃かったですね。 うん。 ただやっぱりあの残してってくれたその色々その図書館とか何かがね図書館が今 3箇所あるんです。 湯原含めてだから湯原は温泉関係、え、大分は山関係、それから下田はあのあとその他取材関係ね、私たちが取材して集めたその他の資料とか写真とかがそう言ってるんです。で、そういうところにあの自分の思いは託してるんじゃないのかな。 野口さんの思いを湯原の人たちはもちろん しっかりと受け止めています。 ま、全国路天ブロ番付けで西の横綱に湯原 温泉を選んでくださったんですけど、これ はやはりあの先生なぜ湯原温泉ですかって いうのを私今聞きましたらまずあの大自然 のある有大なあと ある。これからいつでも誰でもあの無料で 、え、入ることが24時間入ることができ て、で、しかもそれを住民の皆さんが、あ 、宝のように大切に育ててるという、ま、 そういうことを含めて湯原はあの選に、え 、日本一なんだっていう風に言って くださってます。で、 ま、あと野口先生最後の本になりました けど、野口先生はあの 温泉を通じて心と体を元気にできるんだと 。温泉はそういう力があるんだということ をもうずっとおっしゃられてましたから、 あの私もそういう考えに賛動してました からだ。あの、してますので、え、これ からもですね、え、野口先生のその思いと いうか、あ、露天ブロがは、あの、リバ原 の宝なんだ、岡山の宝なんだということで 守り育てていきますし、また、え、温泉を 通じてその利用者の人が、え、心と体が 元気になれるようなそういう風な地域づり をしていきたいなという風に思ってます。 [音楽] よ。 [音楽]

文責・【プチホテルゆばらリゾート】のオーナーす。
昭和28年5月生まれの71歳。
住所:岡山県真庭市湯原温泉68
TEL:0867-62-2600 FAX:0867-62-2300
 E-mail:ph-yubarar@net626.co.jp

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