【国指定史跡長浜城開園10周年記念講演会「駿河湾の海の城と海賊ー韮山外張先之城二候ー」】動画1:「伊豆長浜城跡研究の現在地」木村聡
あ、あ、え、皆さんこんにちは。 こんにちは。 え、今ご紹介預かりました、えっと、沼津市文化隊センターのあの木村と申します。え、どうぞ今日よろしくお願いいたします。長い時間になりますけどよろしくお願いいたします。 え、私の方ではですね、え、最初午前中に ですね、長浜場と、ま、ちょっとタイトル がですね、ちょっと堅苦しい話なんです けども、あの、元々ですね、え、午後から 講師のお2人をお呼びして、え、長浜城に ついてちょっと深めていこうかなっていう 風に思っていたんですけども、ま、職場の 人からですね、いやそもそも長浜みんな よく知らないんじゃないのって言われまし てですね、え、文化財センターでちゃんと やっぱ長浜場を解説して、え、そこから 議論を深めた方がいいんじゃないかって いう話になりましてですね、あの、急遽こ 11時設定ってんだって皆さん思ったかも しれませんが、えっと、実は11時から ですね、私の方でお話させていただいて、 ま、午後から講師のお2人にお願いすると 、ま、そういうプログラムになっており ます。で、あの、そういうところですね、 ちょっと気になってはいたんですけど、 どうしようか、あの、開演10年経ちまし たけども、え、長浜あとすいませんった ことがありますっていう方どれぐらい、あ 、素晴らしいですね。びっくりしました。 こんなにいらっしゃったんですね。よかっ たです。あの、大丈夫かな?私の話解説 看板にいっぱい書いてありますけど大丈夫 ですかね?あの、皆さん、あの、復讐だと 思っていただいてですね、え、今日のお話 聞いていただきたいなという風に思います 。え、私の方はですね、大体50分ほどお 話をさせていただきたいと思います。 はい。ちょっと手元暗くなりましたけども 、え、基本的にはですね、皆さんお配りし てる資料の内容は全部こちらの方入ってい ますので、ま、スライドの方見て いただければという風に思います。はい。 で、今、あの、画面に映っていますのが、 え、長浜との前傾です。えー、まだこの時 はドローンではなくてラジコンヘリッコを 飛ばしてですね、整備した時の、え、状況 を取っています。えっと、東の方から、え 、撮ってる写真になりますが、ま、今、え 、島のようになってる周りにたくさんの船 がこうついている状況を見ていただければ と思います。今のあのヨットハーバーとし て非常にですね、ま、少しあのいくと 急ブ化になってでかつですね、周り側 ところがですね、山に囲われてることから あんまり風が吹かないというとこで、ま、 ヨを止めておくにも非常に良い場所だと いう風に、え、な場所になっています。 ですので、今こういう風に、ま、たくさん 止まってますけども、ま、おそらく400 年ぐらい前はですね、ここに、え、水軍の 日がいっぱいいて、え、船が並んでいたと 、ま、そんなような光景を思って いただければいいかなという風に思います 。 はい。え、少しあの、たくさん内容持って きたので、ちょっと急がなきゃいけないん ですけども、え、10周年、10周年と いうことで、え、10年前のちょっと写真 を持ってきました。え、10年かって思い ますね。正直て私が、え、最後29の時、 30歳の時ですね、オープンしたので、あ 、気づいたらもう40歳になってしまった ということなんですけども、こう映ってる 、今ここに映ってる子供たちも中学生 なんかはもしかしたらもう大学卒業する ぐらいの年齢になってるということですが 、が経つのは早いもんですけどもはい。 あの、10年経ちました。で、10年の中 でですね、ま、これまで様々なあの 取り組みもやってきたわけですけども、 今日はですね、その10年で、ま、研究と して何が進んだんだと、え、10年前です ね、ちょうど同じように、え、開演記念 講演会というやりました。で、その時に ですね、様々な先生をお呼びしていろんな 分野からお話ししていただいたんですけど も、それから、ま、10年経ってですね、 何が進んだのかっていうところは今日 メインの話でしていきたいという風に思っ ています。あの、結論から言いますとです ね、実はあまり長浜自体はこの10年で 発掘もやっていませんし、ま、せ演して からですね、あまりそれからのあのことは やっていないわけですが、ま、周囲の、え 、今日午後にからお話いただくですね、 伊ノさんだとかですね、あとはあの海賊 研究とことで今日お呼びしてますけども、 愛媛県の今張市の方とかですね、非常に そういう多くの研究が周りで行われてきて 、ま、10年前にはちょっと評価でき なかった内容なんかが穴浜分かるように なってきた。ま、今日はそういう話を メインにしていきたいという風に思ってい ます。はい。今日ですね、え、3つ ちょっとお話ししたいと思ってます。3つ 目はもう最後さらっと終わる話ですけども 、ま、あの私のお話はですね、ま、午後に どういう風につなげていくかっていう ところがメインの部分になりますので、え 、長浜城との概要、それから、えっと、 長浜条に関わる研究士、これまでどういう 研究がなされてきて、今どういう状態が あるのかっていうところを主にお話しして いきたいという風に思います。 はい、では早速です。えっと、ごめん なさい。ちょっとこれが見えづらくなって ますね。 よいしょ。こうしましょうか。はい。え、 まず、あの、皆様、あの、さっき手上げて いただいた方々が8割ぐらい会場にいたか なと思いますので、今更場所はあっていく かもしれませんけども、ま、伊豆半島の中 ですね、ま、中心的な、え、城としてこの 後告いただきます。あの、ニ山があって、 で、本拠としては小田原があると、ま、 そういう場所ですけども、長浜城はこの、 え、敦川の1番おまったところに、え、 気づかれた城になります。で、あの、右の 図がですね、え、法場5代観光水進協議会 のホームページから撮ってきたんですけど も、ま、各、え、工場5代いますけども、 ま、それぞれがですね、どういう風な領域 を持っていたのかと、ま、もちろんあの 最大領域ですので、いつもこれだけ広かっ たというわけではないですけども、え、見 ていただきたいのはですね、ま、伊豆が 1番最初の両国であるということですね。 工場の場所でその後になりますけども、ま 、総運と書いてますが、ま、初代法条騒、 伊勢総水ですねが、ま、伊豆に、え、 内入りをして戦国代面としてなっていくと その広がっていくっていう場所なんですが 、ま、その中でも長浜城はその1番最初の 養国の、え、西の場所になる、西の、え、 鶴川の面下いう場所に気づかれているお城 であるということになります。 ちょっと、え、難しい話も、え、していき たいと思っていますが、え、ちょっとお 付き合いください。え、まずですね、 ちょっと場所についてお話をしていきたい と思います。え、今日ですね、え、なんと か西浦ということをお話しさせていただく んですけども、今皆さんどうでしょうかね ?え、西浦地区というとですね、え、今北 の、北傷のですね、この西半分っていう イメージを持ってるかなと思います。は、 この辺りが西浦で内浦があって、え、渋が ある。ま、3浦って言いますけども、え、 3つの渋浦、内浦、西浦という場所ですが 、ま、そもそもですね、え、事例によって ちょっと言われ方、この地域の場所の言わ れ方が違ってるというところからちょっと お話を始めたいんですけども、えっと、ま 、鎌倉でちょっと直前と、あの、最近 1985年だって言いますけども、ま、 それちょっと前の時期になりますが、え、 この地域はですね、水戸の三クリアという 記載が出てきます。あの、ミクリ屋と言う とですね、ま、あの、え、神社とかそう いうところにですね、あの、魚介入れ なんかの、ま、こう方取ったりするための ものを、え、取る場所ということで、え、 言われてるわけですが、このちょうど水戸 という場所が今この長浜城のあるこちらの 場所ここですね。ここが水戸ということに なります。で、その後もですね、長浜と いう言葉よりも水戸という場所がやっぱり よく出てきます。え、その後ですね、水戸 の少内重合半分、え、こって書いてますが 、多分これ放置の間違いだろうというのが あの沼津市は言っていますけども、どの 地域かというとここですね。大巣気象高知 とこの辺つまり、ま、長浜城周辺は、ま、 水野省の一部であるということになります 。で、戦国時代になるとですね、え、ここ がですね、西浦省という風に呼ばれるよう になります。え、伊の国西浦の省今西浦と いうと先ほど言いましたが、こっちの西側 半分っていうイメージですが西浦の町内に 水戸、長浜、 崩ですね。クでしなでここに飛ぶのか ちょっと分からないですけど、し寺で平沢 この以上7箇所が、え、西浦の村であると いう風に言われます。ですので、え、戦国 時代に多いとはですね、今日、あの、皆 さん、えっと、地域の方、詳しい方が いらっしゃれば、いやいや長浜って内浦 でしょって思ってるかもしれませんが、え 、今日、え、私が言う西浦っていうのは 要するにこの長浜周辺のことをイメージし ていただければなという風に思います。ま 、戦国は西浦と呼ばれていたということ ですね。で、こちらが今、あの、本来、今 内浦なんですが、これが当時は西浦で、 じゃあこっち側な何て呼ばれたかって言う と、なかなかちょっと出てこないんです けども、ま、江なし五村とかっていう江っ ていうこの地ですね、江なを中心とした、 ま、一番絵なしが広いんですけども、5つ の村があるよっていうような表記で出てき ます。 え、その中ですね、こうちょうど、え、 水戸の市めてですね、ま、西浦の賞、西浦 の、え、場所も含めてちょっとこれからお 話ししていきたいと思うんですけども、 あの長浜城の立の写真とあの角度変えてみ ました。あの、今行くとなんか山がポンと してる島みたいになってるなっていう風に 思うかもしれませんが、え、この海側から 見るとですね、この骨端上と呼ばれる山の ずっとこう伸びてきて、骨が伸びてきて、 今剣道でここ切られてしまってますけども 、こう海に突き出す、こう先っぽの部分が お城になってるということになります。ね 、ですので、あの、この剣道で切られる前 はですね、多少ここ繋がってるとこもある でしょうし、実際にですね、こっち側の山 に行っても堀が残ったりとかしていますの で、今国指定としての範囲はこっちの剣道 側の北側になるんですけれども、こちら側 の方にも少しお城の移行が残っていると、 ま、そういう環境になっています。で、 こちらが内裏湾ということですね。で、 内裏少し広く見ていきたいと思います。え 、手前がこれ長浜城ですね。こういう 奥まった鶴側の1番奥にある場所っていう 形でこうワンになっています。で、ここが 長浜の集、こっちが水戸の集客です。なん でこのような今日写真を出してるかという とですね、ここから水戸坂というこを通っ てですね、伊の中に入っていく道があるん ですね。つまり、え、船でこうやってきて 、奥までやってきたとこですね。する川の 内までこれ入ってきてここから陸で中に 入っていくっていう場所が1つ水戸として 大事な場所だということになります。この 上ですね、今日長浜、長浜ってだけ見て しまうと、え、理解がけないところあるん ですけども、この宇宙、え、内浦周辺って 言いましょうかね、え、水戸まで含めた そういった部分まで含めて一体的な地域で あるということをちょっとまず最初にご 紹介したいという風に思います。 さて、こんな、え、ところですね。え、 10年前はこんなに綺麗だったって言われ てしまう。ちょっとな、かっこよくもある かもしれませんけど、オープンした点の時 の、え、写真です。あの、奥に富士山が 見えていて、え、ま、こういう綺麗な内浦 が全部あの白山の上に登ればですね、え、 分かると、ま、そういう場所になってい ます。なんでこんな写真を出したかという とですね、え、江戸時代ですね。江戸時代 にここが非常に有名な大丈夫、え、 インターネットの接続不安です。はい。 えっと、有名なですね、え、漁場であった ということが、ま、知られています。え、 これ自体はですね、非常に古くからの研究 があってですね、もう、え、蓄積としては そうですよね、多分50年60年研究の 蓄積があるわけですけども、ま、この話 自体を詳しくやってしまっと時間がないん ですが、え、この白山と書かれてるここ、 これ長浜町です。 ここのとこにですね、マグロとかカツオが ガーっとやってきてですね、海泳いでくん ですね。そうすると山の上からですね、 それを人が見張っていて、あ、魚が来た ぞって言うと長浜のこの先端の部分から バーっと船が網がついた船がバーっと出て きてですね、大きな網でこう囲ってしまい ます。で、その網をこう少しずつ少しずつ こう小さく小さく小さく小さくってして 最後この長浜城のところで一気にマグロを 取るとま、そういう漁法があったりですね 。え、これ自身はですね、あの、今絵は あの昭和のあ、ま、そうですね、昭和初期 ぐらいまでのあの状況の書いてると言い ますけども、あの資料からですね、 おそらくこれもう中世まで遡るだろうと いうことが、ま、分かっております。ま、 そういう漁場の場所だったということです が、え、ちょっとあの資料の古いの出して きました。え、明治27年にですね、静岡 県水産士という本が出ておりまして、ま、 あの、非常にあの、分厚い本で、ま、この 図書館ですので、ま、あの、がある方 いらっしゃいましたら2階の共同思考あの 3冊ぐらい置いてありましたんで是非見て いただければと思うんですが、その中に ですね、ま、たくさんの魚が取れた魚が こう書いて、え、ちょっと字が小さいの見 づらいかと思います。読み上げますが、 イルカとか目ジ、マグロ、際田、渦輪、 カツオ、横輪、云々のあるんですね。 大きな網では今言ったような大型橋が 取れる。それ以外にですね、タラとかです ね、Ê、アジ、サバ、カマスですね、え、 イカとかですね、タコとか色々書いてます 。あの、非常にですね、豊かな、え、業場 であるというところが、ま、昭和27、あ 、明治人27年の段階でも、え、残ってい まして、その時の記載をですね、ちょっと 見てみますと、あの、かこで書いてある ところは、あの、他の部分に書いてあった よ、あの、コピーでしてるんですけども、 ま、佐賀風という風がある。え、そこは ですね、あの、10月から1月頃に、え、 巻田から巻北田より吹く課税であると。で 、これはですね、漁に最も公的するもので 、如と、え、如とくこの風吹き去る後は 各種の俗軍して各億にともに多角をしると いうと書いてます。ま、つまり10月から 1月ぐらいはすごい風が吹くんですけども 、そこが終わるとですね、一気にいろんな 魚がやってきて、この地域ではすごく豊か な情になるという風に書いてます。これ 明治27年のですね。で、あの実際にです ね、うちらの民族という本がありまして、 そこの中でもですね、大量は11月から3 月は給料機なで、え、4月ぐらいから マグロが来始めるので、え、そこから一気 に取るんだってことが書いてあります。ま 、このあのやつを合わせると、ま、大体1 月ぐらいまで多く吹いてるってことは、ま 、2月3月ぐらいまで多分続いていて、 それが終わって4月になると一気にマグロ が来るっていう、ま、そんな環境になっ てるとこですね。非常に豊かな場所である ということです。 で、その資料をですね、少しあの読み解い ていくとですね、え、この内浦の、ま、 こう、え、もうこれ明治の話な宇宙浦の村 になってますけども、内浦村の、え、制業 についてもちょっとまとめてありました。 え、いくつか、ま、5つ村が書いてあるん ですけども、え、1番、え、人口が多いの は水戸です。この先ほどから言った水戸坂 ですね。に向かっていく、そ、伊豆の内陸 部に入っていく水戸坂というところ。ここ がですね、人口869人なんですが、え、 業務の割合っていうことちょっと文字皆 さん見えづらいと思うんで、ちょっと 読み上げますけども、え、漁業が1と 10量があったら漁業は水戸は1であると 。で、何が多いって言うと、商業が5、 農業が4っていうですね。この場所って すごい海に面していて、今も水族感とか いっぱいあると思うんですけども、ま、 旅館中はあるからなんとなくイメージつき ますかね。え、業が1しかない。じゃあ どこが多いんだって言うと、隣のこの2つ 赤をつけた長浜がですね、人口354人 しかいないんですけど、漁業が7、商業が 0.5、農業2.5っていう、そういう 割合で10の割合で言うとですね、7割 ぐらいが、え、漁業である。で、こちらの 資源ではですね、こっちここです。資源で 少し汚すごいですね。漁業9、商業1って いうほとんどの人が業いということになり ます。で、こうやって見ていくとですね、 この宇宙路囲むところもですね、ま、村に よって同じような環境かなって皆さん思う かもしれませんが、どうも制業がや異なっ てるんだという明治、27年段階という ことなんで、あの、それがもちろん戦国機 までどうだったかって言われるとちょっと あの検証はいると思いますけども、ま、何 が言いたいかってですね、この水戸って いう場所が中心となっていて、そこはもう 商業がすごいと、ま、他の場所は業ったり 農業やったりしてるんだ、そういう生活 関係ですね。で、面白い記載がその 聞き取りであってですね、そん中でもただ それでもですね、宇宙浦では丘でマグロが 取れるっていう人がいるぐらいなんです。 これも長浜のとこにですね、非常に たくさんの業の人いますけども、特にです ね、長浜の漁師は贅沢だ。団子の川を食い て、向いて食うっていう人がい るっていうですね。ま、ごめん。団子の川 を向いて食うのは贅沢なのかどうかって いう感覚がちょっと話ではないんです けれども、え、ま、え、ま、少なくとも ですね、この長浜っていう場所が、あの、 非常にですね、漁師って言うとですね、 やっぱ大変ですし、あまりこう好まれた、 え、職業でなかった時期もあったんです けども、それでもですね、長浜の漁子は 非常に儲かったということが書かれてい、 ま、それぐらいこう豊かな場所だという ことをもうちょっとお話ししたいと思い ます。で、じゃあ問題この水戸という場所 です。で、今日ですね、長浜の話をお前 するんじゃないのかっていうしかもして ませんが、ちょっと水戸の状況を少しあの 見ていくとですね、え、これですね、主要 な道路とちょっと古そうだなと私自身が まだ検証してるんですけども、あの道に ちょっとしたものです。え、実際ですね、 見取って現地行っていただければ分かるん ですけど、どう考えても車通れないような 細い道なんかがバーっとたくさんついてい て、この道ってきっと古いんだろうなって いうのがたくさんあります。で、さらに あの事例ですのでどこまで本当かっていう 検証はあるかもしれませんけども、ま、 13世紀ができるようなお寺であったりと か、えですね、これなんか戦国機のお寺 ですけども、で、あとは電義子乗ってる ような式内式者に乗ってるような、あの、 こういう神社だとかですね。こういうのが バーっと存在てます。で、そこにですね、 海岸沿いに今は上立てでこっちがメインの 道になってますけども、少し1本入り込ん だところにメインの街道があって、ま、 そこにこうちょうど、え、直行するような 形でいくつかこう道が付いています。特に こう、三道なんかですね、こう直行する ようについてるんですけども、その中に ですね、ここの辺りちょっと見えづらくて 申し訳ない上宿です。上宿っていうですか 、上宿ですか宿。そういう地名がこの地域 に残っています。そしてこの辺りにですね 、1つ大事な、ま、商業権っていう場所が あってですね、長浜なんかはやり取りが あるのかなという風に、ま、見ている場所 です。で、そういった中でですね、え、 歴史官が出したって資料を引用してきたん ですけども、これはですね、え、江戸時代 に、え、沼津から江戸までどういう風に 運んでいたかって解散物を運んでいた かっていう図なんですけども、え、その中 の記載ですが、あ、ごめんなさい。えっと 、別のちょっと資料の人の方も引用してき てますけども、あの、水戸にいる魚の商人 が、ま、取れた魚を買って水戸坂を超えて 長岡に入って、え、湯ヶ島を通って雨を 超えて青城に出てってです。この道なん です。ここ皆さんなんかこう魚を取って 江戸に送ろうと思うとみんなこっち回んの かなって思うかもしれませんが、メインは 伊の中を突っきるんです。やっぱりこれの 距離をぐるっと回るのは非常に距離も長く なりますし、あと下田の辺りは非常に海流 も早くてですね、あの塩待ちをするって 言葉があるぐらいに、ま、危険な場所なん ですね。で、あるんであればこの長浜の 水戸の周辺から一気にこの水半島の1番 狭くなってるところショートカットで バーンと東側出してしまって、そこから船 にまた乗せ替えて、え、江戸に運ぶんだと いう気先があります。で、あのちなみに ですね、今これ江戸の方向お話ししました けど、え、西の方にはですね、マグロを 大きな切り身にして塩につけて樽に入れて 1回沼に出すという、今我々がいる場所 ですね。ま、沼ずの近くとことです。沼ず に出してそこから藤川沿いを通って身を 通って甲州に行ったていうんです。すごい 距離運びますけども、あの、そういった 場所の、え、この長浜周辺の魚がですね、 こういう風な形で、え、使わ、あの、運ば れていたということになります。で、今の お話は、えっと、江戸時代のお話になり ますが、もちろん戦国機も同じだという風 に考えてです。あの、江戸ではなくてです ね、当時、ま、伊国の本性が未来山という ことでしょうし、それから、ま、首都って 言いましょうかね、あの、本条は、ま、 小田原であるということになったわけです 。で、ま、西浦はですね、この地図見て いただくと分かるように、こう宇日の段階 では少しあの、今の広告自体ですね、富士 の辺りまで広がったことありますけども、 え、それ以降はですね、基本的に伊豆って いうのが北条の1番西橋になるね。で、 西橋にこう接している港が今日お話しして いる水戸だったり、え、長浜である。ま、 そういう位置付けになるですね。特にその 宇田以降ですね、あの武田がこっちあの 入ってきたりもしますけども、え、伊豆国 っていう場所がま、一番橋になってると ことを考えた時にその位置付けっていうの はおそらく、ま、こういう、え、ものが 入ってきてぐるっとマルートもあれば中を 通りながら小田原に物を送 るっていうような、そういったこともやっ てるのかなというに思ってます。ちょっと 地図をGoogleップにちょっと合わせ て地図をしてみました。え、今のこれです ね。こ我々近くですけども、ま、沼ず今 あの海側に出しちゃったので昔のところ あの当時は川ですのでもう少しのえっと 我々がいるもう少しですねあの1km ぐらい中国に近いところですけどもあの 辺りまでがまあないとあの今市場より持ち になりませんです。ま、その辺りまで、ま 、物がもし来たとして1回沼で上げて、え 、沼から東海道を乗せていくで運ぶって いうのももちろんあると思いますし、 可能側をずっと遡って犬の中に入ってくっ ていうともあると思います。 ただ、え、今のお話でいきますと、え、魚はここで取ってますけども、西からもしやってきた分物があれば、え、沼で下ろすものもあれば、そのまま戸に入ってきて中に入れて、で、え、このルート自体は今やった江戸時代のルートになってしまいますけども、味に出して小田原に送るみたいな、そんなルートがきっとあるという風に思います。 で、今日このあのお話ですね、昨日実はあのこの後お話だけ池さんとも話をしてたんですけども、どうも 1 本じゃないと何本かあるぞと、え、これやつですね、来は通らないですね。このルートで うん。 ですね、なんでじゃあここ大事になるのみたいなとこだと思いますけども、ま、その辺りなんかですね、少しまた後できさんに、え、お話していただくのかなという風に思っています。え、これちょっとあの無理やり下田道をつけてますけど、あのこの辺りなんかも話あと出てくるかと思います。 なので、あの、今解散物を中心に、ま、お 話をさせていただいたわけですけども、 おそらく解散物だけではないですね。 いろんなものを、あの、西からやってきた ものを東に出す、もしくは東からのものを 西に出すって言った時にこの水戸っていう 場所がですね、非常に重要な場所であると いうことは、あの、ま、相当で固くなるの かなという風に思います。はい。で、え、 そんな中でもですね、え、戦国時代ですね 、え、西浦の税金なんか、まだなんか ずっと難しい話してますけども、え、当時 の資料なんてですね、色々魚の名前が書い てます。で、先ほど生産値の方を見ました けども、生産値と同じようなものが実際に 税金として、え、法上の方に上げられてい て、ま、これは、えっと、正確に言うと転 なので、あの、法場がまだ滅んでないん ですけども、豊富がやってきて、え、 新しくあの、支配者に変わるんですけども 、税金の取り方は前々の筋目に任せって 書いてますんで、ま、法上の時と同じよう に、え、税金取りますっていうことなん ですが、ま、そういった時の資料をなり ます。ちょっと字が小さくてあれですが、 え、タとかブリとかアコとかエビとかイカ とかタコって書いて一気言いましたね。タ ブリ、え、アコ、エビイカ、タコとかです ね。こういうのが書いてます。実際仏の 部分が。それから1番下のところとこに 立ち物年具宮具って書きますが、これ 先ほど言ったあの大きい網で取る 立ち切り編み量って言うんですけども、 そこで取れるやつの1/3は税金として 召し上げるというになってます。マグロだ とかカオだとかこういったものなんかも 全部税金として納めて仏納してるという ことになります。はい。ま、そういうです ね、あの水戸、あの長浜って言ってしまう とどうしても長浜のあの場所だけのものを 見てしまうかもしれませんが、まずここを お話ししたかったのはですね、え、周辺の 水戸まで含めて1つ一体的な地域であると いうことですね。それが少しその流通とか そういったものもになってるよっていう ところをお話させていただきました。はい 。で、いよいよですね、じゃあ長浜城 そんな、え、豊かなであったりとかですね 、小田原とかニ山に物を入れるそういうの とこに作られたお城ってどんな城なのかと いうとこについてお話ししていきたいと 思います。え、まずですね、ちょっともう 戦国機末の資料なんですけども、え、法上 市の認識として長浜はニ山、これ外張り、 ちょっとごめんなさい。呼べないんです けどもの先の城っていう風に書いてます。 城の守る防衛線の最前線の場所のに作っ てるのが長浜城というそういう認識ですね 。あのこの泊まりっていうのをですね、 どういう風に評価するかっていうとこある んですけども、ま、いくつかの時点なんか 見てるとですね、ま、出入り口だったか ですね。そういったものを書いてある もらえば防衛ラインであるよっていう ところに書いてあります。この防衛線って いうのは沼津市のあの見解を今取ってい ますけども、ま、いずれにせよですね、 来山と非常に関連を持った仕事なんだと いうことになります。ですので宮山城の 同行に対してどういう風にそれを長浜城が 、え、それを補っていくかですね。そう いうようなあのお仕事っていう風に法条士 は認識していたということになります。 これ真上からの写真を右から出してみます 。はい。ね、ちょっとこれを図に変えてみ ました。えっと今日はですね、あまりお城 のですね、悔しい話までは、あの構造まで は話しないんですけども、え、まず1番 高いところですね。ここ、ここが1番高い んですけど、ここですねに第1グルで こっちに向かって234っていう4つ 大きな車が作られます。1234 ですね。で、海側の方に向けてA、B、C 、Dっていう風に車が作る、こう、L字に なっているという形です。で、あの、当時 の資料がないので、当時この場所をですね 、どういう風に呼んでいたかていうのが 分からないので、もう便宜的に1番高い ところからこっち方向に1234、こっち に向けてABCDっていう風につけてい ます。あの、当時の白は全然ありません。 で、この標34m1番高いところですが おそらく、ま、主角とメインになる場所 ですね。で、そういう風になっていて、ま 、あの、え、こっちの2341234 についてですね、この山川、こっち海側と して山川の方に土類が付いてます。土の壁 が付いてますよっていう構造です。で、 一方ですが、え、海に突き出る側には、ま 、そういうあの視界を遮えぎるような構造 が一切なくてこうバーンと解放的になっ てるいう構造になります。え、こちらです ね、え、た先生と方に書いていただいた、 え、復元の絵なんですけども、ま、海側の 方については全然こう防御指点がなくて、 え、奥の方に少しド類が付いてるよって いうですね。 今復元だとこんな復元あの整備したと こんな形になります。え、こちら側に土類 という土の壁多分もうちょっと高いと思い ますけども土の壁がぐるっと回っていて 一方で海の方はもう平たくバーっと見え てると、ま、そういうあの海側と山側で ちょっと作り方が違ってるような、ま、 そういう構造になっています。 はい。ちょっとその中でですね、え、 あまり得意じゃない縄張りの話をしようと 思うんですけども、え、 ごめんなですね、え、工夫が張り巡された 小口っていうちょっとお話をしたいと思い ます。え、小口っていうのはですね、ま、 城の中の、ま、出入り口だという風に思っ ていただければいいと思うんですけども、 ちょうどですね、1番力を入れてるところ がこの第2と第3話という間のところです ね。この場所に、ま、ドイで囲われて、土 の壁に囲われて間に門がこう立てられてる ような、ま、そんな構造部分が、ま、発見 されています。で、これをですね、え、 非常にこれだけ見ると、あ、そうなんだ、 門があるんだねっていうぐらいかもしれ ませんが、え、縄張りの研究者の方々が ですね、これはすごい工夫がされていると いうんですね。この工夫はやっぱりもう 戦国機の終わりぐらいだななんて言うん ですけども、ま、その辺りは評価置いて おいて、えっと、え、ま、ちょっとその 工夫について少しお話をしておきたいなと 思います。あの、皆さんがですね、もし敵 となってこう青印で攻めてきたとします。 え、今印のところが非常に通路がこう狭く です。1列でしか入れない。うん。ね、 広がって何十人、何百人って攻めてきたん だけど通路が狭くて1人ずつしか入れませ んよっていうような、そういう通路になっ てます。これ入ってきました。そうすると ですね、目の前にこう門があって簡単に 入れません。ここに人がこう溜まるような 構造になってしまう。そうするとですね、 こう上から鳥の高いところからこう横、横 からこうバーっと弓を打たれる。1人しか 入れないのにこう正面からとか横打っ ちゃいます。この門のせいでここでもう 一望になるね。で、さらにじゃあなんとか この門を突破できましたよって言って中 入りました。そうするとどうなるかって 言うと第グ第3ぐ広くなってるのでこう敵 がそこ待ち伏せをしていてこう1体数に なるこうやっと生えてたと思ったら袋叩き にあってですね。ああこれは大変だと。 こんなもを無理やり突破すんのは大変だよ ね。じゃ、こっち回った方がいいんじゃ ない?って思うかもしれませ。こっちです 。ここに回った方がいいんじゃない?そう するとここに 堀が入ってるね。堀が入っていてこっちに 行けないようになって。そうするとあ、 ここで振りで止まってしまうってなると また上からこう打たれるですね。こう狭い 場所なんですけども、非常にこう何十にも 何十にもあの工夫がされていて、ま、 少ない人数で多くの敵をこう撃退できる ような、ま、そんな構造になってるいう ことになります。で、こちらですね、 もちろん発掘する前に、評価時代出てたん ですけども、ま、非常にこう技的と言うと 、ま、ちょっと言葉に言われる問題はある んですけども、ま、告口空間かということ で、これはやっぱりもう戦国時代の終わり ぐらいに作られた、え、構造であると。 で、先ほどこれからお話ししてきますけども、え、長浜城の文献資料って非常に合致するんだみたいな、そういう、ま、研究があったわけです。 で、実際にですね、今からちょっと少しお話ししていきたいんですけども、ま、最もあの長浜城が緊張会に置かれた時っていうのはいつかと言いますと、え、 1979 年から始まる場と武田の戦いの時になります。 え、そうですね、1590年に、え、包丁 し滅びますので、ま、その11年前という ことになりますが、約4年間武田とこの 地域を、え、巡って戦いが行われます。 あの、きっかけはですね、え、武田がです ね、沼の場所に城を作ったというところが 記載で出てきます。え、転勝7年9月3日 の段階に工場宇正自身が寸津寸鶴賀と伊豆 の国の酒井の沼の地に地理気づきそろって 書いてます。地理っていうのは、ま、そう いうあの砦出とか城とかっていうものを 気づいたという風に言ってますし、同じく その、え、14日後、1114 日後ですね、え、に武田の方も武州の高い に新しく城を気づいたっていう風に書いて あります。これがどこかと言うと、今我々 のいるすぐ横脇秋、え、山橋市場ですね、 え、沼津の今の中央公園を本丸とした場所 で、ちょうど今図書館の目の前に通ってる 道が外堀ということになりますので、もう ここにちょっとたところが、え、武田が 作った、え、お城ということですね。ここ に新しくお城を気づいたんだということ ですね。 え、法場からしたら大変な実は話です。 先ほどから出したよっていうのも言いましたけども、沼の地を経由して物のを送っているっていうことも言いました。 で、この伊豆の国士山からすればですね、まを遡って出てくる最後の場所がこの 3枚橋なんですね。そうすると伊豆のもの をそ西に送ろうとした時にこの沼の木にを 作られるっていうのは非常にもうこの伊豆 の流通を考えるとも重要なあのそのなんか ストップになってしまうことです。で、 そういったところです非常に内起こっん ですね。こんな場所に、え、お城作り やがってと、今まで同盟関係だったのに こんなことしやがってつってものすごい 怒ってます。ただ怒るだけではなくて やっぱり相当の危機だと思ったんですね。 そういった中でですね、この山城が今度 攻められてしまう。じゃ、西山城どうやっ て守りましょうかっていう時にリクロの この川沿いに新しく城を築いたり、え、 回収したりして一気にこの川沿いをリクロ 持っといます。で、もう1つが海からの道 です。先ほど言いましたこれ水戸坂の ところですし、もうちょっと今エマのとこ ありますけども、ここに2つ海のお城を 築づいて長浜城と獅浜城を築づいてこの ワンで止めるということですね。つまり この今言ったこのお城たちは条城を守る ためのこう防衛ネットワークみたいなそう いう形で作られていきます。 え、京都今第1車から見た写真ですけども ここですね。今長浜城に登るともう3枚橋 を真正面に見える、ま、そんな場所です。 今でこそこう、え、ヨットが置いてって いうの落ち着いたような環境になってい ますけども、え、多分これ向こうからです ね、敵戦の準備がしてたらですね、丸見え になるようなそんな場所だと思います。 距離で言うと9kmぐらいです。直線距離 9kmぐらいで、え、昔あの私テレビ番組 なんかでちょっとエンジン付きのあの船に なって行ったことあるんですけど、15分 ぐらいで、15分、20分ぐらいですかね についてしまうね。ま、当時もちろん 手こきなので、それほどの期間時間はない かもしれませんけども、ま、向こうが戦闘 準備始めたなと思ってぼっと見てたらもう すぐ攻め込まれちゃう。ま、そんな距離 ですね。で、今でこそこ落ち着いてますが 、すごい緊張感があったような、ま、 そんな経官になったという風に思います。 え、こちらいくつかちょっと資料を出して いきたいと思います。ごめんなさい。え、 2つ、え、用意しました。え、その先ほど 言った3万色指導ができましたよって 勝よりが、え、出した2ヶ月を11月です ね。さっき9月の話ですが、え、図州の裏 の唱えのために長浜に船かけ場を押せられ たところということです。長浜に新しく 船場を作ったね。図州の図は伊豆の図です ね。伊豆の裏を守るために船場を作っ たって言ってます。それからその翌月です 。ここにですね、鍛原という人をっていう 風に出てます。これ鍛原って誰だって言う とですね、え、元々言った地元の人では なくて、わざわざお金で雇った、え、木の 国の海賊です。え、木の国って若いですね を、え、雇ってですね、え、そこに配置を したということになります。え、ちょっと 今日問題出しませんけども、この約 ちょっと前にですね、鹿原番線っていう 名前で税金が取られてしまいます。これも 多分水軍運を鹿原のためだけに作った臨時 聴金です。もうもう多分もう今にも戦いが 始まるぞっていう時期で、え、そこにです ね、その、え、運用資金、水軍の運用資金 のためにもう、え、地域の人からだバだお 金を取ってなってるとですね。なんかこう 気な臭い感じが分かりますかね?皆さん なんとなくこう、え、なんか現代社会も 通じるような話もありますけども、え、ま 、もう戦争が目の前に迫ってる。ま、 そんな状況税金がバンバン上がってるね。 で、さらにですね、そのだけじゃないです 。え、これ敵線を見つけた時に次第のろし を上げろてですね。で、どこで上げてる かっていうと、板のさぎ山です。ここです 。敵戦相手が動き始めたらさぎ山でのろし を上げろ。で、さらにのろしを上げ次第で 味方の船を乗り出せですね。ま、もう ずっとここもう先中っていうきましょうか ね。あの、緊張関係がすごい高いよう。ま 、その中の一角に、ま、長浜という場所に 、え、当時の工場の水軍の中でも1番 トップにいた雇われですけども、傭兵で あった鍛ジ原が置かれるということです。 ちょっとまとめますと、ま、平成あ、転勝 7年10年にかけまして、え、ま、今言い ました魔城をどう守るかっていうことだっ たんですね。 を守るためにリクロの方は今言ったこっち の赤い丸でこうかこの辺ります。で、海の 方はと長浜で守る。で、長浜のとこに1番 水分のトップの鍛ジを置くで税金も バンバン取るでのろしによって監視体制を するですね。ま、そうやって考えてくと 長浜条城はですね、ま、海賊って書いて ですね。ま、この田中さんの話も続います けど、海賊による単独のあのお城りという わけではなくてですね、え、伊豆、さらに その奥伊豆を突破されるともう小田原すぐ ですから、小田原の危機に備えた、ま、 防衛ネットワークの一部として長浜が機能 したとことになります。 はい。ちょっとあの文字多くてごめん なさい。え、鶴川改正のあらましなんです が2年でもうしょっちゅドンパチやって ます。え、実際最初3月15日、先ほどの 鍛原を置いたのが12月ですから3ヶ月後 には、え、戦いが始まります。で、北場方 の方は先ほど言ったように鍛原をトップに してるんですが、武田の方もですね、 オバマとか向海っていう人たちが出てくる んですけど、彼らも実は傭兵なんですね。 武田元々あの山梨県のいますので、自分 たち持ってませんですので、え、元々今側 の水軍であったりとか、あと他の地域から 呼んできてですね、技。ほんで、鶴川の 回線ってすごい大きな戦いな なんですけど、傭兵対傭兵が海の入れ戦ってそういうような戦です。で、実際にですね、え、転勝 8 年では武田が買ったアップで言ってることもあれば、え、ジ原がすごいを上げたんで新しく船を作ったんで乗り立てて乗り手を、え、カジ原に訓練させるですね。 そういうのが出てくるんで、ま、天書8年 段階ではお互い勝った、勝ったって言っ てる。で、天書9年以降は、え、法助の 資料が少ないっていうのもあるんですけど も、えっと、武田が勝ったって資料 ばっかりがちょっと残っていて、どうも、 ま、それだけ読むと武田が有利だったのか なってとかありますが、ちょっと、ま、 あの、お話は本来一方から聞くべきでは ないですね。え、両方からお話を聞いて 判断すべきだと思いますけども、ま、いず にせよですね、この、え、湾を舞台に非常 に大きな戦いがひり広がれていて、ま、 その中に長浜っていうのが非常に重要な 位置を担っていたということになります。 はい。やっと位置が終わりました。すい ません。あと15分なんですけども、え、 何が言いたいかってこっから少しバッと 進みたいと思いますけども、今皆さんお話 聞いていただいて、ああ、そうか。長浜 条城っていうのは戦いのためにこう作られ た非常に擬行的で、え、重要な城だったん だなっていうところは皆さんあの分かって いただけたかなと思うんですが、え、実際 ですね、昭和62年の7月にですね、え、 国定の、え、向けた、ま、当時まだ申請書 って言ってました。今意見審書って言って ますけども、え、申請書ですね、これに 書きます。え、残存する文献資料から登場 後がご法上司の水分の基地であるおみな、 ま、長ですね。を守るための乗格であり、 転勝7年から転勝18年、つまり法助滅ぶ 年まで存続したことが明らかにそうですね 。ま、今見てきた通りです。で、さらに 長浜はその存続機関が戦国時代末期の短期 間に限定ね。で、当初から水軍の基地とし て蓄造されている戦国時代末期の乗格とし て価値が非常に高いんだていう申請書を 上げています。あ、そうだよねって思うん です。ただこれですね、本当っていうのが 実はこの、え、昭和62年指定されてから 整備に向けて行われた総合調査の成果なん です。で、いろんな成果はあるんですけど も、ちょっと今回時間がないので高古学の 成果だけちょっとお話をしていきたいと 思うんですが、先ほどちょっと見て いただいた、え、小口のところですね。 これちょっとハックス調査の時の写真を 出していきます。穴がですね、3つ 見つかったんです。2つとか4つだったら あ、もんがあったんだねって思うかもしれ ませんが、なんでか知らないんですけど ここにないんです。3つしかない。その うちの2つはちゃんと岩板を掘り込んで あるしっかりとした穴なんですが、この穴 だけ元々掘ったところを埋め戻してさらに そこに穴を取ることですね。やっている。 これどういうことかと言うと元々掘った 時期がある。それを作り替えて門に場所に 変えてるんだていうことが発掘調査でも 分かりました。先ほどの意見物心で言うと ですね、これ武田を攻めてた時に一気に 整備して10何年間だけしか使ってません でした言ってたんですが発掘やるとあれ白 ってるじゃんていうのが分かってきたん です。 こういう感じですね。堀の段階と、え、門 の段階っていう風にどうも作り替えが行わ れてる。で、異物もですね、出していて門 に作り替えた段階が大体16隻後半ぐらい ということも分かってきました。で、そう するとですね、おそらくこの最後の今まで 話をした賀回線って1番危い時にはもかも しれないけども、それ以前もちゃんと城と しての機能を持ってるね。掘があ るってことです。単純に、え、魚を見てる 場所だったら堀いらないので、え、 わざわざ堀を作ってるっていうことでねと いうことが分かったです。で、水戸品を ですね、整理をしてみますと、え、これ ちょっとあの小さくて皆さんまた資料見て いただければいいんですが、え、15世紀 後半ぐらいから異物がバっと増え始める ですね。ちょうど、え、相運がい、あのに 入ってくのが15世紀の末ぐらいですから 、ま、そのよりちょっと前ぐらいか同じ ぐらいか、ま、そのぐらいの時期の異物が ドバってできてるんですね。で、肩を見て いくと、ま、実際若干ちょっと16世紀の 方が多いかなっていう風には思いますけど も、え、機種がですね、非常に重要席後半 の方が多様なんですね。茶ツボとどう考え ても戦いつ使わねえだろうっていうような ものなんかが入ったりします。あと貿易 当時機なんか15世紀な16万が続きます けども、ま、そういったものが出てきてる 。で、そういってことを考えますと、ま、 蓄自体は、え、16隻末ではなくって、 やっぱ15席後半からもお城として機能し てると、特に、ま、あの、掘り合うことを 考えると、ま、16隻前半の段下では 少なくとも掘りがあるていうことですね。 で、16席後半に回収されてやっと今の 見えてる形になったいうことになります。 だ、船付き場を新設しただけじゃないぞ。 元々ちゃんとした城してあったんだよって いうことが調査で分かってきたわけです。 で、広格的な調査としての、ま、大きな 成果として、え、ま、繰り返すようです けども、まず1つですね、竹田市に備えて 縮造されたんだっていう指定の評価って いうのはある意味正しいんです。ある意味 その段階ですっごい手を入れていくことは それはその通りなんですが、どうもそれ 以前からお城としてあるぞですね、 繰り返しですけども、ただ魚を見たりする 爆だったら堀必要ないんですよ。堀を作っ てるってことはやっぱ何かしらそういう 機能を持ってるね。で、そう考えてると ですね、武田市に備えて回収されたその 軍事施設だったっていう長浜城の評価だけ ではなくて、この最初にお話しした魚の 関係も含めて流通だとかですね。そういっ たもの考えると西浦の人々のその地域経営 の1つの拠点として長浜条城っていうのを もう1見直さなきゃいけないという風に 考えています。ま、ずっとみんなやっぱり 湾回線がすごいインパクトがあるので顔 回線の話ばっかりしてるんですね。で、 そうじゃなくて16世紀前半の話だって ちゃんと見てかなきゃいけないでそう 考えると転から10年っていうこの4年間 が実は例外な異常事態です。作た時にこの 平事の長浜条をどう考えましょうかって いうところが、え、実はこの10年の1番 大きな調査のあの目標ではありました。で 、例えばですけども、こちら、え、武脂路 魚民仕用という、非常に古い国が知られて いるシートで、え、現存するですね、虎の 民上のこれ法上のあれですね、虎の印般の 投資がバンとするの1番古いやつが長浜の 大川県に残っていました。で、こちらです ね、あの、えっと、図宇宙民資料っていう 本があるんですけど、そのコピーを取って きたんですけども、ま、いくつか重要な ことは書いてあって、ま、今後こういった メールについては右のことをやる、今 1111って書いてますけども、右のこと をやる時にはこの虎の印般所がないと、え 、ダメですよっていうようなことは書いて あるんですけども、その中にですね、 ちょっと1個だけ取り上げるとして美物 っていうのが、え、出てきます。で、沼市 にはですね、単純に、ま、美味しいもの、 特に魚を刺す場合が多いってしか書いて ないんですけども、ま、いくつかの、え、 他の美物の研究なんかやってる方が いらっしゃるんですけど、そこから、ま、 見ていくとですね、どうも増頭品としての 解散物こういったものなんかも微物に入っ てるっていうんですね。で、そうすると ですね、ま、あの、これ、え、アミノ先生 の本から撮ってきたんですけども、ま、 15世紀路からですね、解散物が大名同士 とか大名とか過信とかっていうのを増頭品 としてこう機能し始めて、で、それが だんだん社会的にこう広く定着していくっ ていう状況なんですけども、ま、そんな 考えるとですね、この法上市の両国の経営 に、ま、必要となる増頭品の調達地である と、ま、そういう評価も長浜でできるん だろうなという風に思っています。ま、 これがですね、本当に古い段階なので、ま 、法城士の本当に、あ、法城士が、ま、伊 の支配を始めて、ま、ちょっと落ち着いた かなぐらいの段階で、え、ですね、西浦が そういう機能を持っていたんだということ が分かってまいりました。 さらにですね、え、天文23年、1954 年です。え、先ほど言った顔マぐらい前 ですけども、え、こういった機能も、え、 持っています。え、数州音源って書いて ますけど、これは今川家の結婚に関わって ですね、非常に大事な荷物を、え、西浦 から清水まで、え、運ぶんだということが 書いて、で、誰が運ぶんだって言うと、 大事な荷物なんで、西浦の在合の悲観州 自身が上乗り一緒に乗っていけですね。 本当に大事な荷物なんだからちゃんと乗っ てけよっていうです。で、西浦じゃ大合の 悲関州ってどんな人たちだよって言うと、 ここに西浦のご両所船田中、船が、これ誰 かって言うと、水戸の松下を筆頭に、え、 長浜の大川、え、気象の、え、えっと、大 の土屋気象の愛、それからこっちの方は 多分だと思いますけども、ま、こういった 5名の方ですね、この人たちが、え、鶴川 の当たってです荷物を届けてる単純な魚を 取ってる漁師だけではなくて、そういう 回線量ですね。物を運搬するっていう作業 で、しかもそれが、え、西浦の在合の悲観 なとケだという風に言っているわけです。 はい。ここをちょっとまた図を作ってみ ます。あとGoogleマapを出してみ ましたけど、ここが、ま、水戸長浜とで 清水ですね。で、こっち寸も、ここに 西山路城、小田原ってなりますが、ま、 今日ちょっと潮作りの話は潮出しません でしたけども、ま、漁業とか、え、塩作り だけではなくてですね、ま、伊豆と賀を つぐ海の民として、え、西浦の在合関州が 活躍しているということが分かってまいり ました。で、え、ま、ちょっと雨先生古い 仕様かもしれませんが、30年前部です けども、ま、現在の漁師のイメージだけで はない、非常に多様な人たちがいたんだと 、中世がいたんだということですね。え、 で、ま、この当時ですね、だんだんこう海 の民の人の制業文化が進んでいたっていう 風なもあるんですけども、ある時は法場の 悲観主義要するに法場のために戦う侍で ある。え、一方で他の時期には両国系を 支える両子であったり物を運ぶ回線業で あったり、あと大事な荷物なんでちゃんと あの見発しながらやんなきゃいけないので 、ま、水先の案内人であったと、ま、 いろんな側面をこの写真持っていたという ことが、え、分かってまいりで そうした時にですね、やっぱりこう平山城 とどういう風に関係してんだよっていう ところが今日の多分お話のポイントになる のかなというのを思いますが、え、この後 ですね、池田さんの方から平山城もですね 、ずっと同じではなくて時期によって いろんな機能が変わってるんだっていう ことをお話しいただきます。あの詳しい話 はギアさんの方にあのお任せしたいと思う んですけども、そ、あの本上総の内入り 段階のの拠点段階次にえ包丁旅行つぎの城 って言いましたけど鶴がこう繋いでいく そういった時期ね今度山城が賀が武田領土 になってしまって、え、両国になって1番 端っこになるその時期ですね。っていう ような形で山などが少しずつ少しずつ 変わっていて、おそらくそれに対しての 対応する長浜もそれに対応した形で 何かしら変化をしているんです。で、1番 資料として西浦の海の民の活躍が記される のがこの両国のつなぎの城段階ですね。 この頃に非常にたくさんの活躍のものが 見えます。で、その後ですね、え、が端 っこになってしまった時には、え、そう いう資料がぐっと減ってですね、戦いの 記録ばっかりなって。で、しかもその戦い はですね、地元の在合悲関州ではなくて、 わざわざ傭兵を雇ってやってるんですね。 で、そうするとですね、この最後の段階 っていうのは在合関州、これまでの秩序で はやり用がなかったような異常事態の式 っていう風に多分捉えるべきで、え、これ がですね、おそらく一戦の規模の拡大だと 思ですね。人数最後えっと転職18年なっ てえっと法豊富は何十万人とこう攻めて くるわけですけどもえ単純なこう小さい 資料でネットワークに守るってこと自体は ちょっと難しい時期になってですね。で、 そういったことを考えると今までの研究ま 総合調査の前の研究はここをずっと見てい たここだけで長浜城を評価するってのは 実際できないわけですね。できないってお ですけど、ま、この一部しか見てないと いう風に思っています。ま、そういった こともあってですね。え、ま、水の、え、 拠点である山の性格とですね、そういった ものなんかを、え、ま、ちゃんと見ていく べきだろうと思いますし、そもそもですね 、実は西浦周辺って非常に文系資料 たくさん残っていまして、え、これまでも 多くの研究があります。え、そういった ものをですね、うまく広学の成果も含んで ですね、ま、総合的にこの地域の人って何 なんだ、こういったものを評価していく 必要があるだろうなっていう風に思って いるところですね。はい。で、そして最後 のちょっとお話になります。え、ま、占量 に行われた調査研究っていうことがある わけですけど、今言ってきたところは ちょっとまとめるような話になります。え 、2016年以降ですね、え、長浜条城に 関してあまり個別研究10年前ですねから 進んでいるわけではありません。え、白 調査やってませんって話最初しましたけど も、ま、ただですね、2つのテーマで 大きく研究が進展したという風に考えて ます。ま、それはですね、長浜城自身が、 え、これまでよく分からなかったよって いうのも総合情報報告書って本を出して 資料としてみんなが見られる状態になった という状況から、あの、色々引用されたり ですね、参照されるようになって、え、 進んだ分野っていうのに、ま、言いすぎ ですかね、あるかもしれませんけども、ま 、そういったことがあると思います。で、 1つはですね、え、2来山場所場の総合 調査が非常にたくさん進んだという風に 思っています。もちろんさん自身にお話 聞くと、まだまだ足りないとこいっぱい あるようなっておっしゃってるんですけど も、え、こういった総合調査が、ま、評価 されてですね、今年度、えっと、国の指定 指席になるっていうことで、これは等申が 文化審議が答新が出るところだと思います が、これまでに、え、分かってこなかった です。場の調査が非常に進んだというで、 やはりこの伊豆という場所をね、理解する ためには狙山の調査って書かせないんだと 思うんですね。そういった評価を一緒に やっていくっていうことを兼ねまして、え 、今日池田さんをお呼びしております。え 、講演としました法における伊豆来山って いうことで来山の、ま、具体的な広格成果 を交えながらですね、お話いただきたいな という風に思っています。で、2つ目が ですね、え、中世海賊研究。海賊って言葉 がちょっとまだ皆さん引っかかるかもしれ ませんが、それはあの2時まで待って ください。あの海賊のお話は田中さんにし ていただくということになりますが、ま、 各地でですね、え、お城のやっぱ調査成果 整備ですね、それは進んだっていうのも ありますけども、そういった乗格のですね 、調査事例が非常に増えています。で、 あの海賊の地域経営に関わる研究なんかも もちろんこれまでも蓄積あるんですけども 、ま、増えてきた。で、そういった成果を ですね、合わさって、ま、ちょっと具体的 な姿がですね、特にその野島村上の村上 海部も含めてですね、見えてきたっていう ところが大きな成果としてこの10年あり ます。で、これあの日本遺産の村上海賊の 記憶ですねありますけども、ま、それは 調査の中で見えてきたと思いますが、ま、 長浜城あをですね、ま、特殊な場所って するんじゃなくて、こんな菅川会見が行っ たら珍しい場所だっていうのはそれこ言っ ていい段階終わって資料として研究資料の 1つとしてちゃんと相対化して日本酒の中 において似合山魔女長浜条って何なんだよ 。海読において長浜ってどういう風な評価 できるんですかっていう段階におそらく今 移行してるという風に思っています。すい ません、もう時間が、え、起きようとして ますけども、ま、そういったことも兼ね まして、え、田中さんに、え、日本最大の 怪物と呼ばれた村上についての研究成果を お話しいただいて、ま、そういった段取り でこの考えておりました。え、実はこの話 をするために今50分喋ってきたわけです けども、え、今日このお2人を呼んだ理由 はですね、ま、こういったとこにあると いう風に思っていただければと思います。 で、最後ですが、え、長浜城今後の10年 に向けてということで、今ですね、 いろんな調査研究なんかも大会していき たいなっても思っていますし、あと今年度 ですね、え、皆さんチにも配りましたけど も、あの、シートに残された豊かな環境を ですね、これ、ま、子供たちも知って もらおうという取り組みなんかもしてい ます。あの、やっぱり最初に言いました ようにここ非常に重要な環境を持ってい ます。その環境を理解することがこの長浜 の歴史的な意味も含めて理解すると重要な ポイントだという風に理解してますので、 ま、みんなで生き物の観察化やったりです ね、ジオとしてそういうやったりという ことをしています。ま、そういったですね 、中世の人たちも、ま、恩恵を受けていた 、ま、豊かな環境を理解しましょうって いう取り組みもちょっと今後やっていき たいなという風に思っていますので、また ちょっと皆様のとこにですね、候補とか見 ていただければ今度はですね、今暑すぎ ますので、あの、是非ですね、涼しくなっ た時に長浜、え、是非見ていただければな という風に思います。すいません。 ちょっと5分ほど超化してしまいました。 え、私の話は、え、以上となります。え、 午後の方に期待していただけると思います 。どうもありがとうございました。 [拍手]
国指定史跡長浜城跡が開園し10周年となることを記念し開催した講演会『駿河湾の海の城と海賊~韮山外張先之城二候~』の動画です。動画は4部構成となっており、1~3が各登壇者の発表、4が質問に答えるトークイベントとなっています。
動画1:「伊豆長浜城跡研究の現在地」木村聡
動画2:「小田原北条氏における伊豆・韮山」池谷初惠
動画3:「日本最大の海賊 村上海賊」田中謙
動画4:トークイベント
【資料はこちら】
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/kyoiku/kyoiku/bunka/kouenkai.htm