熊野参詣道 伊勢路をゆく2 馬越峠編
[音楽] 熊の山形伊勢孫瀬峠相川三重県北室軍北町 側からの登り口です。 今回はま瀬峠を超えて山向こうの大わせを 目指します。 キさ地の令嬢と3系道として2004年 ユネスコの世界遺産に登録された熊の古藤 の一部です。ゴールはおわせ神社です。 [音楽] それでは参りましょう。登ります。 [音楽] [音楽] 孫峠。馬がやっと超えられる峠という意味 でしょうか。険しそうです。これは覚悟し なければなりません。 [音楽] 本当に石畳みが続いています。登るだけで も辛いのに昔の人はよくこんなにたくさん の石を持ってきて敷き詰めたものだと素直 に関心してしまいます。確かに調子側の河 には石はたくさんありそうでしたが、 わざわざ下から運んだとも思えません。山 の上に岩場があって、そこで砕いて大きさ をある程度揃え、山の情報から敷き詰めて いったのでしょうか。そういえば天倉さん の鉄辺には諸石が乗っかっています。この 辺りは昔から臨魚が盛んで江戸時代機州犯 が増林を推奨したことで火の木が多く植え られました。石畳はその頃からあった らしく、切り出した在目を滑らせて運ぶ 役割もあったそうです。敷かれた石のいび な特は重い在目を載せても強度があり、 接点の面積も少なく滑り、在目の向きも 制御しやすいとのことです。千人の知恵 ですね。 [音楽] [拍手] [音楽] 元々は旅の安全を祈る地蔵でしたが、子供の夜封に聞くと広まり、いつしか夜自蔵と呼ばれるようになったそうです。癒されます。ちょっと休憩します。 [音楽] [音楽] [音楽] 林魚が盛になる江戸時代以前からもこの ま瀬峠は熊野に向かう道であり伊勢に 向かう道で熊の字 伊でした。主者や産経者や愛がと大わせを またぐ旅人たちがイニシエの昔から往来し ていました。今でこそ国道42号線やJR の鉄道、自動車専用道路の規制自動車道 などが通って便利になりましたが、昔は 人々が往来する峠はここしかなかったの です。 [音楽] [音楽] 昔の人の大変さが身に染みます。人と せいぜ馬で運べる荷物しか流通できなかっ た時代。ネットで注文すれば翌日に届く今 の便利さに慣れてしまうと実感するのが 困難ですがそんなに昔のことではありませ ん。この地域の交通猛の歴史を振り返ると 険しい山とリアス式海岸最大高水量地域と いう土地柄のためにいかに困難を強いられ てきたかわかります。大汗を中心に現在の 鉄道の駅を並べると登りが愛が下りが茎 ですが登りは名古屋までつがり下りは熊野 その先まで繋がっています。今のこの形に なったのは1959年昭和34年7月15 日のことです。ついこの前です。大駅自体 は1934年昭和9年12月19日に開業 しましたが、この時は上りの相賀方面と つがっただけで大駅が執着駅でした。下り はなく、一般の人々が安全に熊野へ行くに は船で渡るのが主流でした。まさしく陸の 古藤だったのです。その状態は第2次世界 大戦を挟んで公着し、鉄道工事が再開して 区駅が開業して下りがようやくでき始めた のはなんと1957年昭和32年です。翌 1958年昭和33年三里駅が開業。 そして熊野の旭川駅まで延伸して予定の 前線が開通したのは1959年。昭和34 年です。日本で初めて鉄道が開通したのは 1872年。明治5年。明治対象期は何も 手をつけられず、昭和年にようやく相画 方面のみつがり、下り方面は戦争が終わっ て落ち着きを取り戻した昭和30年代まで ほとんど手をつけられませんでした。 鉄道だけでなく、車で移動するための道路 の事情もほとんど同じです。 険しい山の中、移動手段がなく分断されて いる里と里を初めてつげる小道を連想して ください。 初めは過ろじて徒歩の人が1人だけ生き できる獣道のような小道。それから馬を 引いて馬の背に荷物を乗せて運べる道。 そして第8車を引いて運べる道。最後に 自動車が通れる道路。 少なくとも第8車を引いて日常的に荷物を 運べる道にならなければ大掛かりな人の 流通は起きません。国道42号線も制定年 は昭和34年。それ以前も熊野街道と呼ば れた42号線の全身にあたる球道はあり ましたがギリギリダンプが通れる程度の 舗装もされていない赤土の砂利道でした。 しかも大わせから熊野に抜ける矢の川峠は 標高807m 頻繁に土砂崩れを起こす南所で道はあって も通るにはかなりの覚悟を決めなければ ならなかったそうです。つまり昭和年より 以前は鉄道もなく道も貧弱で徒歩で住む 用事ならこのま瀬峠が普通に利用されてい たのです。昭和です。満葉の話ではあり ません。たった90年ほど前のことです。 孫瀬峠はずっと生きている現役の道です。 平成16年2004年の台風21号で国道 42号戦が駆け崩れで分断され規制本線も 一時的に普通となった際大市からの災害 ボランティアがこのま瀬峠を超えて愛に 向かい救援活動を行ったそうです。 峠の頂上まではもう少し。 [拍手] [音楽] 何か見えます。峠の1番上に着いたよう です。 [音楽] 標は325m。休憩所として整備されてい ます。 色々立っています。この建物天気が悪化し た時の避難場所のようです。トイレでは ありません。 昔ここに峠の茶屋があったそうです。江戸 中期赤つ金なりによってまとめられた最国 33名所図にも記載された有名な茶屋です 。シ屋の主人セコ兵がこの場所に祭った 岩船自蔵村には8年1723年とあり、 少なくともその頃から明治の中期まで営業 していたとのことです。 おわせ側から見ると多分この辺りです。 天倉さんの肩のへこみあたりです。 ここは峠道の左右の鬼から海側の天倉さん に登るルートと山側のビ山に登るルートに 分れる中継ポイントにもなっています。 ここからは下りです。参りましょう。 [音楽] まだ膝は大丈夫なのですが、足首に来てい ます。登り以上にカメラがふらついて 定まりません。 [音楽] 何でしょう?古代の同素人的なもの でしょうか?石の組み方に意を感じます。 おわせといえば林魚ともう1つ漁業が有名 です。特に私は大わせの三マの一や星が 好きなのですが、この10数年気候変動で サンマの海遊エリアが変わり、大の漁師 さんは北海道の方まで遠出して取りに行っ ているそうです。近海では全く取れず、今 やサンは気少魚。ニュースでは今年は大量 だと言っていましたが、年々いる場所が 変わっているので大量の知らせを喜んで いいのでしょうか はい。 [音楽] [音楽] 展望台があります。 小瀬の町が一望に望めます。向こうの山は 熊野に続く焼き山ですね。町の真ん中に あるこんもとした小さな山が中村山。津波 の際の避難場所に指定されています。天文 科学館があるところです。 さて、下りましょう。 [音楽] 案内所があります。おわせ側の上り口に 到着です。 [音楽] 交代使電荷の業行記念費ですね。確か 相画側の登り口にもありました。それぞれ の登り口にあるのは江大使業行業行の記念 費ですが、昭和天皇は1951年昭和26 年11月22日、まだ大市が大町で市に 制定される前、大高校と長営グラウンドに いらっしゃったそうです。 この奥に滝があるので行ってみましょう。 [音楽] [音楽] ま公園。ここの峠で唯一トイレがある場所 です。どちらから登られる方も必ず チェックしましょう。 この辺りからは電気も水道も通っている ようです。 [音楽] そろそろ民が見えてきました。 [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 鉄道の大駅が昭和9年に開業して執着駅で 亡くなる昭和34年までの間に執着駅の町 を見やろうという文化人たちが押し寄せ ます。その1人が7つの子、先藤、15お 月さん、青い目の人形、シャボン玉、赤い 靴、少々寺のたぬき林などの詩人野口右城 です。彼は昭和11年におれ、大良いとこ のフレーズ、お小太を読みました。 孫瀬墓地です。 おといえばお武士です。日本を代表する 民用の1つです。昭和15年には宮本武蔵 の文合吉川エジも大武士の歌詞を追加捜索 しています。 矢の川揺ればおせが見える。見える夕べの 宿の子が 民用の期限はほとんどが労働家ですから 臨業や漁業に従事する際の仕事の疲労を 柔らげ仲間との結束を高めるための歌です 。今が乗ればその瞬間に誰が即興で作死し て大声で歌っても構いません。お節武節は さ田のお中度の梨しマが元歌とされ同じく この地域に伝わる長浜武士と総互的に進化 してきました。大阪夏の陣から配送して 逃れてきたサ田軍の落ち武者がなぜ 思い通りにならないでも頑張るしかない。 そんなシリアスな歌だったのに江戸時代 ドイツ邪線で伴奏するようになると途端に メジャーコードの明るい歌に転じました。 時代時代で歌詞も変わり昭和初期の地点で も意味不明だった愛の手が少しエッチな 言葉にも聞こえお座敷の宴会客に受けた ようです。昭和9年執着駅として鉄道が 開通した大汗にやってきた文化人たちは なぜだかおわせの買え歌を勝手に作り歌い たがったようです。 熊の三形伊勢はこの墓地をまっすぐ 突っ切って下っていきます。この石段を 下ったところで天倉さんから完全に下山し たことになります。 は 下りました。 はい。 この辺りは大市の北浦町です。 [音楽] [音楽] 前の通りを右に曲がるとすぐに金剛寺と おわせ神社が並んで現れます。ゴールは もうすぐです。 [音楽] 熊の古道の案内版があります。 右側の石中が左熊の道の石踏みでしょうか 。 [音楽] さて、こちらが金剛寺。左の木々の緑に 覆われている場所が大わせ神社です。まず は金剛寺をそっと拝見いたします。 三門に立派な二王様のアウン像が鎮座して います。 そしてついにゴールに到着です。おわせ 神社楠の木の大木がそびえ、おそかです。 以前何かで読んだのですが、このおわせ 神社が人務天皇が統制して即意した後の 帰りの軍の集合場所だったとの説がある そうです。だとするとおわせの知名の由来 は色々言われていますが、昔の健上後の オアわではなかろうかとミ戸の軍は伊豆子 にいらっしゃられると尋ねられたら孫を 下った先の社代に追わしえますと答える はずですから。つまりおわした場所だった からおわえでおせになった。いかが でしょう?今回は気北町の相画側の登り口 から孫瀬峠を超えて大の大神社まで歩き ました。 次回は大市北浦町の左熊の道の石踏から 北川橋を渡り、市内の熊の山形伊勢地を 抜けて中川橋まで歩きます。 よろしかったらいいね。チャンネル登録 よろしくお願いいたします。
紀北町(相賀側)から馬越峠を越えて尾鷲まで歩きます。