2025/09/13 令和7年 小石川白山神社 神幸祭 宮出しの様子
2025/09/13(土)9:00頃、気温約27度、曇り、東京都文京区白山五丁目にある小石川白山神社(白山権現)の本社神輿の宮出しの様子を撮影しました。白山神社境内から参道にかけての動画となります。今回の神幸祭では御神輿は担がず、トラックに載せての巡行となりました。
■小石川白山神社 本社神輿
台輪寸法:4尺2寸 (神社調べ)
高さ:不詳
製作年:文政年間 (1818年~1830年)
製作者:不詳
特徴:延屋根・黒漆塗・平屋台造り・前後のみの扉
小石川白山神社は東京十社の一社に数えられ、その祭礼は江戸初期にまで遡る起源を有する。天保9年(1838)に刊行された『東都歳時記』を現代語訳した『現代語訳 東都歳事記』(角川ソフィア文庫、p.289)には、次のように記されている。
神主は中井氏。祭礼は寛文(1661~1673)の頃に始まり、かつては毎年執行されていたことが『紫の一本』に見える。安永三午年(1774)までは子・寅・辰・午・申・戌の各年に、産子の町々から踊り・練物・花山車などが出されたが、同年以降は中絶した。ただし神輿は毎年渡御し、参詣の群集は変わらず、各町が幟・提灯を出して二十日から賑わっている。小石川戸崎町、祥雲寺門前、法伝寺門前、喜運寺門前、坂下町、小石川柳町、同御掃除町、同伝通院表裏門前、同陸尺町、同白壁町、同富坂町、同金杉水道町、駒込片町、丸山新町、浄心寺門前、駒込追分町、同肴店町、同九軒屋敷、駒込浅嘉町、同高林寺門前、天栄寺門前、小石川指ヶ谷町一丁目・二丁目、同原町、同指ヶ谷町、南片町、小石川浄円寺門前、同蓮花寺門前、同千川屋敷、同白山前町などがその町々である。山車や付祭を出した頃には本郷一丁目から六丁目までの町々も参加したが、本郷は産子ではない。
本社神輿は文政年間(1818~1830)に製作されたと伝わる延屋根・胴太の平屋台造りである。台輪は極めて大きいが、軒下の桝組が低いため、背が低いという典型的な江戸期神輿の特徴を備えている。平成期には行徳の十六代浅子周慶による修復が行われ、その作人札が立てられているが、実際の製作者は不明である。昭和58年(1983)刊行の『江戸神輿春秋《秋の巻》』によれば、江戸中期までは「神輿師」という専門職は存在せず、宮大工の棟梁が神輿を拵えていたとされる。私は、この点こそが江戸期神輿の製作者が不詳とされる例の多い理由と考えている。余談であるが、江戸後期の1800年代に入ると人口が100万人を超え、氏子地域の拡大に伴い本社神輿を持つ神社が増加したことで、専門の神輿師が登場した。文化9年(1812)に神田黒門町で創業した宮惣はその代表例である。
小石川白山神社の本社神輿の特徴は以下の通りである。
棒鼻金物:担ぎ棒先端には神紋である「三子持亀甲瓜花紋」が施される。
瓔珞:三つ巴紋と七宝紋を交互に配し、その下に銀杏と平鈴を吊す。列間には簡略化された瓜花紋と思われる意匠を置き、一面あたりの玉数は80個(5個×16列)となる。
胴と唐戸:胴は黒漆塗を基調とし、唐戸は前後のみに設けられる。唐戸は三つ巴紋と錺金具で装飾された桟唐戸で、海老錠を備える。
彫刻と意匠:脇羽目には金箔を施した木彫の登り龍・下り龍が刻まれ、左右の胴羽目には厚板打出しの大きな三つ巴紋が配される(本動画では布に覆われ確認不可)。この「前後のみの唐戸」「大きな巴紋を胴羽目に配する」という特徴は、東向島・白髭神社の本社神輿(台輪寸法3尺8寸、嘉永元年〔1848〕、行徳・後藤直光作)にも類例が見られる。
井垣:一面18本で、擬宝珠は設けられていない。「擬宝珠を欠く井垣」は大正・昭和期以降の神輿にもこのような意匠を持つ神輿は存在するものの、江戸後期以前の古神輿にも見られる要素である。
蹴込み:唐戸下には波文様・亀・青海波の意匠が刻まれ、祭神・菊理比咩命が水と深い関わりを有することを示唆している。
■撮影データ
8K UHD(7680×4320), 29.97fps, 標準IPB形式, シャッター速度1/60秒
カメラ:Canon EOS R5 + RF24-105mm F4 L IS USM (電子手振れ補正:入)
マイク:Sennheiser MKE-200