鎌ケ谷をゆく・南編 《馬込沢駅~船橋市境と飛地~ファイターズスタジアム~鐡道聯隊跡~雨の三叉路》 複雑な市境と飛地を眺め,街道と鉄道に沿いながら,下総台地と谷津を歩く
[音楽] 東武鉄道野田線のま沢駅です。船橋発柏 行きの電車が北向きに出発していきます。 東武野田線は最近は東部アーバンパーク ラインというニックネームで案内されてい ますが、どうも今1つ定着している感じで はなさそうです。 [音楽] さて、この、ま沢駅ですが、所材地は船橋 市です。 しかし、駅のホームの途中から北側は 鎌ヶ谷市というちょうど市の堺にある駅 です。 改札を出ますと、船橋鎌ヶ谷の漁師の住所 が案内されています。そして駅名のま沢と いう地名は鎌谷市川の地名です。 この駅は開業した時には今の船橋市側の 地名である方天駅を名乗っていました。 しかし 村が船橋市になった後は鎌ヶ谷村の方の 地名ま真沢を名乗っています。 今回は鎌ヶ谷市の南編です。東武ま真沢駅 から清街道方面へあちらこちらと寄り道し ながら進んでいきます。 まず鎌ヶ谷市の位置を確認しておき ましょう。東京の都心から20kmほど 東側にある市で人口は11万人とそこそこ 大きな町です。しかし鎌ヶ谷市の周りは 船橋、市川、松戸、柏という千葉県内でも 2位から5位までの強烈な市が取り囲んで おり、鎌ヶ谷市の存在感というのはあまり 強くはありません。 ま沢駅に戻ります。これはま沢駅から南側 、船橋を見たアングルです。向こうから 電車が坂を下ってくるのが見えます。 2020年頃から走るようになった急行 電車でこの真沢駅には止まりません。通過 した後は北側柏山側に向かって坂を登って いきます。つまりま沢駅は谷底の駅だと 見えます。 この図は真目沢駅の両なり、船橋の塚田駅 と柏川の鎌ヶ谷駅の間を標行を示したもの です。ま沢駅はここでまさに谷の底に位置 しています。 駅の東口に出てきました。見渡してみます 。 やはり南側からこの駅へは道が下がってき ていて、そして駅を超えて北側へ向かって は道が上がっていきます。 これは北側を向いた写真です。 土地の低い部分からが鎌ヶ谷市なのですが 、実はその向こう側再び高くなっていく ところは船橋市です。 地形図を見ておきましょう。この図でま沢 駅は南の橋、下の橋にあります。ただこの 図では静が見えにくいので静かを強調して みます。この通りになります。 船橋に挟まれた狭い帯の範囲が鎌しです。 と言いますか、船橋の領域がぐるっと鎌谷 市に取り囲まれています。鎌ヶ谷市内に ある船橋市の大きな飛び地です。 川や水路も強調してみます。この通り川に 沿った部分が鎌しでそれ以外の土地の高い 部分が船橋です。この大きな飛び地は丸山 と呼ばれる地区でその名の通り小い土地 です。 駅の東側鎌ヶ谷市の縄張を北に歩いていき ますと、そこには船橋警察署の縦看板が出 ています。 ところがその道の反対側にあるのは鎌ヶ谷 警察署の看板です。 猿に歩いていきますと京葉銀行はま沢四点 という鎌ヶ谷の地名がついていますが、 住所は船橋市丸山です。 軽葉銀行の脇から土地は傾斜が急になり、 階段も設置されています。 これは坂の上の方から振り返って駅の方を 見たところです。土地が下がりきった辺り が鎌ヶ谷市でその辺りが駅の入り口です。 駅の西口です。 駅の改札からすぐに大きなスーパー色々な 手段とも入っており、なかなか便利な ところです。の建物は静の上に立ってい ます。 ここから西の方へ向かってしばらく歩いて いきます。 スーパーの裏手に回ってきました。南側は 船橋市。立体駐車場があって車の出入りが ある辺りからが鎌ヶ谷市で奥にかかって いる川も鎌ヶ谷市です。しかしその奥は 再び船橋です。 この川は双側で、この川の両側の細い帯の 土地が鎌ヶ谷です。そのすぐ北側はこの ように貨の裏側のところが静境です。 [音楽] 辺りをうろうろしていますと、中には道路 の真ん中が静境になっている場所もあり ます。 これは道路の上にあります。船が描かれた 船橋市のマンホールです。 そこから目を移しますと、横には鎌谷市の 消化線があります。 この矢印の場所へ行ってみます。 市の教会を強調した図で見ますと、船橋市 に向かって鎌ヶ谷市が突き出している場所 です。 北東側から見たところです。左側の少し 高い住宅地が船橋、そして右側の住宅地が 鎌林市です。このブロックは全て鎌ヶ谷に 属しています。 そして次の角では左側の住宅地が鎌しで 右側の草キが追いしげっているところが 船橋です。 今は川が見当たりませんが、かつては川が 流れていて、その低い土地の両側が現在 鎌ヶ谷市ということになります。 鎌ヶ谷市は明治22年に鎌ヶ谷村が発足し て以来、現在の鎌ヶ谷市島で合併や吸収が 行われていません。そのため明治時代や 江戸時代の頃の生殺によって決まった教会 が今でも死のあちこちに見られます。 これは鎌谷市の区分ですが、隣の首都の 教会、そして市内の各地区ごとの教会とも に細く突き出した教会が底かにあります。 これは川の位置と江戸時代にその川の水の 権利を誰が持っていたかによって今でも 複雑な教界線がそのまま残っているよう です。 船橋との複雑な教会付近を流れる川は二川 です。 双川は河流で大川、さらに市川市のマ川 から東京湾へと流れています。 大きな人口の池が見えてきました。 横流地です。 双川の水移が上昇した時に水を溜めておく 施設です。全て鎌ヶ谷市内にあります。 大雨の時に火流の大街やママの水移が 上がるとこの付近の停止値では水を流せ ないために年型洪水の可能性が出てきます 。そのためにここに水を溜めておく施設が 必要なのです。 この横流位置あたりからは船橋市の飛び道 である丸山の形がよく見えます。 なるほど。丸山と名付けたのがよくわかり ます。 丸山は江戸時代初期に開かれた新殿集落だ そうです。 山の麓元の方は水が豊富ですので、当時 からすに水電が広がっていたのでしょうが 、山の上を開拓したのは山の麓元の人々と は別の人々だったようです。 明治時代になって周囲を取り囲む低い土地 である道は鎌ヶ谷村の一部になりますが、 現在の船橋市の藤原との結びつきが強かっ た丸山は明治時代には電村を経て船橋市に なったのです。そのため現在も鎌ヶ谷市の 中に船橋市の大きな飛び道があるのです。 鎌ヶ谷と船橋市丸山地区との教会は急な坂 あるいは海段だらけです。丸山地区には 1万人以上が住んでいます。その方々は どこかへ出かける時にこの坂や階段を登っ たり下ったりするのでしょう。 坂の近くのNTTの河川中には飛び道へ つがる電話線の表示がありました。 それでは丸山とその周辺の地形図を見て おきます。 これがその地形図です。 標高差を強調してみます。 赤いところは標高24m以上、青いところ は標高16m以下です。赤い船橋市丸山 地区が青い鎌ヶ谷市に取り囲まれている 様子がよくわかります。 せっかくですから、鎌ヶ谷市ではありませ んが、鎌ヶ谷市に囲まれたと市船橋市丸山 地区にも行ってみましょう。 8月の暑い昼間、階段を登りますと、それ だけで汗が吹き出します。 振り返ると鎌ヶ谷市の街並が見えています 。 第地の上はごく一般的な住宅街に見えます が、決して平坦な場所ではありません。 寄伏に飛んでいる土地です。 このように住宅街の中でも階段の登り降り 、坂道の登り降りが必要なところがあり、 毎日足地が鍛えられそうです。 丸山地区の人口はおよそ1万1000人で 地区の中に公立の小学校や中学校もあり ます。 地区の中を東武野田線が横切っています。 しかしここに駅はありません。電車を利用 するためには坂谷階段の登り降りが必要 です。 さて、鎌ヶ谷市に囲まれた船橋市の飛び地 はもう1箇所あります。 この地形図では西の方矢印の場所です。 ここは丸山地区と違って標の高い土地では ありません。船橋市の藤原の一部が鎌ヶ谷 市の中沢に囲まれています。 実はこの商店のところで船橋市本体と 飛び地らしき場所はわずかに繋がっている ので厳密には飛び道ではないのかもしれ ません。 鎌ヶ谷市側は特産の梨の農園とその直媒所 が何件かあり夏は忙しそうです。それに 対して船橋側は資材置場や農地が広がって いて住宅街というわけではなさそうです。 ここは江戸時代に藤原神殿と中澤の間で 両地の揉事があり、最後は幕府の役人が 教会を決めてそれが明治時代を経て今に 至っているようです。 これで船橋市との静の旅は終わりにしまし て、中沢地区、北700mほどの場所へ 向かいましょう。 道路沿いには梨畑が広がっています。厳重 なネットが貼られているのは盗南防止の ためでしょうか。そして着いたのはここ です。ファイターズ鎌ヶ谷スタジアム。 プロ野球北海道日本ハムファイターズの2 軍の専用球場です。 平日昼間の試合開催でもある程度の人が 訪れていて賑わっています。 スタジアムの正面にはここを育っていった 有名選手のパネルが並んでいます。早々 たる顔ブれです。 中には他の球団にすっていってしまった 選手も混じっているようです。 さて、観客席から見渡しますと、 スタジアム全体が緑に囲まれているのが 見えます。 これは木々が生えているというよりも スタジアムが第地の久地に作られている ためです。標を強調した地形図を見ておき ます。先ほどと同じく赤が24m以上、青 が16m以下です。 スタジアムの位置は大きな河川線の後と いうわけではないのでしょうが、元々あっ た小さなくぼみを克服し整置してちょうど ぴったりにスタジアムを作ったと言えます 。ちなみにそのくぼ地の入り口側が球場の 正面でホームベース側です。 スタジアムの背後にはすぐに崖になって いるところもあちこちに見受けられます。 ちょうどスタジアムがくぼちの中に作られ ているのがよくわかります。 グラウンドの大きさは領浴が100mで センターが122mです。 これは1軍の専用球場であります。 エスコンフィールド北海道のサイズとは 一致しません。 鎌ヶ谷スタジアムができた当時、 ファイターズの一軍は東京ドームを本拠地 にしていました。そのため東京ドームの 数値に近づけて設計されているのです。 ちなみに写真の日は福岡大ホークスとの 打ち合いでした。スタメンはこんな メンバーでした。 [音楽] 現在の鎌ヶ谷スタジアムは地元密着の球場 で2軍としては観客同員もかなり多い方の ようです。この日はOBの杉選手もいらし ていました。 鎌ヶ谷市の上空は羽田空港への航空機の 侵入路に当たるため、時寄り大きな音を 立てて飛行機が飛び去っていきます。 試合には影響せず、特に中断されることは ありません。 鎌ヶ谷市内は羽田発着便、成田発着便に 加え、日によっては海場自衛隊の下ふ航空 基地の航空機も飛びます。鎌ヶ谷の空は なかなかに賑やかです。 スタジアムの近くは特産の梨しの農園が 多いためスタジアムにはナイター設備が なく試合は全てデゲームです。 ではスタジアムを後にして東武のま沢駅に 戻ります。 東武ま真沢駅のホームから南側船橋方面を 見てみます。駅のすぐ南に踏切りがあり ます。 これは船橋から柏に向かう電車の中からの 風景です。 この踏切りです。 この道路は木街道と呼ばれています。 踏切りの場所は船橋市ですが、この先 鎌ヶ谷市内を通る清街道に沿って歩いて いきます。 清街道は江戸川沿い、現在の市川市の行徳 街道から続き、鎌ヶ谷市を貫いた後、ト川 沿い、現在の因の木につがる街道です。 江戸川とト側の間を陸でショートカット することで遠く方面からト側に運び込まれ た物資をリクロで行徳へ、さらに水路で 江戸へと運ぶルートです。 地刑図を見ておきます。東武間真沢駅は ここです。そしてその南側黄色で描かれて いる剣道が木街道です。 これは大正6年の同じ場所の地形図です。 鎌ヶ谷市は当時は鎌ヶ谷村で丸山は当時の 方電村の飛び道地と書かれています。 そしてこの道が清街道です。 江戸時代から続く道ですが、大正時代の 地形図でもはっきり分かります。 その木下ろし街道を拡大してみましょう。 道の真ん中にもう1本の線が描かれてい ます。 この線の正体は同じ地形図のもう少し南側 に書かれています。 すに現在の船橋市にある特徴的な丸い形も 現れています。そしてここに統括人鉄道の 文字があります。 人車鉄道は線路の上の客車を人力で動かす 機道線です。ただし勾配が急なところは馬 の力も借りていたようです。 さらに南側を見てみます。 赤い矢印のところで京成線と交差し、青い 矢印のところで分岐し、現在の総武線の 下中山駅にも視線が伸びています。 ここで武資を乗せ替えていたのです。 現在の鎌ヶ谷大仏あたりまでの間を1日に 8便ほど1両を4人で動かしていたよう です。 先ほどのま沢駅南側の踏切りです。 統括神社鉄道の頃はまだ東武野田線の全身 も開通していません。当時当然踏切りも なくバスの走るこの道路上に起動があった のです。 ちなみに統括人鉄道は現在の5つの鉄道 路線と交差する位置にあります。しかし社 鉄道は大正7年に廃止されていますので 平面交差をしていたのは京成線と総武線に あったようです。 清街道の踏切りから東に向かいます。 踏切りもそこからしばらくの間もまだ船橋 です。交通量が多い割に狭いのは古い街道 の宿命です。そしてこの交差点は特に渋滞 の激しいところです。ここを超えて しばらくすると鎌ヶ谷市に入ります。 南鎌ヶ谷の交差点です。木街道はまっすぐ の向き。そして右側南東側。 振り返って左側北製側です。 この北製側は急な下り坂です。 [音楽] 地形図を見ておきましょう。ここが 南鎌ヶ谷の交差点です。そして標を強調し てみます。先ほどまでと同じく赤い色は 標高24m以上、青色は標高16m以下 です。この辺り全体は赤色で示された下 大地の上にあるのですが、と々川が流れて いるところだけが低い谷になっています。 このように大地を削った谷は水が得やすく 水電などに使われており、昔から雇 など地域によって違う名前で呼ばれてい ます。特に千葉県では八と呼ぶことが多い ようです。 交差点からその八の中へ急な下り坂を降り てみましょう。 道路が左に避けていて、直進方向には緑の 空間があります。ここが明道遊園です。 子供が遊ぶ遊具が並ぶ一般的な自動公園 ですが、その中に大きなコンクリートの塊 がそびえ立っています。 もちろんこのコンクリートは子供が遊ぶ 遊具ではありません。 コンクリートの塊は道路に沿って4期あり ます。 このコンクリートはかつて陸軍の鉄道連帯 が建設した鉄道の狂客です。 陸軍の鉄道連帯が線路を建設したり撤収し たりする演習で作ったもので出来上がった 鉄道は軍事物資の輸送や人員の輸送、 そして余裕のある時は地元の人も同場させ ていたようです。 近くの道路には鉄道連帯の土地の教会を 示す標があちこちにあります。ここは左側 は普通の集合住宅なのですが、その部屋に は今も陸軍の文字が見えます。 ちなみにこの標中の素材は茨城県の稲大と 呼ばれる加工癌です。白が鮮やかな加工癌 で様々な建物に使われています。 この鉄道連帯の線路ですが鉄道しく演習の ために距離を伸ばす必要があるということ で直線ではなくあちこち迂して建設したと 伝えられています。 戦後この鉄道の後を利用して開業したのが 神経線です。神経線は今年の4月から京成 伝鉄に吸収され、京成松戸線となりました 。 この京成松戸線は京成津田沼駅から松戸駅 までの直線距離で16kmほどのところを くねくねと迂しながら26.5kmも走り ます。 それは戦前の鉄道連帯の線路を流用した ためです。 現在の位置関係はこの通りです。見やすい ように関係を強調しておきます。 戦後神経性に作り替える時に鉄道連帯時代 のあまりに迂いが激しい部分は直線上に 付け替えられました。その1つがここなの です。 は向こ大駅から初富駅にかけてこの八を迂 していた部分をなくして鎌ヶ谷大仏駅経由 の線路に付け替えたのです。 鉄道連帯の線路はコンクリートの上に線路 が渡されていて八の谷を乗り越えていたの です。 戦争が終わりこの場所の鉄道は撤去され その後は道路に変わりました。しかし、 谷底の狂客だけが撤去されずに今も残って いるのです。そのため道路の方が脚を避け て通り、残った場所は公園となっているの です。 [音楽] この八の谷を作ったのは双川です。 双川は先ほど船橋に挟まれた細い鎌谷市の 部分を流れていた川です。ここはその少し 上流にあたります。 せっかくですから鉄道連帯が作った線路に 沿ってみましょう。 ここは京成松戸線。最近まで新京成線だっ た双葉向こ駅です。船橋市にあります。駅 を出たところに加工の標があります。陸軍 の土地と民間の土地の教会を示していたの でしょう。 [音楽] 神経の車両に形成のカラーを縫い直した 松戸行きの電車です。 そのすぐ西側ファミリーマートの横の道が 陸軍時代の線路の後です。 緩やかなカーブを描いて伸びていて、現在 の線路から西へと離れていきます。 途中も狭くて一方通行の部分もありながら 道路として使われており、南鎌ヶ谷の谷底 の明屋自動遊園に至ります。 通り過ぎまして、次は初富方面です。 こちらも線路の後は道路に転用されていて 、それも割と広い道路に付け替えられてい ます。 京成松戸線初見駅に近づいてきました。新 京成のカラー、ピンク色の電車が走り抜け ていきました。この先の線路は令和元年頃 までに高架になりました。 その線路に沿った道沿いに鎌ヶ谷市障害 学習推進センターマナビーブラザーがあり ます。 この建物の前にあるのが分水冷、分水会の モニュメントです。 分水冷は降った雨が流れていく境い目です 。 標を強調した地形図を見てみましょう。 噴水冷のモニュメントの場所が中央の丸印 です。そしてここを中心に各方向へ八が 伸びています。西側と南側に向かう川へ。 北側に向かう川沼へ。東側に向かう川沼に 続いています。 ここに降った雨はわずかな位置の差でどの 川に合流するかが決まり3方向に分かれる 運命なのです。 地図の範囲を少し広げてみましょう。分水 例のモニュメントの場所は同じく中央の 丸印です。左側に広大な青色の部分が出て きましたが、これは東京の江戸ガークなど の定地です。そして丸印の1から3方向の 水の行き先、東京湾、手ガ沼、インバ沼の 全てが見えてきます。 さらに広域を見てみますと、水は大きく 東京湾方面とト川方面に分かれていること が分かります。分水冷で分かれた水同士は 最終的に太平洋で出会うのかもしれないの です。 ここに降った雨はわずかな差で3方向に 分かれる場所なので雨の三サロと名打って 記念費が置かれているのです。 さて改めましてこの地形図を見ますと現在 の形成松戸線かつての鉄道連帯の演習線は できるだけやを渡らないように分水冷の上 に建設されたのが分かります。 くねくねしながら行しているのは習の距離を伸ばす目的もあったのでしょうが、だけを避けてを作らないように設定したとも言えます。 現在の成戸線には 30 箇所ありますがとが道路や他の鉄道をたぐためのものであってきな 川を超えるものはありません。 そんな中、先ほどの明屋自動遊園の谷に かかった橋は珍しく大きく迂いした挙く 大きな谷を超えます。想像ですが、橋の 建設技術を訓練するためにわざわざ分水例 を設定したのかもしれません。 鎌ヶ谷北の動画では鎌ヶ谷大仏から柏市の 富道、新鎌ヶ谷駅周辺、そして北総線が 神経先制に乗り入れていた頃の痕跡など 木まに歩いています。是非ご覧ください。 鎌ヶ谷南編はこの辺りで終わりにしたいと 思います。長々とお付き合いくださり ありがとうございました。それではまたお 会いしましょう。チャンネル登録よろしく お願いします。
千葉県鎌ケ谷市をふらふらと巡る旅の,市内南部編です。船橋市との複雑な市境や飛地, 下総台地と谷津(谷戸)の地形, ファイターズの二軍本拠地球場, 鐡道聯隊演習線の跡 などなど,ご紹介します。
● 2025年8月31日に公開した動画の改訂版です。南編,北編の2本の動画に分割し,一部改訂して、公開し直しました。南編では,元の動画からの大きな変更はありません。北編で少し改めたところがあります。
● 元の動画に「いいね」くださった方々,ありがとうございました。
■主な収録内容
鎌ケ谷市,鎌ヶ谷,船橋市,法典村,丸山,市境,飛地,下総台地,谷津,谷戸,分水嶺,二和川,木下街道,鐡道聯隊演習線,標柱,稲田石,北海道日本ハムファイターズ,二軍,ファーム,鎌ヶ谷スタジアム,梨,東武野田線,東武アーバンパークライン,新京成電鉄,京成松戸線,東葛人車鐡道,廃線跡,馬込沢駅,二和向台駅,鎌ヶ谷大仏駅,初富駅
■撮影時期は,特記のない限り2025年7月~8月です。
■特記がない限り,写真や映像は作成者が撮影したものです。素人がコンパクトディジタルカメラで撮影した写真と映像です。特に映像部分は,想像以上に手ブレがひどく,お見苦しいと思われます。ご勘弁ください。
■地図は,次の通りです。
・地形図,空中写真は,国土地理院のWebサイトで公開されているものを引用しています。旧版の地形図は,謄本を購入したうえで引用しています。
■使用音源の多くはAudiostockのもので,ライセンスを所有しております。
https://audiostock.jp/
■動画作成の初心者です。今後,精進して質を向上させてまいります。
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#鎌ケ谷市 #下総台地 #新京成 #谷津 #大仏
#廃線 #北総線 #鉄道連隊 #地学 #小さな旅
0:00 馬込沢駅・船橋市飛地
12:46 ファイターズ鎌ヶ谷スタジアム
16:10 木下街道・東葛人車鐡道
19:46 鉄道連隊演習線跡
24:49 旧線跡・雨の三叉路