【歴史】9割が知らない!徳川御三家が隠した「もう一つの日本」計画【戸山荘】

この何の変哲もない小高い山。この山こそが東京にある箱根山なんです。 標高は44.6m。これでも山手線内で最も標高の高い場所なんです。 でもこの山、超巨大庭園のために作られた人工の山なんです。 こんにちは。DigDeepTravelのミナトと申します。 今回は箱根山とこの地にあった関東一の巨大庭園・戸山荘から、徳川将軍家と何度も衝突した一族の歴史について見ていきたいと思います。 一体どこの誰が何のために作ったのでしょうか。 その謎を追って歴史の旅に出かけましょう。 この戸山荘、約44万平米もある、もう江戸一の巨大庭園だったんです。 徳川御三家・水戸藩の小石川後楽園が約7万平米です。 で、柳沢吉保の六義園が約8.7万平米なので、もう44万平米はもう桁が一つ違います。 そして、徳川将軍家が所有した浜離宮、もう結構大きいんですが、約25万平米です。 一体誰がこれほどの庭園を所有したのでしょうか。 それは徳川御三家筆頭、尾張徳川家です。 この戸山荘は尾張徳川家の下屋敷に作られました。 尾張徳川家といえば、もう1代目の頃から「我々は幕府の家臣ではなく、朝廷に仕える身なんだ」という風に、天皇派としてよく知られた藩でした。 その藩祖こそ徳川家康の九男、徳川義直公です。 三代将軍家光公の時代には、義直公は4歳しか年が違わないのに「わしは将軍の叔父だ。家光は甥っ子だ。だからわしのアドバイスをもっと聞くべきだ」という風な態度を示し、 家光が病気の時には軍を江戸に率いてきたりして、もう何かと幕府に目をつけられるお方でした。 あまりに嫌われたもんなんで、もう家光は、徳川家康の十一男・徳川頼房を藩祖とする水戸藩を江戸に常駐させる、定府の藩という風にしました。 これが後に水戸にとっては大きな悲劇を生むんですが、それはまた別の動画で扱っていますので、そちらをご覧ください。 ともあれ、そんな幕府に目をつけられた1代目の後を継ぎ、2代目となったのが徳川光友公でした。戸山荘の生みの親です。 光友公の正室は、将軍家光の長女・千代姫になります。 そして家光、家綱、綱吉と、歴代の将軍家とは、事を構えることをせず、いたって実直で優れた藩主だったという風に言われることが多い方です。 ただ、戸山荘を見ると、別段何の野心もなかったわけでもないという風なことを感じさせるものがあります。 というのも、先ほど申し上げた通り、戸山荘は44万平米で、関東随一の広さを誇ります。 さらにその中心にある箱根山も、標高44.6mですが、天然の山としては愛宕山が、東京23区の最高峰で、それでも25.7mですから、2倍とまではいきませんが2倍弱あるということになります。 箱根山から眺めているとですね、「あれ?あそこに五重塔が見えるぞ。 どこぞの町のどこぞの寺なんだろう」なんていう風に思ってると、その五重塔も庭の一部だと言うんですから、びっくりなわけです。 さらに絵図を見て、一番最初に目を引くのがこの大きな御泉水と呼ばれる池です。 この池も当然回遊式庭園にするために、人工的に作られた池なんですが、じゃあこの地にあった大量の土ってどこに行ったんでしょうと言うと、その土こそが箱根山を形作った盛土になるわけです。 池の大きさも6万6000平米ともう桁違いです。 国土地理院の地図で、池の面積測ってみたんですが、小石川後楽園の大泉水は、ま約7000平米です。 そして浜離宮の汐入の池が約2万5000平米ですから、もう6万6000平米はもうレベルが違うわけです。 そして、この庭園の中で最もユニークなのが、小田原宿と呼ばれた宿場が原寸大で存在していたことなんです。 、普通庭園に作る景色っていうのは、縮景といって、何かのモチーフをこう、ミニチュアにして作るということが多いんですが、例えば小石川後楽園の大泉水も、琵琶湖の縮景だったりします。 でも、田舎の宿場町なら、これぐらいのものはあったんじゃないのかなというぐらいの原寸大の町が、その庭園の中にあったっていうんですから、もう本当に驚きです。 しかもここでは武士が町人のふりをして、いわばコスプレをして宴会を開くというのが主な用途でした。 普段規律を重んじる武士が、羽目を外す場所として作られた、そうした宿場町ということのようです。 で、この宿場町のメインの建物が、小田原名物ういろう屋を、模倣したものだったので、小田原宿という風に呼ばれました。 さて、ここでお察しの良い方であれば、「なるほど、宿場町が小田原だから、その近くの山が箱根山なんだ」という風に思われることでしょう。 確かに箱根山の由来っていうのははっきりしていないので、そう考えて差し支えないと思います。 でもそれは一つの疑問を抱かせるものになりませんか? それは、尾張徳川家がなんで小田原や箱根の景色をこんな巨大な庭園で作る必要があったんだということです。 参勤交代などで、東海道を下る時の小田原を通りかかるということはあったと思います。 うー、とはいえ別に、小田原藩に、それほど縁が深かったというわけではないはずです。 さらに、赤い五重塔なんかも、小田原には特になかったことだと思います。 うー、そもそもですね、この光友公って、隠居した後、、普通は中屋敷に移り住むものですが、わざわざこの下屋敷の戸山荘に住んだんだそうです。 ですから、わざわざそこまでして、こう小田原や箱根に思いを馳せる理由ってあったのかなという風になるわけです。 で、そう考えると謎が多いこの戸山荘。単純に旅が好きで思い出の場所なんだという答えもなきにしもあらずかもしれませんが、それにしても大きすぎます。 で、もしこの箱根山やこう小田原宿というネーミングがミスリードだとしたらという推理を、ちょっと今回はしていきたいなと思ってるんです。 というのも、、そもそもこの箱根山という名前、江戸時代には使われていませんでした。 本来の名前は玉円峰と書かれています。 箱根山という呼び方は明治時代になってからつけられたものだそうです。 また宿場についても、ういろう屋を思わせる看板やのれんがメインの建物にありますよということ以外、特に小田原を特徴付けるようなものっていうのは何もないようなんです。 で、ここを小田原宿として書いてる最も古い書物、記録というものも1824年のものなので、戸山荘ができてから150年以上が経過したものということになります。 えー、ちなみに戸山荘は1669年に造営が始まりました。 さらに、この宿場には、立て札が立てられていて、、喧嘩しても奉行所に届け出る必要はないし、、誰も止めやしないよとか、、宿場なのに、、人や馬が渋滞してもOKなど、かなり現実離れしたというか、ちょっとジョークのようなルールが記載してあったようです。 ということば、実はこの宿場っていうのはこう、具体的なモチーフがあったというより、全部嘘で、町も嘘で、町人も嘘、嘘ばかりの宿場という、極めて抽象的なものだったのかもしれないということが考えられるわけです。 と思うと、あれ?もしかして小田原や箱根山って、最初に作った光友公が考えていたこととはちょっと違うネーミングなんじゃないの?という可能性が出てくるわけです。 そうなると、光友公は一体何を目的としてこの庭園を作ったのでしょうか。 、もう一度箱根山、つまり本来の名前の玉円峰に戻って考えてみましょう。 、普通に考えると、江戸で1番の山を作りましたというと、何を作ったことになると思いますか? 江戸で1番、1番、1番と言えばやっぱり日本で一番高い山、富士山じゃないんでしょうか。 玉円峰という名前も富士山を上から見たと思えば、まさにぴったりのネーミングだなということになりませんか? う、また御泉水もきっとこの規模なら、まさかこうちょっと足柄湖ということは考えづらいんです。 う、、この庭園は1669年から造営されたと言いましたが、くしくも小石川後楽園がある程度最終形になったのも1669年です。 で、また浜離宮も1669年頃に工事がなされたとされています。 ですから、、この戸山荘というのは後出しじゃんけんで作り始めたという庭園になるわけです。 そう考えますと、小石川後楽園の大泉水が琵琶湖をイメージしてるっていうのはもう光友公はきっとご存知だったはずです。 で、その後に何倍も大きい池を作るんですから、普通に考えればこの御泉水も、日本一の琵琶湖をイメージしたものだなという風にも考えられますし、 い、また回遊式庭園の大きな池っていうのは普通こう、真ん中に島を作ってこう船で渡れたりするようにするのが一般的ですが、でもその島がないとなると、もうこれは普通の池じゃない。え、汐入の池は、本当に海水を使って作りましたが、負けじと海を作り出したかったのかもしれないとも考えられるわけです。 そう思いますと、、実は戸山荘は、日本全国を表した日本の縮景を作ったんじゃないかと思えば、、色々合点が行くわけです。赤い五重塔もあっても不自然ではないというわけです。 さらに、喧嘩しても奉行所には届け出なくてもいいよなどは、現実とは違うルールですよね。 で、それを作ることで全く違う司法、つまり全く違う支配者を暗示させるものになるわけです。 ここに将軍を招くこともあったというのですから、そんな芸当ができるのも尾張徳川家ぐらいなものです。 そんな野心的な意図を徳川将軍家に疑われたら、もう一大事です。 だからこそジョークのような内容にする。さらに宿場のメインの建物に、ういろう屋の看板を掲げて、まるで小田原宿がモチーフですよという風に見せる。そうしたカモフラージュがあるように思えるのですが、皆さんはいかがでしょうか。 ただ、そんな光友公なんですが、自分だけの日本の縮図を作り、自分が作る天下をイメージしたくなるような、そんな人生でもあったような気はするんです。 え、というのも、学問とか茶道にも優れ、新陰流第6世という剣豪大名でもありました。 書においては三筆とも謳われたほど。 そうした才もあって、4代目の将軍候補として一時は注目を浴びたこともありました。 しかし周囲の期待とは裏腹に、手のひらからこぼれ落ちていった将軍の座。 その将軍の座に君臨したのは、11歳にして体も弱かった徳川家綱公なんです。 周囲の力で、武断政治から文治政治へと移行させた将軍としても有名ですね。 でもそんな世の中でも光友公は、幕府の命で隠れキリシタン1300人近くを処刑したということがありました。 元々光友公は、織田信長の尾張を治めていたということもあって、キリシタンがどうしても多いので、キリシタンに寛容だったそうなんです。 しかし幕府の命により、大量のその隠れキリシタン、領民をその手にかけざるを得なくなるということになりました。 戸山荘を作った1669年は、そうした隠れキリシタンの処分がやっと終わりが見えたかなというようなタイミングだったのです。 宿場町の立て札にあった、キリシタン停止の事という文言もですね、、もうこんなことに関わりたくないという、ちょっと幕府への批判が込められた本音が書かれていたのかもしれません。 そして文治政治の世では経済対策などに追われ、武断政治の方がよほど自分の実力を発揮しやすかったんじゃないのかなという風にも感じる部分があります。 時代の流れを感じつつ、全く違う世界観、全く違う日本を戸山荘に描きたくなったというのも、無理もないことなのかなという風に私は思いました。 いずれにせよ、光友公の死後、この庭園は荒廃の一途をたどることとなってしまいます。 これだけ大きな庭園ですから、維持するのには、それなりのコストがかかるというのは容易に想像がつくことです。 しかし、この庭園にはまた光を当てる人物が現れるんです。 それこそが八代将軍吉宗と何度も衝突した尾張徳川家随一の傾奇者藩主、徳川宗春です。 どんな仕方でこの庭園に春を添えたのか。 その続きはまた別の動画で旅したいと思います。 もしよろしければチャンネル登録や高評価をしてくだされば幸いです。 ではまた別の動画でお会いいたしましょう。

東京・山手線内で最も高い山「箱根山」。
しかし、この山はある大名が作り上げた巨大庭園の一部でした。
それは江戸幕府に牙をむき続けた一族の、壮大な野望が隠されていたのです。

歴史の裏側に隠された、壮大な物語を紐解いていきましょう。
面白かったらぜひチャンネル登録・高評価をよろしくお願いします!

【目次】
0:00 ダイジェスト
0:06 東京にある人工の山「箱根山」
0:52 江戸一の巨大庭園「戸山荘」のスケール
1:27 庭園の主、反骨の一族・尾張徳川家
2:41 庭園の創設者・徳川光友の野心
3:54 庭園に隠された驚きの仕掛け
5:42 「小田原宿」と「箱根山」ネーミングの謎
9:03 庭園に込められた光友の真の野望とは
12:30 荒廃、そして新たな光…

【次回予告】
この壮大な庭園に再び光を当てたのは、八代将軍・吉宗と真っ向から対立した伝説の傾奇者藩主「徳川宗春」。彼の破天荒な物語もお楽しみに!

映像はアイリッドピクチャーズの制作です。
https://eyelidpictures.com/

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