盛美園 :大石武学流の造園を代表する庭園
入場口 最初に案内される御宝殿 十畳敷の堂内は全面が金箔で覆い尽くされ平泉の金色堂の様 本尊には鎌倉時代(七百年前)の彫刻金剛界大日如来を安置している 撮影はNG(Hpから)保存のため、30分ごとに1回約3分間のペースで公開。 庭園の南西には 和洋折衷の洋館、盛美館が建てられている 1階と2階で意匠が全く異なっており、1階は庭園を見渡せるように東方と北方の2方向に縁側を廻した純和風の意匠に対し、 2階は1階と同じく庭園を見渡せる東北角に八角形のドーム屋根の塔屋が突出する形で配置され、 当庭園の添景として独特の景観を醸し出している 妻壁には松葉を象った障子窓が開けられている 手前は手水で、青銅製の器が置かれている 設計・施工は、地元の宮大工であり、また堀江佐吉の下で洋風建築の腕も磨いたといわれる西谷市助で、4年かけて東京方面の視察から設計・施工まで行った。 その姿は山高帽に袴といった明治人の服装にもなぞられ、その独自の発想と表現力により、明治邸宅の異色の傑作が津軽の地に誕生した 盛美館の前に広がる白砂の枯池 その奥は池泉回遊式の庭園になっている この日は団体予約が入っており、残念ながら館内の見学はできなかった 盛美園は明治時代の作庭としては京都の無鄰庵や清風荘に伍する傑作に数えられている。 面積 12,000m2
開園 1901年(明治34年)
設計者 小幡亭樹 初代盛秀は、鎌倉幕府5代目の執権北条時頼の家臣であった 郷土の士族でもあり資産家でもあった清藤盛美が、1902年(明治35年)に庭師の小幡亭樹を招き、9年の歳月をかけて完成したものであり、 武学流庭園の最高峰ともいわれる 武学流は江戸時代の初期に都落ちしてきた公卿らが、仏教文化と地元に根付いた古神道文化の思想を習合させて、京風の庭を造る流派であり、津軽地方では特に人気があった。 池の中にある蓬莱島(神仙島) 五宝塔と祠 東屋 枯山水の「和」と館の「洋」との精妙な調和
「和洋折衷」 これが他の日本庭園にはみられない盛美園の世界観である 明治維新に際し、士族授産のため田地十町歩(10ヘクタール)を残して没収された。 盛美は、農業(地主)を本業にしていたが、他方で政治的にも経済的にも活動していた。 戸長や村長を勤める傍ら青森商業銀行・尾上銀行創立に参画し、やがて尾上銀行頭取になった。 明治35年武学流の小幡亭樹宗匠を招き、9年の歳月を費やして明治44年に「盛美園」完成した 庭園は3600坪で、その一隅に鹿鳴館時代を彷彿させる和洋折衷様式の「盛美館」を建てた。 隣接する清藤氏書院庭園 1873年(明治6年)建築の母屋とともに国名勝に指定されています。 この母屋は現在も個人の住居としてつかわれている 見学は予約が必要。なので今回は庭園は観れなかった。 清藤家13代当主から唐糸御前の悲話を聞き弔う意味を込めて、ケヤキを中心に庭を造ったとされ、その後元禄年代(1688~1703年)に京都の茶人、野本道玄が手を加えたとされています。 初代・清藤盛秀が鎌倉時代の1200年代後半にこの地に移り住んで以来750年近くに渡り当地の有力者として活躍。 江戸時代までは当地の大地主として、近代には実業家として第五十九国立銀行の役員などをつとめました 近くの猿賀公園
撮影日:2025 4/23 青森県平川市猿賀石林
盛美園(せいびえん)とは津軽で盛んであった大石武学流の造園を代表する庭園である。国の名勝。築山庭造伝や造庭秘伝書の形式を忠実に再現したものです。明治時代の作庭の中でも、京都の無隣庵、青風荘と共に我が国における三名園の一つに数えられています
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