令和7年度東広島市立日本酒大学

[音楽] え、本日は皆様お忙しい中東広島市立日本 大学記念イベントにお越しいただき誠に ありがとうございます。え、本日司会進行 を務めます私は広島テレビアナウンサーの 宮脇安友と申します。どうぞよろしくお 願いいたします。ありがとうございます。 え、この東広島市立日本種大学なんです けれども、2018年から開催されてい ます。あの、一般の方に公開するような形 での講座を続けているわけなんですけれど も、今回は記念イベントです。で、何の 記念イベントなのかと申しますと、もう皆 さんご存知だという風には思いますけれど も、去年の12月に伝統的酒作りが ユネスコ向け文さんに登録されたことを 記念したイベントということになっており ます。え、今回この会場外にも ワークショップ、それから展示コーナー なども設けられています。是非皆さんその 伝統的酒作りの魅力を感じてもらえればと いう風に思っております。え、また今回は ですね、その伝統の奥深さを感じながらも 未来にそれをつげていきたいということで 、このテーマについて深く掘り下げていく 基調公園、さらにはパネル ディスカッションなどもご用意されており ます。ま、短い時間にはなるんですけれど も、皆さんに日本酒の魅力、それをこの 時間を使って再認識していただければと いう風に思っております。 私ご用意されている時間がですね、1時 35分に次のプログラムに移るわけなん ですけれども、まだちょっと時間があるの で、なぜ私がこの場に立っているのかと 時間を押すことはありません。時間のある 限りでお話をさせていただければという風 に思うんですけれども、あの、私は アナウンサープラス、あの、報道記者とし ても仕事をしてまして、日本酒に関しても 色々取材をさせてもらっております。で、 なぜ取材をするようになったかと言います と、私自身がこう海外旅行が好きで、 せっかく報道するんだったら日本と世界、 広島と世界をつぐコンテンツを放送したい なと思った時に 日本酒という魅力が広島にはあるじゃない かということで取材を始めさせてもらい ました。もう本当に 一言で言うと難しかったです。難しくて なかなか理解できないことも多かったん ですけれども、ま、知れば知ることその 魅力に関して本当にどんどんはまっていく というのがこの日本酒だなという風に感じ ました。で、私が1番こう感じてるのは、 ま、これまで日本酒を知ることがなかっ たらただ単にある1本の日本酒飲み物、 アルコールだったのかもしれないんです けれども、取材を通してその1本の瓶の 向こう側、1杯の逆月きの向こう側にある 、ま、自然であったり気候風と文化、それ から伝統技そして何よりその作っている皆 さん、その表情が見えるとその1杯のお酒 っていうのがこれだけ味が変わるのかと いうことを感じることができました。今日 はですね、あのパネルディスカッションも 含めてですね、公園酒作りの最前線で 携わっていらっしゃる皆さんが貴重なお話 を聞かせてくださいます。何か1つ、ま、 そうしたエッセンスを持ち帰ってこれから 飲むであろうお酒、思いをはせながら日本 酒の魅力というものを感じていただければ という風に思っております。え、それでは ちょっと本業の方に移らせていただきます 。はい。 先立ちましてですね、皆様にいくつかお 伝えしたいことがあります。えっと、です ね、お持ち、携帯電話、お持ちだという風 には思うんですけれども、その携帯電話の スマートフォンご確認いただいて音が出 ないようマナーモードにご設定いただき ますよう願いいたします。え、また使用の 際は周りの方のご迷惑にならないようご 配慮ください。 え、そしてこのイベント現地開催に合わせ もう本当に今回も倍率が高くてですね、 この会場に入れなかった皆さんも いらっしゃいます。オンラインでの同時 配信も行っておりますので、その辺りもご 了承ください。え、そしてこのイベント 一部飲酒イベントが用意されていますが、 参加は20十歳以上の方限定となります。 また車で運転されている方、飲酒は固くお 断りさせていただきます。皆さんもお 分かりだという風には思いますが、ご注意 いただければという風に思います。 さあ、それでは間もなく時間が参りました というところで次のプログラムご挨拶へと 知らせていただきたいという風に思います 。え、まずは主催者を代表し東広島市副市 長川口和成よりご挨拶を申し上げます。え 、それでは副市長よろしくお願いいたし ます。 え、え、東広島市長の川口でございます。 え、本来であればですね、え、市長の高垣 がこちらに参りましてご挨拶申し上げる べきところなんですが、え、東広島市姉妹 を結んでます北海道の北広島市の方へです ね、え、公務で、え、市長出張しており ますので、え、残念ながら出席が叶いませ んでした。え、カート私からの挨拶とさせ ていただきます。え、東広島一立日本大学 記念イベントの開催にあたり一言ご挨拶を 申し上げます。え、本日はご多忙の中全国 から多くの日本ファンや関係者の皆様にご 参加いただき、え、誠にありがとうござい ます。え、西上はですね、え、日本3大所 と言われておりまして、え、また平成2年 から、あ、これまで35年間にわたって、 え、毎年、え、10月に酒祭りを開催をし ております。え、また吉町は銀城州の父と 呼ばれる三浦千三ブ氏の出身地でもあり、 え、銀城州の地、当時の故郷とも呼ばれて おります。え、こうした日本の町、東広島 におきまして、え、このような、あ、日本 の魅力と奥深さに触れることができる イベントを開催できることを大変嬉しく、 また誇りに思っております。え、私自身の 係かりを少し申し上げますと、副市長就任 の前にはですね、え、広島県の職員だった んですけども、平成29年度から、あ、令 和4年度までの6年間、広島県の日本酒を フランスを中心に売り込んでブランド化 するというプロジェクトの責任者をして おりまして、え、日本種に関わって、え、 おりました。え、また福市長就任後はです ね、高市長から、あ、坂倉を生かした 街づりを推進するよう強く、強、 ミッションを、え、特別のミッションを 受けておりまして、え、この日本市園の 思い入れは私自身と取り分け強いものが ございます。え、さて、本市では現在10 の坂倉が独自の技術とこだわりで、え、 地域のフードと文化に根指しながら酒づり の伝統を守り続けておられます。え、本市 のみならず全国各地のこうした取り組みが 、あ、昨年12月の、え、ユネスコ向け 無型会算登録6につがったものと考えて おりまして、え、酒作りに関わる皆様の タマの努力と情熱に対して心より経緯を表 するものでございます。え、この日本大学 は日本種の魅力を学び体験し語り合う場と して、え、様々な講師を招きし、え、平成 30年から開催してきたところであり、 今年は伝統的酒作りの、え、ユネスコ文系 文化遺産登録を記念して、え、特別 イベントとして開催するものでございます 。え、このユネスコ向け文化遺産登録に 向けて、え、重要な役割を担われた東島市 出身の石川様の基調公演、え、やあ、 2020年に、え、英国BBCが選ぶ、え 、世界の100人、あ、世界の女性人に 選ばれた、あ、今田美様を始め、え、本市 でご活躍の、え、酒、酒作りに、え、 立わる方々によるパネルディカッションは 、あ、ここでしか聞けない大変な貴重なお 話があ、伺えるものと期待をしております 。え、またコーディネーターには、あ、 換期か金子さんを運しており、え、換期か 金子さん、あの飲食の関係では知る人知る 非常に影響力の持たれてる方でございます ので、え、このイベントをよりそう 盛り上げていただけるものと期待している ところでございます。え、また、あの、 講演の合間や、あ、パネル ディスカッション終了後には、あ、日本に まつわる展示をお楽しみいただけます。え 、本日のイベントを通じて、え、日本文化 が、世代を超えて受け継れていくとともに 日本の町東島の魅力が国内外に広く発信さ れることを期待しているところでござい ます。え、結びに本イベントの開催に ご尽力いただいた関係の皆様に、え、心 より感謝を申し上げまして、え、開会の 挨拶とさせていただきます。え、本日は 日本の奥深い世界を存分にお楽しみ ください。 ありがとうございました。続きまして、 日本大学の協力団体である西場協会を代表 し理事長島春正様ご挨拶をいただきます。 それではよろしくお願いいたします。 令和7年、あ、令和7年度東市立日本種 大学のイベントのイベントに多数ご参加 いただき誠にありがとうございます。西除 静 ご挨拶させていただきます理事長の島は 春正と申します。どうぞよろしくお願い いたします。連日の国書本当に大変な状況 と思っています。本日は辺で公が予想され ています。恵の雨が降り、お米が束に実る 法作の秋が迎えらればと願うばかりです。 東広島西城の地は古くは大正時代にな田 不見に並ぶ3大名城地と先のをアピールし てきました。この地域が名常地となりまし たのは最上凡地の電園地帯でできる坂舞 竜王山からの恵み中高水の井戸水 冬の朝晩の寒冷な気候 秋津を中心とした広島当時酒の作り手に 恵まれこの地をさらに3大名地に押し上げ たのが佐リーチ氏の動力生期の発明と山陽 鉄の上を通る広島への延伸、 大量の吐米とお酒の輸送路を確保すること によりなし得たものと思っております。 また東広島西城の地域を避けところとして 大事に育てていただいたのが約半世紀に 渡り続く地元西小学校のオペラシの町だと 思います。広島市内では日本に接する機会 が少ないと感じますが、東広島市内では そのハードルがぐんと低くなっています。 東市民、東広島市民を上げて応援いただい ていると感じています。この日本大学も 待ち上げての日本の取り組みと大変感謝を いたしております。 東広島市には種類総合研究所と広島大学元 工学部第3類発行工学家程と発行にゆかり の研究機関と大学があります。将来日本種 大学が飛躍し学生の学びと研究そして発行 関連事業への就職へと上げとの組織が できることを願い、外会にあたりましての 挨拶とさせていただきます。本日はどうぞ よろしくお願いいたします。 [拍手] ありがとうございました。え、それでは 早速ではございますが基長講演に移らせて いただきます。え、基長講公園では酒作り の伝統と未来をテーマに日本手当時組合 連合会会長、そして広島当時組合長で いらっしゃる石川達也様にご登壇いただき ます。 それでは皆様大きな拍手でお迎え いただければという風に思います。どうぞ お入りください。 え、簡単に私の方からご紹介をさせて いただきます。石川様は西城で生まれ育ち 、大学は東京の大学に通われてその在学中 に酒づりの修行を始められました。え、竹 で24年間当時を務められ、2020年 からは茨城県の月の井店の当時としてご 活躍されています。また日本の伝統的な 工事金を使った酒作り技術の保存会副会長 でもいらっしゃいます。2020年には 当時として初の文化庁長官表彰、2024 年には東広島市表彰、そして王障を受賞さ れるなどその功績は滝に渡ります。え、 それでは石川様どうぞよろしくお願い いたします。 [拍手] え、皆さん、こんにちは。 え、なんか、あの、さっきもありました けど、すごい抽選になったそうで、あの、 皆さん当たられた方おめでとうございます 。え、ま、こういうイベントに、え、参加 していただけるということを大変 ありがたく思っております。で、この東 広島市立日本大学、え、先ほど福市長から もご案内あったように、え、平成30年 から始まりまして、コロナの間ちょっと 中断しておりましたけれども、毎年、え、 ま、えっと、ま、小規模ではあるんです けれども、え、ちょっとずつお酒の話を する、そういう、ま、セミナーですね、え 、そういうことをやってまいりました。で 、今年はあの昨年の12月に、え、伝統的 先作づりがイオネコム系文化遺産に登録さ れたっていうことを受けまして、え、特別 版、え、ということで、え、記念イベント を開催ということに、え、なりました。 あの、ま、この地でこういうイベントを 開催されるということが、え、私としても 非常に嬉しく地元人間としても、え、思っ ているところです。で、えっと、ユネスコ の、え、無型文化遺産登録っていうところ までの流れをちょっとざっとお話しします と、もうかなり前、えっと、政権で言い ますと、菅政権の頃にはもう、え、国が、 え、伝統的座作りをユネスコへ提案するっ ていう方針がもう出されてました。あの、 市方針演説にそういうのを盛り込まれて、 っていうことで、で、2021年にまず それの全段として、えっと、国の登録無型 文化財というものに伝統的先作りがなり ました。で、あの、登録無型文化財って いう制度自体がなかったんですね。だから 、えっと、ま、ちょっとうがっ見方をすれ ばそのためにその制度まで作ってしまっ たっていう、え、そういうことかなという 風に思っております。で、え、登録無型 文化財ですから第1号なんですけれども、 え、第1号同時に、え、あの、登録された のが諸道です。で、今ユネスコに昨年あの 伝統的先づりが登録されましたけど、次に 今提案してるのがその処動っていう、え、 そういうことになります。だから今後もし 無型文化遺産へっていう流れがあるとし たら、まずは登録向け文化財になってそっ からっていうことになっていくのかなと いう風に、え、思っているところです。で 、えっと、で、そのユネスコがあった おかげでですね、ま、いろんなことがあり まして、ま、あの、宮さんのところもそう ですけど、あの、マスコミにも大変色々 取り上げていただきました。で、あと、え 、いろんなイベント等もありまして、え、 ま、自分が関わっただけで言いましても、 まず、えっと、今年の1月には、あの、 首相鑑定に、あの、その登録の報告をしに 行きました。それから、え、5月には、 えっと、関東新越国税局が、え、ユネスコ 登録の記念イベントっていうのをやりまし て、え、それから 上海で、あの、上海創業時間で、え、伝統 的酒作りのシンポジウムっていうのがあり まして、これはあの後で出てこられる今 さんもあの、一緒に行ったんですけど、 えっと、昨日の中国新聞のセレ に、え、それ、あの、私があの気候した 記事が載っておりますので、もし、え、 よろしければご覧ください。で、え、その 後、え、ま、あの、今万博やってるので、 万博に絡めて国フェアっていうのを大阪で 開催し、え、ま、あと、え、先月はですね 、え、文化庁が主催で、あの、ま、その 登録の記念、え、式点っていうのが東京で 開催され、え、文化庁長官から、あの、 その登録の認症の複製が授与され るっていうような式点だったんですけど、 え、これがその伏勢ですね。ま、もちろん あの、 ま、英語で書いてあるのでちょっとパっと みよくわからないんですけれども、え、ま 、これ複製ですが、これがあの文化庁長官 から、え、渡されたっていうようなことが ありました。まだ今からもあの、ま、伝統 的酒作りに絡めていろんなあのイベントっ てのまだ続いております。あの大変 ありがたいことだなと思ってます。あと 文化庁が出した あの月刊文化財っていう、え、雑誌がある んですけれども、え、これも、ま、文化財 っていう、う、雑誌なんですが、ま、 UNネスコで登録されたからっていうので 、え、伝統的先作づりの特集後、7月後が 特集後ということになっており、またここ でも私も文書を書かしてもらってます。で 、えっと、宣伝になりますが、あの、え、 今日、あの、4時から5時、あの、大学生 の選んだお酒のシのコーナーっていうのが 後けれども、あそこでこれ販売しますんで 、もしよろしければ買ってください。ただ 買っていただいても私の懐には1戦も入り ませんけれども。はい。で、え、ま、その ような、ま、色々最近、え、伝統的酒づり について盛り上がりがあの業界内外であり まして、で、それについて、ま、あの、 自分も話すことが多くなっています。で、 その広島の伝統っていうことについて今日 はお話ししようと思うんですが、え、ま、 私はあの広島当事組合の、ま、今組合い地 をさせていただいてるんですけども、広島 当時組合でもその 何が我々の伝統なんだろうっていうことは 、ま、ずっと前から色々モヤモヤ でそれでと、えっと、取り組み始めたのが 何かと言いますと、広島の先悪る古い文献 の復刻です。え、ま、あの、こんな感じの あの本をですね、今、え、令和元年度から 始めて 、え、今6部ほどあの復刻をしました。え 、これも宣伝になりますが、あの、広島 当事組合事務局で販売しておりますので、 あの、まだ在庫はございますから、もしご 興味のある方はお買い求めください。で、 特に、ま、今からお話しする中に出てくる このその1っていうのは、え、三浦千郎が 書いた会場法実戦録っていう本なんですね 。で、これあの原本は、え、国立国会図書 館に、え、存在するものしか今、え、 見当たらないんですが、国会図書館にしか 今んところないっていう、そういうもの ですね。なので、あの、私も酒のフル本は 相当買い合さりましたけど、もし原本が今 フル本市場に出てきたらどれぐらい根が つくんだろうっていう風に思うんですが、 私が査定するんだったら絶対10万円は くらないなと思います。薄すっぺらな本 ですけど、それぐらい貴重なもんです。な ので、あの、 ま、我々の広島の酒の父って言われる三浦 千ブ郎 なんですが、え、これを復刻、まずはこれ を復刻したいと思ったのはなんでかって 言ったら、え、広島当時ってその流れを組 むって言いながら あんまり知らないんですよ、三浦千郎の ことを。三浦千郎っていう名前はみんな 知ってます。だけど何をした人でどういう 功績があったのかっていうじゃあこの会上 法戦録っていう名前も知られてるけれども 何が書かれてるのかっていうのはあまり 知られてない。 じゃあちょっととにかくその末裔である 我々はそれをちょっと勉強しないといけ ないだろうっていうことで、え、まずこれ の復刻をしたという、そういうことです。 で、その後ですね、あの、 え、上試験書報告でありますとか、え、 ちょっと、ま、一般の、ま、あの方が書い た転換の方とか、あと広島税務監督局が 作ったもの、日本上協会中国支部が作った もののっていうのが色々広島の酒について 書かれたものがたくさんあるんですね。 で、それは何を意味するのかって言ったら 、 これほぼほとんど、ま、明治対象時代の 書物なんですけど、え、いかに広島の酒 っていうものがそれだけ注目されてた かっていうことです。広島の人が広島の酒 のことを書いたっていうだけじゃなくて、 全国規模で注目されてたっていうことです ね。で、えっと、今年の毎年これ秋に復刻 するんですが、今年の秋に復刻する、え、 本も一応もう当たりはつけてまして、え、 それは何かって言うと、え、日本銀行が、 え、広島の酒を調査したっていうのが、 えっと、明治時代とそれから昭和の12年 と2つあるんですけど、それを合本であの 、復刻しようっていう風に考えてます。で 、え、日本銀行が酒の調査をするって いうのは、要するにそれはその技術的な ことを知りたいっていう話じゃなくって、 ま、産業として、え、見てたっていうこと なんだろうと思うんですけれども、それ だけお酒というものが、ま、え、社会の中 でも重要な産物産業だったっていうことの 証なという風に思って、この秋復刻するの を、え、楽しみに、え、しているところ です。で、えっと、 広島の酒の、ま、昔の酒のことを、ま、今 からお話しするんですが、え、広島の酒に 触れる前に、え、ま、日本の酒作り全体が それまでどういう流れで来てたのかって いうことをお話ししないとちょっと分かり にくいので、ざっくり、え、日本の酒作り についてお話をさせていただこうと思い ます。で、あ、すいません。あの、貴重 講演っていう硬い感じかと思われると思う んですが、あの、私あんまり硬く喋るの 得意でないし、こんなうろうろ、あの、 歩き回って、あの、喋りますんで、すい ません。そこのところはご容赦願いたいと 思います。で、え、 日本の酒作り、え、江戸時代の初期から 中期ぐらいまで日本の酒作りをリードして たのは伊丹です。伊空港がある。え、今 残ってる銘柄で言うと1番有名なのはあの 、あれですね、あの、白雪さんですね。 伊見、あ、伊家じゃない。あの、小西家 ですね。小西さんていう、ま、今、え、 伝統的酒作り保存会の私副会長ですけど、 会長が小西さん、あ、小西社長なんです けど、え、伊丹が日本の酒作りをリードし てました。で、え、中期、ま、あの、 終わりか後期の初め、ま、3期に分けた時 のぐらいに、え、出てくるのがナダーです 。 で、えっと、痛みまでの酒作 りっていうのは 、あの、 後で出てきますけど、まず生マがそんなに できなかった。 るしかなかった時代なので、あんまり生 できないということで、あの、 生マできないとどうなるかって言うと、お 米って外側が硬いので、あまり削れなかっ たら硬い層が残って水を吸いにくい、え、 工事も作り、こう中へ入りにくい。え、で 結果としては溶けにくいっていうことに なります。なので、え、ま、技術的なこと で言いますと、痛みまでの酒作 りっていうのはあまり溶かせなかったん ですね。で、溶かせないで、その頃の手質 、お酒の味わいってどうだったかって言う と、 甘いんです。甘い酒が良しとされてました 。で、なんでかって言うと、溶かせないの で、まず甘みを出すっていうことだけでも 大変なんですよ。工事を作って工事が、え 、お米の伝粉を当に変えるっていう。それ だけでもなかなか大変だから甘くできたら もうそれだけで技術がある。で、それを えっとお酒っての発行させるっていうのは その、ま、工事金、工事によって、え、 工事の酵素によって分解されたあの党、 それを交母が発行してアルコールに変え るっていうのがお酒になるわけです。酒に なっていくメカニズムですけれども、え、 そのじゃあどんどん発行させていくと から口になっていくわけですが、どんどん 発酵させたらどうなるかって言ったら、え 、痛みまでの時代だったらそれはあんまり 溶けてないので内容成分があんまり豊富で ない。で、甘みまで消してしまうと 薄っぺラであんまり味感じないようなお酒 になってしまう。だからあまり、え、甘み が消えてしまわないような仕込み配合に する。ま、具体的に言うと、え、水を詰め るって言うんですけれども組みをあまり 多くしない。え、そういうような、あ、 仕込み背合にして、え、甘みを残すように してた。それが江戸時代中期までの、ま、 日本の酒作りをリードしてた伊の酒作りの 、ま、お酒ですね。 で、そっからが出てくるんですが、はです ね、もちろんまだ機械はないんですけれど も、え、六光産系の川沿いに水車小屋を 立てて水車生を導入したんですね。で、 水車生を導入すると、ま、内装24時間 勝手にやってくれるわけですから、え、 正マ部合が数%向上したっていう風に言わ れてます。いや、本当なのかどうなの、 どうやってそれ調べたんかなっていう風に 思うんですが、一説にはそれまで生人力だ と92%ぐらいまでしか削れなかったもの が85%ぐらいになったっていう風に言わ れてます。でもその数%って結構大きいん ですね。 それである程度溶かせるようになった。で 、ある程度溶かせるようになったら どうなるのかって言うと、その痛みのまで の酒作りっていうのはその、え、あまり こう切らしてしまう、発酵を進めてしまう と、え、薄っぺらになってしまうっていう ことがあったわけですけど、ある程度溶け て内容成分が豊富になってきた。そうする とその甘み頼らなくってもしっかりこう 発酵させてもまだ味がある。え、旨味があ るっていうそういう酒になる。なので、え 、なダはより切らせる方向に行くんです。 発酵を進める方に。 で、え、 そうしたらですね、それがあの酒っていう のは、ま、江戸じゃんじゃん送って、え、 江戸で消費されるようになるんですけど、 ま、江どっこにそれがすごく受けたんです ね。それまでにない、甘みに頼らない。ま 、今の新潟タイプとは全然違いますが、 その当時の鍛礼から口が生まれたんです。 それでそれがすっきりしてるなんかあの 味わいとしてであの飲み応えもある。ま、 アルコールももちろんそうすると出ますの で。そういう酒が江戸で爆発的に受けた。 それでダはどんどん伸びていくっていう、 そういうことですね。 そっからダが、あ、酒として、ま、さっき 3大どって話がありましたが、え、 ま、なダが日本一のどっていう風になって 、今に至るまで君訓臨してるっていう、え 、そういうことです。で、酒っていうもの を 左右するものって何なのかってこれあの 毎年小学校へ最小学校行って私もあの子供 たちに話をするんですが、その時これ聞く と、え、みんなあの真面目にはいはいはい はいって言って、え、いいお米が取れる ところですとか、いい水があるところです とか、気候がいいところですとか。で、ま 、もちろんそれらがないと、あの、酒は 作れないんですが、酒になるためにはそれ だけじゃ足らないんですね。酒になるため に必要なものって何かと言ったら、輸送 手段ですね。 え、昔で言うと船です。 だから、あの、お酒っていうものを作って 、え、その土地だけで消費するんだったら そんな 大量には作れないですね。だから外へ出し ていくまだから江戸みたいな大償一に 向かって、え、売っていくっていうことが できて初めてとして大きくなるということ なので、え、 輸送を制するものが先所を制すると言って も過言ではないと思います。だから痛みと ナダって言うとそういうことでも まえメリットが大きかったという風に 言えると思います。神戸校が控えてたって のが1番大きい。今のその推車生前、それ から、ま、ちょっと技術的なことは今日は あんまりお話ししませんが、え、土時代の 中期の割り頃に出てくる木本っていう正法 、そしてあの、その輸送手段船っていう その船の瓶っていうそれが合わさってな だっていう土地を、え、日本一の酒に、え 、押し上げたわけですね。 で、 そこまでがあのおそらく自分の考える日本 の伝統的作りの、え、ピークというか完成 するところですね。だ、江戸時代の後期 から爆末にかけてっていうのが日本の 酒作り伝統が確立した、完成した時期だろ うっていう風に自分は思ってます。 ま、歴史の不思議なところで、 いや、明治心までに間に合ってよかった ねっていう話なんですけど。 で、広島の酒作り 江戸時代までどうだったのかって言ったら 文献的にもほとんどないですね。ないこと はないけど本当察しぐらいしかなくて あまり見るべきものがない。だから広島が どろっていう、あるいは西城がどっていう のは結構後の時代の話です。 江戸以前はそんなに、ま、例えば大昔に なると、え、三原、小道っていうのが、ま 、ちょっと話題になったりして、福島正典 が三原を好んだとかそういうのはあるわけ ですけど、 ま、どっちかと言うとあんまり 、ま、全国的に見てと言えるような土地で はなかったわけですね。で、明治になって 以降の話、え、なんですけれども、 明治時代っていうのは、じゃあどういう 時代だったのかっていうことですね。で、 明治時代は、え、 ま、酒の世界で言うと、ま、名人心で西洋 の科学的な地見とか、あの、いろんな道具 とか入ってきたりして、え、いろんな分野 で技術がこう飛躍的に伸びた時代とかって 言われるんですが、酒の世界はですね、 明治時代っていうのは技術レベルが地に 落ちた暗黒時代です。 で、なんでなのかって言ったらこれはあの 主税がやっぱり絡むんですね。明治時代、 明治政府もちろんお金がいります。 で、その当時主税っていうのはすごく 、ま、国にとって、え、財源としては 大きくてですね、え、明治30年代前半に は国税収入の1/3が主税だったっていう 、そういう時代です。なので、え、 明治政府は主勢を主税が、ま、とにかく たくさん取れれば国の財源を潤うので、 なんとか修税をたくさん取ろうとする。 で、それが我々のご先祖様たち、え、を 苦しめ 酒づりの伝統をちょっと歪めてしまったな という風に自分は考えてます。 で、 最初に名政府が行ったことは明治4年に 江戸時代から続いてきた酒という免許制度 を廃止します と届けでさえすれば誰でも作れるように なったんですね。 一気に自由化したっていうことです。 で、正確な数字はちょっと分かりませんが 、全国で大体3万件ぐらい酒屋が増え たって言われてます。3万件ですよ。 もう猫も借しも酒作りやり始めたっていう 。 で、それがどういうことを意味するかって 言ったら、ま、これは皆さんも容易に想像 できると思いますけれども、じゃんじゃん 素人が酒を作り始めたっていうことです。 なので、え、 明治政府女将の考えたのは酒屋の数を 増やせば手勢もたくさん取れるだろうって いう風に踏んだんですね。ま、こういうの 非常の空論というわけですけれども、なん ですけど、層はとやろさなかった。 なんでかって言うと、作っても作っても 付属ばっかりっていうので、ま、お酒が 腐ったら手税取れないんで。 え、それで豪に足た明治政府はもう いろんな手を打っていきます。で、え、ま 、その1つが、え、 増国税と倉田し税ってあるんですけど、 倉田税から増国税へって変えるんです。 えっと、倉田税ってのはクラから酒として 出荷した時に税金がかかる。今それなん ですけど、メイ政府がやったのは増国税 絞ったところでもう税金かけてしまう。 絞った後で腐ろうがそんなことは知った こっちゃないっていう。そういう税税金の 取り方ですね。 後で腐るっていうのも結構多かったので、 もうその分までもとにかく手税は取って やろうっていうことですね。 で、あと税率もどんどん上げていきます からもう取り立てがやたら厳しくなる。 それから今にも影響してるのは自価取の 禁止です。 だドブロック文化っての昔からあったん ですけど、要するに自分ところで酒作って 自分たちで飲む売るんじゃなくって自分 たちで飲むっていう。 これはもう世界中大体いろんな国でもう 認められてるものなんですけど日本では今 に至るまで禁止されてます。私は解禁した 方がいいと思ってんですけど、 なんでかって言ったらこれも大昔からの話 じゃなくて明治からの話です。 明治政府が税金をよりたくさん取るために 締め付けを厳しくしたその1つです。 で、まあ、なんていうかこう いじめられた、いじめられたみたいな感じ になってしまうとあれなんですけど、え、 もちろんバックアップもします。 で、それがあのまずは 上造試験所の解説ですね。 今広島にある、広島というか西城に来てる 、え、種類総合研究所の全進が上造試験書 。え、これ上像試験書どこの間轄なのか、 どこがあの管理してるのかって言ったら 立てられた、設立された時は大倉省です。 で、その後国税庁っていうのができて国税 庁上造試験書になり、今はもう独立行政 法人っていうことになってますけど、 大倉です。要するに税金を取るために、 税金を納めてもらうために全倒な酒作りし てもらわないといけない。え、そういう ことで、え、 国が大倉の間轄として上試験書を設立した 、え、そういうものですね。 で、え、いろんなそういうこう主税に まつわる変遷っていうのがあるんです けれども、酒作りとしては、えっと、明治 時代の初期でもまだやっぱりダが君臨し てるんです。やっぱり売れるだけじゃ なくって、ま、良いから売れたっていう こともあるんだと思うんですけれども、 要するに出的にも技術的にも素晴らしかっ た。 やっぱりNADがあの日本の酒作りのトッ プっていう意識は、え、広島にも根強く あったと思うんですね。 で、じゃあ広島はどうなのかっていうこと なんですけど、え、三浦千郎っていう人は この人も実はさっきの、え、酒株が廃止さ れた後の入ってきた新規参入組です。 だからはっきり言って素人ですよね。なの で、え、三浦千ブ郎手業にこう入ってきて 酒を作るんですけど、やっぱり どんどん腐るんですね。で、さっき3万件 くらい増えたって言いましたけど、 結構早い、え、ペースでそれが一気にこう 減っていくんですよ。それはそうですね。 作っても作っても腐るんだったらもうやめ たってなる。 だ三浦座がその他の手と違ってたのはいや 昔からきちんと避きできる技術ってある はずなんだからなんかやり用はあるだろ うっていうことでそっから勉強し始めるん ですね。 で、何が良くないのかなって水を変えるだ とかなんだとか色々やってで、先進地の なんかにも勉強しに行って っていうことを色々やって、ま、そういう の百死旋開っていう言葉に残ってます けれども、 とにかくあの苦散々して全倒な酒作りを しようとするんです。 で、えっと、 さっきちょっと紹介したこの会上法戦録。 これは、ま、一般的なあの評価としては 三浦千ブ郎が表した南水像法の決定版って 書いてあるですね。三浦線=南水増法法 っていうことになっていて、で、南水増像 法の、ま、え、 親髄がここに書かれてある。 で、これを改めてつさに読んで自分があの 面白いっていうか驚いたのは 南水の名字も出てきません。 だから南水だから同行してやろうっていう 話じゃないですね。三浦千郎が残した功 って色々あるんですけど、えっと技術的な ことで言いますと2つの側面があるという 風に自分は考えてます。で、ま、これには 主にその 1つ目のことが書かれてる。それ何なの かって言ったら もうコロンブスの卵的な話なんですがまず はきちんと基礎からやりましょうっていう 話なんです。 なんかとんでもないマジックみたいなこと が書いてあるわけじゃないんです。 情報って改める 貨す方ですから 改めるんですけど何を改めるのかって言っ たらもう1度きちんと基礎からやりましょ うっていう話です。 だから書かれてるのは 工事室を作るんだったらこんな感じでとか 洗い物をするんだったらこう桶の洗い方は こうっていう あるいは温度を測るのに温度系使い ましょうとか 当たり前ですよね。今の我々だったら温度 計わないクなんかないでしょう。 で、きちんとそれらを貴重しましょう。 記録を取りましょう。記録を取って ちゃんとそのどうなってるのか見ましょう みたいな。 だから南水増像法っていうそれまでにない なんかその水だとお酒が腐りやすいからっ ていうことで、え、それを克服するために 何かそれまでにない、え、上像法を 編み出したのかって言ったらそういうこと じゃないんですよ。 逆にきちんと基礎的なことからやれば そんなに、え、お酒って腐るもんじゃない 。 締結にして、え、で、きちんと工事を作る とこから始めてっていうようなことで、だ から、えっと、いきなり工事室の構造の とこから話が始まってます。 だ、そういう基礎的なことをきちんと抑え るっていうことが、え、 ま、その当時の素人ばっかりがやってた 時代 実は本当に大事なことだっていうことで 三浦千郎はこの本を表してます。 で、それが1つ で、もう1つ何なのかって言うと、 ミザブ郎が、あの、 ま、ミザブ郎だけじゃなくて、他にもあの 、優れた手家たちっていうのはいたわけ ですけど、周りの人たちと一緒になって、 え、やったのが何なのかって言うと、 の酒作りも勉強して、ただやっぱり水の違 いっていうのも気がついていた。でもその 同じことをやったんじゃ勝てない。 やっぱり 同じことやったらナダの酒の方が上になる 。 なので三浦セザブ郎たちが何をやった かって言ったらナダの逆を張ったんですね 。 ナダとは違う方向に行こうっていう 逆方向へ行きました。え、それを完潔な 言葉で三浦千三ブ郎が言ってるんです けれども、それが何かって言ったら3つの 後、 若浩工事、若本、若っていうことですね。 全部若がつく。若い だから発行進めるっていうことを 、え、の反対ですね。 だから 工事もあんまり、え、作りすぎないように する。 で、元、元っていうものもあんまりこう ひねさせないようにする。 で、若げって何なのかって言ったら上げ っていうのは絞るっていうことです。 ま、船にかけることを上げ るっていうですね。 なので、え、若げっていうのはあんまり 発行を進みすぎないようにして、え、それ で絞るっていう、え、そういうやり方です 。だからそれどういうことなのかって言う と、 江戸時代後期から末期にかけて完成した その日本の伝統的な酒作り、ま、それを 象徴するのが酒作りだったわけですけど、 それらはあの発行をとにかくし尽くさせる そういうものだったんですけど発行を し尽くさせないような、あんまり発行し きらせないよう え、ちょっとこう未熟なところで止め るっていうのが 、ま、その当時の広島の酒作りですね。 これはでも広島の土地にね指したっていう こと だけではなくてかなり人意的な思いが入っ てるっていう風に自分は解釈してます。 で、え、明治40年代に入ってですね、 明治40年に第1回全国貧会っていうのが 開催されます。ま、それまでも、ま、広島 だけの貧会とかそういうのはそれ以前にも あるんですけど、全国単位でやったのが 明治40年が第1回 で、そこで広島の酒が上位を独占します。 第1位は竹原の藤士井山流星。それ以下 広島の酒がずらずらと並ぶっていう快教 を成し遂げるんですね。 だからそれは相当業界的には センセーショナルな出来事だったっていう 風に思います。え、 なだなんかしたらこっちが本家だっていう 風に思ってるわけですけど、え、そうでは ない。そのきっちり発酵しきった酒じゃ なくて、ちょっと発酵を手前で止めるよう なお酒っていうのがすごく評価されたん です。で、どういう酒だったかって言っ たら、 え、まず色が薄い。 昔の言葉で言いますと、色層タパとか書い てあるわけですけど。 で、え、あと味としては 軽い、綺麗でちょっとほんのり甘い でほのかに香りがあるっていうそういう酒 です。 それまでのしっかり発酵させた酒っていう のは、ま、結構ごつくて飲み応えがあっ てっていう、そういう酒だったんですけど 、それの真逆を行ったんですね。 で、えっと、その当時のお酒のあの評価 っていうのはちょっと、ま、今の貧会なん 、官なんかとちょっと違って、え、色の ウェイトがすごく大きかったんですね。 だから、えっと、 色が薄い発酵をとにかく進めるってなると 、やっぱり色は濃くなるんですけど、え、 色が薄いっていうのが 、ま、評価された。なんでかって言ったら 、ま、発酵進めたら色濃くな るっていうのも1つなんですけど、もう1 つはやっぱり浮する腐っていくと色濃く なっていくんですね。だから色が薄いって いうことは安全にできたっていうことの証 もあって、それで、え、 ま、そういう色の評価としては、え、淡い 方が薄い方が、え、評価されたっていう ことになります。 で、 ま、それが 後々にずっと影響を及ぼして今に至って ます。 ちょっと色の話をしますと、 色が薄いのが評価された。 そこまではいいんですよ。そこまではいい んですけど、ま、ミラ千三ブ郎が亡くなっ た後ですか?あ、ミラ千郎し、あ、明治 41年に亡くなってるんですが、あの 大正時代に何が出てきたかって言うと、 活性端っていうものです。活生炭素今でも 我々の業界では使われてますけれども 活性端っていうものあの冷蔵庫の脱収剤 なんかに使われてるものです。いろんな ものを吸着するで色も取ってしまうから 活性端っていうものを使用してロ下すると 、え、なんか、ま、例えば こんなお茶みたいな色がもう水みたいな色 にすることができる。要するに無職にする ことができる。 で、そっから活性タロ化っていうのが蔓延 してくことになります。色が薄いっていう のが評価されるってなった時に色を取れ るってなったら人間って低気に流れるもん ですよね。 手っ取り早く色取れるんだったらそっちの 方がいいじゃんっていうことになる。三浦 千ブ郎たちの時までは 酒作りの結果として色が薄かったんです けど、その後どうなったかって言ったら 薄けりゃいいんだろうっていうような方向 で、だから活性端路下っていうものも 100年以上の歴史があります。 で、ま、ここでちょっと恨みつらみを言っ てもしょうがないんですけど、え、うち なんかも、あの、私は活性タン廊下って 大嫌いなんでやらないんですけど、え、 クレームの1番は色です。 で、なんでそうそんなのでクレームが来る のかって言うと、それはクレームをよす人 が悪いんじゃないです。我々の業界が色が ないのがいい酒っていうのをずっとお客様 に植えつけてきてるんですね。 え、ま、年配の方だったらお分かりだと 思いますが、昔別制度ってなりましたね。 平成4年に廃止されたんですけど、え、 特急1929っていうのがあって、 絞った段階でお酒っての生成って、ま、 作ったっていうことになるんですが、絞っ た段階では全て2級です。 で、それを高級品として増頭用なんかで 売ろうとすると1級とか特急とかにしたい で、そうするとそれは急別審査っていうの を受けなくちゃいけないですね。 で、 大変残念なことに急別審査受かろうとし たら 色があったらまず受からないんですよ。 だから高級な先ほど年入りに活性端化され てたっていうのがもう平成の初めまで ずっと続いてきてたわけですね。それの 原流がだから 明治の頃にもうすでにあ るっていうそういうことです。なので今 どんなに年配の方でも若い頃すごい色が 濃い酒なんてあんまりなかったはずです。 高級な酒で。 なので 色があるのはこんなのなんか売れのり だろうとかこう色々クレームが来る。それ しょうがないんですよ。そういう風にしけ てきたんだから。 三浦千ブ郎 たちがやったことを貶しめるつもりは全く ないです。 だってそのに対抗して それまでない酒を作り出してそれが全国に 影響を及ぼしてってそんなことができ るってすごいじゃないですか。 ただその結果としての酒っていうのがそれ から色がないのが良いとか発行をあんまり 進めないのが良いとかえそういうことに なって今に至っていてそれを今でも継承 するっていうのが良いのかって言ったら ちょっと私は違うなと思ってるので 今のユネスコの登録っていうのはもう1ぺ 伝統っていうものをきちんと見直すいい チャンスだなという風に私は考えてます。 我々が誇りうる世界にもこうどうだって 言えるような酒作りって何なのか。 三浦千郎たちはま素晴らしい功績はあるん ですが私が思うのにやっぱり 原点に帰るっていう風に考えた時には江戸 時代の後期から末期だなという風にえ考え ています。 じゃあ三浦千郎たちがやったことっていう のは 後に対してもあまり良いことはなかったの かって言ったら、え、もちろんその当時の さっき言ったような基礎的なこととかを今 改めてなんか、え、やらないといけないの かってそんなことみんなやってるよって いうような話でその当時の酒づく今同じ ようなことをやるのがいいかって言ったら 、それは違うんですけど、 ただ三浦千郎が残した教えっていうのは私 はすごく大事だっていう風に思ってます。 え、三浦千のこの会場法戦録、 これですね、ま、お付けを見たら分かるん ですが、 よいしょ。 え、被害品って書いてあるんですね。 要するに本までしてるんですけど売って ないんですよ。三浦千郎はただ配ったん です。 指費を投げ打って。 で、三浦千郎っていう人はすごいさっき 言いましたようにすごい苦労散々、え、 酒作りをこう学んでも自分が身につけた ことを惜しみなく周りの人に伝えたんです ね。 だから三浦千郎の クラには 一冬の間毎年何十人もよその当事が来た そうです。 で、質問なんかの手紙もたくさん来る。 全部丁寧に三浦千郎はそれに答えて教えて 、 ま、自分が三浦千郎っていう人からその 受け継ぐべきもの、その精神っていうのは それじゃないかなという風に思ってます。 自分だけ良くてもダ目ていうことですよね 。みんなで良くならなければって ミラ千郎っていう人はその この会場法戦録にしても ま例本を作るんだっていろんな目的がある と思いますが自分が設けるためとか有名に なるためとかそんなことじゃないですね みんなが良くならないといけないって だから我々の業界今その 伝統と未来って書いてあります。 未来を開くためにどうすればいいのかって 言うと、 ま、伝統をきちんと継承するっていうこと がまず第一だっていうことはあるんです けど、 もう1つはそういう精神、それも受け継い でいかないといけないです。そうすること で未来が開いていくと自分は考えてます。 だから当事同士とか倉本同士っていうのは もちろん切磋琢磨するのは構わないんです けど 毛落とす相手とかもう単に競合する相手と 見るんじゃなくて 一緒になって盛り上げていくっていうこと を考えないといけない。え、お酒の製造 数量のピークっての昭和48年で、今それ の1/4以下もうちょっとで1/5って いうようなところまで落ち込んでます。 だ、我々のだからパイがすごくちっちゃく なってんです。そん中でどっちが勝っただ の負けただの そういうこと言ってる場合じゃないだろ うっていうのが自分の考えですね。 1つだけあの 例を上げていますと、 もう出てると思うんですけど、日お下ろ しっていう商品があるんですね。 これは季節感のある素晴らしいネーミン グっていうか言葉でで日下ろしっていうの は日っていうのは涼しくなって霊量になっ てからっていう意味なんですけど要するに 季節は秋 になって半年夏の土様を越して熟成したお 酒を涼しくなってから出す。これが 日おろしなんですが 残念なことにどんどん季節が早まってます 。 1番早いのはもう7月に出るそうです。 なんでそんなことになるのかって言ったら よそより早く予想より早くっていう よそより早く出せば酒屋の棚を取れる。 みんなで良くなるんじゃないですね。 だからその みんなで良くなるって考えるんだったら ボジョレヌボみたいにですね、会禁日決め てですよ。で、全国一斉にイベントとか やったら なんかボジョロヌルボは最近落ち込んでる らしいですけど、 とんでもなく盛り上がるんじゃないかと。 業界全体がですよ。 自分のクのことだけ考えるからそういう ことになる。 三浦千郎を父っていう風に思うんだったら その精神は我々は受け継いでいかないと いけないという風に私は考えてます。 で、 伝統っていうものを、あの、 継承するために大事なことは何かって言っ たら、 ま、ユネスコであの、ま、登録されてって 、それはめでたいことなんですけど、 もう1つその業界が一体になってやらない といけないって思ってるのは、え、人作り です。人を育てること。 ユネスコが登録してくれたのは 無型の文化遺産です。 だから形にして 、ま、書物とか映像とかそういうものにし て残せば伝わるかって言ったらそういう もんじゃないです。 現場で作り手が自分で身につけてでそれを 代々伝えていく。 でもそれって結構 時間もかかるし、ま、コストもかかる。 ただそれをやらないともう将来はないだろ うっていう風に自分は考えてます。 え、 ミラ千沢ブ郎の時代、あの時代は 、ま、当時っていうのはもうたくさんいた んですけど、それの中心地はやっぱり3つ なんですね。秋津です。 ま、竹原とかも多かった。 西城はあんまりいないんですよ。昔人数を 調べても 西城のクの当時もま、秋津とか竹原とかあ 、その海辺から来てた から、ま、あのっていうことともう1つは その人のを配給する当時の里っていうのも やっぱり 、え、水脈、水運っていうものがあの 大きく左してたなという風に思います。 え、広島もそうですし、例えば 元当時が1番分かりやすいなと自分は思っ てるんですけど、元当時の本拠地、ま、 地震で被害受けましたけど先っちのあの 野党半島の先っ鈴、え、鈴、それからその 隣の都町、あそこら辺が本拠地ですね。今 行く私もえっとの講習に呼ばれていったり しましたけど、今行こうとするとすっごい 返秘なとこですね。 でも昔は 北前線の気候地であったりして、要するに 水運で言うとすごく便利な交通の要なん ですよね。 だから遠方にも人を派遣することができた 。 で、そういう時代、あ津なんかはもう本当 に、え、今ほとんど、え、秋津出身の当事 っていうのはいなくなりましたけど、え、 明津が、え、広島当時の里っていうのは 変わりません。だから広島当時組合の行事 なんかもほぼほぼ明津で開催っていうこと に、え、なってるわけですけれども、 人を育てるっていうう、ま、そのことを 考えた時にはやっぱりその明津当時って いう三光当時っていう集団はその三浦千郎 の君と教えを受けてるなという風に私は 考えてます。 だから広島今でもそうですけど当時同士 っていうのは割と仲良くしてます。 なんかあそこのあのたくさん売れ上がって みたいなそんななんか胃み合ったりする ことあんまりない。もう集まった時には みんな同じ当時同士っていうんで仲良く するというそういうのもこう 当たり前なんじゃなくってこう昔から続い てきてるからこそういう風に我々も自然と できるんじゃないかなという風にえ考えて ます から人を育てないと将来はないっていう ことがえ自分としては 今の課題としてですね広島の当時組合いで もあるし、今当組命の全国組織の会長にも なってしまったんで、全国のことも考え ないといけないんですけど、とにかくこれ も、え、業界全体で人を育てましょうって いうことを今提唱してます。 例えば今はですね、昔と違うのは季節雇用 の当時比びっていうのは少なくなって みんな社員になってるんですね。社員に なるとどうなるかって言うと会社としては 囲うんですよ。 なので横へ動くよそのくらい移動するって いうのが非常に難しくなってる。 でも人を育てるっていうこを第一に考える んだったらやっぱり複数のクラ経験した方 がいいだろうっていう風に自分は考えます 。 昔はいろんなクラを当たりて腕を迎えた もんなんですけど今それがなかなかし にくくなってる。でもま、倉モ本さんにも 働きかけてちょっともうちょっとこう流動 性の高い業界にしたい。 みんながこうあっち行ったりこっち行っ たりしやすい。え、そういう環境を作って みんなで盛り上げてみんなで伝統を継承し ていければなという風に、え、私は考えて ます。 で、ちょっと時間も少なくなってきたので 、 最後に私の夢を語っておきます。 それはですね、 ま、どうなったらそう言えるのかっていう のは分かりませんが、 この広島、え、特にこの東島を 日本の酒の中心地にすることです。 で、それもう高等向けなことを言って るっていう風に思われるかもしれないです が、あの、中心地にするってのは、例えば 、え、クの数をどんどん増やしてなや節不 節みよりもたくさん作るようになるとか そういうことじゃないんです。 ただよく考えたら全然行けるだろうって いう風に自分は考えてまして、 さっきちらっとご紹介した 日本のその国としての唯一の酒の研究機関 である種類総合研究所があるのはこの東浩 ですね。 で、地元の人としては当たり前かもしれ ないんですけど、 圧倒的に日本で1番大きい規模の酒祭 りっていうのはここでやってるんですよ。 おそらく2番手が新潟の酒の陣じゃないか なと思うんですが、もう桁が違います。 なんかどっかの体育館でやるとか言うん じゃないですかね。のは町全体が会場にな るっていう そんなとこないでしょ。 え、最近あっちこち今週は群馬行ったし、 先週は岩手行ったし、いろんなところ行っ てるんですけど、いろんなところのその 同業の人間にその酒祭りの話したらみんな 行きたい行きたいって言います。 それは是非1度行ってみたいっていう 羨ましがられます。どうしてそんなのが できるんですか?て、 ま、もちろん 前々から関わられてる方はご存知かとは 思いますが、最初からこんなに盛り上がっ てなかったですよね。 最初の頃あの危機種できるあのなんですか 、酒広場みたいなところ換算としてて いくらでも飲めたっていうのは記憶してる んですよ。 飲み放題だな、これって。もう自分なんか はもうあの一緒に行った人ともう散々飲ん だもんですから。今そんなんできないです ね。もう押し合いへし合いなんか時間性で 区切られたりして だからそんな風に大きな規模になった 酒祭り それもいろんな関係の努力があってこそだ と思います。素晴らしい。 ただ 日本の酒の中心地っていう風にもしもう1 段上のことを考えるんであれば 酒祭り 内容的にもうちょっと考えてもいいのかな と私は考えてます。 お酒を楽しんでもらうとかなんかこう いわゆる なんかお祭り的な楽しみはたくさんあり ます。え、家族連れでも楽しめるし、うち の子供なんかもすごい喜んでましたけど、 ただその人を呼ぶためにどういうことを するのかっていうことは今までやってきた ことが報われたというか結果は出た。 イベントとしては成功してる。 じゃあ酒祭りに来る人たちが 普段からお酒楽しんでくれてるのかって。 前祭り の夜飲んでる大学生に話しかけてちょっと 話聞いたことがあるんですけど 楽しんでるってあ楽しいですって あみんな酒楽しんでくれてありがとうって 。じゃあみんな日頃から飲んでくれてんの かなて言ったらいや飲まないっすよ。いや 、イベントで楽しいから飲んでるんですよ 。 それってまだ 酒そのものの良さが伝えきれてないんだ なっていう風に私は思います。飲ませれば 分かるだろうっていうのは、それは我々の あの論理で甘いんですね。 だったら伝えるっていうことをもう ちょっと考えた方がいいんじゃないかなと いう風に私は考えてます。 で、伝え方も色々あると思うんですけれど も、 ま、代々的にするかどうか分かりませんが 、もうちょっとこうな、何て言うん でしょう?え、知的好奇心 を満足させられるような こと、 ま、セミナーでもいいですし、 ワークショップでもいいですし、そういう のもうちょっとこうやってったらどうかな という風に思います。酒のことをもう ちょっとただ飲むだけじゃない。もう ちょっと知りたいとか っていう風な人のニーズにまだ答える ところまで行ってないなという風に思って ますね。 で、えっと、ま、東広島と言っても特に 西城は これも地元の人はあんまり気づいてないん ですが、あの坂倉通りの景官って あれ独特なんですよ。 なんでかって言ったら、その西城は 高発の酒、さっきの輸送手段がっていう ことで言うと、船から輸送手段が鉄道に 変わってからの酒、 西上内陸で大きな川もないというところで 、え、になったのは、え、ま、これも明治 時代に山陽鉄道、今のJRの本線が開通し てからですね。 だから駅という点に向かってみんなが 押し合いへし合いクラを作ったからあんな に密集してるんですね。ナダなんか行き ますとナダはダ5午5号と5つの地域に 分かれて要するに海に面してればいいんで そこにこう点在してる。歩いて回るなんか とてもできないです。 あんなにこう密集して 、ま、歩いて回れるぐらいの規模にあ るっていうのはこれも本当に珍しい。日本 で唯一って言ってもいいんじゃないかなと いう風に思いますが、そういうところも 抱えてる。だから広島を日本の酒の中心地 にするっていうのは私の単なる妄想とか こう頭おかしくなったるんだろうっていう まそういうことじゃなく 種類双権や酒祭りや そういう坂倉通りがある で歴史的にも日本の酒に影響を及ぼすよう なことをやってきた。そういうことを考え たら この東広島っていうのは、ま、合併して秋 も一緒になったってのはすごく良かったな と思ってますけれども、え、日本の酒の 中心地としてふさわしいんじゃないかなと いう風に、え、私は考えております。 だから今までの伝統をきちんとそういう ことを、え、先人の努力っていうものを 我々が受け止めて 後へさらに後へ繋いでいくっていう努力を すれば 未来っていうのは開けてくる。この東広島 の先を取り巻く環境っていうのも、え、 良くなっていくんじゃないかなという風に 、え、考えております。 ちょっと基調講公演っていうには砕けた 内容だったかも分かりませんけれども、え 、またあとパネルディスカッションで さらに深い話が聞けると思いますので よろしくお願いいたします。ご清聴どうも ありがとうございました。 え、大変貴重なお話ありがとうございまし た。今回のテーマがその伝統をさらに未来 へというところで、これまでの過去の歴史 だけではなくて、あの石川当時の夢まで 聞くことができたということで、また さらにね、皆さんと一緒に次の酒祭りに 向けても関係者の皆さんもたくさん いらっしゃると思いますので、その未来を 一緒に見ていくことができればなという風 に思っております。改めて今一度大きな 握手をお送りください。ありがとうござい ました。 え、今回のパネルディスカッションの テーマは広島の伝統的な酒作りは三浦千郎 からその先へです。え、まずはパネリスト の皆さんにご登場いただきましょう。それ では大きな拍手でお迎えいただければと いう風に思います。改めて大きな拍手をお 送りください。 [音楽] それでは皆さんご着席いただければという 風に思います。私の方から簡単にご紹介を させていただきます。皆さんご覧になって 右側から株式会社今田手本店代表取締り 役者長今田美さんです。お送りください。 え、今田様は東広島市明町のご出身で坂倉 を継がれた後、広島最古の坂舞発端の復活 にも取り組んでいらっしゃいます。年には 映画乾杯、日本酒に行為した女たちにご 出演され、2020年にはイギリスの公共 放送BBCが世界の女性人として選びまし た。国の内外でご活躍されています。続い て貨物手株式会社号倉当時ム田し様です。 拍手お送りください。え、M九田様は高校 生の時に伝統的な職人の世界に憧れ18歳 で貨物手に入社されました。2011年に は33歳の若さで当時に就任され全国新 環票会ではこれまでに通算7回を受賞され ています。伝統を受け継ぎながらも確新的 な酒作りに挑戦されています。え、続いて 独立行政法人種類総合研究所成分解析研究 部門長尾たし様です。 赤尾様は1997年から種類総合研究所の 研究員として上簿の分子遺伝学と応用 ゲノゲノげ 難しいですね、これ。応用ゲノゲノミクス 応用ゲノミクスを専門とされ、上造微生物 研究部門長を経て現在は成分解析研究部門 長を務めていらっしゃいます。広島大学院 の客員教授も権務されています。え、 そして株式会社佐プラント営業部坂間 一支園部長新山信明様です。 三山様は1986年に畑に入社され、上狭 事業の最構築に携わってこられました。佐 が開発した革新的な生技術、審議狭の開発 にも貢献され、日本の新たな可能性を追求 されています。え、そしてこの人なくては このイベントは勝ません。 コーディネーターは食を伝える編集者金子 様です。 様は雑誌料理の料理雑誌の編集者として 30年近くご活躍され、現在は日本の食と 酒伝統の伝え手として企画や執筆、 イベントのディレクターなどを手掛けて いらっしゃいます。あの、先ほどの石川 さんの講座は1時間用意されておりました 。ここは45 分ということでこの皆さんをこの 45 分でどう換期さんがまとめるのかというところも注目していただければと、もうあの 5 分押しは大丈夫ですよねという風に関係者に了承りました。是非皆さんこの楽しい時間を一緒に過ごしていただければという風に思います。それでは木さんよろしくお願いします。 はい、ありがとうございます。宮さんもうすでに 1 分が化しております。はい、頑張ります。よろしくお願いいたします。 まずはですね、ユネスコが世界から認め られあ、ごめんなさい。ユネスコで世界 から認定されたこの、え、伝統的な酒作り 、ま、それには倉本、当時のそして村倉人 の皆さん、そして女将さんや家族の皆さん が酒作りをここまで、え、支えて いらっしゃったその、え、玉物だと思い ます。本当に心よりお祝い申し上げます。 おめでとうございました。そしてここから パネルディスカッションでは、ま、先ほど 石川さんが今までのこの伝統的な酒作りの こう歴史だったりとかお話いただいたん ですけれども、ここからは、え、未来へ どう、え、紡いでいくのか、紡いでいくの かということを、え、皆さんでちょっと 話していきたいという風に思います。それ で、あの、今日登壇していただいている、 先ほど石川さんからもご説明ありました けれども、種類総合研究所、そして、え、 佐岳の、えっと、二山さんが今日お話し いただくんですけど、ま、プロの方も今日 たくさんいらっしゃるんですけれども、 あの、初めて、え、東にそういう国の、え 、研究機関があるということを知った方も いらっしゃると思いますので、まずは ちょっと話に行く前にお2人から、え、 説明の方いただきたいと思います。 先生お願いいたします。 はい、赤尾夫です。よろしくお願いします。えっと、私はですね、あの、種類総合研究省というところに勤務しております。え、研究所はですね、ここから南 [音楽] 3km ほど行ったサイエンスパークというところに位置しております。 え、石川さんの話でもありましたように ずっと東京にあったんですけども約30年 前、ちょうど30年前ですね、あの国の、 ま、期間が地方移転するということで、え 、いろんなとこから誘致していただいたん ですけれども、あの、広島県が最も熱烈に 、え、引いていただいたということで30 年前に広島に移転して現在至っております 。え、その後、ま、独立行政法人になっ たりしながら形は借りながら今、え、で 続いております。で、国の研究機関ですの で、え、ずっとその時々のミッションって いうのがありまして、今ですと、あの、え 、日本のお酒をですね、え、海外に向けて 、え、強制力をつけていこうというような こと、それからそのための技術基盤を しっかりしていこうと、え、あるいは、あ 、消費者の皆さんのために、え、お酒の 品質であるとか安全性であるとか、え、 そういうものを確保していこうと、ま、 そういうようなことがミッションとして ございまして、え、そのために、ま、研究 を 初めとして、え、あとはですね、あの、坂倉の人々の人材育成とか、あと皆さんよくご存知の、え、官表会とか、ま、いろんな業もやりながら、あ、目標達成に向けて活動をしております。 ありがとうございます。美さん、あの、主類層、あの、種類双権が東あるということで、 広島の坂倉にとってはこうどういうアドバンテージというか、どんないいことがあるんですか? そうですね。ま、まず第1 に、あの、ま、私たちの直接 1 番身近なのは、ま、県の食品工業事センターの先生、先生がいらっしゃると、そうですね、井先生、山崎先生、えっと、皆さんいらっしゃるとこなんですけど、ま、あの、えっと国のね、唯一の期間であるていうことになると、ま、いろんな例えば講演会であったり、え、人材育成のためのセミナーであったり、え、私なんかもそうですけど、 30 年前に東京にで、えっと、受けに行ったんですね、 3ヶ月のあの、講 修正っていうの、ま、そういうところが実は身近にあるということは地理的にはそのチャンスがものすごく近いとこにあるっていうことでもありますから、それはもう全然あの有利というか私たちにとっては非常に身近にあるというのは非常にありがたい。 ム倉田さん、その、えっと、新種官会でのあのその現場がすぐ近くにあるとそして広島の坂倉っていうのはなんかいいことあるんですか? はい。そうですね。あの、お酒出品する時 って日付ね、ここの日まで出してくださ いっていうのがあるんですけど、要するの 群馬県さんとかに聞くとですね、やはり 交通のまだ大和が持ってくよって言うと前 に何日前に出さないといけない。実はです ね、手で持ってその日の朝そのへ届ける ことができるんで、前日のね、夜中ぐらい まではどのにを出そうかって、 まだギリギリまで悩むんですか?そう 悩める。なるほど。 逆にね、他の会社さんはやっぱり 2 日ぐらい前には出して届けてるっていうのもあります。あとですね、やっぱり最上ね、街中でどうしてもね、夕方夜飲んだりするんですけど、その時にね、よく種類造の先生方に なるほど あったりして、そこでね、お酒の断義ができるっていうのがね、本当にこの最上にあ、あることの僕はよく 先生かと言って別にエコ引きはないですよね。 あの、我々の、え、お客様全国の坂倉楽倉さんですから、あの、ま、広島県の方はたまたま近いと、 たまたま近いのでアドバンテージがあるというだけですね。精神性の問題ということで平等にちゃんと選ばれてるということではい。ありがとうございます。続いて佐野の新山さん。 その本当に酒作りに、え、生マ機というのもなくてはならない、え、ですけれども、その中のトップメーカーである佐、え、その佐の方の説明の方をお願いいたします。 はい。えっと、そうですね、まず畑の説明なんですけど、ここ東広島最上に 129 年前にですね、え、会社が起こったわけなんです。 で、なぜま、起こったかと言うとですね、 え、先ほども石川さんの話にあったように 、ま、山の中で鉄道が発達して人が増えた ものですから、いろんな坂倉ができるよう になったんですね。だけど川がないので 水車を回せないので生マが全部足踏み式 だったんですね。え、ちょっと他の部屋で 今うちの人間があの展示もしてますけど、 大変狭に苦労していたという時に、え、 貨物手तं様から、え、佐の仙台にですね 、創業者に動力式の狭機を作ってくれない かという要望があって、え、色々努力して 開発したのが129年前我々の会社の 起こりです。日本で初めて動力式狭を開発 したのが我々の畑の始まりということに なります。今はですね、え、世界の 3 大穀物である麦、米、トウモロコシの、え、加工機会を販売して、ま、会社の規模としてはグループで社員が 3000名、売上が700億程度、世界 150 カ国に輸出をしてるというような状況です。 その中でその生期をあの、え、酒作りに関わるマ機っていうのは大きな授業の中の本当にこう 1つ1部分ということです。 今やもうそれは1%にも満たないですね。 1%にも満たない。さっきもこれもね、 石川さんがおっしゃったように資料が、ま 、3倍、4倍、5倍あったわけですから、 ものすごく、ま、あの、売上利益には貢献 してましたが、え、これからそこまでの 復活することはないと思ってますので、え 、難しい。ただ129年前の創業事業です から、私が担当になった時、もうこの事業 やめましょうって言ったんですよね。もう 昔みたいに儲かることないですと。 え、機械のメンテナンスだけしていきましょうと言いましたら、え、創業事件のやめないというもんですから 30 年ぶりに新たな生売を開発したと、こういう経緯があります。 そういった情熱の話もあと後々しっかりあのお聞きしたいと思います。そして美さん先ほどあの石川さんがまた石川さんの三浦座ブ郎の見たあの見え方ってことをご説明されました。 えっと、秋はもう本当に三浦郎の生まれたところで本当に副長の、え、倉のすぐ上に 家が そうですね。というか街中にですね、三浦仙ブ郎って名前のついたものが結構あの、見受けられるんですよ。 あの、宇神様に行くと、えっと、ま、 もちろん、えっと、秋坂山八番神社には 三浦先生の銅像がありますけども、ま、 その本殿ができた時に三浦先生からこのお 庭がね、寂しいからなんかじゃあ飾りの ものって言ってプレゼントされたあの、 お家の形の石があったりとか、あと小学校 に、えっと、いくら日小学校にいくら寄付 しましたっていうとこに三浦千郎って名前 があったりとか、色々街中であの、名前を 見ることがあるんで、そのぐらいなんか こう割と身近に感じる。 にとって今なお身近なあのそ 1 人の上像が短って感じですね。ヒーローって感じですね。 え、みほさんはどんな風に三浦座ブ郎の鉱石について考えていらっしゃいますか? 私はですね、えっと30 年前に戻ってきた時に、ま、古い、古いというか、今レジェンドで皆さんも引退されましたけど、ま、 3 つのいろんな古い当さんたちにお会いした時にですね、あの、作り仲間っていう言葉をね、あの、作り仲間という言葉をですね、その中の 1人の、 あの、当時さんから教えていただいて、要するにの会社同士はこれだけ、ま、最上と とか、ま、全国に広島当時って散らばって ましたから、特に四国なんかすごく多かっ たんですけど、あの会社同士は結構 ライバルなんだけれども、あのこうやって あ津に帰ってきて密でね、三谷気にでこう あの地域で話をしてる。このこれは我々は 作ってるもの同士の仲間なんだから会社は ライバルでも我々は作り仲間だから困った 時には助き合うもなんだよっていうなんか ベースの上に乗っかってもういろんなこと が進んでたんですよ。うん あ、これはなんかミュラーセンザブ郎先生からなんかこう大々受け継いで脈ク脈クと受け継がれているものがこう生きてるからこういうあのそういう言葉がまず出てくるっていう風なことがあるんだろうなとなんかあのこう生きてる生々ましい結構感じで思いました。 [音楽] なるほど。で、続いて、あの、ム田さんは 18 歳で酒づりの貨物に入られて、で、その時はそれこそ美さんが今おっしゃってるのはレジェンドの当さんたちがたくさんいらっしゃったと思うんですけど、 え、僕18 で会社入った時に、ま、会社のなんか 3クラ倉2号倉、8 号倉、味噌ぐっていう倉があったんですけど、そのうちの 2クはやっぱり秋津木当時であって、 1人は、ま、西城の当時で みさん、木っていう地区が 地区ですね、 そこの町から出たさん が多かったと。いや、ま、色々あるんですよ。中にもあのに悲しいのとマイクを持って すいません。悲しの方とか織田の方とか色々とま、でも 地域が色々あるんですけど、ま、多い地区で北地区っていうのもすごく多い 場所でしたね。 うん。 そうですね。その中でね、 その中でですね、あの木田の本当時に [音楽] 18の時にまず十字して、 もう名当時で直せてらっしゃる方ですね。 そうです。1番お世話になったかなって いうぐらいの当事さんになります。ただ ですね、もう18で入ってそん時に田本の 60歳ぐらいちょうどちゃんを着せた記憶 があるんでそれぐらいのお年だったんで直 にどんどん仕事を教わるってわけではない んですけどやっぱりあの15人が半年間1 つ新職しながら15 人が1つの倉に15 人ずついたってことですね。 そうですね。1つの倉に で当さんがその当時はえっと ま、総当時で中本当時っていうのがま、おられたんですけど基本的に稼働してたのは 3つの倉で3人の当時が で15 人ずつもう集団しかも集団生活をされて あとですね当さんもいましたね実はあの貨物自社をうん 坂ま会社で行ってるんですけどその当時はですね当さんも 当治さんって呼ぶです。 産さんです。同格ですね。 お酒作りする当さんと同格で狭さんっていうのも実はおられて小原の方から来てたかな。 そっから来てマをずっと毎日それこそク人さんもそっから一緒に来てマをして帰ってくっていう 何かこうかけられた言葉とか怒られたこととかそういう いや本当時はとても優しかったんで怒られるってことはないんですけども 1 番最初に多分言われたのはですねあの周りのみんなをよく見ながら観察しながら仕事しなさいっていうのをやはり言われましたね。とにかくまう教えてくってわけじゃなくて、ま、昔ながらなんでしょうね。 [音楽] やっぱりこう見て書学んできなさいっていうのを 1番最初に言われたと思います。 さっきちょっと休憩時間にあのパッと出た話でなんとその時に新山さんのお父さんもいらっしゃ そうなんですね。 あの実はですね、あの新山部長と朝からなる縁がありまして、僕 [音楽] 18で入った時、あの部屋半年間 2 人部屋なんですけど、まさか新山部長のお父さんと同じ部屋で実は倉人で貨物連れ。 え、新山さん、その、えっと、お父さんはどういった経で倉に入られたんですか? あの、ま、自営業を畳たんですね、あの、プラプラしてたら一緒にその、あ、津の親さんに誘われて、あの、田舎から何人か比人が行って、それに誘われてですね。 60から70 過ぎまでお世たと思うなんかセカンドキャリアみたいなことですね。 まあそうですね。あの、ま、そん時にね、私もあの奥田さんとまで知りませんでしたけど、同じ部屋でなんか随分いびきがうるさくてですね、あの、疲れて眠たいのにあの倉田さん廊下で寝てたって。 そうですね。朝4 時半ことだったので、ちょっといびきに足りないと、ま、廊下で寝るってこと。 でも18歳と60代が一緒の部屋で 1人部屋で そうですね。あの頃はやはり 2人部屋3 人部屋っていうのでネ泊まりしながら半年間仕事をしてたのでそうですね。その時はま、その部屋も基本はまおさんがこう決めて その当時っていうのはなんか通いでも行きそうですけど新山さんやっぱり泊まり込みで冬の間 それもあの泊まり込んでですね早くからずっとこう仕事がありますんであのそういった体制で皆さんクラブとやられてましたよね。 で、当事さんの仕事でやっぱりそうですよ ね、今だったら会社の人がこう集めて くれるっていうのがあるんですけど、その 当時はやっぱり当事さんがですね、その くらいで働く人たちをやはり集めて くるっていうことを行われていたので、逆 に僕15人で働いてて、1番多分最後 ぐらいじゃないかなと思って、で、僕は、 ま、社員として入って会社がこの子使って ください の頃なっていう お母様も関係があったとあ あ、うちの服さった話です。ついさっそこで聞じゃないんですけど、あの飯を作りに何年かあのお世話になった感じがありますね。え、 本当にそういう話を聞くとやっぱり坂倉の町だなと。ところでこう酒作りに携わる人たちがこう、え、繋がっているっていうのはさ、本当にさっき聞いた話なんですけどすごく思いました。で、あの、すいません。あ、先生、ちょっとお待たせしました。 先ほどあの石川さんがこうえっと三浦 千ブロのえみなんて言うのか酒作りのお話 をされてましたけどやっぱりすごくこう あの伝統的な酒作りがこう脈々と続いて いるという風を持っていたんですけれども さっきの石川さんの話をずっと聞いてると やっぱり三浦先プロってある意味 スタートアップの企業家というか えノベーションを酒づりにおいて明治に 起こしたあの人じゃないかなという風に 思いました。 その研究者の立場からその三浦仙ブ郎のその道っていうものに対して先生はどういう風に見ていらっしゃいますでしょうか?うん、なかなか難しいんですけれども、ま、あの、三浦さんはですね、え、奈でうまくいくのに、え、同じように広島でやってもうまくいかないというところで、そこから苦労されてですね、新しい方向性を開いたということで、これはまさに、ま、イノベイティブと言っていのじゃないかと、え、思います。 だイノベーションっていうとすごく言葉と しては派手というかですね、印象として 業々しいんですけれども、多分彼はそんな 特別なことをしたんじゃないという風に私 は、え、想像しています。え、失敗をする 。としてその、え、出てきた結果っていう ものを、え、巨心段階に、え、見て、え、 受け止めて、え、次にやることを考えて、 え、また思考してという繰り返しをし ながら、え、やって、え、成功に到達した んだと思いますし、やっぱりその、その 過程でですね、出てきた結果というものを その見て考えてというのが多分自分の中に 経験として蓄積してで、それがですね、 積み 重なって、え、ある時ですね、あの、何かちょっと、え、ヒントみたいなものを掴んで、え、成功したんじゃないかという風に考えてます。まさにそういう意味で言えばですね、あの、百旋開という言葉通りであるんじゃないかなと思います。 [音楽] ありがとうございます。あの、新山さん、 ま、ミラセ座もそうなんですけど、その 時代作ったその佐リーチさん、その動力 生機を初めて作ったというそのやっぱり 明治の激道の時代にそのゼロから作っ たっていうその時にこう突きかされたさん のこう、え、心持ちっていうのはどんな風 に思われますか?そうですね、あの、頼ま れてから、ま、すぐにアイデアが思いつい てきたわけじゃないんですね。あの、鉄道 技、山陽本線の鉄道技をしながらですね、 何年もかけてこう頭に描いて繰り返し失敗 しながらですね、あの、随分苦労したよう ですね、現に1号機ができた後もすぐその 翌年2日、あ、2年後かな、え、もっと いいものができたので、全部は販売してお 金をいただいてるお客様にですね、無償で 入れ替えたりとか、え、とにかくもうあの 大変な苦労があったというのも今までない 機会をあの必要だからって ことで作ったわけなので大変な努力をした。ま、その精神が 129年後も我々、え、メーカーの社員 1人1 人にですね、え、伝わってるんじゃないかなという気はしますけれども。 さっきもお話に出ましたけれど、その大きな水、水マっていうのが、え、大きな川がなくて、え、西場では作れなかった。だからそこをどうにかあの困難を乗り越えてできないかっていう元々はそういう話だったわけですよね。 そうなんですね。 あの、元々この西場のこの山の上でですね、あの、水も良くないし、その川もない、生馬もできないってことで、ま、お酒なんかあの、作る場所ではなかった。非常にあの、良くない地だったのを、ま、逆手にとってということなんでしょうか。 うん。 美ほさん、そこがやっぱり三浦座ブ郎さんがこうそういった、ま、ちょっと今日本酒をね、作るところに適していなかった場所でそこでこう作るとこれこれだけ坂倉の町として今なおこうあるっていうのはやっぱりそこの最初のイノベイティブをした時っていうのがすごくやっぱり大きかったわけですよね。 そうですね。あの、考え方としてやっぱり その村先生が自分の技術を自分の会社で 利用するためだけに使うんではなくって、 あの、えっと、みんなにあの、その ノウハウを本を書いたりとか、あと セミナーを開いたり、当時組合いという 組織を作ったり、え、みんなでこう共有 しようとするね。で、あの、に、あ、より も、えっと、いい酒を早くみんなで作れる ようになろうじゃないかっていう考え方と いうのが多分1番その、え、今も三浦座と こうして皆さんにあの語られるあの確信に あるんかなと思いますね。だから技術だけ そういう精神性というか情報 ですよね。自分で酒作りがしたくって、 その酒の株を買って、で、お、おそらく 私のすごくやっぱり酒作りが好きだったん じゃないかな。も、そうじゃないと、あの 、えっと、あそこまでのめり込んで一度 町長に祭り上げられますよね。でも半年 ぐらいで確かやめちゃうんだですよ。で、 おそらく気持ちはその心はって言うと こんなこと政治なんかやってると酒作り する時間がないっていうことだ。だから もっと俺はしたいことがあるっていう私は そういうことだ。 だったんじゃないかなと。 うん。 うん。そのぐらいなんか酒作りに飲み込んで情熱を注いた、え、ところのその情熱とあと考え方の確信的なその要素というのがやっぱりものすごくあの大きなものを動かすきっかけになったんだと思います。 ありがとうございます。ム田さんはその何 度も何度もその百子旋開という言葉が 100回あ、えっと百旋回という言葉が ありますけれどもえっと何回も何回も失敗 してもまたな台もう何度も何度も繰り返し て追求探求したとでそういったまま時代が 変わム田 さんの酒作づりの姿勢も変わらないと思う んですが やっぱりね言葉はやっぱり百旋回っていう のは何回も何回も聞いてきたんですけど やっぱり坂倉で働いててですねやっぱり そのま昔から働いてる時にやっぱり仙台の 鳥さんもそうですけど、ま、今年こうだっ たら次こう変えてこう逆にクの中もそう ですね、今ちょうどこの季節って言ったら 酒作り始まる前なんですけど、ま、クラを 改造したりとかここをこうしてったら次 良くなるんじゃないかっていうことを、ま 、やる時期でもありますんで、それを やっぱりやってきてたので、まあ、これも 1つの百戦会だよね言葉にあれになるのか なっていう当司さんから学んだことで やっぱり失敗したことが、え、すごく 当時になっても13 年ちょっと経つんですけど、やっぱりあの当司さんのすごいとこって必ずお酒作りって失敗します。みんなこう多分いろんな鳥さん聞いても必ずその半年間の間でこう失敗は見てきます。それをですねこうどうやったら本線に戻すかっていうのがね、 本筋、 本筋ですね。 本筋に戻して作りがえっとこうまっすぐ行こうとしてるのにこっち側にどうしても止められないと行ってしまう。そういう時に はい。そうですね。そういうとこをこう 戻してく時のこのアプローチの仕方って いうのをやっぱ失敗しないと学べないこと ですよね。それをやっぱりね、こう見てる と党さんやっぱすごいなっていうのはあり ます。ま、なかなかあの今こで事例を言え て言ったらも結構言ったら事例も多いんで なんかずらっといらっしゃるから はいろんなさんもちょっと聞いてられるんであれですけどやっぱいっぱいありますね。 ありがござうん。ありがとうございます。 ま、ここからですね、その三浦千郎の時代 からもうそれは明治時代の話ですけれども 、そして今、え、最先端の日本手作りと いうのがどうなってるかというところのお 話に続きたいと思います。 まずあの新山さん、今リーさんが発明したその同力生機からはどうなってるんでしょうか? そうですね、あのちょっとおさいになるんですけどあの約 100年前に高こ城がですね、え、日本 3大名城地、広島県が3 大名地という風に言われるようになったのは、え、仙ブ郎さんの銀場手種作りと家の同力式マ機で、え、今の銀種マ部合が 60% 銀乗というものが100年前に起こった からこそそういう風に言われたわけなん ですけど、そっからちょうど100年経っ てですね、さっきの話で久しぶりに上造狭 機を開発したわけなんです。え、そうした ところですね、え、30年前に理論だけは ありましたが、我々生機の能力がついて いかなかった新しい形状のというものが 誕生したんです。ま、単純に言うと、え、 現を小さく磨、小さく磨くの皆さんご存知 ですかね?元々日本手作りのお米って 小さく磨くのは、え、お米の表面にある タンパ質を少なくしてお酒にした時に アミノサ度の低いお酒にするためなんです ね。だけど現マってラブギーボールを ちょっと潰したような長細い形してるの ですけど生マにかけると丸くなっちゃうん ですね。え、そうすると現場の表面にある タンパク質は、え、あんまり取れなくて 有効な伝が少なくなっちゃう。それを現の 形と同じように小さくできればお米を無駄 にしない。そういう生が 6年半前にやっとできるようになって、 新しいお酒ができるようになったんじゃ ないかというのを名付けて新 これですかね。はい。で、それを1 番に目に止めてくれて使ってくれたのが三浦仙郎さんの系統である今田さんとこれ 100 年ぶりにすごいイノベーションが復活したっていう風に思いませんか? ちょっとびっくりしますよね。ええ、居い眠りこいてたって新山さん眠りこいてたのはお酒が売れなくなったから狭い機が売れなくなったからなんですよね。 で、私がやめようと言ったらやめないって言うんで、じゃあ作りましょうよって。 やっぱりこうスピリッツっていうか畑のこうそスピリッツっていうとこがあの日本の狭機にあるっていうことです。 そうですね。あの、我々会社が、ま、ここ まで、え、起こって大きくなったのは全て 日本のおかげなわけですから、そういった 精神というのはありますし、ま、これ あまり言っちゃいけないんですけど、我々 今もうね、あの種類以上機械作品 である、ま、日本で思考品はこの上機だけ ですよ。思考ですもんね。毎日食べるご飯 のそう坂倉の皆さんと当時さんとね、 いい酒になったね。 を組んで一緒に美味しい酒飲めるというのはこの上沿像生ま機だけであって生マ機から主食のいいねお米が出てきてあ良かったねなんてことにならないのでうん はい なるほどそしてみほさんがあの今美さんが初めてそのこうさけさんが作った新しい狭息で新しい酒を作ろうって私ねちょっと覚えてるんですけどみおさんからちょっと相談があるんでって東京いらっしゃって中メ黒のカフェでもうスキップするように さんがいらっしゃって、新しい新しいね、あのお酒を作ろうと思うんだけど、ラベルどうしようかしらみたいな。もうその時やっぱりこう新しい技術に対してみおさんがめちゃくちゃ解めでキラキラしてたっていうのを今でも忘れません。そんな感じでしたですかね。 それは私がですね、アミノさんが多くて苦労してたからですね。 アミ野さんが アミノさん、アミノさんがお酒の中にアミノさんってあるんですよ。 あの、旨味だから当然あるんですけど、 あの、ある程度はいいんですけど、あの、 それ一線を超えるとですね、口くって、 あの、べたついて飲めなくなる非常に バランスが難しいんですけど、私はそのお 酒、自分のお酒から、アミノさんをもう 本当に減らしたいと何年も苦労してで、え 、新二山部長さん のその佐の真金使うといや、アミ野さんは 簡単に減りますよっていう話だったので、 簡単に 減ります。 あ、ミさんは変ればっていうそうの形状をさえ変えれば減るんですよって言われて何ですかって思って そう衝撃的だったのを覚えてますもやってみたいと はい でそれができたのが変で今日はあの新コーナーでご紹介大学生広大の方がご紹介してるお酒でありますので是非立ち寄ってみてください。 そしてここから先生、あの、先生の種類 双件の先生の専門のご研究の方にも話を 移していきたいと思うんですけれども、 先生のご専門は先ほど宮明さんが おっしゃってたその文子遺伝学用 ゲノミクスで長の長年の研究で後募の ゲノム解析を解明されたというのが、もう 日本種の、え、歴史の中でも大変画期的な 研究であったと私 も、えっと、聞いているんですけれども、まず先生、その話難しい話に入る前に日本種における交募の役割っていうのはちょっとこう勉強に来ていらっしゃる方もいるので簡単に説明していただけますか? はい。ま、それはもうもちろんアルコール作ることなんですよ。まず第一にだけどそれだけじゃないから工房がいるわけなんですけれども、やっぱり香りとかですね、味の成分とかを工房はま、ほとんど作るわけなんですよ。 で、またそれ交部によってそのバランスとか違うので人も個性が出てくるということで、え、作りにおける大きなファクターになってます。 はい、ありがとうございます。その中で、ま、ちょっと補足して説明すると、工房っていうのは 1号から番号がついていて 1号から2345、 そしてあの、今、今もなお一般的に作られてるのが 6号から先生 6 号からが実際には多く使われてます。 あ、えっと、秋田の荒マの6号から取った 、えっと、工房ということですよね、先生 。うん。はい。で、もう1番最先端で言う と1901ってもう1桁から今度3桁まで それぐらい開発っていうのはずっと長い 歴史の中で続いていて、え、その1、 えっと6号、7号のその今使われてる の芸ノムを、あのDNAを調べて解析され たという研究と聞いてるんですが、 それ一体全体何のために何のための研究な んですかね?先生、まず最初の目目的とし てはですね、ま、あの、遺伝的な背景を 調べることで、え、いろんな公募の特徴 っていうものを、ま、あの、え、裏付ける ということと、あとは未来の酒作りを 考える上での、ま、基盤になる情報になる だろうなということで、え、やりました。 ただ、ま、あの、実際に分かってみると、 ま、大きな成果として、ま、そういうこと もあるんですけれども、やっぱり面白かっ たのはですね、公募のいろんな公募のです ね、遺伝的な系統、ま、つまり血筋ですね 、これがま、すごく明らかになったという ことで、今出てきた6号とか、あ、それ 以降の7号とか9号とか10号とか、ま、 ほぼそれ以降は全てそうなんですけれども 、実はもう全くの、ま、ファミリーと言い ますか、親戚というかすごく地筋としては 近いところのもの 他の工房とは、ま、全然違うということが分かりましたね。 その飲み手からすると 6 号は秋田の荒さ、あの寒い冬のあのあの中でできた美味しいお酒から採取したもの。 え、7号はマ山の中のそういうから、え、 取ったいい工房っていう風になんかこう 地域とつがってイメージしていたので、 なんかちょっとそういうそれを聞くと なんかロマンとエビデンスがちょっと合う 感じがするんですけども、そのゲノムが そのエビデンスが分かったことで、えっと 作りにおいては、えっと 決定的にどういうことが影響していくん でしょうか?ま、やっぱりその選ぶ時です ね、じゃあ その教会部の系統化それ以外のかっていうのがまず 1 番あの大きなところですね。教会系を使うのかそれ以外を使うのかでやっぱりお酒全然違います。え、 でそれがもう今もう無天下の交房だったり倉交募だったり交房も色々と今皆さん模索している時代ですよね。 そうですね。やっぱりあのなんというか 工房を変えればお酒は変わるという、ま、 そういう風潮と言いますか、皆さんそう いう風に思ってらっしゃるので、いろんな 工房をあの使うと、ま、古い工房を 起こ使うとか、あるいは昔ながらに工房 無転下で仕込むとかですね。あとはあの 自然界から新しい工房取ってこようとか、 ま、いろんなことがなされてますね。で、 それが、え、解明されることでそれにあっ たがまた新たなさを生むということですか ね、先生。まだそこまでの段階には言って ないんですけども、やっぱりその今までの 静粛と違うものを持ってきて使うというと やっぱり向き不きもありますし、あのこう 今までの交募では出なかったオフ フレーバーとか出てきたりするのでそれの あの交募にあった作りであるとかあるいは その新しい手術の提案だとかま次のことを 考えていかないとこういう新しいこの トレンドみたいなのはですね、ま、しぼん でっちゃうんじゃないかなというの気をし てます。 あの、ま、そういうなんか昔のブラックホールにまた戻すための研究ではなくて先に進むための研究ということですよね。 そうですね。あの、昔ながらの、ま、議に戻したとしてもですね、ま、我々 100 年分の地見が、ま、背景としても蓄積してますので、昔見ていた作り、見えていた作りとですね、今、え、例えばそういう古い作りに戻しても見えて見え方がですね、全然違うと思う。 ビデンスがあることで景色が変わってくる。 そうです。そうですね。 分かりました。そしてム田さん、今 6 号からって言いましたけど、その前の工房 5午5号、5号は貨物から はい。え、 ま、それが名常地である遊園というか、それがね、歴史的な背景ですよね。 そうですね。教会の3号、4号、5 号っていうのがやはり今広島って言われて、 3号が水さんですね。で、 4 号は、ま、広島って言われてるんですけど、まだちょっとどこかっていうのがまだ分からない。 で、教会5号がカム実は発症の公防になる んですけど、これは、ま、先ほど先生も 言われたようにですね、65から上は、ま 、それこそ兄弟親戚ぐらいなんですけど、 5から下っていうのは全く違うものでして 、これですね、実はあの、2018年です かね、貨物100周年迎える時にですね、 実はあの、この教会5号工房を復活さ せようということで動いておりまして、実 はお酒を作るのにその3年ぐらい前から ですかね、ずっとちょっとずつお酒作り だから実はやって、 え、もうそれは既でに商品化されて商品化して出し 広島西という銘柄ですね。 はい。広島西という銘柄で出してます。 ただこのね、せっかくなんで教会午後攻防 に合わせて昭和の初期にあった広島西って いうお米もですね、ついでに一緒に復活さ せてこれに合わせて是非作ろうかなと思っ て、その広島西っていうお米がですね、 それこそ昭和の初期にあの広島県の水晶前 に実はね選ばれてたらしくて発端お町 芸日式広島ま聞いたことあるのは発端と お町ゲ備式はねあまりそこまで聞いたこと がないと思うんですけど実はそん中の1つ だったんですけど実はね、途えてしまった んで、その、ま、やっぱえたっていうのも 背丈が170cmになったりで、ま、発端 層も古いんですけど、ま、広島も多方古く てやっぱり熟して実ってきたらですね、 頬がね、思想残すために落ちるんですよね 。もみ柄がポタポタポタポタ落ちるんで、 ちょっと早上がりして買ってあげていか ないといけないんで、結構育てづらいと いうことでですね。 その、ま、言ってみれば途しまっていた午ゴを復活させて、 そうですね。 それ残ってたところからこう取り出して、 え、お米のそのもみ柄を取ってある房、 5号はですね、はい。 3つぐらいのとこから取り寄せて 1番いいのっていうので 取り寄せて先生その途えた理由って何でしょうか? 5号6号から今こう残っていて、 ま、それはいろんな理由があるんですけれども性質が変わったとか多分 1番大きいのはですね6 号の人気がすごく出たっていうことあるんじゃないでしょうか。はい。 その時代それでみんな6 号にわっと行って午がだんだん使え使われなくなって途えていた。その途えたその 5 号募で作ったお酒は最初どうだったんですか? そうですね。まあ、最初に、ま、教会5号 工房って言った時に、ま、貨物であるのは してたんですけど、なんで使わないんだろ うっていうのは実は思ってたんですよね。 で、実はですね、あの、貨物、あの、日本 手技術研究連盟っていう実はね、大きな ちょっと名前が大きな体操な会なんです けど、全国であの北からですね、秋田の方 の会社から西大、あ、南大分の方まで会社 がですね、来て、みんなでちょっと勉強会 をですね、春4月に毎年1回実は副長さん も入られてるんですけど、60回をライ 迎えるんですけど、そこでですね、ま、実 はね、荒正さんもその会に実は入ってまし て、で、美さんもいるんですよ、 657、あ、5号、6号、7 号もいて、実はね、話してた時に、え、なんで貨物協会 5 号発症なのにそんな商品ないのっていうの話をね、実はした、したことも実は それで100 周年で作ることになって、これはちょっとやるぞっていう感じだったですね。 やってみたいなっていうのはありましたね。 で、それ最初どんな感じだったんです?この言ってみれば、あ、やっぱりこれ古いな。古いて、 ちょっと昔のそうですね、文献とかを見してもらった時、泡は粘りやすい、発酵力弱い。 香りはそんなにあのか、あのフローラルな香りっていうわけではなく、派手ではなくって書いてあてうん。ま、食中向き、ぬる感向きかなって思いながらも最初ちょっとしてみてですね、絞った時にはですね、でもグレープフルーツ用な香りのグレーフルーツの皮の身ではなくですね、ちょっとこう苦みを伴ったような香りだったんですけど、逆にね、熟成してくると今度用の香りにどんどん変わってくる。 [音楽] だから常温化ぬる感で飲んでもらいたいお酒だなっていうのに今進化してますね。 先生もやっぱりその発行をどう発行に関わってくるってことですね。工房のがどういう性質を持っているかっていうのは はい。えっと、ま、後房悪いって言うんですけど、あの、私は必しもそうは思わないんですよ。 で、ま、言ってみればですね、あの、他の工房と比べて、え、教会 65以降の候募がですね、そっちの方がちょっとおかしいんですよ。 変わってるっていうかですね。 ま、あの、それは、ま、あの、いい意味でなんですけれども、ま、発酵力はいいし、低音でもしっかり切れるし、え、あとは、えっと、エステルをたくさん作る香りがいいんですね。 あとはあの3を少ないということで割と こう綺麗で香り高いお酒をま作りやすいと いうか他のお酒ではなかなかできないよう なできたということでま、人気が出て今で はもうやっぱり大と圧倒的な主流ですよね 。今バリエーション出てきますけど主流 なのはそういうところだと思います。 分かりました。ありがとうございました。 もうあっという間にちょっと時間が ジェットコースターのように過ぎていった んですけど、最後にですね、ちょっと先生 にもう1回戻すんですけども、ま、今こう ずっと石川さんの話からこう時代を追って 、ま、いずれにしても困難を乗り越える ために皆さんが切磋琢磨してこういい質、 新しいお酒をこう作っていった。 これから先未来へ酒作りっていうのは先生はどんな風に進むっていう風に思っていらっしゃいますか? えっとですね、ま、伝統的酒作りっていう、ま、枠もありますし、その枠の中で考えるのであればもうあまり脱したことはできませんし、ま、例えば最先端の作りと言ってもですね、え、作りの技術自体は、ま、かなり完成していて、え、もう成熟機にあるとそこからにその中で制約の中で対 化していくかというところだと思いますし 、あとはもういかに、え、作りを制御して いくか、いかに現場 の状況判断を的確に、え、できるように するかというところが、ま、えっと、ま、 そういう面では我々のあの、え、仕事の番 かなという風には思っています。先生の お話の中でもうほぼ作りは長い歴史の中で 今もう技術的に今というか、ま、特に 技術的に完成されてる はい。 じゃあその先にじゃあない、ないのかなと思うのですが、そうではなくやっぱりその先が今えっといろんな研究によって進んでるってことですよね。 もちろんそうです。あの現象の解明もやっぱりもう未だに新しいことがどんどん分かっています。あの作りの技術とは別いんですよね。そうするとそういう新しい技術をですね、これを頭に仕込んだ上でまた現場を見ると違う景色が見えてくるとそうするとまた次の問題が見えてくるとあるあるいは新しい制御ができてくるとそういうことだと思います。 ありがとうございます。 福田さん、もうこの酒作りにおいてはこうずっと何かこう変わらないものがあるんだろうなってあの無田さんの酒作りの話聞いてると思うんですけども、 あの、ま、先ほど先生も言われたようにその技術的なものっていうのは多分もう確率っていうのは多分されてるって思うんで実はね、僕さん側のおじいちゃんが実は倉人でしてそれがですね、僕が [音楽] 256の時にもう80 ぐらいだったんですけど実はね会話が成り立つんですよね。 お酒作りの いくつといくつぐ25ぐらいと80 ぐらいです。80 その人がね、普通にお酒作りの会話をしてると会話が成り立ってしまうっていうぐらい多分もう工事作りもそうだし、ま、お米生むだったら出たんでどこの工程でこうだったこうだったったらおじいちゃん通じるんですよね。 [音楽] それぐらい別にお酒作りの工程で何か斬新 なことがっていうことではもうなかなか どんどん出てくるってことはないんです けど、今からはですね、今度多分お酒絞っ てからですね、絞ってから消費者に届く までの多分技術確信じゃないですけど、 いかにフレッシュでそれこそお酒絞った後 空気にあまり触れないようにとかって どんどんどんどん瓶に詰めて早く詰めて ヒールをしてあげるとかフレッシュな状態 をいかにお客様に届けるかっていうとこ の方がね、どんどん動いてるんじゃないかなっていうこれから ありがとうございます。みほさん、あの、畑の生、生技術っていうのが上技術と同じぐらい大事だっていうことをつもおっしゃっていて はい。はい。 で、もうそしてそれがこう今このねさ、あの、お米が大変な時代に はい。 え、お金お米が足りない高くなってきているという時代にやっぱり狭技術っていうのがまだまだ先に行きそうですよね。 そうですね。 あの、この時期にですね、今年も本当に皆さんちょっと先に知っといていただきたいの食べるお米がものすごくじゃないですか。日本酒の原材料の米も大変なことになってるんですよ。本当に大変で私戦後以来の危機じゃないかと日本酒の危機になってるんじゃないかと思うぐらいもう全国でろんな坂倉の方たちが声を上げていらっしゃる。 そうやどうしようか。 買う、買う原材料がもう 1.5倍以上2 倍近くになってるものもありますし、 じゃあ私たち飲み手が2倍のお金、あの 1500円のお酒3000 円で買うかっていうことですよね。 あの、買っていただけるようにしなきゃいけないわけじゃないですか、我々は。 そうすると何をしなきゃいけないか。もうまいものに霧りがなく、ちょっとでもうまいものをもうでもこの欲望は霧りがなくって皆さんちょっとでも美味し物が飲んでみたいし、新しい味が飲んでみたいし、ちょっとでも先に行きたいっていうね。 だからそれは技術的なこともですけど、 もっともっと先へ、もっと先へっていう この 美味しい、もっと違う味のものが飲んで みたい、もっと違うことが新しいことがし たいというこの欲望がどんどんその人間を 動かしていくというか、私たちの情熱のも で、佐さんがね、作った機会この時代にお 米を無駄にしない。ためにここに今この 技術があって良かったねって、あの60% 狭で40ぐらい、40%の代金ぐらい タンパク質削れるんですよ。そうすると すごくお米も有効に使えるしで、それが佐 さんがこの機械をえっと作ってくださった もう6年ぐらい前ですよね。で、それから 毎年毎年すごくいろんなブラッシュアップ を続けてて、今も発展途上の技術と言って も毎年じゃあハをもう少し残しますかとか 、えっと、もうちょっとどうですかって いうこうあのフィードバックをずっとし ながらずっとなんか佐さんとここ56年 あの話をしながらあのお酒の話をずっとし てるっていう状況が続いててそれが私は なんかこの米が高頭のこのあの令和の米 騒動に間に合ってよかっ た本当に間に合ってよかったなと思って。 それは二山さんあれですか?30年前 100年続いあのずっと続いて 30年前に研究が始まってそして 6 年前に機会ができてそこから今やもう全国 100くらいの全国のオクラさんが使って そうですね。 あの、やっぱり我られはあのメーカーなんですけど、あの、残念ながら像免許持ってないもんですから、今田さんみたいに使っていただいてですね、ま、新銀マ上増像法って言うんでしょうか?そういったものを確立すべく今、え、みんなで力を合わせて、あの、審議度会というのも立ちし上げてやってます。 今この舞い問題、お米問題を見据えてもしかしたら 30 年前にそんなことはなかったんですけど蓋を開けてみると、ま、偶然この技術があの出てきて、え、今田さん言ってくださったようにタンパ比率で言うと今までの米 1/3 使わなくても同じ量の酒がせるわけですから、とてもジ図ですよね。 あの、綺麗ですから荒れ水も排水も少なく できますし、え、そして何よりどう言うん ですかね、あの新しい、ま、同じ正前部合 でも丸とヘったいお米とでは、え、お米1 つ部の成分が違うので新しい味や香りが出 てきている。今までなかった手術なんです ね。そういう意味で、ま、未来のことで 言えばですね、武田さんが、え、昔の貨物 の55公募を復活させて使って古い広島 使ってるんですけど、ちょっと発行が弱く て、ま、昔ながらの濃い味になるとすれば 、え、お米をヘらべったくして、え、今期 ですね、すごいお酒になるんじゃないの やっていうのは、そうですね、やっぱり あの先にね、やっぱ 貨物るとやっぱ佐さんのこうね、付き合いの長さをこう言ってたのに今さんに先起こされてしまったっていうのもありみましょう。こからみんなで行きましょう。 [笑い] はい。 していかないといけないですね。はい。 ありがとうございます。 はい。 あっという間にパネルディスカッションのお時間があのもうあっという間に終わりました。皆さんありがとうございました。 あの、やはりこうユネスコで、え、日本酒 じゃなくて伝統的な酒作りが無型文化遺産 として登録された。これはやっぱりこれ からいろんな困難がまだまだ続くんです けど、飲み手の私たちが、え、そのことを 、え、気づいてそして、あの、大事に思っ て、作り手の方たちだけじゃなくて、 やっぱり飲み手も一緒にこの文化を守って いくという、そういう気運を高める本当に いいきっかけになったと思います。あの、 もちろん作りの方がこう、いろんな困難を 今日のお話の中でいろんな困難を時代時代 に乗り越えて、今はこの逆問題もまた皆 さんで乗り越えていって、いいお酒がこれ からできると思いますので、是非その今日 飲む今晩飲む1杯のその中にそれがそう いう皆さんの作り手の思いが詰まってると 思って、多分今日めちゃくちゃ美味しいと 思います。今日帰ったら是非今日は日本酒 で乾杯ということで、え、いいお酒を飲ん でいただきたいと思います。今日はどうも ありがとうございました。 皆さんありがとうございました。今一度 大きな拍手お送り出せいいただければと いう風に思います。 いや、もう本当に時間きっちりで10分前 に終了するという形になりました。 およそこの2 時間ではね、収まりきらないほどの内容だったかという風に思うんですけれども、あの、日本修に関わる皆さんがこれだけ暑い思いを持ってるということを今日この時間で感じになっていただければ、あの、期さんからもお話から飲む一杯の味も変わってくるのではないかという風には思います。それが伝統して未来へと繋がるという風に確信しております。皆さんありがとうございました。本日はご来場だきまして誠にありがとうございます。 ま、今回この時間の中で触れたこと全てを こうね、持ち帰えるっていうか覚えてい るっていうことは難しいのかもしれないん ですけれどもでもこの時間皆さんと一緒に この共有した時間を忘れずにですね、1つ でも何か自分の心に持ってそして今日な人 に伝えるそれがまた伝統さらに未来へと つがるのではないかという風に思っており ますので少しでも美味しいお酒が皆さんと 一緒に飲めることを期待しながらですね、 またこの日本酒のあり方というのを皆さん と一緒に見守っていくことができればと いう風に思っており え、本日司会進行を務めさせていただき ました広島テレビアナウンサーの宮安友と 申します。またどこかで皆さんとお会い できればという風に思っております。本日 も皆さんありがとうございました。

2025年8月9日(土)、東広島芸術文化ホールくららにて開催された、東広島市立日本酒大学 記念イベント「日本酒のまち 東広島の誇り、伝統的な酒造りを未来へ」のアーカイブ動画です。
日本酒のまちとして知られる東広島市では、日本酒の魅力を知ってもらうために、2018年から「東広島市立日本酒大学」を開催してきました。西条酒造協会や大学、酒類総合研究所などと連携し、主に市民が日本酒の歴史や文化、酒造りを学ぶ、開かれた場となっています。今年は「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産に登録されたことを記念し、8月9日(土)に特別イベントを開催しました。

00:13:21 基調講演
「酒造りの伝統と未来」
石川達也 氏
日本酒造杜氏組合連合会会長、広島杜氏組合長

01:20:16 パネルディスカッション
「広島の伝統的な酒造りは、三浦仙三郎からその先へ」
パネリスト
今田美穂 氏  今田酒造本店 代表取締役社長 杜氏
椋田茂 氏  賀茂鶴酒造 2号蔵杜氏
赤尾健 氏  酒類総合研究所 醸造微生物研究部門長
新山伸昭 氏 サタケ 酒米支援部長
コーディネーター 
神吉佳奈子 氏 食と酒を伝える編集者

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日本酒10 – ディスカバー東広島
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