【宗守城:縄張解説!】土塁を遺す方形居館跡と悲しき物語【富山県南砺市】
今回は富山県南都市の胸森へ行きましょう 。 胸森城は司法が田ぼの平野に気づかれた観 後です。 現在は神社が立ち、周囲に土類が巡ってい ます。 [音楽] 現在残る規模は南北50m、東西に35m 。土類の高さもさほど高くはありません ですが、以前はドイ外側には道がありませ んでした。城の西側の現在の様子がこちら ですが、以前はこのように土類のすぐそば まで水電がありました。 城の南側のド類の現在の様子です。 [音楽] かつては土類に接する道はありませんでし た。以前の方が土類の大きさを実感できた ので現在の様子は少々残念ではあります。 さあ、ドイ内部へ入りましょう。おそらく ここには館が立っていたのでしょう。 [音楽] 西側の土類です。 [音楽] そして南側の土類です。 [音楽] [音楽] こちら城の東側の土類ですが、この東の 土類は昭和37年の補助整備で盛られた ものと分かっています。つまり東側は土類 がありませんでした。によれば東に上域を 広げ南北に190mほどの大きな規模を 持った場であったとわかるそうです。有力 な在地土の館だったのでしょうか?現在の 移行はその一部ということのようです。 さて文献ではA少年間に上杉の家臣小林木 のが居住していたとあります。 ただこの城に関する伝承でサゴ塚という 悲しい物語があります。 これがその案内版です。 戦国相乱の頃、胸森は上杉勢に攻められて 楽上。上手藤井は戦士。その妻1はリ月 だったが長男と共に脱出する。の旗郎 さえ門の家で出産したが、敵の探索は 厳しく再び胸盛りに戻った。ここでも敵兵 の追求に会い、もはやこれまでと生まれた ばかりの赤ゴを地中に埋めて逃れようとし たが、それも叶わず村外れで自外したと いう。やがて赤子の埋められた辺りから 雨風の強い日など赤子の鳴き声が聞かれた とか村人はかわいそうになり大将2個の 意思を並べて塚を作り戸うことにしたと 伝えられている。長男は逃げ延び中野の カ祖藤井門という なんとも無い伝承ですね。 胸森城は平置の方形の移行をよく残して いるので是非訪れてみてください。 [音楽]
宗守城 富山県南砺市
四方をぐるりと土塁で囲まれた、方形の居館跡。現在は神社境内となっているが、東側の土塁は後世の盛り土だという。城域は北方向に延びていたと推測されるが、その痕跡は今は全くない。
落城の際の悲しき物語があり、宗守交差点に「産子塚」が現在も遺る。
詳細↓
https://toyamacastle.net/nanto/munemori.html
(動画撮影2024年4月)
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