懐かしい町並  中能登町高畠  石川県

中能登町は邑知(おうち)地溝帯の穀倉地帯の平野部を中心に広がっている。東側(南側)が石動山、西側(北側)は眉丈山をそれぞれ中心とした山岳地帯で区切られ、日本の農村原風景といえる田園地帯が広がる。東側(南側)の山裾に沿って旧七尾街道(内浦街道)(東往来)が通り、西側(北側)の山裾に沿って西往来が通っている。
江戸期ははじめ長氏領だったが、寛文11年(1671)から加賀藩領。高畠は鎌倉末期からすでに高畠宿が形成されていたようで、江戸時代にも旧七尾街道(内浦街道)の宿駅として栄えた。元禄3年(1690)の家数81。承応2年(1653)には公用荷物は勿論一般の通行の便を図るように通達が出ていて、宿駅として又、所口町(現七尾市)の経済圏域として発展した。
寛文12年(1672)の家数75であったが、文政3年(1820)には家数158・人数728となっている。駅馬定数34疋であった。天保13年(1842)の高畠・福田村緒商売名書帳には、紺屋・鍛冶・室屋・豆腐屋・酒造・質屋・醤油屋・味噌屋など37種の商売があり、医者4人が載っている。これだけ多くの職種があるのは宿駅よりも在郷町としての性格が強かったのだろう。
同6年(1835)には御用を勤める者10人、駅馬馬借を勤める者15人、宿駅人足30人となっており、宿駅の役も重かったと思われる。
高畠は現在も宿場町の面影を色濃く残している。集落の北側に国道159号線が旧七尾街道のバイパスとして建設されたため、旧七尾街道沿いの町並はそのまま残った。
高畠宿の町並は比較的長く、小金森から高畠そして小田中まで約2kmにも及ぶ。
妻入り妻面の真壁様式の大型家屋を始めとして、平入り家屋、中2階建て2階建て、袖壁を備えた家などが、真っ黒な桟瓦葺で並んでいる。建築年代は明治から大正期にかけての建物が多いと思われるが、江戸時代もあるだろうし、昭和の戦後の建物も混じっている。

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音楽:中北音楽研究所

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