世界最古の木造建築とされる極美の寺院!法隆寺に太古の歴史から現代に生きる魂の聖徳太子!『和をもって貴しとなす』に祈る #見るだけで開運 #聖徳太子

法隆寺卍

法隆寺(ほうりゅうじ、旧字体:灋隆寺)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。

山号
なし
宗派
聖徳宗
寺格
総本山
本尊
釈迦如来(国宝)
創建年
伝・推古天皇15年(607年)
開基
推古天皇・聖徳太子
正式名
斑鳩山法隆學問寺
別称
斑鳩寺
札所等
南都七大寺第7番
聖徳太子霊跡第14番
大和北部八十八ヶ所霊場第50・51番
神仏霊場巡拝の道第26番(奈良第13番)
文化財
金堂、五重塔、夢殿ほか(国宝)
大湯屋、上御堂、金剛力士像ほか(重要文化財)
世界遺産

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。
 法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来1度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で1度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった(菅政友、黒川真頼、小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた。

石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、1度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。

近代以降
編集
1868年(明治元年)3月、神仏分離令。廃仏棄釈運動が起こる。
1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次世界大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。
1882年(明治15年) 法相宗に転じる。
1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。
1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。
1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始。
1939年(昭和14年) 「若草伽藍」発掘。
1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる[13]。
1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見[14]。
1949年(昭和24年) 1月26日、金堂より失火。壁画を焼損する。
1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。
1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される。
1967年(昭和42年)10月20日、法隆寺境内、歴史的特別保存地区に指定される。
焼損した金堂壁画再現事業が発願され、安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二の4画伯が中心となり執筆される。
1969年(昭和44年)4月、金堂内陣上部小壁天人壁画再現事業を開始。
1971年(昭和46年)3月31日、金堂内陣上部小壁再現事業完成。4月2日 – 4日の3日間、聖徳太子1350年御聖諱法要が厳修される。
1985年(昭和60年) 6月30日、昭和の大修理完成。11月14日、法隆寺昭和大修理完成法要が厳修される。
1993年(平成5年)12月9日 ユネスコの世界遺産に登録。
2013年(平成25年)12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結した[15][16]。境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する。
2015年(平成27年)11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表。

2023年(令和5年)9月7日、斑鳩町教育委員会が、「舟塚古墳」と呼称していた観光バス駐車場にある円形の植え込みで、奈良大学との共同発掘調査にて石室と副葬品を発見したと報じられた。
明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。
しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。
これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている。

明治の初め頃には真言宗に所属するようになっていたが、1882年(明治15年)には興福寺と共に法相宗として独立する。

1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。この間、1936年(昭和11年)2月21日には、河内大和地震により金堂の基壇に亀裂が入るなどの被害が生じている。

「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。

1950年(昭和25年)に法相宗から独立し、聖徳宗を設立している。
1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。

明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移された後、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。第二次世界大戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)。

国宝

建造物
南大門
金堂
五重塔
中門
回廊 2棟
経蔵
鐘楼
大講堂
聖霊院(しょうりょういん)
東室(ひがしむろ)
三経院及西室
西円堂
綱封蔵
食堂(じきどう)
東大門
夢殿
伝法堂
東院鐘楼

法隆寺卍

https://www.horyuji.or.jp/sp/

1 Comment

  1. お疲れ様です❤
    時々、不意打ちで一日に2本動画アップするからビックリ!
    でも嬉しいから❤(o^^o)

Write A Comment