特別講演「種子島の学童疎開を体験して」~忘れない太平洋戦争中の学童疎開~講師 羽生昌弘氏 学童疎開のお話し・岸壁の母歌発表
忘れるか知らない人が多くなる時代のよう です。それで私は今ああちこちを学校とか いろんな介合にこんなして呼ばれまして、 え、学童世界の時の話をしていますと皆 さんがそんなことがあったんですか? 今は幸せですねと言ってくれます。そこで 私はこれから感謝し、それが狙いなんです 。 昔のあのひどい戦争はもうしても欲しく ない平和が続いてほしいというのが私の 願いです。それで23日前はさ磨でさと 交流してますか?中町は初回のおかげで 交流会がありました。去年はさが40人 ぐらい中谷に来ました。その時も行きまし た。本田西本 竜馬町でありましたので私も呼ばれまして 行きまして1時間ぐらい竜馬町でお世話に なった話とか私が書いた物語今日も配て ます。あれを神芝居にしてくれました。 10場面ぐらいに分けて、その紙芝居を 呼んで皆さんと一緒にその子供たちが見 たりして、その芝居に似た人がこの人だよ と言って私が出て皆さんの質問に答えて、 え、済ませてきました。そして今日は増田 に来たわけでございます。今日は19年 でした。政府がですね、沖縄の次は非常の ある種ヶ島にアメリカは上陸するだろう。 だろう。そしてアメリカはそこから全国を 爆撃するだろうという予想だったみたい です。そして沖縄の人が当みんな死にまし た。 航空後に入ったりして死にました。次は 種ヶ島。が島の人もみんな死んでしまう。 どこかマ田かどっかに集まってですね、 みんなで殺し合う準備もしていたそうです 。子供から赤ちゃんからお母さんおじい さんおばあさんまでそして子供だけは 生かしたい。2年生から6年生までは 生かしたいということでその子供たちを 安全な鹿児島県のさ磨が行き先を教えませ んでした。誰にも 軍隊が全てしてくれました。陸軍が。 そしてただ船に乗ってどこか鹿児島の安全 とか行くことだけを教えてくださいました 。お母さん、お父さんにも6000名い ました。あ、種ヶ島に子供たちがそれを みんな船で運んで川島に行くことになった んです。上は20区という飛行機が飛んで いました。その時ですね、7歳か6、11 歳までの子供たち初めて お親から離れるわけです。お母さんの我が ともう2度と会えない。その 別れはですね、もう言葉には表せませんでした。明るい皇帝なんかでお別れ式をするとですね、 飛行機が来てバラバラっと基準操作します。みんな神社の中の木の下とか山の中かでお別れ式教したんです。 6000名が船に乗って川島に行ったん ですが、その時です15人乗った 津島丸という船がですね、同じ時期に沖縄 から長崎に学童会をして豊島村の沖で アメリカの先に爆撃されて1500人 なくなったんです。 みんな沈んでね、奄美大島のあの砂場に 打ち上がったそうです。もう誰の顔かも わかんなかったそうですが、みんな一緒に 埋めたそうです。1500人。その時 私たち谷島の子供たちも 鹿児島に渡らなきゃならなかったんです。 それで真中にですね、 軍ぐ、あの気戦なんかに乗せて行かせまし た。奇線には必ず木が植えられていました 。なぜかでしょう?島に見せたんです。 アメリカの島に島が動いてる。だから そんなのに飲んって言ったんですが、その 前に別れる時が大変でした。 子供がないようがね、お母さん実際まで 育ててくれてありがとう。 また会えるようにって言ったらもうみんな 泣きました。 みんな泣いてですね。兼ねて食べない 卵焼きをしてきてお母さんがね、年に1日 しか病気の時しか食べられない卵焼きを 食べてばかりをしましてもいつまでって 離れません。その時軍隊が来てペーンって 鉄砲を叩いて 話せて言ってみんなそれにしたから話して そして子供たちはトラックに乗れと言って 行くの子供たちマスはバスだったそうです 。乗ったら30人ぐらい 兵隊が両脇についてお母さんがトラックに 下がりついて白が兵態がパーっと払いのけ て下に落ちてえまさえろまさえろ泣いて 砂の中で見るもういつまでも目に移ります 。そういう別れをして西の表に着いたの です。はどんな人だか知らないけど、そう いう悲しい別れをして別れたんです。死ん だ時、おじいさん、おばあさんの時はね、 あ、私たちもやがってこうなるのかと思っ て諦めがついたけど、生きていて別れる時 の悲しさ、もう2度と会えない自分の子供 、それ大変でした。それをさせたくないの が私の今の子供たちへの話なんです。 そして鹿児島に着いて朝着きました。夜中 に出てどうにか爆撃されませんでした。他 の学校も西のして私たちは青島子供が喜び ました。桜島を初めて見ました。鹿児島の ビルも初めて見ました。ぽっぽシュという 煙の寝る記者にも寄せられました。どこに 行くとも言いません。記者に寄せられまし た。 ついたところが行小学校 求める名前と書いていうとこでした。 菅田の人たちは長野というとこでした。 野間の人たちは 宮野というとこでした。そんな風に別れを して星原の人、増田の人、農の人、行の人 、野間の人、岩岡の人、南関の人と 散らばらにさというところの各学校の航空 に移されました。行ってから分かったん です。行ってから分かったのが1ページの 下に書いてる西の表の人たちは今の医者 です。前の大口です。 中町は今のさです。西南谷の人はですね、 吉田町というとこと加茂町でした。そこに 行ってやっぱり同じ生活をしたようです。 初めはですね、次に皆さん 3ページを、あ、2ページを開けて ください。 ですね、野間という学校は原神という小 学校とか平川とか、え、竜水とかという 学校に回されました。748名海 はという学校 331名増野 という時にその時は348名ました。それ から農間というところは神子というとこに 行きました。星原は鶴田という鶴田のある ところに行きました。行は5秒というとこ に151人。今5人だそうです。それから 岩岡の人たちは柏上がるとがこんなして 別れてたくさんのところに行ったんです。 そしてですね、行の人たちは先生は校長 先生は行きませんでした。 格好に1年生が残っていました。高等家と いう人たちもいました。か校長先生は天皇 の写真も守らなけれなかった。共闘戦士が どの学校も中心でついていきます。先生 たちも男の先生はあまり行きませんでした 。に来ました。先生たちも女の先生を表し たが各学校に3名45名それか各集落から 代表の女の方々が子供たちの選択や いろんな世話をするために行くの場合は8 人行きました。 増田は10何人だと思います。そんな風に してその人たちが担任の先生教頭先生が 中心になって連れて行きまして初めの2 週間はですね止まるとこがなくてみんなお 寺か あの公民館などに止まりました。行くの人 たちはね150人の人がこの場この場合 ぐらいあるようなお寺がありました。そこ にみんな一緒に止まりました。2週間 増田の人たちは次は公民館というか3か所 ぐらいのところに別れて止まりました。 因数が多かったから その時のことです。それを私が書いてい ます。3ページから見てください。ここに 私がですね、中町が1550周年の時明と いう本を作ったんです。教育長は裏べと いう教育長でした。その時ですね、 たくさんの人たちがこんなして自分の 思い出を書いて送ったんです。私も教育長 から意識省の交をしてる時、お前のかけと いうことで欠かしたのが私のこれです。3 ページから4ページも見てください。5 ページも見てください。6ページも見て ください。7ページも見てください。 ページも見てください。9ページも見て そこまで私が全部書いて送ったのです。 それをあの今日はマスダの方が混乱して 印刷をしてくれました。そしてここに マス田の1人に感謝します。こんな私の 書いたものを載せてくださいました。それ に全て 学動会の出発から 終戦のおかげで帰ってきて自分のうちに 書いた時までのことを書いています。だ から皆さんに読んでもらうために子供たち にも読んでもらうために読みがもつけまし た。そしてこんなしてみんなに配ってい ます。そしでもよかったら子供たちに 読ましてください。あの、別死でですね、 皆さんには読みをつけたのをうん。これも マスダの方が作ってくれました。私が現行 を送ったんです。そんな風にして、え、私 はこれを1つ1つあの話すとね、そ、1 時間かかりますので、簡単に言います。 1番3ページご覧ください。家族との別れ 。これは大変さ言いました。お母さんたち の難服 がないリクがない 報酬がない 航空がない靴がない時代でした。 それを売る店がないんです。鉄砲を作る店 はあるけど、それで全部2ヶ月前から ロソの光で夜中まで自分の帯を解いて お父さんや自分の着物を全部解いてそれで 子供のパンツから洋服まで作ってくれまし た。 門ベというのも作りました。 航空もリュックサックも作りました。帯で 各家庭で老速でなぜ話したかと言うと光が 漏れたら爆撃があったんです。光を絶対 そんだなって見張りが来ました。だから ロソで仕事をしたんです。このクロはです ね、もうやれません。お母さんが2 度と会えない我が子のためにこんなの作ったんです。 そして次の 12 ページを開けてください。よいよ名での生活というところ。あ、 3ページ開けてくだ。あ、2ページ。や、 4ページか。あ、今 2ページ。あ、4ページ 開けてください。羽がう後にというのはさっき言いました。 木が生いた船に乗せられて真夜中に声1つ 出さずに薄ったのです。みんな無事でした 。次5ページを開けてください。具妙と いうとこ。これは行くの子供の様子です。 長野は長野の生活ですが、大体似ていると 思います。2週間か3週間。しかし マスダの人はあの後2週間した後は各人の うちにあの用みたいにして子供忘れたん ですが増田の人は一緒に学宿した人が 多かったようです。まず4ページ6ページ を見てください。まず 行の人たちはお寺で151年生活したん です。お案がないです。食べ物がないです 。おは妄想だけを横にすると節があります 。あの節の上と下を切るとお案になります 。妄想だけでお案を作ってそして食べる ものはないです。お米がないです。1勝 ぐらいずつサックに入れて持ってきたん ですが1週間で亡くなりました。あとは 町長の人も外に出て働くと爆撃されるので 外に出て雨が米がありませんでした。だ から赤町の人はさ磨町の人から野菜を頂い て、そして 米は人さじ、あとは麦、麦を割ったか大豆 を割ったもの、大豆のカスを鍋に入れて いいた野菜を入れて大きな鍋で雑水を作り ました。それを妄想だけの器に入れて2 週間近く。それが主食でした。中には子供 たち中には 人の畑の周りにあるみか 美 え梅か生のまま食べて腹を壊す子供もい ました。ある子供はさの苗 の葉っぱをちぎって根こを下から掘って それをかじりついている子供もいました。 その生活を見たさ磨町の人たちがこれより を 谷が島の子供に死んでしまう。今2週間、 もう体も痩せえ 目もへっ込み営業失張着物は2組ぐらい お母さんが作ってくれたけど1週間ぐらい 切ると白みができました。卵がいっぱい 着物にくっついてました。それを着て学校 に行きました。 体は真っ赤にかじった後ばかり薬もあり ません。風呂にも入れません。川で浴びり ましたけど そういう生活を集団生活行くだけじゃなく て増田の人たちもそうだったと思います。 そういう生活をしたら の人たちがこら自分のうちで育てましょう と言ってみんな1人ないし2人ずつ自分の うちに連れてってくださいました。そして 自分の子供のように育ててくださいました 。私などが帰ったらすぐ真っぱらかになさ れました。全部抜いたらちらみがずっと くっついていました。それを全部大きな鍋 でお湯を明かして似て捨ててくれて着物 あるかなと思ったらお兄さんがおりました 。そのお兄さんの着物を2ぐらいパンツ から着物が拭くまで 全部作って待っていました。どの家庭も そんなだったそうです。だからさ磨町の人 たちは本当に何ヶ島の子供たちを助けて くれました。そして約2ヶ月間過ぎました 。すると日本は大変なことに起こりました 。沖縄は全部やられました。鹿児島も福岡 も大阪も東京も大爆撃。それでも日本は 負けましたと言いませんでした。 絶対に負けない。1人になるまで戦うのが 日本の接だったんです。 昔日本を攻めてきた国があるそうです。 その時大風が吹いたんだそうです。それで 全部船は沈んで日本は助かったんだそう です。だから今度もその大風が吹くだろう 。神風と言います。神風。必ず復ずだから 日本は勝つと最後は勝つと言って待ってい たそうだがでも全部東京もやられました。 それでも負けましたと言いませんでしたら 原子爆弾という世界に始めて広島に落とし ました15万人近くが一発で亡くなりまし た。その時も万歳とは言いませんでした。 それで長崎にもう1発落ちました。 7万人なくなりました。 その時天皇陛下様がこれ以上も戦争先争 やめましょう。苦しいけどみんな頑張ろう と言って放送してくれましたのでそれが8 月15日でした。それで終戦になったわけ です。でなければ日本の軍隊はまた続ける つもりだったかもしれませんけどそれで 日本は終わったんです。それで今があるん ですが戦争が終わったおかげで中種の子供 たちも人の上に用姿みたいになっていまし たが 帰ることになったんです。5ヶ月目でした 。 帰る時がかったことは不妙のあの作あの馬 の人が大変自分の子供にしたので私は殺場 に残りたいという子供も少しはいましたが やっぱり自分を産んでくださったお母さん 妹会うのが1番だと言ってもう喜んで船に 乗って帰ったんです。 その別わりが辛かったです。 その場所長野の人たちもそうだったと思い ます。帰る時食べなさいと言って自分で つけた雨をですね、袋に入れて私の母は 入れてくれてました。もし途中で鼻が痛く なったらこれを飲みなさいとて現の証拠と いう薬も入れてくださっていました。各 家庭そうだったそうです。 長野の人たちも買い長野のさの松田の人で 1番かわいそうなことがありました。 人の家に養われたような子供たちはみんな ご飯も食べさせてもらってよかったんだ。 合宿の人たちは食べ物がなかった。それで みかや何か食べたんでしょうか?赤里液に なりました。その赤り液になった時3人に なりました。その時お見舞いに行けません 。お見舞いに行くとその人も映ります。だ けども増田からついていったお世話をする お母さんが3人、3人のそばについてあげ ました。でもだんだん 悪くなりました。地の便が出るようになり ました。その時みんな3人とも言った同じ ような言葉があります。 さん、お腹が痛いよ。 会いたいよというこのこと、3つの言葉を 繰り返しいたそうです。そして3人とも 初めは大きな声で言っていたそうですが、 だんだん小さくなって なくなってしまったそうです。3人他の 学校行は2人もなくなりませんでした。 田賞だけ3名なくなったんです。それ をかわいそうに戦争がまだ終わらない時 でしたので土に埋めました。向こうの人も 手伝ってその後ですね時は土から掘り出し て仮装をして木の箱に入れて白いタルで 包んで1番戦闘にその抱いてですね帰った わけです。 帰った時の増断室の寂しさ。 みんな 2度と会えない子供と会えたので飛びつい て したかったんだけど3つの異骨を見た時 そのお母さんたちの気持ちを見た時みんな 喜べなかった。そしてまず最初にその3つ のお母さんのところに行って皆さん言及 出してつって慰めたそうです。それから後 自分の子供と抱き合って喜んだそうです。 そして増田の人たちはうちに帰っても こんなことをもう2度とあっていけないよ ねと言って子供たちにも教えたりして今も それが続いているそうです。そして今日の ような会をするのも増田の人たちのその 温かい心からではないでしょうかと思って います。という寂しいこともありました。 それがこのそれから次を来てきます。次の ページに 次のページを見てください。今名での生活 と5番目の家族との再を話しました。7 ページを見てください。私が1番ですね、 落造をして今でもありがった教員を10年 もできたのはこの体験のおかげだと感謝し てることがあるんです。1番目はですね、 人のうちで生活しましたらね、自分勝手が できない。自分のうちで何でもできるのに 手伝いをせんといけない。だから耐える 積む気持ち、我慢する気持ちができました 。 幕道をし2番目にはですね、自分でできる ことは自分で先闘ができましたから3番目 はですね、友達との友情、さの人たちの 温かい思いやり、これに接しました。人間 というのは助けが大事なんだな。思い心が 1番大事なんだなということました。次の 8ページを開けてください。あ、8ページ のところで書いていますが、右の方に書い ています。え、故郷とはいいな。自分の 生まれたところはもうこんないいところ からということは本当よそに行ってわかり ました。もう話それから3番目、5番目に ですね、戦争というのは殺し合いなんだな 。戦争だけはしたくない。戦争の前に 話し合いでやめてほしい。そして今のよう な平和がずっと続けて欲しいということを 特に感じました。これが私の悪道会をた 体験でございます。ここに写真があります 。桜島の見てください。これが増田の子供 たち、行の子供たちが通った道です。 全部鹿児島市の家がなかったです。あった のは 山形への柱と市役所の柱でした。これは 山形や市役所の柱です。ここは下の方が 安い町という町です。全部 家がなかった。8割ぐらい焼けたそうです 。亡くなった人がですね、2300人。 怪我をした人は3500人なったそうです 。 1晩で1日でこんななったそうです。B 20区という4つのプロペラの飛行機が 10も20も弾を持って雨のように空から 押してきたそうです。その爆弾には油が いっぱい入っていて100mぐらい爆発 爆発と共に散らばる爆弾だったそうです。 勝異団と言います。それが100発ぐらい したそうです。そしてアメリ川島は全部 なくなった。山形屋と市役所と博 が残ったぐらい。その中を歩いて 港まで来たのです。そしたら船がいません 。船は全部アメリカからやられていました 。も何も。しかし木造戦がいました。 200人ぐらい乗れる。に行小学校に知ら せてもらいました。 行くあ鹿児島から種ヶ島に着くまで15 時間ぐらいかかりました。 それには兵隊さんがたくさん乗っていまし た。 そして西のに着いたら看板がガラガラと 崩れました。下に寝ていたが子供たちに 屋根が落ちてきました。でも怪我はしませ んでした。兵隊さんのおかげです。上に 乗ってきたんです。軍隊が。そして お母さんたちは港に待っていたんです。 そういう別れをして種ヶ島に帰ったのです 。その種ヶ島に帰った時の 大変なこと終戦後は食べ物がありません でした。ほとんど辛いでした。 の葉っぱも油で炒めて食べました。 ツやたけのがあったおかげで助かりました 。 ま、そういう苦しい生活して小中学校を 卒業しましたが、1番苦しかったのはあの 疎会に行く時の別れの場面行ってから共同 で2週間も共同生活時の頃各家庭になって は幸せでした。それで帰 の黒。 で、日本の人たちは絶えしんで、今のような世の中に皆さんが頑張ってなったわけです。 これを話しますと子供たちがそんなことがあったのですかと、今は何でもあって幸せですねと言ってくれます。それが大変嬉しくてあっちこっちって話をしております。 これが私の今日の私の閣道を体験し忘れ られない太平洋戦争中の縛道という話で ございました。あはですね、ここに資料が あります。あのもう1つありました。え、 もう1つありましたよ。長へ学童をした頃 の話というのが1つありました。日本の 戦争の様子を書いておきました。それと 子供たちへ読みをつけた私の体験を書いて います。これをどうかあのうちに変えて から知ってる人に読ませていただいたら ありがたいです。まとめになりますけれど も、私は今日本の人たちは戦争を体験した は100歳前後いません。 小学生だったのが私みたいな90歳前後。 あとはだんだん忘れるか知らないかという 人がいるかもしれません。それをなくさ ないとまたあの戦争が起こったら大変です 。もう戦争だけはしたくないという気持ち になるためには小さい子供たちにも昔 こんなことがあったんだよということを 教えていくことが1万大事なような気がし ます。だから私あちこち回ってます。た からそれを増田の人が今日のような模しを して皆さんに伝えていくことはすごくこれ からの平和のために大事なことだと思い ます。それね、お年をと召された皆さん、 そのつもりで若い人たちにこんなことが あったんだよということを教えてあげて 欲しいと思います。私も頑張ります。東会 よろしくお願いいたします。 また子供たちも昔こんなことがあったんだと大変だったんだなと思ってこの平和が続くように頑張ってほしいと思っています。何おるかな? 大変粗末な話でございましたけれどもこれで私の話を終わりたいと思います。ありがとうございました。ありがとうございます。 何かありましたら知ってることがあったらお話しします。 はい。すいません。 はい。 あ、どうもお疲れ様でした。あの、えっと、先生があの、その初回に行って 1 日のそのあの、何時に起きたとか、あの、何時に寝たとか 1 日の様子をちょっとあの、教えていただければありがたいです。 これがあれか。先生が疎会された時の1 日のスケジュールを教えてくださいとおっしゃってます。 朝から夜寝て、また朝起きるまでの 初回先のスケジュールを教えてくださいということです。 初回先、 初回先での1日のスケジュールですね。 ああ、 生徒さんたちはなされてた。はい。 あのですね、集団で生活してる時は もう早く 7時ぐらいまで起きました。 あの子供たちはですね、これ 150人のとこ止まっていまして はい。 もうみんなあの夜中になるとですね はい。 お母さんという子供がいるんですよ。 7歳11 歳。それとお母さん大将来るんです。前晩のように先生たちがダメとしちゃって静まるんですがしてよく眠れませんでした。寝事もました。 失礼だけ病する子供もいました。そのまま 次の朝は7時が住んだら8時頃は近くに 学校がありましたのでそこの学校にみんな 行ってました。そして学校ではいつもの 通り育てました。子供の中にその谷が来た 子供たちは草が臭いよという人がいました 。 ところが先生方かお母さんたちが色々指導して 2日3 日したらもうみんな言わなくなりました。 そしてみんな手をついですね一緒に。そしてさ馬町というところは完全なところで 素介をさせたんですが、各学校にそうほとんどの学校がやられました。 どうしてでしょうかと思ったら兵隊さんが 学校に止まっている学校があったみたい です。それを知っていたかどうか学校を 攻撃しました。駅とですね。だから私たち は毎日が戦争で牧空号に逃げて勉強など ちゅうのはもう本当できませんでした。5 ヶ月近く いつも逃げる勉強でした。そして種ヶ島と 言ったら種ヶ島はですねおかげで沖縄の次 に谷島 特にマ田というところが飛行場があったか なと思っててあんまり攻撃なかったみたい です。沖縄から日本を攻撃したそうです。 各組都市を。だから谷島もこんななってる かもと思ってましたら母に手紙を書い てら島はほんな爆撃ないよて みんな喜びました。それで学校に行って1 日の生活終わって50時、50時頃帰って その増水をみんなで食べてそして8時頃 みんなに寝てそんな生活でした。過去家庭 ではいつもと同じ子供たちの生活家庭と 同じ生活をしました。子供たちはみんな ですね、人のうちなもんですから。自分で 食べたものも片付けて牛が買ってる家で草 も買って草も食べさせたり畑もありました ね。そこに草にも行ったり手伝をしました 。谷島子供よく 働くねと言くました。 はい。はい。すいません。はい。 貴重な話どうもありがとうございました。 いいですか?私あの野生野の正田和夫というものですが はい。 私もあの戦争体験いたしました。 はい。 小学校1年生の時に あら その時に大阪の東にありました。 は 先生が言われるように毎日 B20小団 その団 消談 はい。その経験も出しました。私が今日うのは原爆です。 はい。 というのは大阪から空系を発生されて あ、 熊本に来ました。熊本 熊本に 有警会 あら そこに熊本の見があります。 あ、 そこで体験したのは 昭和20年 は 昭和24年8時だろ。 11時日本 うん。 原爆がされました。 そうです。 私その日ですね、 1人海岸にぼっと立ってきたんですよ。 はい。 もうなんともなくその辺の空気がですね。 なんとなく人が死んでしまったような空気でした。 はい。 で、たは原爆 はい。 で、私その現場を見ました。現場を見ました。 はい。 白の小ですよな。 はい。23000m ですかな。上がってました。 で、その時に降りて大丈夫となのにテレビはありません。 はい。 大丈夫です。 はい。 そこであがつきました。電子爆弾 うん。ピカ丼カっとカってドーンするわけです。 そう、そうらしい。そうらしいです。 最近を色放されていますが先生は予想していません。 はい。 子供女もな。そして昨日のテレに長崎ではカラスが飛んできて 人間の目玉をやめたそうです。以上です。あります。 ありがとうございました。 あの、今原爆をした場画面を見たそうです。 すごいですね。 もうあんなあの貼って欲しくないですね。 子供たちが知らないです。 子供たちはもうだんだん知らなくなると思います。そんなことがあったということをだから教えてあげてください。 あ、双葉ゆ子という人が立った 歌があるんですよ。それがですね、あの完璧の母という歌なんです。 あ、これ。ああ、あ、え、その岩壁の母という歌がですね、私の母がですね、いつも草に行った時ですね、山畑に草と行ったら仏りというのがいっぱい生えていました。温情殺しの生えてました。 それを抜いたりしてすぐ手伝しした後です ね、いつも母が歌っていた歌ったんです。 それがあの完璧な歌でしとは私までですね 。それで私が歌いますので昔こんなこと あったんだなということで聞いてください 。 はあは来ました。 今日 を聞いた。 この完璧に今日も来た。 かぬ 願い と知り ながら もしやもしやにもしや もしやに 光り また息き上げ線が帰ったり、今度もあの子 は帰らない。この完璧でます。私わしの姿 が見えんのか。港の名前はマイズルなのに 。なんで飛んで帰ってきてはくれんのか。 耐えないなら大きな声で せめて 一言 呼ん でください 。 拝がみ ます。 あ、お母さん よく来たと 海山 千 というき なんでとか なんでとあ、はとこ に は あの子は雪と風のしりはどうしている だろう。うん。辛かったじゃうと命の鍵に 抱きしめてこの肌で温めてあげない。あげ たい。その日がこれまで死にません。いつ までも待ってみる。 去年 この 祈り 神様だけがしている。 れる 雲より風 よりも 辛い定めの辛い の杖 1つ ああ風を心ば伝えよ。愛しを待ちて今日も またど々と 砕くる眼壁に立つ母の姿を というごます。 お母さんこと戦争のおかげですということをしておってくださればありがたいです。終わります。 皆様
2025年(令和7年)8月10日(日)、種子島の中種子町増田区民センターベニーハウスで行われた特別講演「種子島の学童疎開を体験して」~忘れない太平洋戦争中の学童疎開~と題して、講師:羽生昌弘氏の学童疎開のお話しを紹介しています。この動画の中には、現在の活動、学童疎開のお話し、質問コーナー、戦争体験お話しなどを収録しています。
撮影・作成=ふるさと種子島
サイト「ふるさと種子島」
中種子町増田の地域情報 – ふるさと種子島
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