「まるで城」静岡市【小島陣屋】復元された書院・石垣・大手道で知る陣屋の構造とは
[音楽] まるで城のよう言われているのが静岡県に ある小島神社というか戦いを想定してい ない人夜に軍事施設である城の評価がされ ていること自体がおかしいのですが実際に 現地に足を運んでみると確かにそうだなと 思えてしまうのが不思議なところ。小島 神社は川と崖に囲まれた高台にあり、その 地形を利用した数々の防御施設の後を確認 することができるのです。どうやらここの 殿様は幕府に怒られない程度に陣夜を白 っぽくしようと考えていたよう。陣夜とは 小犯の漁師が構えた屋敷のこと。 江戸時代全国に約300の大名家があり ましたが、その全てが城を持っていたので はありません。城を持つことを許され なかった殿様たちは陣夜を政務の拠点とし て使っていました。 陣夜と城の違いは防御施設。陣夜にも堀や 石垣きはありましたが、その規模は小さい もの。陣は行政居住機能に特化した施設で 、堀や石垣の役割は主に区画のためでした 。陣夜に住んでいる殿様の国高は少なく、 同員できる兵力は数百人程度。一期を 抑えることはできたかもしれませんが、 本格的な戦争は無理です。深夜はそんな殿 様たちの実力とちょうど合う作りをしてい たのでしょう。 そのちょっと切ない思いを見てみましょう 。 小島神社があるのは静岡県静岡市水区 沖川の谷合にあり付近には賀と海をつぐ道 が通っています。 国道52号線を西へ 坂道を登った先が神夜の後です。 この広い空間が神夜の中心部があった場所 。ポツンと立っているのが当時使われてい た所員の建物で令和6年に元のに再建され ました。内部も見学できるので後で行って みます。 駐車場は坂の途中にあります。また追加で 作られているようですね。 静岡市が小島神社の整備に力を入れている とのことで今後はもっと見学しやすくなる のでしょう。 いきなり所員を見たくなりますが、 ちょっと我慢して神社の周りを歩いてみ ます。小島神社がまるで白と言われる理由 が分かるかもしれません。 小島神社はなかなかの高台に気づかれてい ます。戦いのことを考えると高い位置に ジんどるのは重要ですが、それは城の話。 陣夜なら役所としての仕事がしやすい街中 にあった方が便利に思いますね。 陣は住みやすい場所に気づかれたという話 を聞いたことがあります。戦いのことは 諦めているので日頃の生活がしやすい場所 に立てようとなることが多かったの でしょう。そう考えると小島神社は両内と 街道を見渡せる位置にあり高台からの眺め はなんだか気持ちが良い。日当たりも良さ そうで陣夜としてはかなり素敵な場所に あることが分かります。 神夜の西から南にかけて沢が巡っており、 天然の堀で守られているように見えます。 しかし裏山が迫っており、こちらから 攻め込まれたら何もできません。城であれ ばこの辺りに巨大な堀を設けるのでしょう が、小島神社にはそのような意向は見られ ないようです。 しかしお島神社には殿様の異厳を感じ させる部分もありました。 [音楽] これは麓元から見た陣夜の姿。高さ15m くらいはあるのではないかと思える崖の上 。 石垣も巡らされており、この上に住む殿沢 様は両民にとってかなり立派な人に思えた ことでしょう。 高さというのは知らないうちに心理的な 圧迫を加えるもの。これから陣夜に行くの だが、なんだか気が重いなんて気持ちを 両民は抱いたのでしょうか。戦いは無理か もしれませんが、この地を納めていくため に必要な異厳をお島社は備えていたのです 。 お島神社には石垣きが多く使われています 。土を切り盛りした土類作りでも良かった のでしょうが、わざわざ手間とお金をかけ て石垣作りにしてあります。 入り口や浄化側など目立つ部分だけ 石垣作りにすることはよくあるのですが、 小島神はあまり人の立ち入りがなさそうな 裏側にも石垣が設けられています。わずか 1万でこれだけの設備を整えるというのは なかなか大変だったのでしょう。両ほど 近くで石が取れたのか、それとも殿様の 譲れないこだわりがあったのでしょうか? 陣夜が建てられてから現在までの間、石垣 は何度も修復されています。また畑として 使われていた時期もあるのでその時に積ま れたものもあるのでしょう。 立派な石垣は入口付近にあります。高さの 異なる海段場の石垣き。奥の高い石垣きは 角がすっと立っていてすごいですね。 本当はもっと近づいてみたいのですが工事 なのか立ち入り禁止になっていました。 そして謎なのはこのだんだんの石垣空き。 何か建物が建てられていたスペースなのか もしれませんが、ここに建物があれば せっかくの立派な石垣きが隠れてしまい ますね。不思議です。この謎については 後ほど判明します。 小島神屋の入り口にはマ口があります。型 小口は2つの門の間に空間を設けた防御 施設。上から見ると城内へのルートが 折れ曲がっているのがよくわかります。 ここで攻撃兵の勢いはそがれ門によって 行場を失うわけです。気になるのは通路の 狭さ。1人で通るには十分ですが、多くの 人がすれ違ったり、荷物を運び込むような 場面を想像すると使い勝手はかなり悪そう 。防御のためということなら良いですが、 ここは城ではなく陣や役所の業務を行う上 で邪魔になっていたのではないかと心配に なります。 松型の上は坂道。登り切ったところに 大手門があったのですが、そこまでの通路 幅はマ型部分と全然変わりません。 まるで城のようなお島神社 その特徴の1つである松口ですが、これに ついては殿様がやりすぎたのかもしれませ んね。とここまで不思議なマについて色々 考えていたのですが、現地で案内して いただいた方の話を聞いて謎が溶けました 。それは松口から大手門への道は裏口の ようなものだったのではないかという話。 このルートはメインで使われていたのでは ないということなのです。それならば バス口とそこから繋がる道の幅がこんなに 狭くても大丈夫だったのでしょう。では 大帝門への別のルートとはどこにあったの でしょうか?それが分かる場所があるので 行ってみましょう。 松型からの坂道を登り切った場所。ここに 大手門の跡を示す看板があります。看板の ある場所は崖に面した比較的広い空間。 大手門は一体どのように立っていたの でしょうか? ここでは発掘調査が行われており、大手門 の位置が確認されています。それによると 幅約5mで入り口が2箇所内し3箇所あっ たとのこと。役門であったと言われてい ます。 気になるのはその向き。小島神社のお手は 南を向いて建てられていました。そして その正面にあったのは前に紹介した だんだんの石垣き。実はこの場所お島神の 大手門につがるメインの入り口だったの です。ここに積まれた低い石垣は小島神が 畑として使われていた時期のものではない かとのこと。当時の道幅は約7m。殿様が いる場所への入り口は幅広く真っすぐな坂 の上にある巨大な門になっていたのです。 この大手門への道そして大手門の位置に ついては見学しやすいように今後整備さ れるとのこと。の石垣の下が立ち入り禁止 となっていたのはその準備のためだったの でしょう。工事が終わった頃にもう1度 訪れてみたいですね。 [音楽] お島人や見学のメイン所員に行ってみます 。 江戸時代に小島神社にあった建物の一部で 殿様の住まいと寝出面所 の役割を果たした建物です。明治になって 排場となった後、5点は学校などに使われ 、所員は校長先生の部屋として使われてい たようです。 [音楽] その後別の場所で公民館などとして使われ た後、近年になって元の場所に戻されまし た。色々な使われ方をしていたので、柱や 針などはかなり手を加えられています。 よく見ると新しい部分と古い部分があるの が分かります。 それでも多くの部分で当時の部材が使われ ているとのこと。陣夜の建物の様子を知る ことができる貴重な意向です。 上を見ると河にも新しいものと古いものが あります。 員は東西方向に3つの部屋と廊下を廃止、 中央南に1つの部屋を設けた作り。玄関を 上がったところにあるのが家臣らが座る席 。殿様はその奥の部屋に座り2を使って 祭りごに関するやり取りが行われたよう です。殿様が座る部屋のランマには 双葉蒼いの模様が刻まれています。 このランマは高道として使われていた時も ずっと保管されていたとのこと。4つある はずのうちの1つは見つからず、現在は 無事のものが使われています。1番奥の 部屋は友の寝室でした。 素敵なのは南に突き出した部屋。殿様が 日常生活に使っていた場所です。 [音楽] 玄関からは見えないようになっており、 プライベートが保たれた空間だったの でしょう。 この外に広がるのが小島の山の景色。 川を挟んだ対岸の山までの視線を遮切る ものはなく、緑を眺めながらゆったりする ことができます。 地元の言い伝えによると花山と呼ばれてい たそう。両たちは殿様が眺める山である ことを知って美しい鼻の咲く木々を植えた そうです。なんだかいい話ですね。 まるで城の世と言われるお島人や町を 見下ろす高台に位置し、石垣で固めたその 作りを実際に見てみると確かにそう思い ます。ですが実際のところ真姿は裏口 真っすぐで幅広い入り口を持つ立派な人夜 らしい作りだったようです。 この後も整備は続いていくとのことで、今 は立ち入り禁止の坂道がやがて幅広い階段 になっていくのでしょう。その時かてのお 手道の様子を思い浮かべるようにまた訪れ てみたいですね。 [音楽]
宝永元年(1704)、松平信治が駿河国庵原郡小島に陣屋を築きました。陣屋とは、小藩の領主が構えた屋敷のこと。江戸時代、全国に約300の大名家がありましたが、そのすべてが城を持っていたのではありません。「無城大名」という城を持つことを許されなかった殿様たち(約100家)は、陣屋を政務の拠点として使っていました。陣屋と城の違いは「防御施設」。陣屋にも堀や石垣はありましたが、その規模は小さいもの。陣屋は行政・居住機能に特化した施設で、堀や石垣の役割は「区画」でした。陣屋に住んでいる殿様の石高は1~3万石で動員できる兵力は数百人程度。一揆を押さえることはできたかもしれませんが、本格的な戦争は無理です。陣屋は、そんな殿様たちの実力と、ちょうど合う造りをしていたのでしょう。そのような陣屋の中で「まるで城のよう」といわれているのが、静岡県にある小島陣屋。というか、戦いを想定していない陣屋に軍事施設である「城」の評価がされていること自体がおかしいのですが、実際に現地に足を運んでみると「確かにそうだな」と思えてしまうのが不思議なところ。小島陣屋は川と崖に囲まれた高台にあり、その地形を利用した数々の防御施設の跡を確認することができるのです。どうやら、ここの殿様は、幕府に怒られない程度に「陣屋を城っぽくしよう」と考えていたよう。そのちょっと切ない思いを見てみましょう。
11 Comments
こう言う陣屋の事で知らない事が多いので大変ありがたいです。個人的には全ての建物が復元化かCG復元で見れたらとても嬉しいですから。本当にありがとうございます。本音になりますけど陣屋の御殿とか全て残っていたら貴重な遺産になったのに。御城だって御殿設備が少ないですから陣屋の御殿とかはかなり注目されたと思います。
相当防御意識意識が高かったのだと思いました。
2:10 下の↓興津辺りが横山城跡(武田が入り、興津側を挟んで薩埵峠に陣取った北条との睨み合いをした)地ですし、撤退路を封じられた信玄が切り拓いた樽峠があるのも陣屋側です。
なので、背後を気にする必要はなかったのではないかと。
これは凄い陣屋だ
先程まで甲斐国 勝沼氏屋敷跡見てましたが何となく似ている 出土物なども気になります
楽しい動画でした!
近いうちに訪ねてみようと思います!
今回も貴重な動画をありがとうございます。
「陣屋は小大名の城っぽいお屋敷」とは、歴史オタクだった父方の叔父(故人)の言葉。
城持ちではない大名もかなりの割合だったと聞きます。
現に、加賀大聖寺藩は10万石で、あの浅野内匠頭の2倍の領地でしたが、陣屋住まいだったそうです。
全国の陣屋跡が小島陣屋のように文化遺産として復元整備されますように。
搾取された領民が気の毒
天領だから当たり前じゃん。
櫓門ではないから薬医門であった大手門が地元の寺とかに移築されていても良さそうだが…
一万石大名の様々な規模感を調べていて、すごく参考になりました。しかし立派な陣屋で行ってみたくなりました。
紀州徳川家の分家の伊予西条藩の陣屋は、堀が残っていますね。陣屋跡は、愛媛県立西条高校なんかになっていますが、大手門は当時のままですね。
小大名が無理して城を持っても、苗木藩遠山家の様になるだけですしね😅