【戦後80年/昭和百年】戦時中、硫黄島から疎開した渡部敦子さん(95)
まずこうお生まれになったのは島のどの辺りのあの部分こ 漂流牧ってね はい。 西からね、 北の方へ はい。 行くとこの漂流だったんですよ。 そこです。 はい。年間 とってもあの 1年上あったかくてね。 いいとこですよ。うん。うん。 それでも東京都だったからね。 はい。 うん。 もう何でもなじなく 本当優雅にみんなね はい。 暮らしてたん。 あの南の温かいところなので はい。 え、かなりそのフルーツだとかそういうものも多かったと聞いたんですけど、パパイヤだとか パパイヤとかマンゴとかね。 はい。 もうもう穴穴穴なっていうのもあったのね。お はい。 番号とか いじも持って グ うん。 そういうものを子供ばっかりあの ほで1年中温かいし うん。 海遊びとかってされたんですか? 怖くてね。 あ、そうだった。 波でしょ。 平の波じゃないから。 うん。 親がついていかなきゃね。 はい。 海も行けなかったですよ。あ、 怖くてあんまり泳いだことない。 あ、波がすごかった。 すごかったのこうね。 だからやっぱこう池みたいのがあってね。 うん。 それでそういう池みたいなとこで泳いだ。 うん。 うん。 行っていだっつたってあの材とかなんかいっぱいあるから。 うん。うん。 食い取って持って帰ってくんのが。 へえ。そうなんですね。 うん。あんまりく焼けると黒くなるからって。 あの、あんまり 出されなかったの海も。 [笑い] 黒くなると嫁に行けないって言われ あの町の神社の方でこう相撲の大会があったりしたんですかね。 の神社の方にはい。 あのあのス撲さんの回し あれなんか本物でね はい。うん。1 番先に疎介さしたんですよ。音から あ、 戦争がひどくなったらそれ大事でね、本物の回しつけて あのそのお賑やかにやったからね。 それをもう阻害して うん。 うん。 どん踊りたとかね。 もう島の島の人が若い人がみんな相撲を取るでしょ。 はい。 それで勝ち抜け 10人抜けだとかもう盛でしたよ。 ほれであの学生子供の頃ね学校生徒がアドンって はい。 あれを作ってどーっと道路に飾ってね。 それ見るのも人仕事だったわ。すね。 うん。 あ、じゃもうアドが 1列にこうな、 こう両脇に飾ってね。 うん。 うん。 ね、 結構その町の中心部にはあのお家は近かったのです。 あの、みんなくっついて役場とか病院とか お巡りさんとか それからお店も何元もあったしね。 うん。 街だったですよ。うん。あ。 学校が 2つあってね。 はい。はい。 うん。 文と本校とあってね。 うん。 あとはあのすりバ山も山もあって山は 大山と言われてたんですか? あのあれはね。うん。あの運動遠足 遠足。 遠足は必ずね、 あそこ行ってたの。 あ、そうだったんです。 うん。それで最後の高家の卒業にはね、 1泊でね、 山にこんなあの鍋があって 鶏肉にこう鳥持ってって はい。 潰してそれ食べてでそこで山で 1泊して へえ。 そ次は そうね。みんな思い出ばっかりだわね。 もう遠足にしても何でももう海ね家族がみんなで遠行くんですよ。 あ、そうなんですか。 ほでも お料おり持ってみんな行って うん。 ここでお料りおり食べて1 日遊んで帰ってくるね。うん。 だから東京から先生はみんな来てましたけどね。 うん。 うん。 うちの兄さんも はい。 出身の 先生してたんです、ずっと。 そうです。 うん。 あの、ちょうど1944 年の頃に、ま、あの、強制疎会ということで島を離れるわけですけれども うん。 やっぱり、ま、ご自身が13歳、14歳と の頃になってくるとかなりその戦争の雰囲気というか うん。うん。 そういうものはか、色濃く感じるようになってきたんでしょうか。 うん。あの、分れる時ね。 はい。 あの、くじ引きでね、 3 回に分けて引き上げたんですけど、 3 回に分けてはい。 うん。ほで男の人はみんな残されたもん。 1人だけついてっていいかいくてね。 で、うち番ともまだ女の兄弟が多かったからね、残らなかったんですけど、 そん時の別れは今でも頭から抜けないです。うん。 [音楽] みんなみんなのこと人はなくなれましたけどね。 こうその漢方射撃といからの あの射撃っていうのも すごかったですよ。ですか?あ、 ここね、両脇に山があって、この山のとこにあの暴空みたいに自然の穴があるか。 うん。 そこへね、隠れてるでしょ。 うん。 それとこの真ん中のとこ玉がヒーヒーっとね、打ち込んでくるの。軍船が。 それでアメリカはもうね、あの、なんて言うの?日本はほら船があまりないんだけどね。自然と海から浮き浮き上がって海が真っ黒になるほど軍艦。 [音楽] [笑い] それがもうどんどんどんどん打ち込むでしょ。 うん。 うん。それで打ち込んではまたむぐっちゃうのね。 うん。 うん。 だからその島の周りが真っ黒になるほど軍艦が上がってきてね。うん。 ほでもう日本は物資がないから飛行機だってレド線みたいなちっちゃいのがね、 飛んでったって飛び上がったってそれが終わった時はもう飛行機は 1日か2匹ぐらい戻ってなかってね。 うん。 うん。見てる前、見てるうちにもうぐるぐるぐるぐる 飛行機は日本の飛行機落ちちゃうのあれは だからその漢方機がわあって終わって打ち上がってたらうちが何にもなかったの全部飛ばさげて [音楽] それでだけか1 人だけついて帰れたのね 家族はうん だからその別れにも息子にすれば親 あの、自分が残るから、あの、子供た連れててくれて、俺が残るからお前は子供についていけって。 [音楽] うん。 うん。そういうしてみんなね、 やっとの思いで来たんだけど 残った人は全部なくなった。うん。だからおじいさんと息子といるでしょと。おじいさんは俺がつい残るからお前が息子。この子供をどうするんだって。 ついてけって言ったって息子にすれば親の子 1人分が行くわけかないから のこあの残ってね うちの嫁先の姉の旦那さんなんかみんな亡くなったです。うん。 いこ関係がみんななか ほで2番目の姉の旦那も残ってなくなって うん。 うん。子供だけ連れてきてね。 うん。 その時もおじいさんがね、俺が残るからお前は行けって うん。 この子供をどうするんだってね。で、で、海は海で別れてね、船に乗る時ね。 [音楽] うん。 それでもおじいさんをよ子にすれば自分が帰って親残すばけたないから 兄さんが残ってね。 なくなったんですけど。うん。 うん。 そのおじいさんが一生死ぬまであ、悔しがあってね。 うん。 うん。 で、 島を離れる時の光景っていうのはやはり今でもこう覚えてらっしゃいですか? もうで送って送って走けて送って残る人が怒りながらもうね、 [音楽] もうその時の別れは忘れません。うん。 [音楽]
太平洋の要衝・硫黄島は1944年から断続的に米軍の攻撃にさらされた。島出身の渡部敦子さん(95)(栃木県那須町)が家族9人と住んだ住宅は艦砲射撃で跡形もなく吹き飛ばされた。強制疎開で島を離れたが、島に残った親戚10人は45年2月からの硫黄島の戦いで日本軍とともに全員死亡する=取材・東京本社社会部 波多江一郎、撮影・東京本社写真部 加藤学 2025年8月11日公開(読売新聞オンラインでは2025年2月26日公開)
ニュースと速報はこちら
https://www.yomiuri.co.jp/
番組、CM、イベントで動画を利用する場合はこちらから
https://www.yomiuri.co.jp/policy/application/video