【長崎の戦跡を巡る】誰も知らない原爆の歴史と真実
長崎に原爆が投化されましたが、長崎に 原木が投化されるまでの経緯を簡単にご 説明します。アメリカは原爆という兵器で 戦争を終われよと考えていました。 1945年4月27日、第1回目標検討 委員会が開かれ、先定の条件として3つ 決まりました。まず1つ目、約5kmを 超える大きな都市。2つ目、爆風によって 効果的に破壊できる都。3つ目、8月まで 空されない都市であること。そして選ばれ た年が東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪 、神戸、京都、広島、暮、八幡、小倉、 下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐保、 合計、17都市となりました。1945年 5月10日、第2回の目標検討委員会では リストが修正され、京都、広島、横浜、 小倉、新潟、この、5都市に絞られました 。その中でも特に京都は人口100万人を 有する都市工業の地域であったため、 最有力候補となっておりました。そして 同年5月28日第3回目標検討委員会に よって横浜が外されました。そして残った 4都市への空習が禁止になりました。なぜ 空習を禁止したのかというと無傷な都市に 原爆を投化して効果を測定するという実験 的な部分もありました。そして翌日横浜が 外されたことによって1945年5月29 日横浜大空州が起こいました。そして6月 ここで第1有力候補だった京都が外され ました。外された後も1の空は禁止だった そうです。なぜ京都は空習が禁止だったか と言うと、当時の米軍陸軍長官ヘンリー スティムソンが強く反対したためです。 ヘンリースティムソンは戦前京都に訪れた ことがあり、日本のことは守るべきだと 主張したそうです。京都は約1000年 以上定が住んでいたこともあり、歴史的に 重要な京都に原爆を落としてしまうと戦後 において日本の協力が得られなくなり、 日本とアメリカとの和解が難しくなると 考えていたからです。ヘンリーステヌソン は京都への原爆がアメリカに対する日本人 への反発を強める可能性を警戒しました。 そして残った最終候補は広島、小倉、新潟 この3つになりました。ここで京都の 代わりを広島と小倉の近くで予備として 加える必要がありました。それが長崎でし た。長崎の理由は長崎には捕虜収容所が あり、軍事工場が2つあったということ から予備として加わりました。最終的に 広島、小倉、新潟、長崎の4都市に決定。 そして1945年8月2日、第20航空 軍事指司令部は野線命令第13号を発例し 、8月6日に原子爆弾による攻撃が決定さ れました。第1候補は広島でした。予備は 小倉、その次の予備が長崎とされました。 ここで新潟は3箇所に比べ距離が遠く、 規模も小さいことからここで外されました 。8月6日午前1時頃リトルボーイと 名付けられた原子爆弾がB29に乗せられ て日本の南に位置するテニアン島から日本 へ向かいました。そして1945年8月6 日の8時15分約14万人の命が原爆に よって亡くなりました。広島に原爆日の 直後2発目となる原爆ファットマンが準備 されていました。目標は小倉でした。 しかし前日に近くの八が空習被害にあって いたため小倉の上空は煙で誓が悪く トラブルが発生。45分ほど爆撃の準備を しましたが3度も失敗。その間に日本の 戦闘機が緊急発信してきたという情報を 入手したことから小倉から離脱して呼備 目標の長崎へと向かったのでした。そして 1945年8月9日午前11時02 分原子爆弾がされたとこういった経緯が ありました。被爆者を急護した女性の体験 談中 私は教職についていました。長崎に原爆が 10日された時は自宅におりましたが、 10日に学校に出勤しましたら 若い先生7名が被爆者の9後に行ってくれ と校長先生から言われたので収容されている高校に行ったら全裸の若い男性が 水を組ませてくれ。 そう言われたのですが男性の体は黒く焼けており、私は返事をすることができませんでした。驚きでした。 行動や教室を見回りますと、その悲惨な 方々ばかりで人間がこんな姿になるとは 思いませんでしたし、この時初めてこの 戦争は勝つのだろうかと感じました。治療 室には看護さんがいなく、女産がおられ、 その手伝いをしてくれとのことでしたので 、包帯をしてやったり洋服を着せたりし ましたが、それをしてあげる方は良い方で 治療にも来れず寝たままで翌日はなくなる という状態で徐々に減っていき、3日目に はほんのわずかになる始末でした。 大阪から来ていられた大学生らしい男性が お母さん と泣きながら呼んでおられた姿に思わず涙が出たことは今も忘れることはできません。自宅に帰る途中亡くなられた方々を畑の中で仮装されているすごい炎を毎日見て今でもその辺りを通るた思い出されます。骨は家族の方にお引き渡しはできたのだろうかと思うことです。 家族のもの皆その当時は知らないので終戦 の頃の話を聞かせています。世界から戦争 のない時代は来るのかといつも思います。 戦争の犠牲者の方々を思う時、今後絶対に 戦争はないようこれからの教育に力を入れ てもらいたいと思います。こちらは長崎 原爆資料館展望デッキとなります。長崎 原爆資料館には展望デッキもあります。 長崎市の美しい街並が広がっていますが、 約80年前は悲惨な状況だったと思うと胸 が締めつかれる思いを感じました。こちら は国立長崎原爆者追道平和記念官となり ます。8月9日の原爆の10日にあり犠牲 になられた全ての方々への追と平和記念を 行う施設です。入り口前には日本語、英語 、韓国語、中国語の4語で施設の説明が 記載されています。施設の入り口から水盤 を反時計周りに進みます。これは8月9日 に時を遡ることで追道の準備をして いただくことを意図。水となります。被爆 者の方々が求めた水を称える水盤です。 水盤は夜になると原爆で亡くなられた方々 の数約7万の追の明りで一ぱになります。 追空間となります。この場所には原爆で 亡くなられた方々の名簿が記載されてい ます。令和6年8月9日までで原爆没者 名簿登録者数19万8785 名。名簿数は202冊となります。こちら が平和へのメッセージとなります。 パソコンやカードに平和への思いをエア 文字でメッセージを書き残すことができ ます。このメッセージは10年間保管して いただけます。ここが交流ラウンジとなり ます。正面には静かに滝が流れており、 国際協力交流の場となっています。毎年5 月には追道空間の名簿棚から原爆死者名簿 が取り出され、風投資が行われています。 こちらが平和公園となります。原爆等画が あった事実や核兵器の禁止と世界平洋の 実現を呼びかけている都市公園です。先日 中は上に刑務所があったことから刑務所の お家とも呼ばれていました。平和公園は 平和記念像のある願いのゾーン、原爆資料 館のある学みのゾーン、爆信時の日のある 祈りのゾーンがあります。こちらが松山町 暴空号跡となります。刑務所の農の他とも 呼ばれていた崖を利用して町内会で数の 暴空号を掘っていました。原爆寺は警報 解除中だったため、人々は暴空号に避難し ておらず、ほとんどの人が即死でした。 暴空号の中でわずかながら生き残った人も いました。しかし被爆したほとんどの人 たちは火傷や放射像などで中傷を追い 逃げ込んだ号の中で苦しみながら治療も 受けられないまま次々に亡くなっていき ました。戦後爆信地から近い暴空号に まつわる被爆の状況を米軍は調査を行い暴 の内部の形状その中の生存者と亡くなった 人の位置などを詳しく記録しました。その 理由は第日世界大戦後の核戦争に備えての 核シェルターを作る時の参考にしたと言わ れています。当時の様子についてこのよう な証言が残されています。の中は暗く カビ臭く天井から落ちる水滴で床はいつも 湿めっていた。ロソの光がすごく明るく 感じた。被爆直後の豪の中はみんな黙って いた。途徒にくれていたのかもしれない。 こちらが願いのゾーンとなります。周囲を 見渡せる給料の上にあり、当時原爆の被害 を受けた地域を偉望できる場所です。この 願いのゾーンは毎年8月9日長崎原爆犠牲 者慰例平和記念式店の会場となっています 。こちらは平和の泉となります。原爆に よって体中焼け立たれた被爆者たちは水水 と埋めき叫びながら亡くなっていきました 。この平和の泉では被爆者の方々が求めた 水を飲んでくださいという思いを込めて 作られました。被爆当時9 歳だったある少女のチは 喉が乾いてたまりませんでした。水には油のようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとう油の浮いたまま飲みました。 水を飲んではいけないでも喉が乾くでも綺麗な水はない。この極限な状況において少女は水を飲むことを選びました。こちらは長崎の金となります。 この付近には魚来や戦車などを生産する 多くの軍事工場がありました。そこでは 危険な任務を遂行するため身を投げ打つ 覚悟で組織された舞台、女性停身隊と呼ば れる中学生や女学生を始め多くの人々が 働いていました。長崎の金は1977年 あのような無合い原子爆弾が再びこの地球 で炸裂しないためにもこの金を鳴らし続け て困窮平和の確率を世界の人々に訴える ため混流したものです。当時生き残った 14歳の方が多くの重賞者と共もに救援で 脱出しました。その産情はお障害忘れる ことはできません。気分には長崎の金を なれ長崎の金をなれ私たちの憎心を奪った 私たちの体を蝕ばんだあの原爆がいかに 恐ろしいものであるかあの戦争がいかに 愚かなものであるか長崎の金を響け長崎の 金を響け地球の果てから果ての果てまでも 私たちの願いを込めて私たちの祈りを込め てこちらは平和記念像となります。長崎 市民の平和への願いを象徴する平和記念像 。悲惨な戦争を2度と繰り返さないという 誓と世界困窮平和の願いを込めて作られ ました。毎年8月9日を長崎平和の人定め 記念像の前で平和記念式点が行われます。 こちらは原子爆弾無縁者追記念道となり ます。原爆によって亡くなった方の中で 身元や名前が判明してないコツ名前が 分かっていても一家全滅なので引き取り手 がない原爆無縁者の異骨を暗知しています 。名前が判明している無縁異骨については 1日も早く遺族の方に引き渡すために遺族 調査を行い遺族が判明次第異骨を渡してい ます。8964 柱のうち名前が判明しているものは122 柱です。こちらは旧長崎所裏上書の移行と なります。被爆前ここにはコンクリートに 囲まれた長崎裏刑務師匠がありました。 爆信地 の地点にあり、爆信地に最も近い公共の 建物です。当時高さ4mの鉄筋 コンクリートの兵は東壊しました。現在は 基礎部分と処刑場の地下部分が現れました 。この原爆で職員18名、感謝の住居者 35名、収容者81名、うち中国人32名 、朝鮮人13名、合計134名が即死し ました。この場所は原爆、そして戦争の 悲惨差は構成に残しています。こちらが旧 長崎刑務所、裏上刑務所の壁です。原爆が 炸裂した時、この地にあった長崎所、裏上 書の周囲を巡らしていた壁の一部です。 そして当時の状況を伝える証言が残されて います。刑務所は完全に焼け、外壁も 崩れ落ち、あちこちに何体かの遺体が 黒焦げに転がっていました。本当にもう口 では言えないひどい有あり様でした。 こちらは裏刑務市中国人見爆犠牲者追費と なります。先日に強制連行され裏刑務所で 交流されていた中国人32名が原爆の規税 となりました。この地で原子爆弾により 悲号の死を遂げた中国の方々を追すると ともに被線と核排配を使ってこの日を混流 する。こちらから祈りのゾーンとなります 。原爆10日の事実を伝え、被爆により 亡くなれた方々のご冥服を祈る空間となり ます。こちらが爆信地となります。高度約 9600mから投化された原子爆弾は松山 町171番地の上空約500mで炸裂し ました。爆直下の地表面温度は3000° から4000°とも言われ、秒速440m とも言われる爆風が遅いました。最大級の 台風の風速が秒速80秒なのでその威力が 分かるかと思います。被爆前この付近には 道路沿いに家や商店が立ち並び、奥には 三菱造船所の両となる予定の場所があり ました。一発の爆弾でそれら全てのものを 破壊され、辺り一面は原子と呼ばれる荒野 となってしまいました。爆信地から 1.5km以内の建物は全開、2.5m 以内は反対、火災は3.5kmの範囲まで 広がりました。そして長崎の被害は縦に 広がっています。その理由は山に囲まれて いたため爆風は山に遮切られ、横には 広がりませんでした。原爆落下中心地を 示す表中です。標中の後ろをよく見てみる と原子屋となった長崎の町が移っています 。こちらは旧上天使道の遺壁となります。 1958年新しい天使道建設この地に移さ れました。選手道は東洋一の壮大差を誇っ ていましたが、原爆でわずかな壁を残して 無惨にも崩れ落ちました。壁の一部には 爆風によってずれた積みが残されています 。このような頑丈女な作りのものがずれて しまうということで原爆の爆風がいかに 強烈だったのか分かるかと思います。 こちらは平和を祈るこの像となります。 碑分にはこのようなことが書かれています 。電子雲の下で母さんにすがって泣いた 長崎の子供の悲しみを2度と繰り返さぬ よう大砲の音が2度となり響かないように 世界の子供の上にいつも明るく太陽が輝い ていますようにこちらは長崎原爆 犠牲者追費となります。1910年日本は 日韓条約で韓国を完全に日本の植民地支配 に起きました。朝鮮の人々は自由も人権も さらに土地も奪われました。生活の手段を 失ったたちは日本に流れ込んでいき 、強制連行され、強制労働の日々を送り ました。日本が敗戦した時の数は約 240万人でした。さらに長崎県全体に 在住していた朝鮮人は約7万人でした。8 月9日の原爆では約2万人の朝鮮人が被爆 し約1万人が亡くなりました。こちらは 長崎地の日となります。長崎を最後の 日爆地とする地会の日です。世界から 核兵器が完全になくなるその日まで灯し づけられている祈りの日です。日に込め られている思いは長崎が世界で最後の日 被爆死であり続けるという近いがこの日に は込められています。こちらは旧山里国民 学校があった場所です。爆信地から約 700mにあったためコンクリート3階 建て建ての校舎は全開。校舎1回2回を 残して前哨しました。当時の児童の数は 1500人を超えていました。この時児童 は夏休みだったので多くの児童が自宅なの で被爆し約1300人が犠牲となりました 。その他にも暴級後掘りをしていた校長 先生を始め草りをしていた先生28名が 犠牲となりました。そしてこちらには暴空 号もあります。当時は暴空号も20個ほど ありました。8月9日も先生方は暴空号 掘りを行っていました。暴空号付近にいた 先生の中には原爆の爆風で崖に叩きつけ られてなくなりました。熱線や放射線を 浴びて負傷した先生や児童付近の人々が この暴空号へ避難しましたが、多くの人々 がこの暴空号の中で息を引き取りました。 生存者はわずか4名でした。一瞬の判断で 暴空号に逃げ込んだ3名と校舎にいた日直 の先生だけです。一瞬の判断で暴空号に 逃げ込んで助かった林秀さんの証言をご 紹介します。突然警報発もないのに聞こえ てきた爆音にいつもならどこにと空を 見上げたであろうにその時に限って身の 危険を感じ無意識に崖を飛び降り掘りかけ の豪に駆け込んだ一瞬がせと死の別れ道 だった。号の奥にやモりのようにへりつい た瞬間に多くの雷が落ちたような強烈な 破裂音が聞こえた後熱風が豪の中に侵入し てきた。8月9日の被爆で多くの児童や 先生を失い、校舎も一部を残して前回学校 は児童の被爆状況を調査するため、航空内 に縦札やり紙を出して児童を呼び集めまし た。しかし10月10日に投稿した児童は わずか100人ほどでした。以前の 1/10にも満たしていませんでした。 児童の中には衣服は汚れ栄養出張気味で顔 も泡じ白くの児童もいました。児童が教科 書も鉛筆もノートもみんな焼けてしまった と泣きながら訴えできました。それを聞い た先生たちももらい泣きをするしかあり ませんでした。学校側も施設や教材も焼け てしまい授業を再開するところではあり ませんでした。10月下旬から別の学校の 夜焼け残りの校舎を借り、焼け残りの木材 を拾い集めて形ばかりの教室を使い事業が 再開されました。しかし窓ガラスは1枚も ありませんでした。寒さが厳しくなって いく中で授業は心身と共にコールを思いで 室内で焚き火をしてその周りに身を寄せ ながら授業を続けられました。元の校舎が 戻ることができたのは翌年1946年昭和 21年6月になってからでした。こちらは 山里小学校原爆資料館となります。山里小 学校には原爆に関わる資料室があり、ここ でも命や平和の大切さを学べます。資料室 の中に入ってきました。小学校で発見され た被爆異品を始め、当時の原爆の資料が 展示されています。被爆に撮影された山小 学校の様子です。爆風によって同じ方向に 気が傾いてるのが分かるかと思います。 校舎の廊下と教室の損傷です。鉄筋の柱 以外全て吹き飛ばされてるのが分かるかと 思います。原爆により燃えた被爆の一部 です。地標表面の温度は爆信値で 3000°から4000°にも達し大規模 な火災が起きました。こちらはその一部 です。被爆当時の鉄筋です。1988年に 解体された時に発見された校舎の一部です 。こちらも同じく多くのガラスの破片が 残されています。大橋電付近の様子です。 強烈な爆風と熱線によって破壊された路面 電車。右奥に見える建物は白山国民学校 です。被爆後の裏天手道の様子です。原爆 による爆風や火災で瓦礫下の川に崩れ落ち た裏天使島の小老です。こちらは被爆者の 手すりの一部です。このように当時のもの が現在でも残されています。こちらは消失 を学れた被爆階談が写真で見ることができ ます。こちらは長井孝志記念官となります 。長井孝志博士とは1908年明治41年 島根県松島市で生まれ1931年の満州 受編と1937年の日中戦争では戦地にも 行きました。期間後は放射線医学の研究に 進むも発血病を患らいました。長崎の原爆 では長崎イカ大学病院の除教授だった時に 被爆し自らも傷を追いました。この原爆で 妻の緑さんは亡くなりました。長井博士は すぐに被爆者の急護や原爆障害の研究に 取り組みました。しかし次第に発血病が 悪化すると一筆活動に尽力を注ぎ長崎の 復興のため最後まで意思としての使命を 貫き、被爆から6年後の1951年に 亡くなりました。記念間のすぐ近くに こちらは女行動があります。発血病の悪化 によりネタきりになった博士はベッドの上 で原子病の研究と必筆活動に尽力を注ぎ ました。原爆10日から3年が経過した 1948年の春、一面原と灰だけだった町 は麦畑に変わり苦手仮説住宅が立ち始め、 人々が裏に停住し始める頃、裏の人々や カトリック信者の仲間たちの思いによって 博士のための新しい住まいが立たれました 。それがこちらの女皇道です。博士はこの 建物にキリストの言葉、己れのごとく臨人 を愛せよという言葉から女皇と名付けまし た。このわずか2畳の部屋の中から博士は 2人の子供と一緒に過ごし裏の人々を 励まし続けました。博士の作品の中で長崎 の金はレコード化され戦後の名曲として今 に歌い継がれています。この子を残しては 映画化されました。この作品の経緯は博士 の子供たちは先で原爆から逃れることが できました。しかし母親を失いやがて児と なる2人の運命を暗じた思いが大きな反響 となりました。 映画化されたこの子を残しての一部をご紹介させていただきます。 1 ヶ月でも1日でも1 時間でも長く生きていてこの子の個児となる時を先伸ばさねばならぬ 1分でも1 秒でも式を送らしていただいてこの子の寂しがる時間を縮めてやらねばならぬ。 式が迫りくる中、 2 人の子供たちに悲しい思いをさせたくない。そんな博士の悔しくてやりきれない気持ちが伝わります。 長い博士はどのように生き、何を願い、 祈り、何を残したのか、それを確かめる ためこの記念館に行きたいと思います。 料金は15歳以上の個人が100円。平和 学習や修学旅行で見学する小中構成は無料 。15名以上の団体は1人80円となり ます。開演時間は9時から17時、休間日 は12月29日から1月3日となります。 入り口に入ると長い博士の写真が大きく 展示されています。館内に入ってきました 。長い博士に関わる資料と展示物やどの ような障害を送ってきたのかが分かる映像 室もあります。こちらは水筒となります。 陸運注意として満州編日中戦争に十字中に 持ち歩いていた1Lの水筒です。初心は 長い博士が軍事の時のものです。こちらも 同じで中央が長い博士となります。発結病 と診断され、嫁名3年と宣告された時、奥 さんの緑さんに打ち上げた時の様子です。 こちらは長い博士の妻みさんが使用してい た手鏡です。みさんは見幕によって なくなりました。長崎イカ大学付属病院内 の内部です。何も残ってないですよね。何 も長い博士の映像です。原子を歩く長井 博士。1945年11月4日に米軍が撮影 した映像です。こちらは緑夫人のロザリオ です。原爆によってロザリオは焼けたれて しまいました。ひカその瞬間愛する大学、 学生、妻、研究していた多くの資料は全て 肺になってしまった。発血病が悪化し ながらもそれを支える2人の子供たち。寝 たまま現稿を書き続ける博士。顕微鏡で 研究を続ける博士。こちらは長い博士が 当時身につけていた寝巻きです。こちらは 長い博士の異品です。歯ブラシ、箸、 スプーン、ホーク、ナイフ、食器類が展示 されています。こちらはニョコ堂で2人の 子供と時間を過ごす博士の様子です。体内 被爆者の声。長い先生の気持ちが痛いほど 分かる。被爆者とは広島。長崎で被爆寺に 母親のお腹の中にいた大児が放射線に被爆 した人のことです。私はまだ生まれてい ませんでしたが、2、3歳頃になると、 よく母が原爆落下中心地あたりをよく見せ てくれました。電車が焼け焦げたもの、橋 が壊れたもの、家がこなご々なに砕けた もの、全身火傷をおった人たちなど毎日の ように目にしていました。その当時の記憶 は今も鮮明に覚えています。夜布団に寝る 時は母が原爆の落ちる時見ていたをよく涙 ながらに話してくれました。その後父が 東病生活の末に亡くなり、生活も本当に 苦しかったのですが、原爆で亡くなった人 のことを思うと、どんな困難にも負けては いけないと自分に言い聞かせていました。 今の若い人にももっと当時のことを教えて やりたいです。 長井孝志先生のこの子を残してという本があります。幼い娘さんを残して旅立たれる先生の気持ちが今になって痛いほど分かります。 こちらは浦上天手堂となります。浦上キリシタンが弾圧に対え気づき上げた浦協会。 8月9日の原爆10 日では浦上地区の新と約 1万2000人のうち約8500 人が亡くなりました。ここ裏は戦国時代の末頃からキリさんの村でした。 その後徳川幕府のキリシュタン弾圧があり ましたが明治に入りキリシタン弾圧は停止 され、新徒たちは村に戻ってきました。 そんな新徒たちが何よりも欲しかったのは 天手堂でした。1895年明治28年堂の 工事が開始され、対象年約20年の再月を かけ天手道が完成しました。こちらには 被爆した成人たちの石像が置かれています 。1945年8月9日のあの日もこの場所 に立っていた像です。像の一部には首が 吹き飛ばされた成人の像もあります。この 像を見るだけでも原爆の爆風の威力が はっきりと分かるかと思います。爆信地 からは約500mの場所です。500m 離れていても強烈な爆風によって吹き飛び ました。鼻の部分だけが不自然に黒い跡が 残っています。原爆の熱線で鼻の部分が 黒くこけてしまった後ではないかと思い ます。こちらにも拷門石というものがあり ます。江戸時代末期から明治初期にかけて おきた大規模な隠れキリシュタンの適発 事件がありました。その事件を裏番崩れと 言います。その時に多くのキリシタンが この拷門石の上に乗って厳しい拷問を受け ました。裏髪4番崩れによって新総数 3414名中613名が厳しい拷問によっ てなくなりました。その中でも有名な拷問 が缶ざらしの鶴の話です。当時22歳だっ た岩永つさんは腰巻き1枚の裸にされ、冬 の寒い風の服が耐えながら石の上に星座さ せられ夜になると裸のままローに返され、 昼にはまた石の上に星座させられました。 1週間目には体が埋まるほどの大雪となり 、雪の中にさらされ続け、18日目には雪 の中で倒れました。それでもさんは キリスト教を捨てることはありませんでし た。これを見た役人は諦めました。鶴さん は1925年で亡くなるまで生涯を キリスト教を広める活動に捧げました。 こちらは裏上天手道の小老となります。 教会によって金は欠かすことができない ものでした。金は主に祈りの時間を告げる 。ほ、喜びの金や満埋葬の金などもあり ました。以前は裏上地区でも祈りの時間を 捧げる金がなるとどこで何をしていても その場で静かに祈りを捧げていた光景が 広がっていました。この小老は鉄筋 コンクリート製で直径5.5m、重さ約 50tです。原爆によって50tもある 小老は天使道から落下し、小川まで飛ばさ れました。飛ばされた小老が顔の流れを 塞ぎました。しかし当時50tもある 小老量を動かすことができず顔の流れを 変える工事を行いました。吊されていた金 は経済にある記念館に保存されています。 天手道の敷地内には原爆異物室もあり天手 道に関わるものが展示されています。被爆 した聖母マリア像です。爆信地から約 800mの付近の瓦礫の中から発見され ました。どこか悲しみがこもったマリア像 だと感じました。アンジェラスの金です。 1922年フランスのシトが起造したもの ですが原爆の爆風によって小老と共に川ど に崩れ落ちた金です。十字架のキリスト です。村上天使道正面入り口上部に掲げ られていました。天使道再権後に元の場所 に戻されましたが、キリスト像は損傷が 激しくなったことで治療室で保管される ことになりました。こちらにも同じく原爆 で吹き飛ばされた天使像の頭部が多数展示 されています。どの像も悲しい表情に見え ました。天手道の瓦礫の中から焼け残った 聖母マリアの頭部も発見されました。絵で 表現された被爆マリアも展示されています が、灼熱地獄の厚さと聖母マリアの悲しい 表情に心が痛みます。こちらは長崎イカ 大学正門柱となります。先ほどお話しした 長い高志博士も除教授として活動していた 施設です。当時長崎イカ大学は爆信地から 約500mから700mほどの小さな丘の 上にありました。原爆が投化した時約 900人の学生が在籍していました。その 原爆で76とあった校舎などの建物のうち 木造だった65等が東海して教職員や学生 850人余りがなくなりました。その原爆 の威力を今に残しているのがこの長崎イカ 大学の門柱です。8月9日大学では12年 生は抗義を受けは核教室にいました。木造 の本感と校舎は原爆策裂と同時に東海 そして火災を発生し前哨しました。5つの 教室の跡から学生が机に座ったままの姿で 発見されました。当時この門柱は大学の 正門にありました。高さは約1.8mで 台座の上にまっすぐ立っていました。 しかし原爆の爆風で9cmもずれて傾き 台座との間に最大で16cmの隙間ができ ました。ただこれは後に爆風の圧力を測定 する基礎となりました。また大学の奥には 原爆医学資料展示室があります。平日の9 時から16時まで自由に見学することが できます。生き残った学生たちが懸命に 被爆の治療にあたりました。資料室では 被爆直後の大学の状況などをパネルで展示 していただいております。こちらは被爆 時計となります。長崎イカ大学不足病院の 正面玄関にあった時計です。原爆付近は 火災から免が時計の針は原爆が炸裂した 11時2分で止まっています。この白意を 着ていた方は患者を診察中に被爆しました 。体に受けた約30か所以上のガラス編に よる出血で真っ白だった白意は血に染まり ました。こちらは被爆者の大腸です。強い 下痢と懸面が見られ下痢に血が混じる石里 の流行が心配されたほどでした。こちらは 被爆者のコツです。増結系統の全ての細胞 が作られないのでスポンジのようになって 見えます。こちらは被爆者の腎臓です。 肉眼からでも晴れていることが分かり腎臓 の一部には出血も見られます。こちらにも ゲストハウス旧長崎イカ大学ハイ電室が あります。なぜゲストハウスと呼ばれて いるかと言いますと、戦前はゲストハウス として使われていたからです。しかし先日 中はハイ電子として使用されていました。 とても分厚いコンクリートで作られていた ため、爆信地から近い距離であったにも 関わらず、大きく破壊されることもなく、 当時のままの形で残りました。先生と学生 500人ありがこのキャンパスでなり、 生き残ったのは地下室と暴空号にいた12 人と言われています。8月9日の11時2 分は講義中だったのでしょうか。先生は 教団で学生は席に座ったまま被爆し、後に 骨となった状態で見つかったという証言が 残されています。何が起こったか分から ないまま先生や学生はなくなってしまった のかと思うととても苦しいです。現在は 長崎大学の関係者しか宿泊できませんが 被爆建物が宿泊施設として使われているの は長崎でここだけです。こちらは三納神社 2の鳥となります。当時三納神社の三道に は1の鳥ーから4の鳥までありました。8 月9日の原爆日により1の鳥と2の鳥を 残し後は東壊してしまいました。1の鳥と 2の鳥が残った理由は爆風に対して平行に 立っていたからです。石の鳥はほぼ原型の まま残り、2の鳥は爆風でねじま曲げられ 、吹き飛ばされたものの奇跡的に半分だけ の1本柱の状態で残りました。しかし戦後 から17年経過した1962年1の鳥は 交通事故によりしました。現在も当時の 原爆日のままの姿で立っているのは半分 だけ残った2の鳥だけとなりました。被爆 当時町内にいた人は約2000人と言われ ています。爆風で吹き飛ばされたり、東壊 した家の下敷となって約1300人余りが 犠牲となりました。この場所は被爆直後 から灼熱の日から逃れようと避難する人々 が山を越えるために通過していきました。 階段を登ると吹き飛ばされた半分の鳥が 残されています。奥には吹き飛ばされた 灯老も残されています。このような頑丈の 石が吹き飛ばされること本当に信じられ ないですよね。こちらは坂本町民原始爆弾 純の日となります。鳥がある地名は坂本町 ですが、この付近で犠牲になった住民を 痛む日があります。こちらには当時町内 会長が見た被爆後の状況が刻まれています 。町内会長は8月9日仕事で県外に出張し ていました。2日後の11日帰国して目に したのは一面の原。原爆で奥さんや子供も なくしました。実はこの日は原爆で東海し た三納神社の鳥の柱を譲り受け、住民の 方々が手作りで火を混流しました。三納 神社の被爆楠の木となります。三納神社の 入り口にはどっしりと根を下ろした大きな 楠の木が力強く伸びています。しかし原爆 によりミに気裂が入り枝や葉っぱも 吹き飛ばされさらに熱線で焼かれ一時は 完全に枯れてしまう寸前にまでなりました 。具体的にはミの上部分は折れ、ガラスや 石がミの中に食い込んでいました。しかし その後葉っぱが生え、奇跡的に蘇えること ができました。70年は草が生えないとも 言われましたが、楠の木の生命力に当時 八の原から復興に向かう被爆者の方々を 勇気づけました。平和や再生のシンボルと して親しまれ、現在では長崎市の天然記念 物に指定されています。この楠の木は樹霊 500年以上とも言われています。 爆風でミの空洞の中に入ってしまった当時の石や河が残されています。爆風によって石や河が舞い上がり空洞の中に入ってしまったのだと考えられています。 2 の鳥と共に原爆の脅威の資料をこれからも構成に残していくことが大切だと思いました。 私が原爆を放った長崎の被爆者たちに謝りたい。 長崎に原爆下のレバーを引いたカーミット B阪ハ氏はアメリカ空軍の軍人です。 彼の夢はアメリカンフットボール選手に なることでしたが、大学在学中に第2次 世界対戦が勃発。B阪はアメリカ陸軍航空 隊に入退し、パイロットの訓練を受け撃と なりました。1945年8月6日、広島 原爆作戦の時には観測機B29グレート アーティストに登場し、世界で初の核兵器 10日の光景を目撃しました。8月9日、 長崎原爆作戦では原爆を搭載したB29 ボックスカーの爆撃として原爆日のレバー を引きました。8月9日のこの日、B阪市 は27歳の誕生日を迎えた日でもありまし た。終戦から間も9月、B阪市は被爆後の 長崎市を訪れました。 広島原爆作戦の基長、ポールティベッツ市や長崎原爆作戦の基長、チャールズスウーニーシらは原爆下は多くの米や日本人の命まで救った [音楽] と主張し続けましたが、 B阪市は終戦から40年経った1985 年に 被爆者に謝罪したい と長崎氏へ訪問を希望する手紙を出しましたが被爆者団体の反対に会い中止となりました。 B阪氏はレバーを引く瞬間をこのように語っています。 長崎に向かっている時に雲が晴れた瞬間でしょう。目標が見え、写真のように綺麗でした。私は走っていって爆弾を放ちました。 [音楽] こちらは旧白山国民小学校となります。現在は白山小学校平和記念官となっております。パク信地から 500m の丘の上に信地から最も近い小学校でした。 頑丈な鉄コンクリートで作られた3階 建て建ての学校でしたが、原爆により 大きく破壊され、2階と3回は前勝しまし た。元々は真っ白な建物でしたが、原爆の 熱戦でしょうか黒ずんでいるのが分かるか と思います。いかに原爆の力が凄まじいか 想像つくかと思います。この原爆で先生や 生徒、軍の仕事を手伝っていた学生など約 1400人が亡くなりました。現在は記念 間として命や平和を学べる施設となって おりますので早速中に入ってみたいと思い ます。周囲の気が倒れずまっすぐに立って いますがこれは真上から爆風を受けたから です。校舎が崩れた様子で間近から階段灯 を納めた写真です。こちらは埋め込まれて いた木材ですが、窓から入ってきた熱線を 受けて真っ黒くなってしまいました。被爆 したカラス残です。被爆しながらも過ろじ て生き残った姿に原爆の悲惨さと平和の 大切さ訴える象徴として地元の方々に愛さ れてきました。こちらは東海前の校舎です 。終戦後の8月20日から24日までの間 に撮影されたもので東海前の校舎を地上 から撮影した唯一の写真です。現在の長崎 市営陸上競技場付近から撮影した白山国民 学校です。あたり1面何も残ってないです よね。気がつくと、お母さんは顔に大や けど覆い高級号に避難しました。おばあ さんは家の下敷になってしまい、間も なくなりました。一瞬のうちに腕と脇腹に 火傷を追った私はあまりの暑さに思わず池 に飛び込んでいきました。美しい晴れぎを 着て薄下をしています。灰色の街の中で そこだけは別世界のようでした。2人は これから仮想されるところでした。こちら は散乱した美骨です。連絡により学校で 亡くなった方々を仮想した後の様子です。 この状態が10月を過ぎてもそのままに なっていました。その後引き取り手が なかった方はお寺等に埋葬されました。 敷地内には少年平和像もあります。実際に 原爆で両親をなくした小学5年生の男の子 がモデルになっています。終戦から6年 経った1951年8月8日に購入されまし た。台座に書かれている平和は小学1年生 の時に被爆した方が6年生になった時に 家族をまってある仏壇の前で練習した文字 です。白山小学校の生徒さんは峠校や グランドに行く時など平和像の前を通る際 は必ず手合わせるそうです。こちらは長崎 県空号本部と竹山暴空号となります。戦事 中は県関係者の暴空号でした。空州警報が 発例されると県ジラが集まり警備や等の式 に当たっていた場所です。内には地や警備 部長室などが配置されていました。このは 全て内部で繋がっている人口号です。現在 は3つの入り口があります。豪内に入ると 当時のものや線があります。当時使われて いた水道が残されています。当時のパイプ でしょうか?錆びながらも残されています 。後内の様子です。匂いは臭いですが、今 まで行ってきた暴風号よりもひんやりした 感じはありません。こちらが原爆通時の壁 の一部です。当時は物資の不足だったこと もあり、鉄筋が手に入りづらかったという ことで、木材の外側にセメントと水と砂を 混ざ合わせたモルタルという建築素材を 塗って固めていました。上を見上げると 所々に当時の作りが残っています。当時は 電線も通していたのでしょうか。さらに奥 に進んでいきましょう。通路の長さは約 20から30mほどで、大人1人か2人が 通れる広さとなっています。壁にも一部色 が違った箇所がありますが、こういうのも 当時何か貼ってあったんでしょうか? さらによく見てみると釘で打たれた跡が 残されています。下にも当時のもので あろう鉄パイプが差し込まれています。何 に使われていたんでしょう?通気口もあり ました。通気口はどこの航空号でも必ず見 てきましたが、ここにも通気口がありまし た。少し進んでみると通気口と書かれた 場所がありました。中を覗いてみると すごい空間になっています。足場はかなり 老朽化が進んでいました。上から見てみる とものすごい迫力です。これは上まで続い てるのでしょうか?さらに奥まで進みに ある部屋を覗いてみましょう。この部屋は どのような用途で使われていたか詳細は 分かっておりませんが、奥行きは10m から15mぐらいです。部屋には台座が あるので発電機でも置いていたのかもしれ ません。この部屋は長い気裂がこのように 入っていました。ちょっと危ないですよね 。次は知事室に入ろうと思いますが、多分 当時はこの色が変わっている箇所に知事室 のような札がかけられていたのかもしれ ません。こういうのも当時のままなん でしょう。老朽化しているものの保存状態 もよく残されています。こちらが知室と なります。広いですね。広さは6畳ぐらい で高さは約3mほどです。1人なら十分な 広さだと思います。壁に数字や記号が書か れています。これは何かの暗号だったの でしょうか?高さ1m、幅1.5m、 奥行き1ほどの作りです。ここはもしかし たらご親煙を置いていたのかもしれない ですね。排水の設備も当時のまま残されて いるんでしょうね。しっかり残っています 。続いては三房調出に入りたいと思います 。こちらが三房調出です。警察部長がいた 部屋となります。壁にはウ5と謎の記号の ようなものが書かれています。ここが今 現在値でここが握地。2.7kmの距離が あってでここで火災側はすごかったんです ね。で、結構長崎はその縦に原爆の被害は 大きいで山に散歩が山囲まれてて広島の ようにこう円型ではなくてこう長方形と いうか縦に広がったんですよね。だから ここから煙上がってるような感じだった。 見えたっていう証言が起こってますね。 この暴空号から。続いて3房室に入って いきたいと思います。知事室や三房調室の 部屋より広いです。大きい地図を広げたり していたと思われるのでこのぐらいの広さ が必要だったのかもしれません。釘とか 刺さったまま残されていました。ここにも 何か物でも引っ掛けていたのでしょうか? 保存状態も良好ですし、天井も綺麗に残さ れていると思いました。それでは通信室に 入っていきます。この部屋も3室のように 長方形の形をしています。下には気になる ものが残されています。地面から出ている 特器物は台座のような役割として通信室で 何かしら使われていたものなのかもしれ ないです。こちらの木材も何かに使われて いたのでしょうか?用途は不明ですが すごいですね。1つだけ残された鉄のよう な棒を発見しました。めちゃくちゃ突き出 ていますが、こちらも何かの用途に使われ ていたのでしょうか?次は電室に入ります 。同じく情報形の形をしている電レイスに 入ると何か展示物のようなものを見つけ ました。暴空号から見つかった当時のもの が展示されています。こちらは感動となり ます。同速建てと反射鏡を取り付けた携帯 用価具です。こちらは地図のドアのと手 です。このように残されてることが本当に すごいですよね。こちらは救援用電話部品 の一部です。耳当てのようなものもこの ように残されています。こちらは無線機の 真空間です。こちらもすごいですね、当時 の電話のバッテリーとなります。横から見 てみるとさらにバッテリーのおかげが 分かりますね。1945年8月6日広島に 原爆が投化されたことでその会議を行う ため8月9日の午前中この後に県の関係者 が集まりました。会議をしようとしたその 時2発目の原爆が中崎に投化されました。 入り口のは爆風で吹き飛び、豪内の電気も 消えました。から爆信地までは2.7km あり、山を超えた場所だったので状況が 把握できませんでした。当初は被害も 少ないだろうと思っていましたが状況が 判明してくると何度も説明状況を電方で 送っていました。もう1箇所5の内部を 見れる場所があります。それがこちらです 。それではどのような様子か後内を除いて みましょう。ここはとても広いですが、 材料や機械、土木関係者の人たちの機械室 でした。所々黒い跡が残っていますが、 これは原爆の影響ではなく、戦後ここで 何かしら燃えて残ってしまった後となって います。水の流れる音もすごいですが、 あの先は一体どのようになっているの でしょうか。はい。いかがだったでしょう か?1年半前にもね、この長崎県を訪れて 原爆を通じたねことをね、お伝えしてき ましたけども、今回はね、よりもう少し 深くいろんなね、角度からお伝えさせて いただきました。また、え、機間を見つけ てね、長崎に来て原爆、そして戦争、命和 な大切さをお伝えていきたいと思います。 もしね、この動画良かったと思って いただい方は是非高評価そしてチャンネル 登録よろしくお願いいたします。え、命 平和の大切さ伝えていきますので、 引き続き応援よろしくお願いいたします。 え、コメントもですね、一言いただけると とても励みになります。ではまた次回の 動画でお会いしましょう。
原爆投下から80年が経ちました。
戦争を知らない私たちはこれからどうしていくべきでしょうか?
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12 Comments
どこの国でも、今後一切あってはいけないことです。
コレ☝戦争を終わらせる為の投下する場所を選定していたのでは無いの。実験をするのに適した場所の選定委員会だよ☝
このチャンネル本当にタメになる
原爆の恐ろしさだけは絶対に風化させてはいけない
祖母の従姉妹が亡くなった日です。原爆はもう、落としてはだめです。
昔から思ってましたが、長崎も原爆を落とされた重要な都市なのに、広島の方ばかりが表立っている気がしますよね
私の小さい頃も、広島の原爆についてばかり、夏休みに聞いていた気がします…長崎は教えて貰えてたか記憶に無いくらい、教えて貰っていないか、サラッと触れるだけだったんだと思います
別動画ですが、長崎は広島以上に情報統制が厳しく、更に実験として被爆者を利用していたため、あまり悲惨さが広がっていない…と言ったような事を言っていました
もちろん、広島の原爆もこれからも、永遠に語り継がれていくべきお話です
ですが、長崎のお話も、後世に残して行って欲しいですよね
戦争や核の悲惨さから目を逸らさず、常に戦争と向き合って生きて行くことが、核使用された唯一の国が出来る世界で1つの事だと思います
このマリア像を見る度に、
愚かな行いに聖母の涙すら枯れてしまったのか…
と思ってしまいます…
ビーハン氏、もしお亡くなりになっているのであれば2度とこのような愚行がないように神の御許で祈り続けてください…
「原爆投下 活かされなかった極秘情報」
「空襲警報」もでず「防空戦闘機」も上がらず「無防備状態」で……
この世の地獄とはこのこと
1945年8月9日長崎原爆でご家族を失われた遺族様お亡くなりになられた方に心よりご冥福を申し上げます
初めましてnazoと申します
よろしくお願いします
九州の学生が必ず修学旅行とかで来る場所でしたね。私も中学生の時訪れました。
凄く怖い思いをしてすぐに資料館出てしまった。原爆はそれだけ悲惨な事なんだと思う
7月26日の無条件降伏に応じていればあるいは…