松江市史Web講座第16回「戦後80年 松江市の戦争遺跡をあるく―松江連隊遺跡群―」前編(講師:若槻真治氏、高嶋敏展氏)

2025年はアジア太平洋戦争の終戦から 80年となる節めの年にあたります。 今回の講座では島根県で戦争遺跡研究を 行っている若月慎司と写真家の高島年信を 講師に迎え、今も残る戦争遺跡を歩き ながら軍都としての末裔の歴史をご紹介 いただきます。 前編では松江市腰原にある島根県立松江 工業高校に残る松江63連帯平営遺跡。と してここから出度し、現在は腰原小学校に 修 連帯異物を紹介します。 皆さん、こんにちは。え、戦後市会議松の 若月シ司と言います。あの、今日は、え、 松江のですね、連帯、え、遺跡を、え、皆 さんにご紹介したいと思います。戦後 市会議松江は市民がですね、近大使を一緒 に学ぼうということで作ったグループなん ですね。で、ま、それで活動してたんです けれども、あの、ま、コロナでですね、 そういうあの、活動ができなくなって、え 、ま、その時にですね、あの、ま、こう いう戦争遺跡についてちょっと まとめてみたらどうかという風な提案を ですね、え、ま、今日も来てくれてます けれども、写真家の高島年信さんがですね 、え、ま、そういう提案を僕にして 送れてたんです。高の あ、はい。よろしくお願いします。高島俊信です。えっと、僕はですね、で唯一あの戦争テーマにしている写真家だと思います。あ、芸術家だと思います。 あの2015年戦争から70年の年から、 え、戦争の発表してるんですけど、その 前後で実際自分が撮っている写真っていう ものが どういうものなんだろう?戦争のあ、作品 の背景になるものまでちゃんと調べてこう 作品化したいんだけどその資料っていうの 図書、県立図書館とか島図書館とか いろんなところを歩くんですけども、実は こう手に取ってパとこれが何?って分かる ようなものがほぼない。ちょうどコロナで 戦後司会機の活動自体がすごくこう人を 集められないっていう状況で、じゃあ何 やろうかっていう時にもう僕は自分で戦争 遺跡のことを調べようかなと思ってたん ですけどやっぱり資料の読み込みとかそう いうのってやっぱり 普通の人間にできないんですよね。 それで若さんが確か大学院で高古学を勉強してたんですか? 日本ですね。 日本ですか? はい。 で、なんかそんなのを知ってたのでなんか寂しそう。コロナで誰も会えなくて寂しそうだなと思って、それでこう作ってみませんかと言ったのが、ま、このさっきの本の最初になりますね。 僕も最初はですね、あの、こんなに島根県に戦争席がそんなにたくさんあるとは思ってなかったんですね。 で、それでやり出したらもう非常に たくさんあって、ま、結局松江市と、え、 出雲市と運難市、この3ぐらいでまとめる のが精一杯だなと思って、え、作ったのが この島根の戦争遺跡です。ま、おそらく、 ま、島根県では、あの、戦争席のことを 色々お調べになっておられる方は、ま、僕 らの先輩に当たるような方たくさんおられ たんですけれども、ま、こういう形であの ガイドブックとして、え、三子にわる戦争 をもらしたようなものはですね、あの、 これまで出ておりませんでしたし、あまり 皆さんそういった視点では、あの、戦争の ことを見ておらなかったので、ま、あの、 ま、新たなですね、え、戦争遺跡に対し て、え、ま、1 つの接近ができたかな、接近できたかなということで作ったのが、ま、この本でした。 63連隊は元々日戦争中の 1905年8 月に広島と小倉で編成され、すぐに中国大連などに派遣されました。 その後日本に帰還し、1908年11月 から松江市腰原に中屯を開始しました。 平営は東西約500m、南北約300m あり、ほぼ全体を土類が囲んでいました。 敷地の中央には大きな衛定があり、衛定に は訓練を行う連産が立てられていました。 また衛定の南側には兵士が生活する弊社6 、皮服倉庫、水場、両松、兵器などの建物 が立ち、衛定の東側の1段高いところには 連帯本部、商候集会所、イ務室、弾薬など が立っていました。 はい。あの、今ですね、立っているのが これが、あの、この連帯の平営の、え、 正門です。これは今いる場所っていうのは 一されたところです。本来はあの、もう ちょっと向こうにあります。あ、ある本来 のその平に入る入り口にあったものです。 現在、ま、ここに蓄されてますけれど、 まだあの当時の専門が、ま、そのままで ありませんけれども、ま、残っている非常 に貴重なものだと思います。あの、市民に とっては、市民とか県民にとってはですね 、ここにその連帯の、え、こういう施設が できたっていうのはすごく大きなことだっ たんですね。あの、1つには、ま、 もちろん軍事的に、え、こういう、ま、 都市にこういう1500人とか2000人 の陸軍の軍隊が駐在するっていうことは 市民にとっては非常に軍事的な意味で非常 に大きなあの ものだったんですね。も、大きな影響が あった。だから、ま、例えば松江市軍と いう風な呼び方をすることもできます。 あの、こういう、え、1500人とか 2000人規模の連帯がある施設っていう のは全国に、ま、一件に1個ずつぐらいは あるんですけれども、それぞれがやっぱ 軍事的な国家を形成する上では非常に 大きな意味を持ちましたので、あの、松市 もですね、ま、1つの軍島になったという 風になことが言えます。それと同時にです ね、あのこの連帯をここに作る、末に作 るっていうことは非常に町の人にとっても ですね、1つはあの経済的なあの非常にま 、新興策として非常に誘致活動するんです 。で、ま、あの、最終的には米子、え、 鳥取県の米子と松江がその争ったという風 に言われますけれども、ま、それに、え、 誘致活動に勝ってですね、え、この末裔に この連帯を、え、持ってくるわけです けれども、ま、1500人とか2000人 の方が常時ここにいるわけですから、非常 に、ま、そのための経済的な利益が非常に 大きいという風に当時の人は考えた。だ から、ま、この連帯をここに、え、誘致 しようということで、いろんな政治家有力 者が活動します。ま、その結果としてここ に生まれたんですね。ですから経済的な 意味でも松市にとっては非常に大きな意味 があった。ま、それと同時にあの、ま、 こういう軍主義のその社会の中でその陸軍 の果たした役割っていうのはものすごく 大きいわけですね。ま、そういった意味で は精神的なシンボルであったという風な ことも言えます。また社会的にもここには 長兵をされて王将をされて、え、訓練を 受けに来る市民県民がですね、たくさん ここに若者が来るわけですね。来てここで 何年間かの、え、訓練をしてまた帰って いく、あるいはセ地に、え、出動すると いうことになりますので、社会的にも非常 に大きな意味がありました。え、ま、この 専門はですね、そういうあの、ま、杖の 連帯の遺跡を、ま、象徴するような、え、 市民にとっても非常に、え、なん、なんと 言いますか、こう青木見るような、え、 場所のであったという風に思いますけど、 ま、この専門が残ってるっていうのは非常 に、え、貴重なことだと思います。今、 えっと、これ国道、国道だった。剣道だっ たっけ?この道路は、あの、この連帯を ここに持ってくるために、え、作った連帯 道路という風に当時も呼ばれていますので 、ま、あの、街づり都市計画的にもこの 連帯をここに、あの、作ったっていうのは 非常に大きな意味があって、ま、杖の 街づり自体もこれこの連帯がここにある ことによって、ま、大きく変わります。 え、ま、津の駅、それからこの腰原、ま、そういったものを結ぶ道路っていうのが、ま、これによってすごく整備されてくるので、あの、都市計画的にも非常に大きな意味を持ったと思います。 あとちょっとわかんないのが、あの、松江 63連帯っていうじゃないですか。 どのエリアの若者たちで何歳ぐらいから何歳ぐらいま、多分年代によって徴された年代は違うと思うんだけど大体どのぐらいのエリアから人が集まってて何歳ぐらいの若者たちがたんでしょうか? あの松の63 連隊有名なんですけれども、え、ま、ま、松市民にとっては有名なんですけれども、あの、ほぼの、え、ここに弊社があった、え、大体 8割ぐらいは63連帯なんです。で、63 連帯が中国に行ってしまうので、え、その 後142連帯っていうのがここに駐在し ますけれども、それは、えっと、2年半 ぐらいなので、え、ほとんどの期間32 年間は63連帯がここに駐在します。え、 で、毎朝の気象ラッパからあの寝る時の 就寝ラッパまでここにそういったラッパが 成り響くその市民の生活には非常に大きな 影響を与えるような63連帯がこに 存在したということで市民にとっても非常 に63連帯の意味の大きかったんだろうと 思います。で、あの それとなんだっけ、え、あのどのエリアの 若者たちがあのエリアです。 エリア、あの、ここに、え、調兵されてくる、え、若者、ま、 20 十歳になって兵検査を受けて、大体夏に平検査を受けて翌年 1 月に入るわけです。ま、ここに来るわけです。 で、もちろん全員じゃなくって、その講守 合格者のその、ま、一部、一部って、ま、 ま、ある程度の人なんですけど、ま、全員 じゃないんですけども、あの、公衆合格者 の、え、大半が、ま、ここに来て訓練を 受けることになります。で、そのエリアは 実は時代によってちょっとずつ変わってき ます。あの、最初はと、あの、岡山県の 一部が張ってたり、それから広島県の一部 があったり、え、最終的には岡山県、広島 県からは覗かれて、あの、えっと、鳥取県 、鳥取県の、え、西武から、え、島根県の 、え、ま、東部にかけて、ま、松江市、え 、それからですね、ま、最終的に、あの、 ここに来るのはですね、え、松江市、それ から旧八日軍、旧の野木 軍、旧二軍、旧大原軍、それから沖、沖戸から鳥取県の白軍、日野軍、東北白軍、え、木高軍、 え、ま、そういったとこですね、あの、二歳になった若者たちが、ま、ここに来る、ここに来て、え、ここで訓練を受ける。 で、ま、親子さんたちも心配だからたまに はここに面会に来ると、ま、面会室という のも実はここにあるわけですけれども、 面会に来るということで、ま、ここがそう いう、ま、長兵であの来る若者と、ま、 それを尋ねてくる家族、ま、そういった方 たちとの、ま、集まる場所になるんですね 。あるいはその戦死してしまったら、ま、 ここから異骨を、え、陸軍墓地に運ぶと いうことで、あの、非常に、ま、そういっ た意味でも、あの、当地としてはですね、 非常に大きな、え、意味のあった場所です 。ここのあのここの 石畳とそちらのあのえ同窓会館の壁面は 多分あの各ちゃんと分かりませんけども おそらく こうこの63連帯の移行を一したものだと 思います。で同じようにこの石畳がもう ちょっと行くとあの当時の廊下部分の石畳 として同じ石材のものが残ってるので多分 まくされたもんだと思います。 ここには元々あの商集会所というのがあっ てですね、あの軍隊というのは階級性です から商候それから純資一般の兵態っていう 風にま、階級が現と分かれています。ま、 ここは1番上のクラスの商候クラス、商候 の方が商行って言ったら、ま、要するに 勝意以上に、ま、ま、対象までっていう ことになりますけども、そういう商候 クラスの方の、え、集まる場所、集会書で やった場所です。で、この裏に開者という あの施設もあって、そこはあのそういった 現役の兵隊とから在軍事、ま、かつて兵隊 だった、え、方との、ま、渾新の場って、 まあまあ、ま、時には宴会上になったり、 え、演説会の場所になったりするわけです けども、そういった、あ、施設も、え、 あって、ま、ここがそういう風な、ま、 その、ま、なんていう市民との交流の場 みたいな形になってた場所なんですね。 ですから、ちょっとここに見ていただくと分かるのは、ここに遠形のあの砂利の跡が残ってますけど、ま、ここがおそらくこういった集回所のあの、ま、車止めだった、車回しっていうかね、ま、ロータリーだった場所 じゃないかと思います。で、ま、今はからは全く想像もできませんけれども、ここから正面に見るとですね、ここに、ま、本部があったんですね。 で、これが、ま、ここのその連帯の 1番中数の 期間です。ま、いろんな司令を出す、あるいはそういったあの上のクラスの人たちのその、ま、ジムを取ったりするような場所がここに並んでいた。今全くそのおかげもありませんけれども、あの、本部があった場所です。なり物が写真から見るとですね、なり物がここにはあったと思われます。 これが既存なのかどうかがちょっと確得ないですね。ちょっと分からないですよね。 分からないけど多分ね、その石の感じ うん。 これが戦後こういうことをやったとは思えないんで はい。 あの、おそらくこの平営があった時のあの、元の姿なのかなと。ま、あの、奴隷自体はもうちょっと高かったかもしれない。 はい。はい。 から向こう側にもちろんあったんで、向こう側もうその道路で切られてなくなってしまってるけど、ま、そういうド類で囲まれてたっていうことですね。 ここはですね、あの、この平の連帯の遺跡の橋になります。 うん。 え、ここには1 番、ま、この連帯の連帯の中にも結構肯定差があって、 1番高いところになります。 で、ここにはあの皮膚倉庫とか弾薬が置か れています。この僕の後ろにあるこのま、 平らの面に皮膚倉庫、え、軍服とかですね 。ま、そういったあの兵隊の服を保管する ような倉庫があって、え、さらにこの1番 あの奥にはここに弾薬が置かれていた弾薬 があったところです。で、え、弾薬の痕跡 がですね、わずかにまだ今でも残ってます 。非常に、ま、この、え、もうすでに色々 開発されて残りは非常に少ないんです けれども、ま、その、ま、ま、ま、唯一 っていうか非常にそれに近い、え、かつて の弾薬の、え、がですね、ちょっと残って ますので、ま、それを見ていただこうと 思います。 ちょっと分かりにくい。もうこういう建物 が立ってるのでちょっと分かりにくいかも しれませんけどここに跡が残ってちょっと 高まりがありますけれども、ま、ここは 本来の跡なんですね。土類でその弾薬って いうの、ま、非常に、ま、危険なので、 その爆発した時に爆風が飛びますから、 その土類のあの弾薬の周りをですね、建物 を立てて弾薬を収めて、その周りをこう いう土類で、ま、囲っていた。あー、その 後が、ま、ここの、えー、この、ま、土の 高まりなんですね。 で、これはこちら側から見ると、え、よりはっきり、あの、このど、ド類がもうちょっと向こうまであった伸びて、伸びていたっていう感じで。 うん。ずっと伸びてて、 で、同じように向こう側にもド類が いや、 あったか。 いや、この類が多分もう向こうに行ってるんです。 このうん。その一区角 だから多分こちらの斜面がここ辺りにあって うん。うん。ま、この鳥を横を出して ふ。 で、この向こう側に行くとで、その向こう側に弾薬を置くとで、その周りをこうこういった泥類で囲っているということですね。その土類の後です。これはちょっと登ってみましょうか。何だったらよいしょ。お、よいしょ。このぐらいの工程さ。 うん。 これがずっと多分繋がっててで、ま、全体を囲っているような感じなんですね。 うん。うん。えっと、この爆弾庫の横にはですね、あの、これ今入り口はちょっと小さく見えますけど、ここに地下号が掘ってあります。あの、多、ま、中見てみたくと分かりますけども、結構広い地下号です。 で、本来こういうものは、あの、こういう 土類に作ることはその類を強度弱めて しまうことですから本来作らないんです けども、あの、ま、結局日本が戦争に、え 、選挙が悪化してですね、あの日本にもB 29だとかそういう、え、アメリカ軍の 関西機とかですね、もうたくさん飛んで くるとで、空習を受けるようになります。 で、そうなってくると、ま、松江も1番先 に、ま、狙われるのはこういった弊車です ので、え、ま、兵の建物自体は非常に空 から見るとですね、目立つ建物、当時とし ては目立つ建物ですから、非常に狙われ やすいということで、ま、兵隊の命を守る ために、え、こういう土類にですね、 おそらく今はっきりあの、そうだっていう 風に、あの、断定できるのは、ま、数箇所 なんですけれども、え、おそらくも無数に ですね、あの、こういう、え、ま、 いわゆる暴空号、ま、地下号ですけれども 、暴空号が作られて、ま、そこにいざと なったらですね、あの、ま、逃げ込める ようになってた、あ、わけです。ま、そう いった、あの、実はそういった暴空号もが ここに残ってるっていうことも、ま、これ まであまり知られてないことだと思います 。 ただこれも非常にその戦争末期のですね、ま、配線直前のその末の平の状況を、え、物立っている非常にま、貴重な うん、 意向じゃないかなという風に思います。ここも変だよね。マさん。 そうなんだ。 これ変な変な感じがする。 そこからが ここがなんかどうも気になる。あ あ、そうなんです。 だこからがその皮服倉庫なのかなっていう感じ。 これがなんかこうおかしい。なんかなんか違和感がある。だこういうのがね、ちょこちょこまだ残ってんだよね。こういうよくわかんないのがね。 ま、ちゃんと調査 しないと こなんかここをわざわざ残してるってのは そうそうそう。この溝ね、 だから元々あった倉庫の上にこの建物が立つから元々の基礎が残ったよとかそういう可能性はありますよね。 そんな感じがする。 しますよね、これは。 で、こっちが、 こっちが 建物の廊下部分だったんじゃないかと言われちゃいるが、 こういうあの石畳とかそのああいった うん。 コンクリートの土台とかからさっきのあの木号の向こうにちょっと貯めますみたいなこいとね。 うん。ああ。 うん。 ああいう、ま、点々といくつかなんかよくわからんけど、 あの、当時の移行かはそれ移行を使って、え、たものじゃないかなっていうものがいくつか残ってるので、ま、こういうのはきちんと総合的にあの、もうちょっと調査してみないと我々だけではなかなか難しいね。 うん。警察とか一緒に入れるといい。 ここは、 えー、この中にはこの大井連場と言って、ま、屋根付きのですね、今で言えば右練習上みたいな、え、そういう正性格のものなんですけども、大井という、ま、かなり大きな建物です。これ今の入口に立ってるわけだけど、ここにの上に屋根があって、え、なり行きもある。 ま、そういう建物が、え、この連帯全体の中に 3と作られていました。で、そのうちの 1と、これ最後まで残ってた はい。 連場の門を一したんですね。で、ま、ここの中でですね、兵隊はあの、ま、日本の陸軍の特色の 1つはやっぱ白平線を重視する うん。ふん。あの、重権を使って 特組み合いの戦いをするで、そして敵を 倒すという白兵戦を重視したあの訓練をし ていたわけですけれども、ま、そういう 訓練を、ま、この建物の中で、え、ま、 やっていたところです。ま、その、え、 この、あの、連帯席の中で建造物として 残ってるものとしては、ま、今残念ながら この蓄されたこのレガ作りの、え、大い 連上のあの、ま、入り口部分 これが唯一ですね。 これは確か僕があのこれを保存しようとかという話が少しなんか市民で盛り上がったような気がありますけども、今こう同様のものは県内に残ってるんですか? あの浜田高校に、え、まだ残ってます。 浜田高校は21連帯、島根田県には2つ 連帯があるんですけども、63連帯とその 浜田の21連帯、え、で、その21連帯の あの大い連場は現在でも残って、今部活で まだ今でも使っています。あの国の登録 有計文化罪にも指定されています。え、ま 、ついでもこういったのがつい最近まで 残ってたんですけども、え、で、え、これ を残して欲しいという活動もちょっとあっ たんですけれども、残念ながら壊されて、 ま、これのこのもんだけの、え、今はにま 、今なってしまったということですね。 あの、ま、ということで、えー、ま、 ちょっとこれ裏側になりますけど、これが 、こちらがあるのがですね、あの、この 右手に立ってるのが姿勢と書いてあって、 あの、この63連帯、この松江の連帯は 姫路の第10次というところにですね、 所属してます。指段があってから、ま、 旅談っていうのがあって、その下に連帯が あります。で、連帯がいくつか集まって 余談を作って、旅談が集まって資段を作る んですけど、ま、この、ま、資段が1番の 大きなその軍隊の組織です。ま、その資団 の、え、指団長が、え、記号した日が、ま 、これもここに一されてて、ま、この周り がですね、あの、この63年体を、え、の 重影を残す1つの、ま、場所になってい ます。 ま、今日はそういうことで、あの、え、 この連帯の遺跡を見てきましたけども、 ま、連帯は当時の人にとって言うと1つは ですね、やっぱ憧れの場所であったんです ね。あの、要するに軍隊兵隊さんにな るっていうことは すごく輝かしい ことだったわけですね。子供たちにもそう いう風に教えられて、あの、兵隊さんに なるんだと。強い兵隊さんになって日本の ために戦うんだということで、学校では 教育直を教えられ、また軍人になると軍人 直を教えられてそういう風に育つ1つの、 ま、憧れの場所でした。と同時に、え、 そういった軍事的な組織が、ま、軍隊が あるいはその軍隊に伴うような憲兵隊とか ですね、そういったところが力を持つよう になると、え、彼らは国民をですね、今度 は抑圧する側に うん、 なります。あの、非常に恐ろしい 、え、兵隊さんに睨まれると憲兵隊に睨ま れたら牢屋にあの連れていかれ るっていうような非常に恐ろしい憧れと 恐怖と、ま、そういうようなものをですね 、この当時の戦前の軍隊というのは持って いたわけです。で、ま、この白線見ても 分かるんですけども、日本の陸軍のその やっぱ特徴の1つは、え、攻撃優先なん ですね。あの、ともかく戦って人を1人で も多く殺す、あの、攻撃優先だから 形成が悪くなるとですね、もう非常にダメ なんです。その、そういうこと考えてない からそもそも。 ふん。うん。 軍隊を使う場合もそのいろんな戦略を立てる場合もあの勝つことを攻撃することしか考えてなくてあの防御するで悪くなったらどうするっていうようなどこに逃げるとかどうやって逃げるとかそういうことはど考えてないあるいは 考えること自体が禁じられていたそういうこと考えると前ダメだという風 になっていたんですね。ま、それが非常にもろさ、 え、日本のその軍隊のもうびな歪みでもあり、またもろさでもあった。 ま、それが結局最終的にはですね、ま、 15年戦争の、え、最後を迎える、ま、 そういうことをですね、ま、そういう憧れ の場所でもあり、また恐怖の場所でもある 、恐ろしさでもあり、そして実際に、え、 日本人が310万人なくなった。あるいは 外国の人が2000万人以上の人が なくなったっていうような、え、この、ま 、15年戦争を考える1つの場なんですね 。 だから、ま、そういう意味非常に、ま、重要な場所ではないかと思います。 はい、すいません。 え、今の松江工業高校のその校舎を進築する時に、え、地から 発掘されたという言われている うん。ふん。ふん。 あの、飛行機のプロペラで、あの、これ、こういう、あの、 2枚バネの飛行機のプロペラ 2、2 って言うんですけど、こういう、ま、飛行機ね、 よくあの3万場 3枚場が1番多い。三子の うん。うん。 飛行機が多いんだけど、ま、あの、最初の段階はやっぱ西なんですよ。 うん。ふん。 で、この西のプロペラを使っていた飛行機、え、の、ま、ま、そのプロペラなんだろうと思うんだけど、それが、ま、この弊社に、え、弊社の、ま、地下に うん。 え、埋められていたと。で、それをこの小原小学校が、あの、ま、預かって今この小学校で所造しておられるという。 これは63連隊の持ちなです。あの、63 連帯じゃないですね。63年ってのは歩兵 なので、あの、普通飛行機は使わないので 、あの、最後にここの、え、歩兵の部隊 っていうのが35年間ぐらいこにずっと いるんだけど、あの、ちょっと変わる、 変わりながらいるんだけど、最後に来たの が大級航空教育隊っていう あの、こういう飛行機とか、それから、車 とかそういう機械類の整備をする整備を ほうほうほ あの、育成するため の舞台が最後にここに入るんです。だから歩兵じゃなくって うん。 あの彼らはそういった飛行機を使ったり戦車を使ったりしてそのま訓練するっていうかあの整備の練習をしてて うん。 で何ヶ月かで練習するともうすぐ現地と行くっていう形であの整備兵だから別に安全だっていうわけじゃなくってもう整備兵ももう次から次へ戦場に送られるので うん。ここで3ヶ月とか4 ヶ月訓練するともうすぐあの激戦地に送られるっていうま、そういう形でそういう整備兵を育成していた場になるんですね。これ 1年1年7ヶ月ぐらい最後の 1年7ヶ月1 年7ヶ月戦までの1年7ヶ月18年 うん。そうですね。19年の1 月からかな。 おお。1944年の1 月から戦まではその大級航空教育体っていうのが 大第航空教育体 航空だから飛行機とか 飛行機飛行機が持って飛行機があったんですね。 ちゃ、ここに、 あの、 これがあるってことは、 そう、そう。だから1962 年に出された新馬cにはここに 30機ぐらいの あのうん。30 機ぐらいの戦闘機とか爆撃機がここにはあったと。 で、ただ選強がどんどん荒くなると飛行機使わないといけないから うん。うん。 何期かはそうやってもうあの戦場の方に持っていったんだけど、ま、最後までどうもあったみたいで最後は新中軍がそれを処分したと。 うん。いにかれてるので、ま、おらくあの、最後まで何期かはここに残ってたんだと思います。 若さん、これって長さ何セン mでした? 長さが直径が、え、 282.8m 直径が うん、2.8m、片っぽが1.4m ですね。それ2.8mだと思います。 これメーカーとかあの期待の種類とかって分かりますか? あのもうちょっと詳しくその例えばこれ裏返して あの全体を見てみないともうかなり錆びついてはいるけどそのメーカーの うん。 その、そのなんかマークっていうか、ま、そういったものは残ってる可能性もあるので、 あの、調べてみないと断定はできないんだけど、あの、 その280 の西のプロペラっていうのも結構限られるんですよ。 うん。ふん。ふん。 そのどういった飛行機使われてたかっていうのも、あの、どこのメーカーが作ってたのかっていうのは案外限られて うん。ふん。ふん。ふん。 あの、それとそのこの大級 9 高校教育体が実際使ってすごく訓練に使ったりとか整備のために使ってたりしたあの飛行機の写真も多少残ってるので、ま、そういったことから考えると、あの、断定はできないんだけど、可能性としては、 あの、立川飛行機っていうメーカーが作ったう ん。うん。ふん。 あの、えっとね、98 式直接共同偵察機っていう、ま、偵察機、 偵察機な。 うん。それと99 式の、ま、同じようなあの飛行機、ま、これらがその 2.8mの プロペラを使ってるんで、プロペラの大きさって微妙にやっぱ違うんですよ、飛行機によって。 だから、ま、案外そういったことを参考にして考えると、 ま、ま、将来は分かるのかなと思いますけどね。もうちょっと専門家に、 僕もこういう専門家じゃないんで、あの、専門家にちょっと聞けばなんか分かるのかなっていう気はしてますけどね。 ま、今後の調査が うん。うん。うん。 必要じゃないですかね。 なんかこういう事例って全国各地にあるんですか? あの、普通飛行機のプロペラとかが出てくるのは、あの、海、海なんですよ。 うん。うん。 だから飛行機特攻したりして、あの、いっぱい落ちてますから、その沖縄の近海に行けばもうこの山ほどあるぐらいの うん。 飛行機の残骸っていうのはありますけど、あの、こういうその陸軍の歩兵部隊の元々歩兵部隊だった平営から見つかるという例は多分珍しいんじゃないかなと思いますね。 なるほど。 ま、いい機会じゃないですかね。 ですよね。80年、80 年経って うん。 あるということ自体が、まあ、知られてこなかったわけだから。 うん。そうですね。 はい。ま、あの、あれなんだ、ま、 63 連隊のね、やっぱイメージが強すぎるんだよね。 ああ。航空教育体が、 こういう、こういうね、最後はこういう舞台がいて、ここに飛行機がいたとかなんか戦車もいたっていうような うん。 あの、言い伝えもあって いい伝えですか? うん。いい伝え。 なんか戦車がその連帯の道路っていうか、その辺り走ってたんだっていう風なもう見たっていうような、 あの聞き聞き書きをしておられる方もおらえるんで うん。うん。うん。 だから実際最後はそのともかく人数もすごく多くなって通常は 1500人とか2000人ぐらいの その陸の歩兵部隊の時には あの人数なんだけど、ま、この時にはもう うん。 配線も間近で本土決戦っていうこともあったと思うんだけど 4000人とか5000 人ぐらいの多い分だったらなんか 6000 人ぐらいって書いてあるものもあって うん。 それぐらいの部隊がここにこの周辺に うん。 集結してたって言われるので、ま、ちょっと今から想像できないぐらいの うん。そのままなんだ緊迫した。 しかもま本当軍事職に塗り固められたよう な状況だったんじゃないかなと思いますね 。はい。 あ 。

【松江の歴史を分かりやすく知るWeb講座】
2025年はアジア・太平洋戦争の終戦から80年となる節目の年にあたります。本講座では、島根県で戦争遺跡研究を行っている若槻真治氏と写真家の高嶋敏展氏を講師に迎え、今も残る戦争遺跡を歩きながら、軍都としての松江の歴史をご紹介いただきます。今回は「松江連隊遺跡群」をとりあげます。

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