まちの記憶をたどって#1宮浦

[音楽] 今ここにある景色。 [音楽] 街角で聞こえる人々の声。 でもその景色がどのようにして生まれたの か。 私たちの町美原市がどんな道を歩んできた のか。 [音楽] 町の変化を見つめてきたこの町に生きる人 たちの記憶。 [音楽] 変わったもの、変わらなかったもの。 ふと振り返ってみると知らない暮らしが そこにある。 どんな風に暮らして、どんな思いで見つめ てきたのか。 [音楽] 教えてください。あなたの町の記憶を。 [音楽] 今回の舞台は美原市の青南部に位置する 宮浦。 76ヘクタルの広さの中に5850人の 人々が暮らしている。 住宅や商業、文化施設、そして教育施設が 整備されたこの町はかつて小早川高影が 美原城を築づいた頃は町の姿はなく、一面 波静かな海だった。 1700年頃、美原朝麻野之家の初代美原 上手麻野吉の時代に宮浦、宮南町一体は 当時共作に苦しむ人々のため観拓が行われ 、宮深海という農地が整備された。 そして300年後、宮浦は江戸時代の間 から現代に至るまで 街の姿を大きく変えてきた。 田畑に囲まれた時代、 土地区画核整理による変化の時代。 そして現代まで様々な顔を見せる宮浦の 記憶を辿どっていく。 [音楽] これは昭和30年代に宮浦で撮影された 写真。 の道で遊ぶ子供たちの後ろには蒸気機関車 が勢いよく走り抜けている。 [音楽] 今では想像もできない町の風景。 この頃の暮らしはどんな様子だったのか。 ここに帰る時のここの道路がね、もう でこぼコなわけじゃ。もう穴だらけでね。 で、ま、そこで苦い思いもしてましたけどね。 昭和50 年に東町から宮浦へ移り住んできた鈴木健二さん。当時 30 代で三原の大手企業に務めていた鈴木さんはまだ田が広がる浦に土地を買い家を立て、今も変わらず宮裏に暮らしている。 ま、こんな風景はあっちこっちにありました。 [音楽] 田の中にね、その小屋みたいなのがね、それとか、ま、これは、ま、お役で、ま、こんな感じでね、 ま、のんびりのとかなとこだなと。 この線路のすぐ明けにあの我が家があった もんだから、ものすごくガタガタガタガタ の貨物が取ったら揺れるんですよ。で、 面白い話はその新命さんでそのだるまさん 買ってきて我が家のタスの上にこう置い とるやつがね、ガタガタガタガタにする もんだからこれがね、こっち向いたのかな ?ガタガタガタガタガタここって後ろ向い てしまうんですよ。 お、えいとこおるな思ってね。だけども、 ま、そういう話をしたら司会議員になった 人がもうちょっと話した時に、お鈴木ん ところはな、こんな面白いとこ住んでる らしいぞて、新さんの誰だ後ろ向くん じゃろうて、そんな話されてましたけどね 。ま、非常にこう偉いとこ来たんだなと いう気はしましたけど、 家庭や公共施設の水回りの施工を担う会社 産用環境管理株式会社の取締まり役長か張 孝介さん。 30代に商売を始めた頃に宮浦 4 丁目へ移住してきた。文化会館があっただけよ、この周りには。 今のポロね。 うん。ふん。ふん。 あそこがあっただけ。 私はね、当時ここの文化会館のところにね、プールがあったんですよ。あ あ、市民プールですか? 市民プール。50m のプールとそれから降人プールとそれから子供用プールがあったんですが うん。 ここのプールの重りをねぐらいさせてもらいました。ええ、 夏の間だけ。 うん。だけどもう夏の間 7月8月の2ヶ月不民同士 与 え2 時間起きに夜中もプールへ行って水出検査をしてほんで機械を路下機を運転して 汚れが詰まったら逆戦場してそれをね不民及でやりました。 宮浦3丁目の中古車ショップカー山の代表 取り締まり役平谷義光さん。 平谷さんは3番長の長屋で育った。 この写真は祖父が営んでいた鍛冶屋の前で 撮ったもの。 平谷さんの後ろには長屋がずらりと 立ち並んでいる。 こっちがあの今のこっちで西野川西川 ですね。で土手があってでこうあのごめ うん低くこうなってますからね。 あの、こんな感じですよね。で、低くなってて、で、そこにざっとこう長屋があって、 うん。 ビフォアウターでね、今のこの宮裏を見るともう想像つかないでしょうけど、ま、本当長屋ですね。ぶぞっと家があって、ま、中にポツンポツンと他の、他の家もありましたけど、お店って言うてもやさんがあったりで、で、あの、土手のその西川沿いに 1個食堂があのね、食堂が 1個あったですね。 で、あとはお店って言うたらやお尚弥さんぐらいだったかな。あとはこう今ではないスーパーとかあんなもないですしね。あの自然はたくさんありましたからね。もうそれかな。やっぱりそれにそれに一緒に走ったり投げたり飛んだりなんか本当にはい。 で、あと、あの、あの、さっき言いました ように畑と田ぼだった中に、あの、今で いうポロですね。ちょうどポポロがある ところに文化会館っていうのがありまして ね。で、そこには、ま、あの、結婚式、 結婚式もそこでされたり、たまになんか 芸能の方が来られたりで、あとはもう何に もないですよね。で、文化会館とその市民 プールですね。プールがありましてね。 だからこの夏はもう前ほとんど毎日じゃないですけど記憶が確かったら 10円だったと思うんですよ。 10 円であの子供はですね。だからとにかく 10 円を握りしめてあのあのま近くですかね走っていってであのプールへもう夏は多分ほとんど毎日行ってったようなあのあれがありますね。 カメラ面白い遊びを昭和 [音楽] 50年山陽新幹線岡山 [音楽] 博多間が開通 に伴い宮浦を含む周辺地域が大きく変化 する時代を迎える。 [音楽] 翌年理想的な住居地作りを掲げ10年計画 で始まった宮浦都蓄整理事業 [音楽] のどかな農村風景から近代的な都市へと姿 を変え始め [音楽] ま、正直私は今あの中学校のね、高学年 ぐらいだったですから、あの具体的なね、 細かいことは全く分かりませんでしたから ね。その当時の経緯はですね。で、ただ だんだん畑もがもちろん圧倒的だったです けど、あの、どういうんですか、さらちに なってがだんだんこう変わっていって、で 、私が、えっと、20十歳ですね、 ちょうど大学の時です。ちょうど、 20十歳頃に親父がうちの実家が、ま、家 を立ったんですよ。で、その時は家は本当 さっき言いましたように畑が圧倒的でこう さらちになったとこに本当ポツポツっと こうできるだ。その5年ぐらいの間にです ね、あのバーっと買っていきましたね。 復画整理になるんじゃいう話になって自分 は私はもう望まんかったんですけどね。 しかし、ま、しょうがない世の流れで説明 会も何かありましたが言ってましょうが ないのでね。 いやもうあれよ、あれよ。言い間に変わっ てしもね。今でももうま、極端に言たら 分からんわ。目つぶってこうやってうん 。どうなっとったかなも思い出せようとし ても思い出 もうそれぐらいガラーと 変わね。うん。 埋め立ててすぐはこの道路はできても舗装 されてないわけですよ。そしたら道路が あの包土のままだからもうベちゃベちゃに なるわけ。車はもちろんだけどもう どしぶしになるんで早いことをその放送し てくれと誇りがひどかったいう話と雨が 降ればベちゃベチでその泥だらけだと 家を持ち上げてほんで下に殺しいて要子に 重機で引っ張るで若150mぐらい 引っ張った、さっき言ったそのだるまが 後ろ向くような本当に線路すぐそばった とこから150mぐらい引っ張ってほんで できて便利になったんだけどなるまでの間 はねなんかはかよこんなことでなんでせに 行かんのかいうような人にこう イライラするというかそういう気持ちあっ た [音楽] 当初10年計画で始まった宮浦都整理事業 は18年の採月を用し、平成5年3月に ようやく完成した。 [音楽] 施工面積はおよそ92ヘクタル。 掃除業費は112億円。 当初の予算を大きく超える金額となった。 この事業で農地だった土地には多くの住宅 が立ち並び、 宮浦公園の整備や県立広島大学美 キャンパスの開光などもあり、町の様子は 一変した。 大学生のためのアパートもね、できも もちろんありますけどできましたよね。 うん。だやっぱりそうそう。若い人が道路 をそのま、自転車なり歩きなり通ってくる の。これいいもんですね。我々としてはね 。若い人がね、もう殺そうと行くのを見る のはね、気持ちがいいですね。そういう街 でありますね。 影様で特に大学できて、あの、若者の方がね、すごく本当このできて何十年ですかね本当に増えましたよね。だからやっぱり学生さんがいるっていうのはね、あの、またいい、あの、い、すごくね、僕はいいと思いますね。 ええ、若い方のやっぱりこう、あの、ま、 物の消費もそうでしょうけど、若者独自 のっていうのもあるでしょうしね。 やっぱり宮浦、あの、この宮浦町というか 、あの、この地区にはあの、大変プラスに 、あの、もちろん中学もそうでしょうけど 、大学できたっていうのはすごくプラスに なってる。で、あと今のポポロもですね、 できてますしね、いろんなやっぱりこう そういう施設ができたっていうのはいい ことだと思いますね。 整備された宮浦公園では三原の4台祭りの 1つさ木祭りが毎年開催されるようになり 地域の人たちが賑わう場所として親しまれ ていく。 宮浦商会のあの役員会で、ま、バザという ことでバザーをやり出して2回やった ところで 当時のここに日にあるみ戸さんが 来られてみの3大祭りにしやあい ね言うて盛り上がってそれからやり出した 。それがきっかけですよ。 はい。 はい。コデクション。 コクション。 まだある。そこではい。 おしった。ラジカ。 ラジかせ。じゃ、 名前どうよ? 新たな町の文化が発展していく様子をか張りさんは支え見つめ続けてきた。 これはもういっぱい来てね。 おい時はね、当時5万人ぐらい来たことが ある。それからちょうどもう人員が足らん のでね、福代の、ま、生徒さんね、それも さっき言ったように応援もしてもらて、 それから三原に国際情報学院というのがあ 、ありまして、そこへあの留学生が いっぱい今でもなんぼかけれども、中国の 留学生がね、60人とったんですよ、当時 ね。第1回ぐらいが うん。 それらもみんな同員してね、ここでさ木祭り賑やかしてくれて連れてきてね、やったもんですよ。あの、の緑取りね。これも大変じゃった。それがね、最初わからんからよし、プールの中へ話せやと。ウナギは話してま、取ったな。 ところがね、プールにはね、ロ下機の吹き出し口があって、綺麗な水がこう出るんで穴が開いとるわけや。パイプがいっぱいあるわけや。それを塞がずにウナぎ流した。全部流れ。 半分ぐらいが全部その穴からね、プールのあのパイプの中へみんな入り込んで出てこんやな。わあ、おですね。 それで結局ね、プールの時期になってプールを運転したんよ。 うん。 こうしたらパイプの中からまたぶわーっと出てきて空じゃ取れて取ってそう度 1回目はね2 回目はもうこ穴だから全部ね。 うん。どういうことないけどうっかりしとって すごかったよ。あれでした。 [音楽] [音楽] [音楽] 歴代の宮浦商進行会や殺月祭りの実行委員 に加わってくれた人、その人のおかげです よね。そういう人のおかげでだ、いつも こう時代を 受け継いでねうん。行ってます盛になりゃ ええなと思いますね。うん。 として平成19年 三原市文化会館は芸術文化センター ポポポロへと姿を変え地域の人たちの生活 の拠点となった のでさらっしゃい ませ [音楽] それなりそれぐらいあげて大事にい [音楽] 街中でもないけどでもない。 [音楽] え、近所にいろんな説明もあって、ま、 非常に住みやすいとこと と思ってます。 ここに進んでよかったなと。はい。私の 気持ちをね。 え、まあ、私の町だな。 便利は良くなったし。うん。ま、祭りを 通じて人の輪もできたし、まあどう思うか とにかく良かった。 長く続いてほしい。うん。 60数年間生まれてここでね、住んでて、 ま、本当にね、伊しいというかね、大好き な、あの、当然大好きな町ですからね。 ずっと宮原で、え、これからも痛いですね 。これからも [音楽] 長い月日をかけ町の姿を変えてきた宮浦。 [音楽] 変わりゆく景色、色わせない思い出 あの時の風景あの人の笑顔 あの日の記憶 その全てがこの町の大切な記憶としてこれ からも受受け継がれていく。 [音楽]

MCAT開局40周年記念番組「まちの記憶をたどって」
三原のあの頃を街の人へのインタビューと古写真、そして40年分のアーカイブ映像で振り返る。
教えてください、あなたのまちの記憶を。

2 Comments

  1. 懐かしい昭和の時代と幼い子供時代を思いだし胸が熱くなりました。時は移ろい行くものですが古き良き時代があったことを忘れないでいたいものです。
    思い出させて頂いて本当に有り難うございました。
    これからも楽しみにしています。

Write A Comment